中江藤樹先生立志之地
2009年12月23日(水) 14時39分
先日、大洲の藤樹会から中江藤樹先生のパンフレットが送られてきた。
その中の説明書きに、元和3年(1617)9歳のときに米子藩主加藤貞泰の転封に伴い祖父の吉長と共に伊予大洲に来たと。
その年の冬、祖父が風早(現松山市柳原)の代官となり、共に移り住んだという。
そして10歳のとき、四書五経の一つ「大学」を読み聖人たらんと立志したという・・・・その碑が建っているとパンフレットに写真が載っていたので、どこだろうと年末のお墓まいりのあと、石碑を探しに柳原へ・・・。
途中2,3人に「中江藤樹先生の石碑はどこにあるかご存じないですか?」とたずねつつ近づく。
旧国道(56号)沿いに大きな石碑が建っていたので車を降りてみると、「柳原館跡」と彫り込んでいた。
その石碑のすぐそばに文具屋さんに「中江藤樹先生の石碑は?」とたづねてみると、奥からご主人が出てこられ、親切にも石碑や近くの神社に案内していただき、いろいろと藤樹先生や大洲藩のことを教えていただいた。
名刺交換したところ、その方は松山市議会の副議長さんだった。
その中の説明書きに、元和3年(1617)9歳のときに米子藩主加藤貞泰の転封に伴い祖父の吉長と共に伊予大洲に来たと。
その年の冬、祖父が風早(現松山市柳原)の代官となり、共に移り住んだという。
そして10歳のとき、四書五経の一つ「大学」を読み聖人たらんと立志したという・・・・その碑が建っているとパンフレットに写真が載っていたので、どこだろうと年末のお墓まいりのあと、石碑を探しに柳原へ・・・。
途中2,3人に「中江藤樹先生の石碑はどこにあるかご存じないですか?」とたずねつつ近づく。
旧国道(56号)沿いに大きな石碑が建っていたので車を降りてみると、「柳原館跡」と彫り込んでいた。
その石碑のすぐそばに文具屋さんに「中江藤樹先生の石碑は?」とたづねてみると、奥からご主人が出てこられ、親切にも石碑や近くの神社に案内していただき、いろいろと藤樹先生や大洲藩のことを教えていただいた。
名刺交換したところ、その方は松山市議会の副議長さんだった。








