プリンキピアとは・・・。 

2005年11月21日(月) 16時05分
 プリンキピアやプロレゴーメナについて書いていくページです。
 プリンキピアとマテマティカはニュートンの物理学などの証明論、プロレゴーメナはイマヌエル・カントの経験論などを用いた証明論です。
 もう少し詳しく言うと、プロレゴーメナはデヴィド・ヒューム(人性論)を軽く批判しています。

 ここではニュートンの理論をはじめとする著書に対し、私が気づいたことなどを記していきます。
 覚え書きと思って下されば。

 まずニュートンがどんな人物だったかについて、かんたんに説明。
 ニュートンはフルネームでアイザック・ニュートン。
 アイザックはライプニッツ(モナド論を書いた)と対立しました。
 
 名前を忘れましたが、伯爵夫人は、ライプニッツとニュートンを和解させようとして失敗し、とうとう仲直りさせられなかったことを悔やんだとか。
 なにしろライプニッツが先に他界してしまったため、長生きをしたニュートンとは永遠に対立したまま終わってしまったのです。

 そして、ニュートンはノイローゼにかかってしまい、アカデミックな仕事を辞めてしまうと、次の仕事をさがしました。
 ちょうどジョン・ロック(人間知性論を書いた)が紹介してくれた仕事まで蹴ってしまう。
 その理由として「ちゃちぃ仕事ばっかりではちょっとねぇ・・・」といっていたのだそうです。
 ロックは怒ったろうなぁ。

 そして、ニュートンが次に夢中になった物。
 お気づきですか。
 錬金術です。
 といっても黄金を作りたかったわけではなく、物質に対する情熱をぶつけたかったらしい。
 それにしても、彼が変人といわれるゆえん、おわかりですかね。
 
 同じ理由で錬金術にはまりすぎ、廃人になって死んでしまった画家もいますが、そのことについてはまた別の機会に。
 
 

大陸合理論からの移行 

2005年11月21日(月) 16時58分
 
  カント以降の思想は複雑で、理解が困難とさえ言われている。
 そこで、軽いまとめをしてみようと思うよ。
 もちろん、間違いもあると思う。なにしろ、素人の書くネタだからね。

 カントの思想は大陸合理論から継承されて唱えられたもの。
 大陸合理論というのは、ようするにルネ・デカルトの思想を指す。
 デカルトの方法序説。名前くらいは知ってるよね。
 懐疑すること。つまり世の中のすべてを疑うこと。彼の思想はこれにつきた。
 私自身はおもしろいと思えなかったんだけど。こちらを支持する声は多い。
 ちなみにデカルトはフランス人だ。
 
 ようするに、近代思想の移行というのは、フランス→イギリス→ドイツとなっていく。
 フランスが啓蒙主義を唱え始めたのは、ルイ十四世の時代だったので、ちょうど十七世紀ということになるだろうか。
 
 
 
 長くなりそうなので後編へ続く。 
   
 
 

 

大陸合理論 つづき。 

2005年11月21日(月) 21時34分
さて、大陸合理論の時代がすぎると、今度はイギリス経験論が登場する。
 こちらはフランス革命に影響を与えたとされる、啓蒙主義の土台でもある思想。
 イギリス経験論・・・以降の時代にはトマス・ホッブズやデイヴィド・ヒューム、ジョン・ロック、フランシス・ベイコン、ロバート・フック、ニュートンといった面々があらわれてくる。
 このなかでイギリス経験論を重視したのは、なんといってもロックとヒュームであろうか。
 この思想、別名を近代民主主義と呼んでいる。
 このころ書かれたのがホッブズの社会契約論。
 社会契約論といえばルソーのほうが有名だが、それより早くホッブズが書いていたのであった。
 まあ早い話が、「めんどくさい、縛り付けてばかりの鎖(法律とか権威)から俺たちを解放してくれよ」といいたいことの主張。
 もちろん、全員がそろって同じ意見ではなく、微妙に違ってきているが、似たような文句、フレーズを用いている。
 キーワードは「自由社会」。
 
 重ねて言うが、とくにジョン・ロックの独立革命を推進する意見においては、アメリカの独立戦争やフランスの革命精神に拍車をかけている。

 
 そして、とうとうドイツ観念論へと移行する。
 このころになると革命のさなか、そして落ち着きを取り戻しつつもあった時代になっていくわけで、思想自体は熱烈でもないにせよ、複雑性が増していった。
 というのも、一番やっかいとされているのがイマヌエル・カントの思想で、彼の思想は批判が主題だったのだが、いつのまにか矛盾を秘めてしまっていた。
 よって、カント→フィヒテ→シェリング(最年少でドイツ観念論を説いた)→ヘーゲル、と引き継がれていったわけであるが、じつはヘーゲルはシェリングに抜かれてしまったといういきさつがあった。
 この時期、友人ヘルダーリン(詩人)の真似をし、家庭教師先の奥さんとの間に子ができて、どうこうしていた、ということはおいといて(汗。

 またまた続く。

私の「哲学」を欲する力 

2005年11月21日(月) 21時56分

 べつだん、難しい話ではないです。
 
 私のネタにするものは、ほとんどが学問上の哲学や思想が多いです。
 きっと、気づいてる人も多いと思う。
 私はカントとニュートンの大ファンですから。

 大学の講義を受けていた頃、哲学なんてめんどくせー、やってられねーって思ってました。
 ところが、「哲学基礎購読」というテキストを開いていたときです。
 ちょうど、法官貴族の話をしていたときで、それがさかのぼること十七世紀、ポールロワイヤルのころの話です。
「なんだ。哲学ッて言っても、歴史と変わらないんじゃん」
 たとえばそれは、哲学史と呼ばれる部類の一部でしたから、おそらく哲学を専攻する学生は、誰でもうけるんじゃないですか。
 その講義がおもしろかったのを覚えてますが。

 もしかしたら、そのときの影響があって、今ここに数種類の思想書とにらめっこをする自分が存在するのだろうか・・・。
 
 本格的な哲学、思想を欲する人にとって、哲学史の部分はジャマだといいます。
 しかし、過去にはいろいろな人がいて、その思想や体系も様々だったはず。
 それらを切り捨てて自分なりにこうだ、とするのは、なんだかもったいない。
 
 たとえば、懐疑の親玉はデカルトで、大陸合理論をなくして語れません。
 その思想の背景にあるもの、戦争の内容などを知れば、もっと強くなると思いませんか。
 私はそう思うんですよ。

 学ぶべきは、歴史である。声を大にして言いたいことです。 
    

国民教育の先駆け 

2005年11月23日(水) 8時30分

 ポールロワイヤル女子修道院についてのこと。
 フランスはパリの郊外にこの修道院はあった。
 国民教育の先駆けとなったこの思想、ちょうど、17〜18世紀に成立したもので、院長はアンジェリック・アルノー、わずか12歳で院長の座に就いた娘である。
 父はアントワーヌ・アルノーといい、ジャンセニスム(イエズス会と対立したオランダの神学者ヤンセンの作った一派)の中心となった修道院。
 アントワーヌ・アルノーの家は代々つづく法官貴族で、法官というのは今で言うと裁判官や弁護士のような仕事をしていたもの。
 ようするに権力者ということ。
 彼はデカルト派だったこともあって、同志のパスカル(数学者)とともに、イエズス会と闘ったわけであった。
 
 アルノーは、アウグスティヌス神学とデカルト哲学の一致を説いた、とあるので、そのことでイエズス会から反感を買ってしまったらしい。
 そこで、まだ幼いが12歳の娘を院長にして権威をいただこう、と考えたのだろう。

 やがて、ブルボン王朝の弾圧により、消え去ってしまった。

十七世紀といえば。 

2005年11月26日(土) 19時27分

 さて、オランダといえばレンブラント。
 ヤン・フェルメール同様、有名な絵描き。
 レンブラントの場合、謎の多いフェルメールにくらべて、その生涯ははっきり、くっきりしており、借金王(しゃっきんぐと呼んではならない・・・笑)として有名である。

 おなじころ、スピノザ、アントニー・ファン・レーウェンフック、ロバート・フック(似てるけど気を付けて)などがレンズの登場とともに、学問技術を上げていた。
 スピノザのレンズ磨きなど、逸話も多いが、実はスピノザの場合、ただの俗説らしい。
 彼は貧乏でもなければ、苦労も知らない、金持ちの子だったので、伝説だったようである。

 レーウェンフックの場合、彼は生物学上でかなり有名な人物。
 そして変わり者であった。
 酔っぱらいの嘔吐物を自作の顕微鏡で覗いた話も有名だし、汚い話で恐縮!
 排泄物から大腸菌も発見し、一躍大学者になったという。

 錬金術といえばニュートン、パルミジャニーノ(前回話した錬金術で身を滅ぼした絵描き)といい、錬金術にとりつかれ、命まで失った悲惨な人物も多数おいでのようだ。

 次回は、ラファエロのアテネの学堂の話でもしようかしら。 
 
 

万有引力の法則 謎解明 

2005年11月26日(土) 19時41分
  万有引力、じつはこれ、最初にロバート・フックが説いたのだそうだ。
 つまり、アイザックのオリジナルではなかったのだが、どういうわけかプリンキピア=万有引力の法則、と認識する力が高まったらしい。
 なぜか。
 これに関する書、「ロバート・フック・・・ニュートンに消された男」という本が売っているらしい、それによると、アイザックが陰湿な男で、執拗なまでに、フックを陥れた、というのだ、これは有力説のようである。
 
 人嫌いで、ねちっこい。
 アイザックは敵と見なした相手には容赦なく攻撃し、「うぬぼれや」でもあったのだろうか・・・。

 私は雑学的な本を読みません。
 ようするに、学術書というのは、訳されたものなどをのぞいて、本人が書いた本しか手に取ったことないです。  ということはどういうことかというと、がんこものですよ、マジで。

 それはさておき、ニュートン。

 その心はまるで私のようだ! あーはっはっは!

ブクログの日々。 

2005年11月27日(日) 21時02分

 
 ブクログ

 ていうの、ネット仲間のページで拾いましてね。 
 毎日持っている本の数を数えてます。
 
 いっさぁ〜つ、にさぁ〜つ(お菊さんかい!)

 お気づきかも知れませんが(堂々と公表してるくせに白々しい)

 創作コーナー

 こんなの書いてるのねん。
 前はこれ系が多かったんですが、どういうわけか創作なんてしなくなっちまってなぁ・・・(泣。
 めんどくさいとか、時間がある癖にないとか嘘ついてとかは、あり得ないとは決して言いにくい。

 嗚呼、今日は楽しいなあw
 ウキウキしすぎて、溌剌としてるね、私の中のジジイ心w
 
 

モーツァルトの謎に迫る。 

2005年11月28日(月) 5時41分

 モーツァルトは、かなり好きです。
 そこで検証してみました。
 いろいろと。

 モーツァルトは音楽以外できない人かと思ってましたが・・・ドイツ語、ラテン語、フランス語と、何カ国語かが得意だったそうで、イタリアオペラに対して口を挟めた作曲家は、アマデウスだけだったと言います。

 天才って、どんなに馬鹿そうに思えても、結局天才なんだ! 間違いない!

 ネタが得意なモーツァルト。
 手紙でしか言えなかったのか、はたまた貴族の前でもできたのか。
 貴族から嫌われたってことは、

 ・・・ズバリいうわよ! 

 やっちゃったんでしょうね・・・。
 暗殺説については、もしかすると、「モーツァルト!」のミュージカルだったかオペラだったかによる創作と思われます。
 演劇関連にはちょと弱いので、これといった確証はもてません。
 まあ、当時の皇帝さん(ヨーゼフ二世かそのあたり)が、戴冠式にサリエリをよんで、作曲させ、モーツァルトは金がもらえると期待していったのに、結局自費で行って帰ってきただけというありさま。
 
 そんなに嫌われ者だったのだろうか・・・。

 名は体を表す、といいますが、彼がどんなに抜けていても、賢者だと思う。
 音楽には性格が現れる気がするからね。
 彼の曲は軽快なのが多く、ピアノソナタとか、フルート協奏曲の第一楽章は好きですな。
 オペラでは「夜の女王のアリア」にやられた〜。
 「フィガロの結婚」のほうも自分では絶賛で、演技も捨てがたく。

 私は永遠にモーツァルトファンでいる自信がありまっせ。

 

  

そこで作曲家の印象 

2005年11月28日(月) 6時14分
そこで、各作曲家のイメージを発表してみました。
 よけいなお世話となじられようとも(以下略。

 ヴィヴァルディ →女好き(違)渋い。

 ヨーゼフ・ハイドン→のんびり。彼の人生そのもの。(参考例・交響曲時計)

 フリードリヒ・ヘンデル→単調だけど荘厳華麗。

 ヨハン・セバスティアン・バッハ→あまり好みじゃないので、ノコメ。顔ではありません、曲の話です(焦。

 ロッシーニ→セヴィリヤの理髪師序曲が本当はヴェルディからの贈り物って、知ってました?
  
 ヴィルヘルム・テルの行進曲が好きでして、よく聞いていたんですが、この事実を耳にいれ、なんだそりゃって。
 昔はそういうことあったんですかね。

 ジュゼッペ・ヴェルディ→文句ナシにオペラの帝王。とくに「海賊」(マイナー作品)がすてきですわ。

 ジャコモ・プッチーニ→ヴェルディの二番煎じって感じして、あまり。でもラ・ボエームとマノン・レスコーはよかったです。
 
 ジュゼッペ・タルティーニ→この人もまた、天才の一人だと思う。「悪魔のトリル」なんて誰にも弾けないっしょ。(弾いちゃった天才・・ヴェラチーニ)

 カール・マリア・フォン・ウェーバー→モーツァルトのいとこになるのかな。

 「舞踏への招待」が大好き。そういえばアニメで「魔弾の射手」ストーリーを把握しましたが、暗い話ですね。

 
 思い出すことがあれば、第二弾もやります。 
 
 

 
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:newton
読者になる
Yapme!一覧
読者になる