嘆き 

February 10 [Sun], 2008, 20:13
ご馳走があって、けんかしているより、一つのパンをわけあって喜んでいるほうがいい。
この聖書の言葉は真実だと痛感。
うちはいつも食べ物のことでけんかになる。食べ物が偶像なのだ。
今日はお昼を作って教会へ。ところが夫は、いつも作ってくれる人に失礼だから食べないという。
その人への義理をたてて、自分の妻の作ったものはたべない。どういう神経か本当に理解できない。
またそれが我慢できず、人前だったが、次男が弁当をたべず、食堂のごはんをたべたいとだだをこねたので、「あなたのまねして、ごはんたべないよ。たべさせて。」といったのに、きれた夫。
本屋にいきたいという子ども達をまきぞえにして、また威圧してくる。
長男はおびえ、泣いてしまった。彼の心に傷を作ったと思うと泣けてしょうがない。

はやくこの命がとりさられればいいのにと祈る。。。
そう思わないですむ日がいつかくると信じたい。

ひさびさの旅行で 

February 04 [Mon], 2008, 8:55
結婚して10年たった。10年たって成長しているのか。
優しかったと思うことは?と聞かれ、ないと答える自分。
「優しさを感じるのはどういう時?」と聞かれ「私の言う通りにしてくれたこと」といったけど、
きれながら、怒鳴りながらだとあまり意味無い気がする。

良かったことは、感謝という気持ちを指輪という形に残せたこと。
一緒に森の時計にいったこと。
スキーをこどもたちに教えてもらえたこと。
雪遊びを家族でできたこと。

新たな発見はたばこの量が格段に増えていること。
健康への影響が心配。祈りが必要。

でも夫婦の間にある溝は年月ではうまっていかないもの。
お互いの違いが明確になり、トラブルを対処する方法をいくつかみつけ、こどもたちの視線が強くなってきたという違いがあるだけかな。
結婚とは自分を知ることかも。
この数ヶ月、友人の悩みを聞いていて思った。
相手に対する不信感、相手の家族に対する感情。
人の話は聞くことができても、実際、決断するのは自分。私もいつも迷いながら
ここまできたので、アドバイスはできない。

ここのところ、やっぱりちょっと傷ついてる自分の心。
鯖の味噌煮がちょっとぬるかったからといって、流しに捨て、寒空の中外で土下座をしろとほざく。
「バスで帰れば」といった一言で切れ、雪道においてけぼり。

こどもたちの心に、なにが残るのか。横暴さか、泣き声か、罪のやりとりか。

以前の教会で分裂騒ぎ。
尊敬していた恩師の変化、人々のとまどい、金銭がからんだ罪がくすぶる恐ろしさ。

でもこどもたちには、人のあたたかさ、生きる喜び、希望、自信を与えたいと心から願う。
反面教師にしてほしいと。



尊敬できない夫、御言葉への抵抗 

September 17 [Mon], 2007, 2:39
今日はなにげなく話をしていたのに、おもわずまた泣いてしまった。
最近はこの人とやっていけるのだろうかという疑問が常に頭をうずまいている。教会で相手に合わせるのも疲れるし、かといって落ち込んでばかりもいられないし、決断力はないし、こどもたちは成長しているし、ほんと解決策がない。
とにかく仕事を探そうという決意はできた。
何事も経済的基盤がないとやってゆけないものね。
今日のメッセージは子育てについて。
子どもをおこらせてはいけないという御言葉。「父よ」というのにひっかかっていたが、霊的なものをさずけるのは父ということ。父から授けられない子ども達はどのように知恵をいただくのか。
先週は夫婦のメッセージ。こどもたちをおいて今すぐ出て行けといった翌日に、けろっとして、礼拝に出て、普段と変わらず雑談をして、帰ってくる夫の神経はやはり理解できない。
そのことを少しでも話せてすっとした。

やっていけないと感じた最大の要因は昨日のよみうりランド駐車場での事故。
自分がその行動をするのがいやな時(昨日はプールに行きたくなかったらしい。でも前から私に予定をいわれていたし、こどもたちも楽しみにしていたし、断れる状況じゃなかった。でも自分なりに抵抗していた。バイクのところで何分も待たせたり、爪きりに帰るといいだしたり、ほんとうに横暴な主人だった。その挙句の事故)
あの事故でであった変人と同じような態度に変身、それが私に向かってくるのを思い出して、過呼吸になった。
もしこの人は人をひいてしまったとしてもあんなふうに平然と相手のせいにしそうだと思うと、心のそこからぞっとした。
そんな人の家族であり続けたくない、と正直思って悲しくなって泣いてしまった。
こどもたちは根拠がないのに「大丈夫だよ」となぐさめてくれる。
それがふがいなくてまた涙。

その後祈り続け、夫は半分きれかかりながら相手と連絡がとれ、その場はなにもおこさないということでおわったが、私の中のなにかがくずれはじめたのは事実。
彼は「正直にいったから相手が赦してくれた」と自慢げに教会の人に話す。
それはでも真実じゃない。私が警備員に「連絡してくれましたか?」ときいたら
あわてて車から降りてきて、「ぶつけちゃったから、持ち主の人に連絡とってくれる?」と初めていったことを私は知っている。
車の中で泣いている私には「今連絡してもらっているから」と嘘をついていた。

嘘つき!

結婚がよいものをもたらすと信じて踏み切った生活。楽しかったことももちろんたくさんあるし、感謝することも多い。
でもこの先すすんでゆくことができないと思っている現実。
こどもに対する責任もあるけど、早く決断して、先に進みたい。
大人に属することなので、早急な決断は避けようと思うけど。

納得 

July 23 [Mon], 2007, 8:26
新しい教会にきて4年。人にも慣れ、毎週の日曜日のメッセージもとても楽しみ。聖書の話がむくむくと目の前におきあがり、現代を生きている私に「こうやって生きよ。こっちを選べ。」と教えてくれる。
時にはなぐさめ、時にはお尻をたたかれ、時にはただただ喜び、いつも一週間を生きる希望をくれた。
ただなにか満たされないという思いが心のどこかにいつもあった。
時折、夫に話しても「否定的な考えに侵されている」の一点張りで、自分が心を開いてないからかなと自問自答していた。肯定的に、肯定的に、と理性で心に語りかけ、必死で適応しようとしてきたけど、その飢え渇きはぜんぜん癒えない。自分ではどうしようもない閉塞感の中過ごしてきた。
でも、今日出身教会の姉妹が来てくれて、話していて、とてもすっきりした。
そう、会話の質がちがうのだった。
優れているとか劣ってるとかではない、明るいか暗いでもない、
その異質さが私の飢え乾きの原因だと解った。
前の教会で馴染んできた、自分の言葉によるわかちあい。
自分の内面に語ってくださった主のすばらしさを、またより深い洞察を、友人に、またその分かち合いを通して人間関係を作ってゆく文化。境遇に関わりなく、一人の人間として信仰の話を話すことのできる文化で私は育ってきたのだ。
それは当たり前だと思っていたけど、当たり前じゃなかった。
牧師とか、伝道者じゃなくても、イエス様がただ、大好きで、社会でいろいろな闘いの中で生きている仲間がいた。
自分を否定せず、そういうわかちあいができるよう祈ることができるようになれたこと、
姉妹にとても感謝。

結婚相手 

June 15 [Fri], 2007, 12:40
2才のマーとの会話。
結婚式の写真を見て、
マー「ママとパパはけっこんしたの?」
私「そうだよ。」
(少し期待して)
私「マーはだれとけっこんしたい?ママ?おともだちのまなちゃんとか?」
マー「マーはね、かみさまとけっこんする」
私「えー、かみさまと!!」
マー「だってかみさま、マーをあいしてるんでしょ」

そうです。そうです。かみさまはマーのすべての罪をせおってくださる方。
ただ、私はその発想がうれしかったんです。日々成長しているマー。
大きくなっても神様の愛を信じてまっすぐにすすんでいってね。

そしてひとこと
「ママはチョコがすきなんだからチョコとけっこんしな」
だって。確かにすきだけどね。

アルファブロガー 

May 09 [Wed], 2007, 14:06
2007年のブログ発行数は8万件らしい。かくいう私も書いているので人のことはいえないが、このブログがたいへんなことになっているらしい。ブログに書いてあったということでその商品、記事が話題となり、たいへんな影響力をもっている人のことをアルファブロガーというらしい。会社勤めの人が、それで生計をたてる、職業として成り立っている現実。いわゆるワイドショーのコメンテーターはもういらないんだろうね。インターネットができたと知った時の衝撃は大きかったが、社会のシステムを変えてゆくネットの力がここまできたというのに驚く。
個人が世界に意見を言えるのはすごいことだが、そこで何を言うかが問われてくるのだ。アルファブロガーのブログはどんなものかといえば、最初は日記や日々雑記だがだんだん専門性を帯びてくるらしい。
何を伝えたいかがより鍵となる時代、そこで語る内容を吟味せよ。

親の思い 

April 23 [Mon], 2007, 9:01
7才のウーは空手を習っている。もうかれこれ3年目。以前習っていた夫の勧めで始めたウーだが、今では自らも楽しんで通っている。最初は足取りもおぼつかなかったが、今では難しい型もすらすらとこなし、先日は大会で優勝も果たした。そんな学校以外の場で自信をつけている姿をみて、私は続けてきてよかったと思っていた。ところがだ、このところ問題が起こっている。この流派の先生の一人で、以前夫も指導を受けたことのある方と、今習っている師範との間になにかあったのだろう、その方が独立されて、新たに道場を立ち上げたのだ。夫としては、その先生を支持したいのだろう。ウーをその道場に移したいと言い出した。しかしだ。私は正直どうしていいのかわからない。大人のいざこざにウーをまきこんでいる気がするし、せっかく出来た仲間と別れて、その先生に習うことは夫のエゴではないかとも思える。ただ、小さいウーには先生を選ぶ判断力もないのも事実。片親が信用していない先生に、習わすのもウーにとってはのちのちつらいことになるのかと思うと、変わったほうがいいのかとも思う。しかし、他にも問題がある。雨の日も風邪の日も小さいマーを連れて送り迎えをしている私は、週2回の合間の時間を教会の奉仕や図書館や買い物でそれなりに楽しんできた。新しい道場はへんぴな田舎の不便な場所。これでは高学年になっても送り迎えが必要だ。どんないざこざがあったかわからないが、今の師範に直接不満や疑問はもってない私はそこまでして道場を変える価値を見出せない。
小さいうちに優れた指導者に出会える子どもは幸せだ。しかし、どんな境遇にいようと子どもは成長するすばらしい可能性を持っていると信じている。今後このことを夫にいわれる日々が続くと思うと、心がどっと暗くなる…

小さな信仰、大きな神 

April 07 [Sat], 2007, 13:59
先日のこと。突然の激しい頭痛になやまされ、7才のウーのおけいこまで車で送迎するための出発の時間がせまっている時のこと。運転ができるか不安を抱えながら「ママ、ちょっと頭痛いんだ。大丈夫かなぁ」と2人の子どもに話したところ、2歳のマーは「ママ、だいじょうぶ?かわいそうね。ぼくがおいのりしてあげる。かみさま、ママのあたまをなおしてください。あーめん」とお祈りしてくれました。
神様はその小さなたましいがいっしょうけんめい捧げたお祈りは必ずきいてくださると確信。お祈りはその言葉数やなめらかさではなく、その信仰の対象が大事で、きっときいてくださるということを私自身教えられました。
こどもはほんとうに親を育ててくれますね。

お仕事体験 

March 22 [Thu], 2007, 10:32
行ってきました、豊洲のキッザニア。子どもたちがろいろな種類のお仕事体験ができ、お給料もちゃんとでるなかなかおもしろい仕掛けです。ただ完全予約制、入れ替え制のわりに並ぶ並ぶ。普段並び慣れてないうちの家族はそれでへとへとでした。しかし親ってえらいと感心してしまいます。自分たちも来てるけどみかけるのはリピーター。何度もこどもたちのために休日をつぶして親はボーッと待ってるだけなんて。まぁ子供の笑顔にはかえられないか!
うちのうーはピザ職人と警察官とシール作りを体験。感想は「よくわからないけどおもしろかった」大人はなにやっているのか入っちゃいけないので、詳しい内容は不明ですが、一応指紋の検出とかもしたらしいです。2歳のまーは幼稚園と理容店を体験、かわいいおひげをつけてもらいました。パパいわく「一生ここにはこない」(待つだけなので)でしたが、子どもたちには楽しいところみたい。今度行くなら、すいてる平日にママ友といっしょがおすすめです。

やっちゃった 

March 06 [Tue], 2007, 18:04
またやっちゃった。口は禍の元。せっかく下さった恵みを捨てるような私にも雨は降るのだろうか。言葉の暴力というけど相変わらず距離は遠退く現実。花も音楽も結局は二次的なものなのか。彼には一生解ってもらえないけどいいかと思ってた。でもやはりつらい。希望を持ち続けられない時は信仰なんてと思ってしまう。
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