苦しみの計画 

2007年05月11日(金) 9時20分
人生の中で、人は幾度苦しい思いをするだろう。
ふと、そんなどうでも良い事を考えてみた。何故どうでも良いか。それらはもう過ぎ去った事だから。勿論、その渦中にいる人もおられるだろうが、けれど、冒頭の「人生の中で〜・・・」と言うものは、これまで、と言う前置詞がつくだろう。
そんな薀蓄っぽい屁理屈は置いておいて。
酷く苦しみに合う人もいれば、あまり苦しみに合わない人もいる。
勿論の事、出来る事ならば苦しい思いはしたくないので、後者が望ましい。けれど、感謝すべきは後者だろう。
何だっていい、そう、例えば。
風邪をひいた事のある人と、そうでない人。風邪をひいたことがある人は、同じく風邪をひいている人の気持ちが分かり、どれほどしんどいか理解できる。
けれども、風邪を引いた事の無い人は、風邪をひいている人の気持ちなぞ、理解できない。
何に於いても、苦しみを味わうと言う事は、痛みを伴うけれど、それと同時に同情、理解と言う気持ちを手に入れる事ができる。そして、慰める事ができる。
クリスチャンでも同じ事だ。
何の苦労もないクリスチャンは、全く以ってクリスチャンではない人の気持ちなど分かりはしない。
「だって私は風俗で働いてるのよ!?何がクリスチャンよ!?」
普通こう言われたら、クリスチャンはヒく。しかし、悪の限りを尽くしてきた私は思う。
はっ、高々風俗ごときで落ち込んでんじゃねえ、と。そして同時に、働いているときの自己嫌悪や、何故こんな事をしているのだろう、と頭では分かっていても、気持ちが付いて行かないボンヤリ加減。お客が付かないと焦る気持ち。常に悪い事をしているような気になっているくせに、反面、普通の人間をみて一人ひそやかに思う。私風俗嬢なのよ?と、お金持ってるのよ、と。そして、最後に行き着く空しさ。
このループ。どうしようも無い。他のお嬢はどうか分からないが、私はそうだった。その時もう既に、クリスチャンだったにもかかわらず。
自分が風俗で働いていた事は、私の人生に於いて屁のようなものだ。よってあまり苦しみではない。

去年、半年程監禁されていた。
っていきなりオイオイと言う感じだが、事実なので仕方ない。
切っ掛けと隙を作った私の落ち度だ。殴る蹴るの暴行も受けた。髪を掴んで引きずられたが、禿げなくて良かった。ただ、アバラにヒビは入った。
いじめに理由なんて無い。
よく耳にする言葉だ。本当にその通り。監禁に意味は無い。彼らの遊び道具だったのだろう。
逃げようにも尾行される。精神的に追い詰められて、逃げようがなかった。
結局、最後無一文でタクシーに飛び乗って、実家へ逃げ帰った。
親に払って貰ったタクシー代。一生掛かっても返そうと思った。

だから、だ。
少なくとも、監禁されていた人の気持ちは分かる。暴行を受けた人の気持ちも分かる。そして、どうすれば良いかもわかる。感謝である。
何故感謝か。
私はその間、教会から離れていた。監禁されていたからではない。その前から、教会生活から離れていた。けれども、この監禁事件のおかげで、私は教会へと、神様の元へと立ち返る事ができた。
親が聞けば、何を暢気な事を!と怒り狂うだろう。
けれど、その監禁事件がなければ、今の私は無かった。
不思議である。
全てが計画的で、最終的に平安をもたらしてくれる神である。

日曜のデート 

2007年04月28日(土) 20時00分
日曜日が好きだ。
朝、念入りに化粧をし、香水を着け、可愛い服を選らんで教会へ行く。まるで、市内へ遊びに行くかのように。
デートだと思っている。相手は神様。神様とデート。と、なれば気合も入る。前日からマニキュアを塗り、洋服に合った明日の髪型を決め、鼻歌を歌いながら上機嫌。
週に一度のデート。
それはそれは、念入りに、私の支度はされる。

だって楽しみなんだもの。

それ以外に理由なぞない。
大好きな人に会える日。自分の可愛い姿を見て貰いたいと言う思いは、当然だろう。
恋人がいる人。片思いであれ、好きな人がいる人。デートに出かける直前の人。
まったく同じなのだ。
大好きで仕方ない神様に、会いに行く為、自らをきれいにきれいにして、さあ!と出かける。
そんな楽しみ、解るだろうか。
楽しくて、仕方がないのだ。

4月の愛 

2007年04月10日(火) 14時57分
気温は19℃で、外は暖かいと言うのに、末端冷え性の私の手足は、依然冷たい。
一昨日の日曜、教会でイースターと言う行事があった。復活祭と言われ、キリストが再び蘇ったと言われる。
ふと考えてみる。誰かの代わりに死ねるか否か。
キリストは、誰かどころではなく、訳の解らん人を含めた「人類」と言う単位の為に、自ら人類の罪を、代わりに背負って死んだ。現在恋人のいない私は、ふと過去の恋人を思い返してみる。
恋人と言う非常に近い他人の為にだって、死ねるとは一度だって思った事は無かった。恋愛ピーク真っ盛りの時でさえ。
大事な大事なあ恋人の為にすら、むーりー、と横を向いてしまうのに、そんな私の為にですら、キリストは死んでくださった。
十字架を背負って死んだ。
この文字だけをみると、ふーん・・・?、と何となく呆然として曖昧だが、想像力を働かせてみると、えらい事である。
重たい丸太を引きずって、山へ上る。木で肌は擦り切れ、足は豆ができていたかも知れない。止まれば鞭打たれ、どれだけ痛くても、痛さで失神しても、無理矢理歩き続けさせられる。
本当に、本気で想像したら吐き気を感じてしまう程だ。
それなのに。
神と人間とを橋渡しする為だけに、人間の罪を贖う為だけに自ら死を選択したキリスト。
神などいない。いても、キリストでは無いと言う人も多いだろう。
けれど、思う。どこに他人の為だけに命を捧げる事ができる者がいただろうか。それも、誰か、では無く、みんな、と言う無限大の括りの為に。
神は愛なり。
聖書にそう書かれてある事を、常々思う。そして、自分は愛されているのだと、日々思う。

愛のバケツ 

2007年04月05日(木) 12時40分
政治に文句を垂れる、冬のレディオヘッドに別れを告げ、春だ夏だとカーデガンズ、カイリーミノーグと、ばらばらなチョイスで春を迎えた。普段なら、恐らく、いや絶対に聴かないであろう2つを、何故この春にチョイスしたか。
友人に物凄い勢いで勧められた事と、春を春らしく謳歌しようと思ったから。素晴らしく安易な発想。
昨日、近くで大学の入学式が行われた。これはとばかりに、教会のイベント案内パンフレットを配布しに、是非とも行こうと数日前から決められていた。
が、朝起きると雨。
昼前には着いて、街中に立って配布する予定なのに、薄ら暗い雲が空を覆っている。
雨天中止?まさか。雨天決行、だって皆クリスチャンで祈る事を知っている。そして、それらが聞かれる事も。
私たち皆、配布している間だけでもいいから、雨を止ませて下さいと祈る。馬鹿馬鹿しいと思われるだろう。イっちゃってるよねー、と思うかも知れない。
しかし、私たちの祈りは聞かれた。教会のバスを降りる直前に晴れ、配布終了後バスに乗ったらまた降り出した。
偶然だと思われるかも知れない。だとしたら、9割以上の確立で、私の祈りは偶然と言うもので叶えられているのだろうか。
偶然。それにしては、余りにも打率は高い。

求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい、そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
誰でも求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。
マタイ7:7

まさにその通り。
配布している間だけでいいから、雨を止ませて下さいと言う祈りに、ちゃんと答えてもらった幸福な私。
もっともっとと欲張って、あれもこれもとどうしうようも無い。
だた、ふと思う事。物質的な事も勿論与えられてきたけれど、精神的な面で与えられたものは、もっと凄い。
ずっと、何となく寂しかったり、他人を見ていいなぁと思っていた事全てが、神様の無条件な愛で埋められた。いとも容易く。
それは、人生に於いて物凄く重要な事なのではないだろうか。
寂しかった人が、寂しくなくなった。
天のお父さまは、バケツをひっくり返すように、愛をどぼどぼ注いでくれている。誰にだって。
結局の所、そのおいしい水を飲むか、はあ?ジュースやお茶で十分、その違いである。
私はがぼがぼ頂きたい。

見えない形 

2007年04月02日(月) 8時47分
昔々、少し昔、私が風俗嬢だった頃の話だ。
スヤマさんと言うお客さんがいた。このお客さん、全く触れもしない、ただただ会話を交わす為だけに、私を4時間も5時間も拘束する。高い賃金を払って。非常に好きなお客さんだった。何もされないから好き、なのでは無く、会話が噛み合うから、好きだった。
カフカ、バタイユ、安部公房などが好きな私と、ニーチェを青くて暗いと鼻で笑うスヤマさん。非常に楽しかった。
スヤマさんと神について話をした事があった。

いると思う?いないと思う?

さて大変だ。
私とスヤマさんが話し出したらキリが無い。スヤマさんの部屋には、それはそれは膨大な数の本があったので、あらゆる文献を引っ張り出してきては、あーでもない、こーでもないと話しあう。
風俗と言っても、所謂、お店にいてと言う形式ではなく、デリバリーとしてお客さんの自宅や、ホテルへ赴く形式だった。なので、もう既に勝手知ったる他人いや、スヤマの冷蔵庫。勝手にビールやつまみを出しては食べる食べる。
いると思う?と、スヤマさんは私に聞くので、私クリスチャンだからいると思う、そう答えた。
じゃあさ、とスヤマさんは続けた。クリスチャン抜きにして、いると思う?いないと思う?と言うから面倒臭い。
ジャーキーをがじがじじながら、いるんじゃなーい?と答えた。そして、スヤマさんは?と聞くと、いないと思うね、と言う。
ああ、面倒だ。意見が食い違ったら、朝まで討論会なのだ。いつだって。
何故だ何故だ。何で?何で? お互い納得したくて仕方が無い。
やっぱりいるよ。そう言う私に何故だと問い詰める。
だってさー、いない理由も無いよね。それなのに、神って言う言葉だけは存在するよね。
そう言って、スヤマさんと二人で国語辞書を開いた覚えがある。「神」と。
確か、人々に幸せを与えたり、不思議な力を持っていたり、人間の思いでは量る事ができない力を持っている、とか、なんとかそんな事が書かれてあったように思う。(間違っていたらあごめんなさい)

そんな事を、昨日の礼拝の最中にふと思い出した。ダメダメクリスチャンである。
礼拝後、牧師と話しをする機会が与えられたので、尋ねてみた。
例えば、目に見えないことを、何故信じられるのかと聞かれたら、どうしたら良いですか?と。
すると、牧師は言う。聖書に書いてあるじゃないですか、と。おっとまだまだ食いつくよ〜。
でもね、そんなもの本当のことか解らないじゃないですか。牧師は答えてくれる。
みとこばは真実です、心でかんじるのですよ。というので、すかさず、その人しか解らないでしょう?といってみた。
少々意地が悪かったを、後々反省しが頑張って食いついてみようと思った。どこまで答えてくれるか。私こそ、何より知りたかったのだ。何故?と。
牧師は笑う。少し高めの声で、フォッフォッフォッフォと。
世の中に見えないものは沢山あります。電波だってそうです。普段、電波が目に見えていますか?見えていないけれど、携帯電話で電話をすれば、必ずかかる事を、我々は知っています。人の心どころか、自分の心が目に見えますか?感じるけれど、形を成して見えはしなしでしょう?信仰も、キリストの愛も同じです。
ぽかーん、と口をあけて聞いていた。そーかー。へー。なるほどね。
本当に、いつになれば大人になるのか。
やっと納得して、スヤマさんに勝ったと、心の中でほくそえむ午後。

器の大きさ 

2007年04月01日(日) 8時19分
先日、このページがお気に入りに入れられているのを見て、父は言った。見ていいのか?と。
いーよー。頭の悪そうな返事である。
私のパソコンは修理に出して、未だ返ってこないので、仕方なく父に、ちょっと借りるねと借りているのだ。
が、借りて何をしているのか見てみれば、エライ事である。父からは何も言われなかった。ただ、読み進むに連れ、唖然を通り越し、呆然だった事くらいは、想像力お粗末な私にも解る。
そんな事もあんな事もしてた上に、尻に墨まで入ってたのか、コイツは。私が自分の親なら、早々に匙を投げている。
けれども、父の許容量は大きい。母もまた然り。
彼らは、私の馬鹿な生活と性格に、呆れかえりうんざりしつつも、やはりきちんと愛情を注いでくれる。
父なぞ「僕だって駄目なところはあるよ」と、何と謙虚な人だろう。私を目の前に、そんな事は私なら言えない。お前よりはマシだブァーカッ!っと、せいぜい嘲笑うだろう。ああ、人間のできていない私。
母も母で、愛してるよ、と、日に何度口にするだろう。私は慣れいるが、傍から見れば、薄気味悪い事この上ないだろう。
母は、父よりももっと、私の悪事を知っている。何故父が知らないか。
1年程前だろうか。定年退職するまでは、一生懸命働いていたし、帰ってきたら、さあ家族の夕食だ!と言う訳で、父はあまり知らない。まさか、いただきますの後、「あのさぁ、ベランダで育ててるのさあ、ほんとは駄目なやつなんだーへへー」とか言えるはずもなく。
結局、駄目なやつは本当に駄目で、小心者の私は抜いて捨てた。初めからやらなきゃいいのに。
その時母は、あらちゃんと育ってるのにどうしたの?かわいそうなハーブ、なんて言う暢気さ。
駄目!コレ駄目!心の中で叫び、芽を抜き取っていた。

こんな二人。
なんと言う人間の大きさだろう。蟻並の心しか持ち合わせていない私とは、えらい違いだ。
彼らを非常に尊敬する。
しかしそれ以上に器の大きい神がいる訳で、なお私は神を、イエスキリストを尊敬する。
父母に愛されている分、私は愛し返す。
同じように、キリストに愛されている分、私は愛し返す。けれども、それはとても難しく。100円玉3枚しか持ってないのに、5000円出されて500円玉に両替してれくれよと言われても、それはちょっと、と言う感じで、わお体当たり愛。

クリスチャンではない人は、見えないものに、何故愛を感じる事ができるか、不思議でしかたないだろうと思う。私が逆なら、そう思う。そして、はあ?と。
けれどもちゃんと理由はある。
その前に、教会へ行くためにそろそろ準備をしなくてはならないので、次回へ持ち越す。

寂しいが無くなるとき。 

2007年03月31日(土) 14時14分
なんだかなー、変な時間に風呂に入ると、どうもこうもだるい。
そして、「だるい」を「怠い」と変換してくれないことに、少しいらっとする。
明日は日曜で、勿論教会へ行く訳だが、少々同機が不純だったりするとこも、なきにしもあらず。
未来の私のハズバンドとの出会いはっ!?ねぇ!? と、明日もしかしたら出会うかも知れないハズバンドの為に、こんな時間から明日への準備が始まる。
マニキュア、眉抜き、下品じゃなくても可愛くてお洒落な服選び、その他諸々。
家事手伝いと言う名の自由人は、全く以って暇である。病気の名の許に無職に甘んじていられる。しかし、マグカップ片手に家の中をふらふらされていては、いい加減邪魔だろう。働けよ。
と、言うわけで、明日のハズバンド、いや、教会の為にお手入れをするので、今日はこの辺で。
皆様も是非教会で出会い、いや、何かを見つけに足を運んでみて下さい。
一つ言える事は、もし寂しいと思っているのなら、きっとあなたは寂しくなくなる。
天のお父様は、慰めと癒しの神だから。


神様、そろそろ私にも出会いを下さいませ。

親と子の対人関係・2 

2007年03月30日(金) 15時47分
何故神はなんでもくれるのか。
何故神はなんでも許してくれるのか。

だって、お父さんなんだもん。

別に変な思想の話では無い。
自分の親がそうであるように、キリスト教の神は、父である。そして、その父は聖書に書き残している。「求めなさい、そうすれば与えられる」と。「悔い改めなさい」と。
私は、この27年間に於いて、必要なものは全て与えられてきた。物質的にも、精神的にも、だ。
うつや、パニック障害、脳に於ける海馬と側とう葉の損傷。完治していないものも未だある。けれど、それらを補うに余る愛情や物質的な物を、私はきちんと受け取っている。そして、未完治のものも、完治するだろうと確信している。

両親からそんな愛情を自分は受けてこなかった。
そんな方が居るなら、余計に是非である。父を作ってみればどうだろうか。
欲しかった愛情全てを併せ持っている、天の父である。

親と子の対人関係・1 

2007年03月30日(金) 14時53分
一般論ではあるが、例えば。
親は親だと言う理由だけで、自分の子が何をしても許してしまうのではなかろうか。どれだけ叱って怒って、どつきまわしたところで、最終的にはもう二度としないと言う反省の許、許してしまうのではなかろうか。
私のはなしではあるが、例えば。
それはそれはキリが無い。小学生時代お財布からお金を持って行っただの、中学生時代の万引きだ喫煙だの、高校時代の勝手に週休5日制だの。大人になればなるに連れ、知恵がつくから性質が悪い。
結婚だ、離婚だ、キャバクラだ、風俗だ、と、事はどんどん悪化する一方。更に言うと、私の尻には刺青が入っている。5年近く前に入れたものだが、カミングアウトはここ1年ほどである。とんでもない子どもである。
しかし、私の親は子どもを愛している。よって、最終的にもう二度としませんと言う事で、頭を叩かれて許してくれる。
何を許してくれるか。全てだ。
した事を忘れてくれる。そんな馬鹿な子でも、存在する事を許してくれる。戻る場所をあけておいてくれる。
何故か。
愛されているかだ。そして、何故一般論が一般的な論理なのかを考えた時、世間に割合が多いからだろう。よって、一般論もまた然り。
あんた!また馬鹿な事してっ。
もういい大人なのに、未だにこう叱られる。とんでもない娘である。
しかし、これが愛情だと言う事に、幼い私はなかなか気付かなかった。愛情を受け取る能力の乏しい子に育ってしまっていた。おそらく、母子家庭と言う言葉だけを受け止めて、母の中に父をも求めたがゆえだろう。母は母の分量だけ、きっちり愛情を注いでくれていたのに、父の分が足りないと、欲張りな私は勝手に不満がった。
そして、勝手に作り上げた「当然」の分量は、勿論満たないまま大人になった。どこかで寂しいと思いながら。
贅沢な!と思われるだろう。私だって今になれば思う。親の愛は強烈だ。怒られはしたが。私が求めたものは全て与えられたから。
それと全く同じ関係に、頭の弱い私は最近になってようやく気づいた。
神である。
ぽかーん・・・、としないで欲しい。私だってぽかーんとしたい。だって、余りにもシンプルなのだから。
キリスト教では、神を天のお父様と言う事がある。どういう事なんだろうと思っていたが、どうもこうも、そのままだ。お父さん、なのだ。
母子家庭で育った私に取って、父親の不在は当然で、全く「お父さん」と言う立場が理解できなかった。いや、理解はできても、感じる事ができなかった。
10年程前、母の再婚で私にも念願の「父」が誕生した。非常に優しい善い父である。時折、私の口の悪さに叱られるが、それでも許してくれる。
それなのに、おとうさん。頭で理解できても、感じる事ができなかった。おとうさん。不思議な響きだ。

放蕩の末、やっと大人しく家に居る私は、最近また真面目に教会へ行くようになった。
さて、そこで「おとうさん」だ。
その教会の牧師は、何一つ難しい事は言わず、ただ祈る時に「天のお父様」と言う。
あー!なるほどねっ。
そう、天のお父様は、自分にとって天に居るお父様なのだ。遠距離恋愛みたいな感じ?そんな感じ。死んだおばあちゃんみたいな感じ?ちょっと違う。出張ばっかりのお父さんみたいな感じ?そうそう、そんな感じ。
と、自問自答の果てに辿りついたのは、「やっぱり許して何でもくれる2人目のお父さん」だった。

貞淑な妻と貞淑過ぎる夫 

2007年03月29日(木) 17時31分
21になったばかりで結婚をした。
4つ年上の、それはそれは優しい、大事にしてくれる男性だった。当時も、離婚した今も変わりは無く、
私は彼を心から愛している。
では、何故離婚したか。
あれー?すっげぇ好きだけだど、従兄弟の兄ちゃん・・・?
そう、仲が良すぎたのだ。彼にしても、・・・妹?という感覚しか持てず、当然のことながら、私たちの間にセックスんなど介在しなかった。
新婚旅行4泊6日プーケットの旅。彼は彼で楽しんで、私は私で水より安いビールを片手に、ぶらぶらと町を歩いていた。
結局、周囲からの圧力や精神的に追い詰められて離婚に至った訳だが、彼に彼女ができるまでの数年、私たちは非常に仲良く、週に3〜4日会っていた。会って、お茶を飲む。そして、会話を楽しむ。そんな関係だった。
会わなくなった今でも、私は彼を愛しているし、結婚にも離婚にも後悔は無い。
が、だ。
私に後悔があろうがなかろうが、キリシタンペルー来航に取ってはえらい問題である。
彼に、罪を犯させてしまった。

どうやら姦淫と言うものは、男性サイドに犯罪性置かれるらしく、女性は犯させられる、と言う言わば受身的な罪。
私は、当時は非常に貞淑な妻だったので、結局彼に罪を犯させてしまったのか?
しまったんだな、これが。
結局、セックスレスと言う事、その他諸々が原因で、離婚に至った私の23歳。
さあ大変。罪をおかさせた上に、馬鹿な私は不貞のスターダムへのし上った。そして、風俗へと移行していくが、またそれは今度。

ふと、彼を思い出すときに、何よりも幸せだったら良いなと思う。
私は私で、その後それなりに恋人もできたが、彼は特別な人間だ。彼の為なら、徴兵だって代理で行ってやる。本気でえ思う。これは、、もう本当に、家族愛。

果たして、これは罪になるのだろうか。
不思議に思い、私は教会の牧師に尋ねてみた。返ってきた答えはこうだった。
「あなたが不貞でもなく、また相手との性交渉が無かった。これは、離婚しても罪には咎められる事は無い」
では、何故そう言った事が聖書に書いてあるか。
昔々の人々は、割と飽きたらポイっだったと言う。。それを戒めるために、上記のような掟ができたのでは無いかと言う。なるほど。それなら納得。
きちんと理由が在れば良しとされるのか。

へーほー、と、ブロンドより若干落ち着いた髪の色で、クラッシュジーンズの穴に指を入れながら聞いていた。心の広い牧師である。なので、更に尋ねてみた。
「こー言う格好はヤバいですかねえ」
牧師は笑う。そして言う。
「聖書に書いてありますよ、若いからと言ってそれを理由に軽んじられる事はありません、身体は魂の入れ物に過ぎません。あなたが金髪でも何でも、信仰さえ変わりなければ、誰が口出し出来ましょう」

ビバ!ビバ!クラッシュジーンズもキャミもチューブトップも何でもありだ。
聖書には書いてある。そう、きっちりと。

『叩きなさい、そうすれば開かれる。求めなさい。そうすれば開かれる。』

そのときの私は、アムロナミエ張りのホットパンツに、網タイツ、ピンヒールのロングブーツ、胸の谷間まで開いたシャツを着ていた。どうみても、今から出勤ですか?と言う様な格好をしていた。今も然して変わりは無いが。
それでも、受け入れてくれた事が、離婚勅語の私には在り難かった。
プロフィール
  • ニックネーム:nanmailudesuka
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