虫たち 

2005年06月24日(金) 11時04分
仏教では雨季は生命の誕生する季節なんだって
だから托鉢をしながら歩いていた修業僧が
地面からでた虫や植物を踏みつけないよう
雨の季節だけ集まって座禅やら修行したのがお寺の始まりなんだって
はぁ〜ん・・これで僕の観た映画がバレそうですね
寺で修行する期間「安居(あんご)」を解くのが「解夏(げげ)」

僕の部屋にも虫たちがやってきます
昨日はウスバカゲロウ
この虫たしか綺麗な虫になるんだよなってふと思ったんだけど
間違いでした やつは成虫です
幼虫があの アリジゴク(蟻地獄)だったのです
どっちにしろ可憐な変化です

今日はてんとう虫の小さ〜なやつ
一瞬 天敵であるゴキブリの子供かと思ったけど
愛らしい歩き方からしてたぶん違う
よ〜くみると背中に斑点(たぶんナナホシ)があった
まだ子供なのかイメージするてんとう虫のようには丸くない

どっちもこの部屋にいられても困るし食っていけないだろうから
ベランダに放した

それに比べると 蚊 っていうのは可哀想な運命です
ぺしゃんこ か 毒ガスですから


画像は絵画表現Uの春スクのものです
油彩の扱いが以前とは変わりました
そっちのほうに興味がいっちゃって 表現という意味ではおろそかになってしまったかもしれません
まだ表現が何かわかってないみたいです
けどね・・・モノをよく見てごらん
無限の表現がそこに潜んでいるよ
敬意を払わなければ観察の対象にすらならないんだ

(写真はうまく撮れてません。とくに上部。頭部のメリハリは実際もう少しあります。うまく撮れたら差し替えるのでご容赦ください。)

「絵画空間」とは 

2005年06月01日(水) 12時52分
“絵画空間”

「空間」というと、僕なら三次元的な立方体の間をイメージする。
だが、「空間」には「三次元」という意味合いはそもそもは無いようである。
「空間」を私たちの暮らす世界に当てはめたとき初めて「三次元」と解釈される。
そう考えたほうが、「空間」あるいは「絵画空間」の意味するところがはっきりとしてくる。

つまり「空間」とは、‘モノの外の広がり’であろうか。
「絵画空間」とは描かれた空間が三次元的であれ二次元(平面)的であれ、そこ(画面)の広がりのことなのではないだろうか。
前者はルネサンス期以降の一点透視図法による三次元空間表現であり、後者はセザンヌ以降の多視点的な空間構成である。
またどちらとも言えないような、絵画ならではの空間の処理の仕方も存在する。
「絵画空間」という言葉は実に多義的で曖昧だ。

どの「絵画空間」が良い、という訳ではない。
真実や美や光が‘どの空間’に在るかは、その人や条件次第である。


 ※この文章は後で加筆修正する場合があります

独創的? 

2005年05月10日(火) 9時00分
今日ほど主観性が絶対視され、客観性が軽視されている時代はない。
「私」という主体が気持ちいいか、気持ちよくないかにすべての価値はゆだねられている。

独創性の重視は、言い換えれば、個性偏重、自由主義である。
それにより、学ぶということと個性は対立し、学べば学ぶほど独自性が失われるかのように思われている。
もっとも、基本以前の未開のそれを個性ではなく‘私性’という。

私たちが考える、オリジナリティ溢れる人たち、たとえばピカソやモーツァルト、彼らほど先人の遺産を消化しているものはないと言われる。

『独創性ということがよくいわれるが、それは何を意味してるのだろう!われわれが生れ落ちるとまもなく、世界はわれわれに影響を与え始め、死ぬまでそれが続くのだ。だから独創性とよばれるようなものに対する一種の幻想は捨てたほうがいい』

とあのゲーテは言った。

僕はこの種の名言に救われる思いだ。

近況報告 

2005年04月15日(金) 16時48分
−芸術作品はそれぞれの時代の子であり、しばしばわれわれの感情の母である。(カンディンスキー)

最近はよく制作のほうはサボリ気味。
代わりといってはなんですが、今年度のレポートをすでに一つ提出。
イコノロジー(図像学)に関するもの。

今は「表現主義」についてまとめているのだが、なかなか興味深い。
そもそも「表現」を意図しているはずの美術においてなぜ「表現主義」と二重括りになったのか。
【Impressionism】印象主義に対する【Expressionism】表現主義。
フォーヴを始めとするフランス前衛的芸術運動とドイツでのそれの分岐点。

今年はとにかくレポート・科目試験が多いので早め早めに。


映画「今を生きる」から
「単純であることはいい、だが平凡ではだめだ。」



《ドレスデン・ノイシュタット》 オスカー・ココシュカ

ただただデッサン 

2005年04月05日(火) 11時35分
デッサン【dessin 仏】
@単色の線や筆触によって物の形・明暗などを描いたもの=素描
Aものごとのあらすじ

Aの解釈は面白く、意味深い。
が、@は果たしてそうであろうか。
“単色の”という所に疑問を感じる。
色彩を使ってもデッサンなのだ。ひたすらにデッサンなのだ。
製作中の自画像(小さなキャンヴァスに油彩)は色彩によるデッサンを心がけている。
完成作品をモノクロ写真に撮る試みというのがあるが、まさにそうだろう。


グリザイユは正直失敗したかも知れない。
そういえば・・・、なのだが
暗くならないように、少し明るいくらいがちょうどよい
と先生が言ってような気もする。半年前の記憶。
いくら透明度の高い絵具だからと言っても、色を重ねれば多少暗くなるのだから。
それにブラックオイルを入手できず、代用品を使用したことも一因なのだろうか。


もっともっとデッサンを重ねていきたい。

明暗(キアロスクーロ)の記述とその習作 

2005年03月26日(土) 15時45分
物体を見ることとは光のおりなす“現象”を介して、その“構造”を把握することであろう。(ここでは明暗(キアロスクーロ)に限定し色彩については触れない。)
以下、太陽光のもとで石膏像を観察した今日の結論である。
太陽光は直進して物体の正面に当たる。
側面は反射が少ないため陰ができる。
さらに太陽光は物体の上部からの照射となるので下向きの面にも陰ができる。
側面でなおかつ下向きの面は加算的に陰を増す。(光の立場からすると逆であるが)
凸の塊と凸の塊の間にできる非常に明るい面も乱反射の結果であると思われる。

ごく当然の事のように思われるが、これが実際である。
これらの表現がうまくいったとき、三次元的表現としては実に心地よいものとなる。
ただこれだけのことで。

対象物を前によく観察し明暗を観ることがまず第一であるが、
物体の構造から明暗を探るのもひとつのアプローチである。(現象とは実に正直であるから。)

両者の歩み寄りである。

「明暗を読んだら構造を読みなさい」ともリンクする。
付け加えるならば
「構造を読んだら明暗を読みなさい」

 実に至極当然・単純明快な明暗についての記述であるが、左の習作(グリザイユの過程途中)はまだまだ多くの矛盾点を残す。

 それと別個の問題として、背景を暗く処理した絵は、モチーフが闇に溶け込むよう工夫されている。この場合、モチーフの左下の面の反射は邪魔かもしれない。


 また余談であるが見えない部分(回り込んだ裏側など)にも光は当たっていることも忘れたくない。
 物体の上部が明るく、下部が暗い、ものの影は下に落ちる、というのも光源がたいていの場合上からの照射になるからである。
 外から太陽光の入り込まない部屋を作り、照明を床全面に施したならば、影は天井に落ちるはずである。

自然の驚異の八等分 

2005年03月22日(火) 22時07分
誰の言葉とも知れず
「表現者たれ」というのがある。

表現者すなわち芸術家(プロアマ問わず)たるべきものが理想とするのは
おそらく“自然”であろう。

美術の基本(基礎)が自然の描写にあるのはその理に適ったもっともたるところである。

人体はその量感(ヴォリューム)・構造(ストリクチュール)・動勢(ムーブマン)において
願ったり叶ったりのモチーフのひとつであると思う。



とは言え、他にもモチーフはある。自然はてんこ盛りだ。

先日のミュシャの植物学者のような目線のスケッチに少し感化され、わずかばかり科学的にアプローチ。
すると見事な八等分を見つけた。
右の写真なのだけれど、葉の付け根の茎が見事に八等分。
・・・なのに何故か、葉の中心線になると自由奔放に散りだす。
(実際に肉眼で確認)

君は、自然はいったい、法則に基づいているのか気の向くままなのか。。。


こんな風な観察もいいかも知れない。
まだまだ知らない事・知ろうとも思わなかった事がたくさんあるんだろう。
僕はそれらの問題を、そして自分自身の結論(結末)を、描くこと(識ること)によって解決しようとしている。


「綜合者たれ」 と僕が言った。

P R
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