女性の日によせて

March 09 [Wed], 2011, 3:40
今日、3月8日は国際女性デー。

facebookを見たら、友達がとてもいい文章を書いていたので、和訳して載せます。


「…私のすべての女友達へ。そしてすべての男友達へ。女性の日おめでとう。すべての母親、お姉さんや妹、恋人、そして友達へ、女性の日おめでとう。彼女らがいなければ、誕生日なんてなかっただろう。そして、子供の日すらないのだから。すべての女性たちへもう一度。女性の日おめでとう。」


私がこれを素敵な文章だと思ったのは(原文はもっと素敵ですが笑)、私が女だからという理由ではない。

私は、自分が「女である」というアイデンティティはあまり持っていない。

確かに、ヒラヒラで花柄のスカートやピンクの小物、マニキュアやリボンがついたアクセサリーなど大好きだけれども、

それは、女として生まれた私の方向性の上での単なる「私の好みと趣味」、つまり、ただ「良い」と思っただけであって、型押しされた女の姿には従いたくはない。

人はみな、何かしらの誇りを持って生きる動物として、自らを飾ったりして魅力的に見せるべきだけれど、そこに他の属性、例えば異なる性からの眼差しを取り入れた瞬間、本当の「自分らしさ」は失われる。そう思う。

お店の前に立っているマネキンが着ている、最新の服はかっこいい。

そういう服に身を包んだ異性がいたら、確かにかっこいいと思う。

しかしそれは審美的な感情であり、本当の意味での好意や相手への興味を指してはいない。


私は、よく女性が主演の映画やドラマのキャッチコピーに使われる「恋に仕事に頑張る…」というようなフレーズが嫌いだ。

人間だれしも様々なことに「頑張らなければ」ならないし、なぜ頑張ったところで、「女が」頑張った、と思われるのか。

決定的な体力の違い。それは真実だけれども、大学に入学してなにかを学ぶことを選び、就職して働くことを選び、それらの選択をしたことで同じ土俵に立っているのだから、平等な結果を期待される権利があり、平等な働きを提供する義務がある。と思う。

また、人はときどき、性別のフィルターによって正しい評価をして貰えない。

良い例が、「男なのだから男らしく強くいろ」や「女のくせに気が使えない、行儀が悪い」など。

もちろん女の私は女としての経験ばかりなので、一方に偏った例しか出せないけれども、気が使えなかったり行儀が悪いのは、それは人間として咎められるべきことなのに、そこになぜ性が持ち出されるのか。
そして、性によって何かを大目に見られたりすることもあってはならない。
「人」として見て、評価し、諫めるべき、であると思う。

…飲み会や食事の席で、真っ先にサラダなど料理を取り分けたり、飲み物が足りなくなったら真っ先に気付いて注いであげる、いわゆる「デキ女」という言葉。
性別問わず、気が付いたら誰かがやるべきことなのに。本来は。

「結局はね、母性というものを皆どこかで無意識に求めているんだよ」と言われたらまた難しいけれども、ね。



しかし単純に、今日は女性の日だと知って、そしてfacebookでのこの文章を読んで、今日はただすべての女性が素敵に見えた。

確かに女性は、歴史の流れの中で苦難を強いられることが多かった。
同等の権利を認められない限りでは、評価どころか同じ働きをする機会すら無いのである。
1963年に、アメリカ人歌手のペギー・リーが歌ったI'm a Womanの歌詞を読むと、その彼女らが辿って来た歴史を想って胸が熱くなる。


同権が認められるのには現代でも難しい環境で、圧迫されながらも強く生きている、なによりも子供を育てながらたくましく生活する女性たちに賛辞を送る意味でも、「女性の日おめでとう」。

そして、アイデンティティがないといいつつも、こんなことを考えている私は、根っからの「女」なのだろう、な。




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