遠いようで近い記憶

October 05 [Wed], 2011, 17:51
それは遠いできごと、もう数年の時が過ぎているはずなのにいまだに鮮明に思い出す出来事…

目が覚めると白い天井、一瞬自分がドコにいるのかわからなかった。だからといって普段通りに起きあがるという行動には移れなかった。起きると同時にわき上がってくる倦怠感、そして傷口の痛み。寝ていた間は忘れることができていた現実、そいつらが団体でご到着のようだ。そんな現実が頭から足の先まですぅっと入ってくる、寝ている間の平穏と入れ替わるように。

だがその現実に意味はありそうもなかった、いま意味のあることは自分がどれだけ生きていられているかだ。そういえばどれほど時間が過ぎたんだっけ?普段なら時間の経過は感覚で把握できる、だが今回は頭で考えないと出てこない。たしか手術したんだよな?記憶が混乱していて出来事を時系列順に整理することができない。どれだけさかのぼっていけばいい?いま自分に必要な時間はいつから今に至る時間なんだ?とりあえずあの手術の日からでいいか、あの日から何回眠ったのか、それがいま一番重要な時間なんだ。記憶のカーソルを救急車でここには運び込まれたときに移動させる。
たしか緊急手術だったはず、ここに運び込まれたCTにのせられ手術の説明をうけた。それからどうしたんだっけ?記憶をジャンプさせる、次に思い出せるのは手術台のうえ麻酔が効いてくる直前、ほんとにこんなライトなんだな、テレビでしか見たことのないものがそこにあった。そのときの自分はなぜか絶対に眠らないでいようと思っていたどんなことがあろうと自分で見届けよう。そんな気持ちも医学の前には無力だったようで手術中の記憶は残っていない。つぎのカーソルは手術が終わった次の朝、見慣れぬ部屋で目をさましたときだ。
そう、手術後の朝見た景色と今見える風景を照合してみる。それはみごとにおなじものだった。そうあの朝から自分はここにいる。自分のいる環境を理解しだすと五感が戻ってくる、いままで認識していなかった電子音、胸にある違和感そして口元に付けられている酸素マスク。
いままでつけたことにないものが今の自分にはたんまりとつけられている。そして電子音はそれをモニターする機械がだしている。だがその単調な電子音に安心感を感じている、少なくともあの機械は自分がまだ危ない状態ではないと言ってくれている。すこしの間なら目を離すことができる状態であることを。
次にしなければならないことはどのくらいここにいるか思い出すことだ。あの朝からどのくらい過ぎたんだっけ?未来にカーソルを移動させようとすり、だけど引っ掛かるものがあやふやだということにきづかされる。日常生活なら起きて行動してそして寝る、多少のブレはあってもこいつを数えることで時間を把握できる。しかしいまは難しいいようだ、いましている行動はひたすら寝ることだけなんだから。
寝ること以外のマーカーを探さないと、そう思って自分の時間をさかのぼっていく、寝ること以外にいったい自分は何をしてきたのか?答えは以外と簡単に見つかった、そう食べることだ。これまで何を食べてきたか?これならキーとしてさかのぼっていけそうだ、あの手術後の朝から…あの日はたしかパン、ロールパンだった。あのあとからは確かご飯が続いた、ご飯なのになぜか牛乳がついたヘンな献立。そんな朝食を食べた回数は確か二回。パンの日と合わせて3日ということになる、やっと具体的な時間がでた。と同時に時間が流れ出した気がした、まるでインターチェンジから高速道路に合流できたように。
時間が流れ出すと自分がいる場所も認識できるようになる。そうたしかここはHCU、手術が終わった後目覚めた部屋だった。時間と空間の認識はすんだ、だがそこから先には進めない。まだ3日なのか、もう3日なのか?3日という時間が持つ意味がまったく理解できない。空間も同じだ、ここがHCUという部屋であってもどのように外界と繋がっているのか?自分がもといた世界から見たらどうすればここに来られるのか?
いやそもそも戻れるのだろうか?戻れるとするならどのくらいの時間が必要なのだろうか?その答えがいまは無いことを思い出す、だれにも分からないんだった、いまのところ誰にも。そんな切り離された時間と空間でただ生きていくより仕方ない。
そんな虚無感の中でも感じ取れる現実があった、それは機械の発する電子音。ピッピッと規則正しい音、脈拍によるリズム。その音がしている間は自分の中には生がある、そのリズムが刻めている限りは死なないということ
それは3日目の晩のこと。昼に目覚めたときには、リズムがあった。規則正しい電子音に安堵を覚えたことまでは記憶がある。そこから記憶が途絶えているからまた寝てしまったのだろう。ただ今は規則正しいリズムがない、ピッピッという音が心地よく続かない、5回いや6回に一度くらいピーという音が入る。そういえば人の気配もした、機械を見ているのだろうか?状況を整理すべきだ、本能がそう言っているようだった。ただ頭が起動しない、意識を呼び起こして自分の身体をサーチしなきゃいけない、そんな単純でわかりきったことができる感じがしない。じゃせめて部屋にいるひとから状況をと思っても知覚がついてこない。そこに誰がいて何をしようとしているのか?せめて切迫度からでも状況を理解しなければと
ふいに答えがうかぶ。ああ死ぬということはこういうことなのだと。言うならば静かならる機能停止、身体がその機能を停止させようとしている。そんな身体に精神は抗えない、精神がいかに抵抗しようが身体はゆっくりと機能を落とす。そして精神はさとる、なにもできないことを。否応なく悟らされると言ったほうが近いか。そして自分はここで死ぬと覚悟する、そして覚悟の先には何もないことも同時に知る。天国や輪廻天象そういったものを否定するつもりはないが、少なくとも自分が体験した死にはなかった、もっと先にいけばあるのかもしれないが…
そして意識が遠くなっていった、おそらく次に目覚めることがないであろうと思いつつ、その覚悟をもちつつ。
ただ、自分は目をさますことができた。目をさまし聞こえてきた電子音に安堵した。後にも先にも死を覚悟した瞬間はあのときだけだ。おかげで死ぬということを身近に感じとることができるようになった。それは日常のどこにもあるものであり特別なことでもない。死ぬ時期が早い、遅いということはあくまで人間が感覚的にもっている基準であり、そこに意味はない。死というものは生と同様に生きているものすべてに平等なものであると思う。アニメやドラマにあるようにどんな状況でも死なない主人公たちを見ていて、そらが理想ではあるんだろうけどやっぱ違うと感じるんだよな。
そうやって生き残った自分もまたどうやって生をまっとうしていけばよいか迷っている身なのだが
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