氷魚-ひお- 

2008年01月14日(月) 0時54分
あの人はいつも凍えている。
透き通るような白い肌は、いつも、心なしか蒼ざめているように見えた。


侍従として雇われている屋敷の庭園には、立派な池があった。
そこには珍しい魚が泳いでいて、時折不思議なことが起きた。


*

ある冬の早朝のこと。

その日はその冬一番の冷え込みで、しかし雇われの身である自分が十分な暖房を支給されるはずもなく、普段よりも随分と早くに起きてしまった。
再び眠りにつこうと努力をしてみたものの、何度目かの寝返りで断念した。

障子をそっと開けると、外はまだ日が出ていなかった。
薄明かりのなか、しんとした静寂が冬の寒さを助長しているようで。
やはりまだ起きるには早い。
身震いをして障子を閉めようとした時だった。



池のほうから、何か聞こえたような気がした。



はっとして息を止める。
屋敷は広大な敷地であったものの、この部屋から池まではそう遠くない。
羽織を肩にかけ、他の従者を起こさないようそっと外に出た。

ひんやりとした廊下。
足元から寒さが這い上がってくるようだった。


*

池に辿り着く。
先ほど聞こえたのは何だったのか。

辺りを見回してみるが、変わったところは何もなかった。

「………」

ふ、と笑う。

思い過ごしか。
くだらない噂に耳を傾けたものだ。

世間話に飽きた従者の誰かが、皆を怖がらせるために作ったのだろう。



部屋に戻ってもう一度寝よう。
踵を返して歩き出したときだった。




「さむいな…」



すぐ後ろから声が聞こえた。
びっくりして振り返る。

目に飛び込んできたのは、美しい女だった。



白い着物、白い肌、色素の薄い淡い瞳。

白い長髪が、身体に沿ってべったりと張り付いていた。


はっとしてその女の足元を見れば、滝にでも打たれたのかと思うほど、びしょ濡れであった。
普通の人間なら、凍え死んでしまう。

その状態にもかかわらず、その女は震えひとつ起こしていなかった。


「見ろ」


呆然としていると、その女ははっきりとした声で呼びかけてきた。
するり、と白の着物の袖から、血の気のない腕が見えた。
細く長い指が、池をさす。


「凍ってしまった。…これだから冬は嫌いなのだ」


見れば、池の水面に薄い氷が張っていた。


「やれやれ…」


女はため息をつくと、濡れた裸足のまま庭園にぴょんと降りた。
苔を踏みしめて、池の周りを歩き出す。


「また、春になるまで待たねばならんのか」


イラついたようにウロウロと歩きながら池を覗く。


「待てぬ!」


女の淡い瞳が蒼くゆらめいて、呆然と立つ自分の瞳を捉えた。
冷たいのか、優しいのか、怒っているのか、嬉しいのか、よく分からない表情で命じた。


「おい、そこのお前。早く池を暖めよ」


その声が届くまで、恐ろしさに立ち尽くしていたからだろうか。
足が勝手に炊事場へと歩き始めた。



*

言いつけ通りに、たっぷりと湯を沸かしたやかんを持ってくる。
女は池の氷を割ろうとしていたが、それに気づくと手招きをした。

言われるがまま、湯を池の氷へかける。

湯気が空気を白く濁らせ、その奥に満足げな女の顔が見えた。
やかんの湯が全てなくなると池の氷は大半が溶け、池の底が見えるようになっていた。



魚がいない。



「手間をかけたな」

女がずぶ濡れの姿のままこちらを見て笑う。偉そうな物言いと反した、優しい表情。
その女の方向から、朝日が昇り始めた。


「逃げずに話を聞いてくれたのはお前が始めてだ」


眩しさに目を一度瞬くと。


女はいなくなっていた。
池を挟んですぐ目の前にいたというのに。


朝日が、キラキラと池の水面を輝かせる。
その水底に、白い魚が一匹。
長い尾びれを揺らめかせて、悠々と泳いでいた。




*


数日が過ぎ、屋敷の従者たちの間で、誰かが毎朝池の氷を溶かしていると噂になった。

しかしその噂もすぐに他の噂へと変わっていき、数年後、池の魚が死んでしまうまで語られることはなかった。



時折、楽しそうに誰かと話す女の声が、池のほうから音色となって響いていた。




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