蜀山人と時津 時津町郷土誌から
February 27 [Wed], 2008, 17:44
蜀山人と時津 時津町郷土誌から
烽火山の「南畝石」に関連し、この項で次の資料から蜀山人の時津行きの様子と作品の「鯖くさらかし岩」(珍しい岩にも項あり)などの歌を見てみる。
時津町「時津町郷土誌」昭和54年刊
4. 街道と旅人 (7)蜀山人と時津 206〜207頁
文化元年(1804年)長崎奉行所支配勘定役として、長崎に着任した大田直二郎(蜀山人)も、翌2年の秋、長崎奉行肥田豊後守頼常に従って、時津に遊んでいる。
(閏8月9日、肥鎮台にしたがいて、時津に遊ぶ此曰天顔快々はれて春の如し。辰の刻(7時)の前に西坂をのぼり、県令高木氏と、ともに地蔵堂にて鎮台の来るをまつ。ややありて鎮台の来らせ給ひぬれば、跡に従ひて行き、…中略…西浦上を過て、時津の方にゆく左のかたに岩山あり、高く峙(やばだ)てる岩の上に丸き石あり、ことさらにすえ置かれたるがごとし是いはゆる鯖腐石なり。)と
岩角にたちぬる石をみつつおればになへる魚もさはくちぬべし
更に、時津行で二つの歌を残している。
そのきしのむかふ小舟の網手網(アタツチ)を今そときつのうらの秋風
秋の日のあつさをへたつ岨つたひ木かけのやとをたつねてそゆく
と、時津は海にむかいて、むかふは彼杵の方なり島あり山ありここに大村家の茶屋あり休所とす。
肥田豊後守、蜀山人も此の茶屋で休憩したものである。
下って、文化4年(1807年)画家の田澤春房は鯖腐かしをスケッチし、文化10年(1813年)伊能忠敬は全国測量のとき、時津に一泊彼杵へ渡っている。
烽火山の「南畝石」に関連し、この項で次の資料から蜀山人の時津行きの様子と作品の「鯖くさらかし岩」(珍しい岩にも項あり)などの歌を見てみる。
時津町「時津町郷土誌」昭和54年刊
4. 街道と旅人 (7)蜀山人と時津 206〜207頁
文化元年(1804年)長崎奉行所支配勘定役として、長崎に着任した大田直二郎(蜀山人)も、翌2年の秋、長崎奉行肥田豊後守頼常に従って、時津に遊んでいる。
(閏8月9日、肥鎮台にしたがいて、時津に遊ぶ此曰天顔快々はれて春の如し。辰の刻(7時)の前に西坂をのぼり、県令高木氏と、ともに地蔵堂にて鎮台の来るをまつ。ややありて鎮台の来らせ給ひぬれば、跡に従ひて行き、…中略…西浦上を過て、時津の方にゆく左のかたに岩山あり、高く峙(やばだ)てる岩の上に丸き石あり、ことさらにすえ置かれたるがごとし是いはゆる鯖腐石なり。)と
岩角にたちぬる石をみつつおればになへる魚もさはくちぬべし
更に、時津行で二つの歌を残している。
そのきしのむかふ小舟の網手網(アタツチ)を今そときつのうらの秋風
秋の日のあつさをへたつ岨つたひ木かけのやとをたつねてそゆく
と、時津は海にむかいて、むかふは彼杵の方なり島あり山ありここに大村家の茶屋あり休所とす。
肥田豊後守、蜀山人も此の茶屋で休憩したものである。
下って、文化4年(1807年)画家の田澤春房は鯖腐かしをスケッチし、文化10年(1813年)伊能忠敬は全国測量のとき、時津に一泊彼杵へ渡っている。


