笑顔。 

June 27 [Sat], 2009, 2:59
何をやるのか。
どういう姿勢で臨むのか。

それが働くうえで大切なのではないかと思った。

それを僕は「笑顔」にしようと思った。
もちろん自分が笑顔というのもある。

でもそれだけではなく。
相手が笑顔になってくれるような、そんな姿勢で仕事と向き合うべきなんだと思う。
電話越しの相手が笑顔で電話を切ってくれるような、そんな姿勢だ。


※※※※※※※※※※※※

周りを信頼し、自分に期待する。
幸い、そうした環境に恵まれた職場だ。

周りの期待に応えるには自分を高めてゆくという選択肢しかないだろう。
そして、それは自らに返ってくることでもある。


※※※※※※※※※※※※

たとえば今年の11月に簿記の3級と2級に受かる。
たとえば来年の2月までに簿記1級の商業簿記を学習する。
たとえば来年の8月に税理士試験の科目の1科目に受かる。
たとえば再来年の8月に税理士試験の2科目に受かる。

そうして今の仕事にそのフィードバックする。
資格は手段であり目的ではない。

それでも今は、理論を大事にしたいと思う。
ある会計の本に「若手の頃は理論を大事にすべきだ」とあった。
また簿記学校の先生は
「今の会計ソフトは優秀だから簿記の知識がなくとも経理の仕事はできるかもしれない。でも、それじゃただの入力オペレーターだ」
と仰った。

どちらも至言である。
僕はただの入力オペレーターになりたいわけではない。


※※※※※※※※※※※※

フィードバックして周囲の信頼を得る。

あとは、自分の行動次第。

志と努力。 

June 24 [Wed], 2009, 23:10
どうも最近卑屈になりがちだ。
謙虚と卑屈は全くの別物。
自分の場合、卑屈さの奥に傲慢さがあるように思う。
卑屈の根に傲慢さがある。そんな感覚だ。

なぜ卑屈になるのか。
自信がないからだ。

なぜ自信がないのか。
自分がないからだ。
信念・志がないからだ。

なぜ自分がないのか。
自分の武器といえるものがないからだ。

なぜ志がないのか。ないわけでないけれど、それが確たるものでないのか。
武器を作るための努力が足りてないからだ。

志が努力の方向性を決めるものであるならば、
その志を立てるのにも、努力が必要なんだと最近思う。


※※※※※※※※※※

今年の5月、経理・財務部の経理課に配属された。
経理は自分の希望していた配属だ。
自己研鑽できる仕事だと思う。

配属された今、その通りだということを毎日のように痛感させられている。

覚えること、吸収すべきことが膨大なのだ。


※※※※※※※※※※

一口に経理と言っても、ザックリ4つの領域に分けられる。

@制度会計
A管理会計
B資金会計
C税務会計

もちろんこれは学術上の分類でないし、
また企業や人によって呼称は違うだろうけれど、
この4つの領域からなるものと僕は認識している。

そして、本当の意味での一人前になるためには、
この4つの切り口を学んでおく必要がある。
そうでなければ、大きなプロジェクトへの参画の際に問題解決ができない。

40歳までにこれら4つの領域を経験し、自分のなかで咀嚼する。
40歳まであと15年。


※※※※※※※※※※

当面の目標、つまり20代の残り6年で、

@制度会計
A税務会計

この2つをある程度経験する。
まずはそこからだ。


その時には
自らの傲慢さに折り合いをつけ
卑屈を越えた、新しい自分がいることを願って。

ひとかどの人間になる。 

April 20 [Sun], 2008, 2:53
就職活動が一段落した。
あとは卒業するだけ。
でもそれが難しい。
今までサボっていたから。


※※※※※※※※

モンテーニュが「つまらぬ器用さについて」という章のなかで、次のようなエピソードを取り上げている。

粟の粒を投げて、それを針の穴に百発百中で通すことの出来る芸を持った男がいた。その男が、その芸を主人に見せて「これほどの珍しい才能に対して何か褒美が欲しい」と頼んだ。それに対して主人はこう言った。「この男にたくさんの粟をつかわせ、こんな結構な技が、練習の材料に事欠くようなことがあるとはいけないから」。

また詩人たちが全編同じ文字ではじまる詩を作ることに夢中になっている様を見て、皮肉交じりに「人間はときどき取るに足らぬ、つまらぬ器用さによって認められようとする」とモンテーニュは言う。


※※※※※※※※

今、いろいろなプレッシャーから解放されてやりたいことがたくさん出来た。
ビリヤードをもっとうまくなりたい。将棋を覚えたい。
そのためにアルバイトをしてお金を稼ぎたい。

などなど。


※※※※※※※※

ぼくの為すべきことは
「意中の企業から内々定を貰ったのに留年しそうだ」と現状を嘆くことではない。
また盲目的にストイックに生きることでもない。

また、就職活動を終えたからといって遊びに明け暮れることでもなく
「学生最後の1年だから」と勝手気ままに過ごすことでもない。

今の僕がいろいろな遊びを我慢しなければいけないのならば、
喜んでその状況を受け入れようと思う。
それは自分を追いつめるということではない。
ストイックに生きるということとも少し違う。


それが大人になるということなんだ。


内定も卒業も通過点に過ぎない。
そんな当たり前のことなどわかっていたつもりだったのに、
ここしばらく阿呆のように過ごしてしまった。


※※※※※※※※

周囲に惑わされず誘惑に流されず、自分のすべきことを淡々とこなす。
ただそれだけ。それだけなんだ。それが如何に難しいことか。
これは他の誰でもない、自分との戦いなんだと思う。
自分の忍耐力を鍛える良い機会だと思う。

傍から見れば「なんでそんなにストイックに生きるの?」と言われたとしても
笑ってそれを受け流せる意志の強さ。それが今の僕がいちばん欲しいもの。


周囲を馬鹿にすることなく、また羨ましく思うこともない。
今はただ、自分の為すべきことをする。
自分の力を周囲に誇示するためでも卑下するためでもなく、
しなければならないことなのだからするだけだ。
本当に簡単なことだ。でもその簡単なことが難しい。

周囲に流されない忍耐力が今の僕にいちばん必要なもの。

ドイツ語と民法と行政法の勉強をしよう。
EU法の勉強もしよう。法理学の勉強もしよう。
もちろん労働法の勉強もしよう。


※※※※※※※※

今日から僕は大人になる。

I want to amount to something.

法律。 

February 10 [Sun], 2008, 1:38
今日は大学の図書館へ行った。
気分転換にアランの『プロポ』のいくつかを読んでみた。
そのなかの「行動論」というプロポに触発された。

ある賢人が1つの章が1語からなる行動論を2章でまとめたという。

第一章 つづけること
第二章 はじめること


※※※※※※※※※※

僕は法律学科に入学してすぐ「これは向いていない」と思い
政治学科に転科しようと真剣に考えたことがある。

でも政治学科の研究会を覗いて転科をやめた。
彼らのしていることが政策論に終始していたからだった。

僕が入りたいと思った研究会は「社会への提言」というテーマで発表をしていた。
色々なデータで検証・裏づけをし、確かに面白い発表で示唆に富むものだった。

でもそれだけ。
致命的なまでに実現性に欠けていた。
法律を蔑ろにし過ぎていた。

政策論あっての法律論だと僕は思うけれど
政策論は概して法律論まで踏み込まない。
それではただの絵に描いた餅だし、
そんな発表はただの自慰行為にしか僕の目には映らなかった。
それは研究会でやらなくても個人的に調べれば済むとさえ(その時は)思った。


※※※※※※※※※※

最近思うのは法律学の勉強が無味乾燥に思えるのは、
ただ単に僕が社会を知らないからだということ。
意味もなく勉強するのは僕にはつらい。
いつか役に立つだろうという動機づけでも全くやる気が起きなかった。
というより、それを口実にさぼり続けてきた。

最近いろいろ将来について考えるのだけれども
社会に出て給料を貰うということは
イコールそれに見合う価値を僕は提供せねばならないということだ。
理念や夢はあるけれども
それを実現するためには社会にポジションを得なくてはならず
そのためには価値あるものを提供できる人材でなくてはならない。

そう考えて思ったのは法律の勉強は避けるべきではないということ。
社会に出るにあたって法律(と語学と会計)は避けられない。
もちろん避けてもよいし有能なひとは必要としないかもしれない。
先ほどの政治学科の発表をした人たちだって
会社で企画部や物流部、総務部といったところに配属されたら
その発表で培った力は何らかの形で役に立つのだろうと思う。

というよりそんな損得で調べたり発表したりしたのではなく、
純粋に好きなことを調べたんだろう。(当たり前か)
それはとてもとても大事なことだし、
なにより「好き」という動機はかけがえのないことだ。
社会に出てからも巡り巡っていつか絶対役に立つと、今はそう思える。


※※※※※※※※※※

僕は、法律は苦手だけれども、避けたくない。

法律は、別に公務員や弁護士に限らず不可欠なものだ。
遅いけれど、このことに今のうちに気づけてよかったと思う。

まずは民法を一通り終わらせよう。
民法は法律学の中核にあるだけあってなかなか全体像が掴めない。
だから苦痛なのだろうけれどもう少し粘ろう。

嫌気を起こさせないような仕事は仕事でない。
つらい時期に人間は試されているのだ。
そんなようなことをアランも言っていた。


※※※※※※※※※※

なんだかとても支離滅裂な文章だ。。

とにかく法律の勉強をしようと思ったこと。
そしてそれは「はじめること・つづけること」。
この2つを実行するのが不可欠だという当たり前のことに
今日やっと気づいたということです。

修飾。 

February 08 [Fri], 2008, 21:57
「必要なことのみをせよ。・・・ことあるごとに忘れずに自分に問うてみるがよい。『これは不必要なことの一つではなかろうか』と。しかし我々は単に不必要な行為のみならず、不必要な思想も切捨てなくてはならない。そうすれば余計な行為もひき続いて起ってくる心配はないだろう」


まったくその通りだ。


※※※※※※※※※※

今日はある企業の会社説明会に行った。
そこでとても印象に残る話しがあった。

社員の方に学生から「一番つらかった出来事は?」という質問がなされた。
それに対してその方は
1か月かけて作った100ページ程度の資料を上司に持っていったら
「1分でその内容を説明しろ」と言われ説明できず
結局読まれることなくその場で捨てられてしまったことだと語った。

これは確かにつらい。僕もそう思った。
確かにコンセプトが明確でない企画書は読むに値しないのだろうけれども
それにしてもひどい話だと思った。
今の若者だったらうつ病になってもおかしくない。

その方はそこから立ち直ったわけだけれども、
「修飾語抜きにSVで何事もしなくてはならないんだ」
ということをその時学んだという。

これはとても力強い言葉だ。
言葉や企画書だけでなく、行為においてもSVでというのは
とても感覚的で抽象的だけれども
それを体験で得た人から実際に聞くと、とても説得力のある言葉だ。


※※※※※※※※※※

外見も修飾抜き。
内面も修飾抜き。
言葉も修飾抜き。
行為も修飾抜き。

何事においても飾らないということは、とても難しいことだ。
でも、とても大事なことなのだろうと思う。

僕のぼんやりとした理想に近いものがあるけれども
そこに至る自分の姿が想像できない。
僕はどうも浮き沈みが激しい。
感情においても行動においても。
もう少し感情も行動もコントールできるようにしなくっちゃ。


明るく静かな人間になりたいと思う。
そして静かな人間の必要条件のひとつは、修飾のないことだと思う。


※※※※※※※※※※

モンテーニュは敢えて冗長な文章を綴った。
マルクスは努めて文学的表現を斥け簡潔な文章を綴った。

ふたりの気質の違いがよく表れていると思う。
そして、どちらも魅力的な人物だ。

図書館。 

February 06 [Wed], 2008, 16:07
「遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうだろう」


マルクスがどのような気持ち・意図でこの言葉を遺したのかわからないけれど、
悲観的な意味を持ったものではないと思う。
この言葉でふっと思ったことは、
僕は少し近くのことに囚われすぎているのだろうということだった。
あまりに近眼的にモノを考えるというのはとても窮屈なことだ。
落ち込んだりふさぎこんだり、袋小路に陥るだけのように思える。

『自省録』は絶えず自分を戒める言葉に満ちている。
自分を引き締める言葉で詰まっている。
毎日、それも昼夜を問わず自戒する言葉ばかりだ。
常に弛緩しないように、かといって緊張しこわばらないように自分を保つ。
そんな言葉がひたすら並んでいる印象を受ける。

書くことで自分を支え、鼓舞していたのかもしれない。


※※※※※※※※※※

ここのところ大学の図書館に行くことが多い。
大学の図書館の雰囲気が好きです。とても落ち着く。
この静かでゆったりした雰囲気は地元の図書館にはない。
それから当たり前だけれど、本の数が膨大だ。

プラトンの弟子であったクセノクラテスという人物が、
哲学を論理学・自然学・倫理学に三区分したと、以前何かの本で読んだ。
記憶が曖昧なので学問的には厳密性を欠いているのだろうけれど
とにかく哲学から始まった学問がここまで多様化・細分化され
さまざまな分野に枝分かれして、結果この本の山になったのだと考えると
軽く眩暈のようなものがしてくる。


※※※※※※※※※※

今日は会社説明会に行ったくらいで、まだ大したことをしていない。
今日思ったことは、もう少し社会に関心を持とうということ。
時事に疎すぎるから少しは勉強しようと思った。

非俗。 

February 04 [Mon], 2008, 7:43
「眠りから醒めるや否や自らに問うてみよ。『他人が正しいこと、善いことをしたら君にとって問題になるだろうか。』否、問題にならない。君は忘れたのか。他人をやたらに誉めたり貶したりする人間どもが、寝床の中でどんな振舞いをするか、食卓でどんなふうか、またなにをするか、なにを避け、なにを追い求め、なにを盗み、なにを強奪するかを。それも手や足をもってではなく、彼らの中のもっとも尊い部分―。すなわち人の意思次第で信仰、慎み、真実、法律、善きダイモーン等を生み出す部分をもってである」

「良い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて善い人間になったどうだ」


朝に『自省録』の一節を読むのは、だいぶ気分がいい。
量が多いので気に入った箇所に付箋紙をつけ、そのいくつかに目を通している。
夏休みになったもう一度読み直して付箋紙を付け直そう。


※※※※※※※※※※

エセー。再読ということもあってか、すらすら読み進めることができた。
以前はいちいち注釈や人名にひっかかっていたり
モンテーニュ=ただの懐疑主義者という硬直した思い込みもあったので
なかなか読み進めることができなかった。
今回はそんなこともなく伸び伸び読めている。
電車に乗っている時間が長かったため3巻1章〜3章まで読むことが出来た。

後悔と遺憾を混同するなと述べているのが印象に残った(引用若干不正確)。
つい最近まで落ち込んだり後悔するようなことが続いたのだけれども
僕の意志ではどうにもならないことだし過ぎたことだと思えるようになった。
それでもまだ雑念に惑わされたりイライラすることがある。


※※※※※※※※※※

進路を考える時期なのだけれどやりたいことが見つからない。
やりたいことを探す努力を怠っているのかもしれない。
それでもとにかく動かなくてはいけない。

まずは勉強をしよう。それが今思いつくやるべきこと。
やるからには全力で。これ以上なく集中して。
それが僕に出来る最大限のことですべて。
少し大げさだけど、でも本当にそれが出来れば十分だ。

人は、何かに打ち込んでいるとき俗物から免れる。
非俗の状態。俗に非ざる状態。
そのようなことを福田恆存が「俗物論」で書いていた。
たしかにその通りだ。非俗の時間を作り出す。


今日はこれから憲法と行政法の勉強をしよう。

朝の読書。 

February 03 [Sun], 2008, 8:21
朝7時に起床して、机上にあった『自省録』を手に取る。

「外から起こってくる事柄が君の気を散らすというのか。それなら自分に暇を作って、もっとなにか善いことをおぼえ、あれこれとりとめもなくなるのをやめなさい。またもうひとつの間違いもせぬように気をつけなくてはならない。すなわち活動しすぎて人生につかれてしまい、あらゆる衝動と思念を向けるべき目的を持ってない人たちもまた愚か者なのである。」

「何かをするときいやいやながらするな、利己的な気持ちからするな、無思慮にするな、心にさからってするな。君の考えを美辞麗句で飾り立てるな。余計な言葉やおこないをつつしめ」


とても心に響く。
朝から落ち着いた気分になれる。
とても優しい気持ちになれる。


※※※※※※※※※※

本を読むことが目的なのではなく、
それを実践するのが目的であることを常に忘れたくない。
あとがきで訳者が書いているように
マルクスは「この思想を身をもって生きた」人間だ。
人生の大部分を従軍して過ごし
わずかに残された断章も戦場で書かれたものがほとんどだという。


本を読む時間は1日の1%でもいい。
その代わり毎日1日の1%の時間は本を読む。毎日繰り返し読む。
繰り返し読むことで、著者の云わんとすることが僕のなかで血肉化されてゆく。


何より朝一番に美しく静かな文章を読むのは気持ちがいい。

春休み。 

February 02 [Sat], 2008, 0:24
初めてブログを書いたので、初っ端の日記、少し気張り気味。
本当はもっと簡潔に伝えたいこと・書きたいことがあったのだけれども。

2月になって春休みが始まりました。


※※※※※※※※※※

久しく本を読んでいない。忙しかったというのはあるかもしれない。
でも電車の中でくらいは読めるはずだし、やっぱり精神的に怠慢だったんだろう。
ある種の義務感で本を読むことを僕は忌み嫌うが、
そうでなく、ここ最近はただただ弛緩していた気がする。


※※※※※※※※※※

春休み中にエセー第三巻を再度読もうと思い、
ただ気軽に持ち運べるよう文庫で欲しいので(今、文庫版は絶版・・・)
テスト後に神保町の古本屋街に行った。
エセー第三巻は岩波文庫の割り振りでいうと5、6巻にあたるのだけれども、
これがなかなか見つからない。結局、岩波の5巻だけしか見つからなかった。
でも5巻は、6巻よりも好きな章が多いし、
下手に5、6巻に手を広げ挫折するくらいなら5巻だけでもいいかなって思った。
忙しくても5巻だけなら電車の移動時間だけで春休み期間にじっくり読める。

古本屋で1000円。これを高いと見るか安いと見るか。
僕は安いと感じるけれども、それにしても復刊してもらいたい。
うーん、そんなに需要ないのかな。。
やっと見つけたので嬉しくなって大事にしようと思い、
帰り道に池袋のジュンク堂書店で深緑色のブックカバーも買った。


エッセイが好きです。僕好みというか、僕の性格にマッチしている気がする。
この文章形式は、文章の中での抽象と具体のバランスが優れている。
長すぎるエッセイは苦手だし(エセー第三巻は別として)、小説も滅多に読まない。
ハマれば読めるのだけれど、ハマるまでなかなか根気が続かない。
アフォリズムは短くて鋭すぎる。出来ればそれを文章で読みたいと思う。
雑誌や新聞のコラムはわりと読む。いいものもあれば大した内容でないのも多くある。

どんなに抽象的なことだって些細な体験に潜んでいるし、
大きな体験だって抽象化しないと自分の糧にはならないと、僕は思っている。


※※※※※※※※※※

現実を大切にしたい。
読書も、現実を大切にする・重視する著者の文章を読みたいと思う。

読書に人を変える力があるとするならば、
それは現実に生きていく上での軸をつくる、
あるいは自分なりの生き方を固めるためにあるのだと思う。

固めては崩し、崩しては固める。
その繰り返しの先に、自分なりの理想的な人間としての在り方があるんだろうと思う。

三毒と悟りと縁起。 

February 01 [Fri], 2008, 23:52
夏休みに2日だけ書いて三日坊主にすらならなかった日記が出てきた。
「『4月は弱音や愚痴言わなかった』とゼミの同期に言われた」と綴ってあった。
愚痴・・・か。夏休みはだいぶ腐っていた時期だったようだ。


※※※※※※※※※※

浪人時代の英語の先生が仏教に詳しく、休み時間にときどき話を伺いに行っていたことがある。僕の中で印象深かった話は「三毒」「悟り」「煩悩」「縁起」「空」といった概念だった。仏教の重要なキーワードのうち本当にごく一部なんだろうけれども、なぜかこれらのキーワードは今でもよく覚えている。


その先生の話と戴いた本によれば、煩悩のうち特に根源的なものを「三毒」といい、三毒とは「貪欲」・「瞋恚」・「愚痴」の3つのこと。瞋恚(しんに)とは怒りを表に表すこと。漢字が難しい。この3つは垢のように取っても取っても湧いてくる。だから三垢とも呼ばれるそうで。特に貪欲は顔に出る。貪欲まみれのひとは決まって濁った表情になる。赤ちゃんがさっぱりした顔をしているのは貪欲に惑わされてないからだそうで。


それから「悟り」とは別段神がかったことや神秘的なことではない。だいたい悟ろうが何しようがどんな人間も煩悩からは逃れ得ない。悟りと煩悩に関する僕なりの結論は、「煩悩を持っていても、それに惑わされないこと煩わされないこと」ということだった。悟るとは一切を見通すこと。人生とは一度悟って終わりでなく、悟って悟って悟り続けるものだということ。一切を見通すといっても正直1か月先も見えていないのだけれども、勿論そういう次元の話ではなく。


それから「縁起」という概念。仏陀を理解する際、特に難儀なのは「縁起」と「空」という概念を理解することだという。僕も感覚的にしかわかっていない。(もちろんそれで十分なんだけれども)。「縁起」というのは「すべてが縁りて起こる」ということ。つまりは何事も互いが互いを成立させているということ。だから本当につきつめれば自分に関係のないことなどひとつもないということになる。遠い事件や紛争や災害だってどこかで僕とつながっている。だから「そんなの関係ねえ」とか言われてももうウンザリだよって思う。でもなぜかお父さんが好きで、それからわかってても行動で表せてこその教えであるだろうから、まあネタだしこれはこれでいいのかなって、あのネタをTVで見るたびに思う。


※※※※※※※※※※

あっ今さらだけど、仏教というより仏陀の教えだった。正直、日本仏教の歴史や仏教がどのように発展したのかといったことに、今の僕は興味がない。

人生の要所要所であのとき先生に教えて戴いたことが断片的に出てくる。
べつに仏教徒か否かは問題でなく、生きる指針として。

縁を大切にしよう。
P R
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