(第23回:2013/2/23)

February 23 [Sat], 2013, 17:18

 クローシェを寝かせ付け、彼女が完全に寝入ったのを確認すると部屋を出た。
 日付が変わる少し前だった為、なるべく足音を立てないように階段を降りる。居間を覗いたら、寝そべっている狼の姿があった。

 飲もうと思って自室から持ってきたワインボトルを脇に挟み、台所からワイングラスと簡単に作った肴をトレイに載せて居間に入る。
 もう片方の手には灯りを持っていたので、ドアを脚で開閉するも咎められる事も無く。先に様子を見た時と今も寸分変わらぬ姿勢で、狼は暖炉の前にいた。
 対して声は掛けず、フォルカーは彼の横で足を止める。
 床敷きされている絨毯の上に座り込み毛皮に凭れることなく、他の部屋から持ってきたものを床に置く。手元が見えやすい場所に灯りを立て、脇に挟んでいたボトルを手に収めたところで──穏やかな声でフォルカーに語りかけてくる声があった。
「降りてきて何をするかと思ったら、いい酒を独り占めですか?」
「折角、お前に貰ったものだからな。本当ならば付き合って欲しいのだが……」
「お気持ちだけで、結構です」
 予想通りの返答に、つい苦笑が浮かぶ。先に封を切ろうとしていた瓶をトレイに置き、代わりに重ねていた皿の上に乗せていたバケットのひと切れを手に取った。狼が鼻を鳴らし、フォルカーの手に持っているものに興味を見せる。
「こいつは食うだろ?」
 もう片方の手に木製のスプーンを握り、大きめのソースカップに入っている中身をバケットに塗りながら言葉を続ける。
「漬けていたアンチョビとツナに、カッテージチーズを混ぜた。玉葱は抜いているから食えるだろ?」
「頂きます」
 たっぷりと塗ったものを持ってきたバケットに塗り終えると、重ねた皿の上に半分ずつ載せて片方を狼の前に置いてやる。満足気に匂いを嗅いで、大きな舌で舐め始めるのを見届けた後は、ワインボトルを開ける作業へと入った。

「……クローシェは?」
「さっき寝た。今日は結構動き回っていたから、夢見が悪くない限りは起きてこないだろうよ」
「そうですか」
 ポケットから取り出した折り畳み式のコルクスクリューのナイフ部分でワイン瓶の封を切り、スクリュー部分をコルクに突き刺し回し始める。
 回しながらフォルカーはふと、自分と二人きりの時でも“あの子”でも“アレ”でもなく。ちゃんと少女の名を口にしている、微かな魔獣の変化を思い起こした。
 契約を交わしたと彼は言っていたが、自分は未だに思い出せない。
 フォルカーを呼ぶ名称が変わったのは素直に気に入らないが、最近の彼を見ている限り、その言葉は本当なのだろうと思う。
「なあ、」
 そんなファルクレイが彼女を真正面から見据えるようになったからこそ、フォルカーは先日起きた出来事に対して追求せざるをえなかった。
 ランタンの灯りだけだと薄暗いので、手元に視線は下ろしたままだが、皿から顔が上がる気配がして言葉を続ける。
「何で、クローシェにあんな事を言った?」
「“あんな事”とは?」
「いじわる」
「ああ……」
 納得したように、一つ頷くのが分かった。
「クローシェに聞いたので?」
「そりゃあ……今日で、三日か? あれだけ強情に拗ね続けていると、我慢できなかった」
 一定の深さまでクリューがコルクに埋まったのを確認して、フォルカーは髪を掻く。
 先日、クローシェが夜泣きで散々泣き喚いてた時に、この狼が少女に告げた一言が何だったのかフォルカーは知らない。だが自分が席を外した僅かな間に、彼が『いじわる』を言ったのだとクローシェは癇癪を起こしてしまった。
 こちらにファルクレイの態度を怒られても、一切の事情を知らないフォルカーとしては関わらぬよう努め、その夜は自分が寝かしつけたのだが。三日目ともなれば流石に放っておけないと、本を読んでやる代わりに色々と話を聞いたのだ。
「それで、あの子は何と?」
「相変わらずだ」
 髪を掻いていた手を下ろし、コルクスクリューに添えゆっくりと引いてゆく。
 ポン、と小気味のいい音でコルクが抜けたのは、ファルクレイに返した言葉の後だった。
「俺に話してくれた後も『意地悪なことばかり言うクーちゃんなんて大嫌い』の一点張りだ」
「そうですか」
 ファルクレイはそれだけを口にして、一旦はこちらを伺っていた顔を下ろした。組んだ前足の上に顔を載せ、再び器用に皿へと口をつける。
 何も言葉は続かないし、フォルカーに言葉を促す意思が無いのも分かると。フォルカーもそれ以上は何も言わない事にした。
 手を伸ばしたグラスにワインを注ぐ水音が、静かな部屋の中で妙にはっきりと耳へと届く。
 先日贈られたワインは、ワインの瓶にしては珍しく透明だった。瓶越しに見た液体の色も、今グラスに注いだ分も同じ黄金色を保ってる。
 それを眺めていると今頃になってふと──何処かで一度、特殊な葡萄からしか採れないワインがあるという話を過去に聞いた事を思い出した。
 話によると黄金色で味は驚く程甘く、葡萄を丸絞りした果汁でも及ばない程の甘さとのこと。滅多に出回らない高級品らしく、一度は飲んでみたいと思ったフォルカーの記憶も引き出される。
 薪の補充を止めて消えかけている暖炉の残り火に透かして、蜂蜜にも似た色の液体を暫く眺めていると──そのワインをフォルカーに与えた主から声が掛かった。

「その場凌ぎで吐く、気休めの嘘で事実が変わるわけではありません。将来必ずあの子が体験する事実を思えば、俺は嫌われようが現実を教えるだけです」
 見ると、こちらを静かに見据える狼と目が合った。彼が告げた言葉の意図を探ろうと何度か頭の中で反芻するも、適切な返しが見つからない。グラスに口を付け、暫く甘味を堪能した後で漸くフォルカーは口を開くことにした。
「……確かにそういう“優しさ”も時には必要だが」
「御主人様が甘すぎるのです、それに……」
「それに?」
「あの子が抱く望み通り『還る』ということは即ち──貴方も、俺も彼女の傍には居てやれない。となれば還った後、あの子に立ち塞がる難関があるならば。それはクローシェが一人で解決しなければならないということです」
「だったら尚更『人は必ず死ぬから』って言葉は余計なも……」
 はたと、言葉が止まる。それ以上は、何も口から出てこなかった。ファルクレイが彼女を突き放していた理由を思い出せば、自然と答えは導き出される。
 同じ世界にいれども、ファルクレイとクローシェはそれぞれが居た時間は違う事にフォルカーは薄々ながらも気付いていた。そしてファルクレイの時間の上では、彼がクローシェを見殺しにしたという事実も彼の言葉の節々から充分に拾える情報だった。
 事情を知らないフォルカーが、彼と過去とクローシェの未来に何があったのかなどは──聞く権利すら持ち合わせていない。
 告げるべき言葉を失い、黙っていたフォルカーだったが、先に口を開いたのは珍しく狼の方からだった。
「御主人様は、何か勘違いをしておられるようですが?」
「勘違い?」
 聞き返すと、白銀の毛並みを持つ魔獣は静かに頷く。
「あの子が本来いるべき世界に戻ったとしても、間も無く命を失うわけではありません」
 内心で描いていた事を正確に言い当てられ、フォルカーは絶句する他無い。
 これまでにも心を読まれているのか、という事が多々あったが。本当にこの魔獣は人の心を読む存在ではないのかと疑ってしまう程にまで、今のは的確な返答だった。
「単に御主人様の場合は、思っている事が顔に出ているだけです」
「かお……」
 再び言い当てられ、渋面が思わず浮かぶ。大きな目を細め「現に今も」と、狼に指摘された今でもフォルカーは何も返せなかった。
 もしかして、上手くはぐらかされたのか? と思うが。二人の間柄や、彼等の世界に関する事情は何一つ知らない相手に話せる内容では無いのかもしれないという考えが湧いた。
 勿論、フォルカーとしても根掘り葉掘りこれまでの半生を語れ、と言われると決していい気分にはならない。だからこそ自分は言える立場では無いし、それはそれでいいと結論が出て酒を口に含むことにした。

「ひとつ」
「ん?」
 声が掛けられたのは、それから大分経ってからだ。無言でガレットを齧って、ワインを飲んでいたフォルカーの手が止まる。
「ひとつ言う事を聞いてくださるのなら、お答えしても構いません」
「俺に何をしろと?」
「それを言ってしまうと、条件にはならないですよ。具体的にこちらの欲求を出せば、ひとという生き物はそれの価値を勝手に判断する」
 明らかに顔が歪むも、狼は淡々と理由をフォルカーに説明してみせた。
 こちらが構えたのは、過去に彼から手痛い返しを散々食らってきたからなのだが。どうやらそれも考慮した上での提案だったようだ。
「契約とは別で、何事にも見合う代償というものは必要かと」
「……こちらが、内容を聞かずに頷いたとして。それに見合うだけの事を話してくれるんだろうな?」
「勿論、お約束します」
「剣を首筋に当てられるのは、勘弁して欲しいが……」
 精一杯の軽口を叩いたつもりだったが、これまでに彼が自分に向けた仕打ちを思い返してしまう。自分でも何故こうして今も普通に付き合えるのか、分からない程の仕打ちを受けたが……それ以上があっては困ると思って出た言葉だった。
 フォルカーの言葉に対して、負けじとファルクレイも心外だとばかりに鼻を鳴らす。
「こちらも下手に隠す所為で、ろくに事情も知らない相手に首を突っ込まれる位なら。と考えを改めました」
 これまでに事情を話さず、距離を開けていたのにはそれなりの理由があったからなのだろう。フォルカーが彼の立場としても、触れて欲しく無い事情にしつこく触れる相手がいるならば、どうやっても距離を開けようとするかもしれない。
 それでもなお、夜中に泣く度に両親や親しい者の名を呼ぶ少女を放ってはおけないと思った。
 どうしても先の見えない手詰まりの状況において、関係の無い第三者に説明を話した場合、もしかしたら状況を打破する案が浮かぶ事も時にはある。ならば正直に、その可能性に賭けたいとも思った。

「さて、どうします?」
 確認を促すファルクレイの声色は、珍しく少し沈んだ色が伺える。
 本当ならば、彼もフォルカーには関わって欲しくは無いのだろう。そういう意図が顕著に見えていた。
 一筋縄ではいかない魔獣の性格は、これまでの付き合いで何となくは分かっている。ひとを突き放す態度は、保身でもありこちらの為を思っているものもある。それは分かっているのだが、やはりフォルカーの口から出る答えはひとつだけだった。

「分かった。何でも聞くから、最低限の話しでいいからそちらの事情を話して欲しい」
 彼のことだから予想はしていただろう。
 それでも──フォルカーの言葉に対して、盛大な溜息で答えられた。

(第21回:2013/2/9)

February 09 [Sat], 2013, 6:45

 パタパタと聞こえる軽快な音は、こちらへ走ってくる足音だと分かっていた。
 予想していた通り、それは徐々に近付いてくる。
 止まった時に自分を呼ぶ声が聞こえた後、フォルカーの腹辺りに軽い衝撃が訪れた。

「どうした?」
 読んでいた本から目を離し、視線を下げる。丁度腹──椅子に座っていたフォルカーに抱きついている少女の小さな頭が見えた。
 不意に飛び付かれても、大して驚きはしなくなった今だからこそ、身体にしがみつく小さな少女に向ける声も穏やかなものだ。
「クローシェ?」
 フォルカーが名を呼ぶも、返事は無い。
 こちらにしがみつく手に更に力が込もる感触を見る限り、聞こえていても返事をしないだけだと分かる。「おじさん」と、もう一度だけこちらを呼んだ声は小さく、辛うじて聞き取れる程度のものだった。
 以前ならば、クローシェわざわざが台所にいる自分を探して走ってくるという行動だけで戸惑っていたが、ここ最近ではよくある光景なのでさほど驚きはしない。ただ、彼女がこちらにやってきた理由を大体察すると溜息が出る。
 作っていたものが焼きあがるまでの隙潰しとして読んでいた本に、栞を挟んで閉じる。フォルカーはそれを椅子の背に挟んだ後で、クローシェの柔らかい癖毛を撫でた。
「やっぱり……怖いか?」
 尋ねた言葉に対しての答えは、無言の頷きで返される。フォルカーが想像していた通りの反応と、廊下からこちらを伺っている気配で大体の事情は飲み込めた。
 クローシェを抱き上げて、片膝に乗せるが今度は首筋に腕を回されて抱きつかれる。それが嬉しくもあり、少々複雑な気分にもなるが、今は話し掛ける相手が別にいる。フォルカーは顔を上げて、台所の入口に立っている相手に対して声を掛けた。
「……だそうですが」
 問い掛けに対しての反応は、すぐにあった。
 徹底的に気配を消せる術を持っているだろうにも関わらず、顔だけを出してこちらを伺っていた男の口から呻き声が漏れる。フォルカーとさほど身長が変わらない、大きな男が気まずそうな表情を浮かべて、こちらに歩み寄ってきた。

「怖がらせるつもりは、無かった」
「で、ヴィンさん。今日は一体何を?」
「本を読んでたら分からない字があるっておチビちゃんが言ってたから、教えようかと思ったら……」
「ああ……成る程」
 明らかに声の調子が沈んでいる、ヴィンセントを前に苦笑が漏れる。
 先日こちらの家へと越してきたヴィンセントは、背丈もフォルカーと変わらない大柄な中年男性だ。幾ら怖がらせる気が無い、と言い張ったところで、子供に怖がられる事実は覆らない。
 だがそれは、クローシェに抱きつかれているフォルカーにも言える事だ。背丈もさることながら、客観的に自分の顔を眺めても子供に好かれる人相とは思えない。
 大人を相手に前職が修道司祭であったと告げたとしても、到底信じてもらえないだろう。
 ヴィンセントもフォルカーも、違和感を抱かれる事無く納得して貰える職業を挙げるとするならば──精々が、傭兵か何処の街にでもいる程度の低い連中か。それ以外ならば、今の時点で生業としている冒険者辺りだろう。
 自分とヴィンセントを比べて、一体何故こうもクローシェの反応が違うのか逆に不思議で仕方が無い程だ。
 フォルカーの場合は、精霊協会に親子として間違えられて引き合わされた時にもクローシェはすんなりとこちらの存在を受け入れてくれた。
 彼女と、彼女に連れ添っていた狼曰く、自分は彼女の祖父に非常に良く似ているから。との指摘を後に受けたが、それでも極端に彼女の反応が変わると知ったのはつい最近の事である。

「一緒の家に住んでるんだから、もう少し慣れないと……嫌か?」
 今までにも何度か訪ねてきた問い掛けを、再度告げてみる。
 クローシェから返ってきた反応は、抱きついたまま首を横に振られる拒否だけだった。首筋をくすぐられる髪の感触を感じながらも、フォルカーは考えを巡らせる。
 ヴィンセントが子供好きというのは、こちらに越す話を自分で振った時に聞いてたので知っていたし、自分は大丈夫だったからそのうち慣れるだろう。と思っていたのが甘かった。
 今のクローシェの様子を見る限り、当分の間はヴィンセントと打ち解ける事は難しい。椅子に座った姿勢で目を上げると、明らかに困惑した表情を浮かべた赤毛の男と目が合った。
 互いに言葉を発しなくとも、大体は互いに何を訴えたいのかを把握する。
 フォルカーに抱きついて黙り込んでいる少女と比べ、何倍もの時間を生きている二人が気まずい表情を浮かべて黙る沈黙は、苦痛でしかない。
 そんな重たい空気を打ち破ったのは、明るい口調の声だった。

「ヴィンさんは、顔が怖いから仕方無いよね」
 クローシェと、フォルカーと、ヴィンセントと。
 その三人のうち誰のものでもない声は、ヴィンセントの後ろから顔だけを出した青年のものだった。さらりとした山吹色の髪が揺れたかと思うと、彼は素早くヴィンセントの腰に抱きついた。
「おい、アンバーお前……」
「ね? フォルカーさんだって、クローシェちゃんだってそう思うでしょ?」
 不意に抱きつかれて慌てるヴィンセントをよそに、アンバーと呼ばれた青年はフォルカーの方に顔を向ける。こちらを見つめる琥珀色の大きな瞳は悪戯っぽく輝いており、片眼鏡が似合う全体の雰囲気とは釣り合っていない。
 だがヴィンセントと一緒に越してきた、アンバーが元々は火狐という存在であることを考えれば、最初の頃に抱いていたこの違和感も納得できるようになっていた。
「はいはい、クローシェちゃん。お兄さんが怖いおじさんをあっちに追い出すからね、こっちを向いてくれないかな?」
 アンバーが冗談か本当かも分からない言葉を混じえてクローシェを呼ぶと、頑なに動かなかったクローシェもようやく顔を上げた。
 彼は家に来てから日が浅いが、クローシェと遊んでいる事が多い。他にもフォルカーに代わり、大体の家事もこなしてくれている。自分が仕事に行ってる時や、疲れて寝る事が多くなっていた今ではとても有難い存在で大分助けられていた。
 恐らく今の状況もクローシェとアンバーのやり取りを見て、悟ってこちらに来てくれたのだろう。フォルカーは心の中で、顔を上げたクローシェの頭を撫でる火狐の青年に礼を述べた。

「そういえば、フォルカーさん」
 クローシェが安心するまで語り掛けていたアンバーだったが、ふいに顔をあげてこちらに声を掛けた。まさか自分に話を振られるとは思っていなかったので、フォルカーも驚いてアンバーの方へ目を向ける。
「こんな時間に何を作ってるんですか?」
 アンバーが指差した先にあるのはオーブンだった。先程入れたばかりなので、まだ焼ける匂いも漂っていない。元々鼻が利くだろうから、匂いが分からないと気になるのだろう。
 納得した後に、フォルカーも答える事にした。
「ケーク・サレをな」
「お酒? それとも夜食の方で?」
「両方だな。最近余り体調が良くて飲んでなかったし、付き合ってくれる人もいるしな」
「ふーん……」
 何か思うところがあったのか、アンバーはヴィンセントとこちらを何度か見比べる。
「さっき焼き始めたばかり?」
「ああ」
「じゃあ、俺が見ておきますよ。フォルカーさんは、クローシェちゃんの傍にいてあげてください。どうせ本読んでたんでしょ?」
 どうやら考えていた事は、焼き上がるまでに掛かる時間と今の状況に関しての事だったらしい。にっこりとこちらを見て笑うアンバーを前に、器量の良さに思わず苦笑が浮かんでいた。
 「ね? クローシェちゃんもその方がいいよね?」
 口と行動で、毎回上手く切り抜けるものだと感心を覚えながらも礼を述べる。そのままフォルカーは背に回していた本を脇に挟み、立ち上がった。
 クローシェは片腕で抱いて台所を出る際、こちらが出れるように場所を開けるヴィンセントと目が合い、目だけで謝罪を訴える。
 すれ違う際に、大柄な彼は相変わらず肩を落として落ち込んでいる様子が伺えた。
 今は言葉に上手く出せないが──後で焼きあがった肴で酒を飲む時に、色々話したほうがいいな。と思いながらも、フォルカーは居間へと足を進めることにした。



 クローシェが興味を持った本は、それが何であれ大体のものは手渡すようにしていた。文字の勉強も兼ね、子供にとっては難しいものでも飽きるまで本人の力で読ませる事にしている。
 今読んでいるのは、さほど難しいものではない。子供向けの話なので、クローシェが時々こちらの腕を掴み訪ねて来る時に、フォルカーが意味や読みを答えるだけだ。
 それ以外だとクローシェは──居間で寝そべる狼に凭れたフォルカーに背を預け、脚の間に収まって大人しく選んだ本を読んでいた。

 柱時計の振子が時を刻む音と、暖炉に焼べた薪がたまに爆ぜる音。
 それ以外の音は、ゆっくりとした狼の寝息と、速い間隔でフォルカーが本のページをめくってゆく微かな音程度なので随分と静かなものであった。
 暫くは本に集中していたが、ふと腕を掴まれる感触が訪れフォルカーは文字を追っていた目を止めた。椅子代わりにこちらに背を預けているクローシェの方を見る。
 最初のうちは質問があるのかと思っていたが、質問があるときは呼んでくるので違うものだと気付く。成人男性のものとしても、随分と太いフォルカーの腕を服越しに触っていたクローシェだったが、次第にその手は本を持つ手の方へと向かう。
 両手で本を持っていたので片手に持ち替えると、クローシェは遠慮無く手を握ってきた。少し高い体温は、そろそろ就寝の時間で眠気からくるものなのだろう。普段ならば簡単に察する事が出来たものだったが。彼女の方から言ってこない以上は、さほど気には掛けなかった。
 手を握っていても別に構って欲しいわけでは無いのだろう、自分に相手して欲しければクローシェは声を掛けてくれる。そう思って好きに手を握らせ、フォルカーは片手で器用に本を読む作業を再開した。

「ご主人様」
 低く穏やかな声が耳に入り、背中伝いに僅かな揺れを感じる。それは自分が身体を預けていた狼のものだった。
 もう少しで読み終わる本に目を落としたまま、フォルカーは返事をする。
「……ん?」
「そろそろ、お休みになられては?」
「そうだな」
「クローシェも眠っていますし」
「そうだな」
「……ちゃんと聞けよ、このコミュ障ヤクザ」
 どうせならば区切りがいいところまで読んでしまおうと、本の方に意識を集中させて生返事を繰り返していたのに気付かれたようだ。
 時々この魔獣はフォルカーには理解出来無い単語を口走る時があるが、流石に今の言葉は良くない類のものを言われたと気付く。文字を追っていた目を止めて顔を上げると、こちらを覗き込んでいる大きな相手と目が合った。
「……意味が分からんが、悪口を言っている事位は俺にも理解出来るぞ」
「今のは悪口ではありませんよ。そもそも、俺の言葉に生返事で返す貴方が悪いのです」
 しれっとした口調で返され、反論の言葉は何も思い浮かばない。相手は満足したのか、鼻を一つ鳴らして答えた。
 そこでふとフォルカーは、自分に凭れていたクローシェが何も言わない事に疑問を持つ。ずっと手には彼女の体温と、握られている感触があったので起きているとばかり思っていたが……視線を下ろした先の彼女は、すやすやと寝息を立てていた。
 慌てて壁に掛けられた時計に目を向けるが、クッション代わりにしている魔獣の言うとおり。普段ならばクローシェはとっくに寝室へと入っている時間となっている。それに併せて、先程アンバーに任せたケーク・サレの存在も忘れていた事に気付いた。

 立ち上がろうと本を閉じるも、直後に眠っているクローシェが自分の手を握っている事を思い出して踏み留まる。何とかして彼女の手を離せないか思案するも、そっとこちらが手を動かして離そうとしても強く握られる事を知って早くも諦めた。
「今日は諦めて、眠っては如何です?」
 最後のとどめとばかりに狼が告げるが、心無しかその口調は弾んでいるようにも思える。
「毛布は妖精に取りに行かせましょう。ほら、これで何の問題も無い。迷惑な酒盛りも行われなければ、俺も貴方もこの子も今日はゆっくりと休めます。焼かれていた菓子は、あの二人に食べて貰えれば大丈夫でしょう。いずれにせよ俺には食えないものですから、関係ありませんし」
 易々と自分の思考を読まれていた事と、今の状況を面白がっていることは明確なので腹が立つが、それに関してフォルカーが何も言い返せないのも、彼は既に見抜いているのだろう。
 降参とばかりに本を床に置き、フォルカーが溜息を吐いてみせると、嬉しそうに目を細めて毛並みの良い尻尾が床を叩いた。
「……お前、本当に性格が悪いよな」
「きっと気の所為ですよ、ご主人様」
 唯一言い返せたと思った言葉でさえ、簡単に封じ込められ閉口せざるを得ない。今度こそ負けを認めたとばかりに、フォルカーは弾力のある狼の腹へと深く身を沈めた。
 手を握ったまま寝息を立てているクローシェを、冷えないようにと自分の元へさらに引き寄せ片腕で抱き締めてやる。
 クローシェの身体は小さく、自分が一体どの程度の力で抱き締めればいいのかは分からない。
 強く抱き締めてやりたい気もするが、それは自分の役目では無いのだろう。今の彼女を見る限り一時でもその役割を担うべきでは──と思う気持ちもある為、更に躊躇が生まれてしまう。

 以前とは違って、多少はクローシェを抱く腕に力を篭めることが出来る様になった。
 だけどもそれは、自分が払った犠牲に見合うものか否か。
 それは幾ら考えても、今のフォルカーには見出せない答えだった。

(第20回:2013/2/2)

February 02 [Sat], 2013, 2:17
 時間の流れというものを遅く感じたのは、いつ以来だろうか。
 じっくりと考えなければ思い起こせない程に、久しい気がする。
 そんな事をふと考えたのは──読み終わったばかりの本を閉じた後だった。

 読んだ本の内容を思い返す前に、本当に自分がこんな時間の過ごし方をしても良いのだろうか? と、フォルカーは考えてしまう。
 目が覚めたのも陽が昇った後だったし、普段なら行っていた用事も全て同居人達に取り上げられていた。こうなったら時間を潰せる手段は、読書か睡眠しか残されていない。
 睡眠の方は数日の間に散々眠っていた為、残された選択肢は読書だけだ。
 読み終えた本をサイドテーブルの上に置く。ベッド側に引き寄せていたテーブルの上には、これまでに読み終えた本が積まれている。買い物ついでにたまに寄る古本屋で、読む暇すら無いのに買い溜めていた本を片付ける良い機会だ。そう思ったのは最初の一冊目を片付ける前だけで、今となってはいい加減飽きが訪れていた。
 積まれた本の横に置かれた水差しからカップに水を注ぎ、それを飲む。熱が下がった今では、冷たい水に混ぜている檸檬と蜂蜜の味も感じる事ができた。
 一息ついたところで、何の気無しに部屋を見渡す。
 冒険者という肩書きを貰い、此処で生活を行うようになってから早数ヶ月が経つ。にも関わらず、置いてある荷物は必要最低限の物ばかりなのは、何処で生活しようが結局は一緒なのだろう。
 カップを戻すついでにまだ手を付けていなかった本を手に取り、これも読むべきか暫し思案する。やはり片付けてしまおう、という結果が出て表紙に指を乗せた時だった。
 階下から聞こえてきた微かな声に、フォルカーの指が止まる。
 先程までは本の方に集中していて気付かなかったが、よくよく聞けば時折楽しそうな子供の笑い声だ。高めの声は、普段なら常に傍で聞いていた筈のものだが、久々に聞いた気もする。
 二階の部屋にいても分かるクローシェの声を聞いているうちに、気付けばあれこれと手軽に作れる菓子を思案している自分がいて苦笑する他無い。
 ずっと続いていた微熱と体調不良も、幸い依頼が片付いた後に高熱が出て落ち着いたようだ。戻りの出来事から昨日の朝までの記憶が殆ど無い事もあり、階下からの声が酷く懐かしく思える。
 今なら、多少動いても大丈夫だろう。それに幾ら止められていても、何時までも今の状態だと気が引ける。動ける様になった今なら、多少は動いて身体の様子も確かめたい。
 自分に言い聞かせる十分な理由を見繕って、フォルカーは手に持った本を再度テーブルに戻した。


「おじさん、起きても大丈夫なの?」
 フォルカーが居間の扉を開けて顔を覗かせるなり、走り寄った少女はそう告げた。小さな身体でめいいっぱい抱きつかれ困惑するも、嬉しくも感じる。
「心配掛けたな……もう大丈夫だ」
「本当?」
「ああ、腹が減ったので降りてきた」
 髪を撫でながら、自分の腰程までしかない少女に話し掛ける。視線を移すと、居間の中央──暖炉に当たる位置で寝そべっている白銀の毛並みを持つ狼と目が合った。
 物言わずこちらを見つめる相手に対し、介抱してくれた礼と自分が倒れている間の事を聞きたいと思うが、今は黙っておくことにした。こちらを見上げるクローシェに笑い掛ける方を優先させる。
「軽く何か作ろうと思ったんだが、おやつは何か食ったか?」
「まだ食べてない」
「そうか、じゃあ甘いものでも作ってこよう」
「わたしもお手伝いしようか?」
「いや、ゆっくりしとくといい」
 余り凝ったものを作る気は無かったので、手伝って貰う事が無いと思い断りを入れる。フォルカーが断ると思わなかったのか、少女は少しつまらなさそうな表情を浮かべた。
 しまった、と返す言葉を必死に考えていたが、穏やかな声に救われる。
「クローシェ」
 座ったままの姿勢で、狼が少女の名を呼んだ。
「俺と夕飯の買い物に行って、少し動いてはどうだろうか? 食べれるように動くのも、手伝いの一つだと思うがね」
 少女に掛けられる狼の声は随分とゆったりしたもので、これまでに聞いていた口調と比べると僅かながら違和感を覚える。ただその違和感の正体は今ひとつ把握できなかったが、抱きついていた少女が離れる感触で我に返った。
「今日も夕飯は俺が作りますが、何か買ってくるものはありますか?」
 娘が傍に戻ってきた後に、すくっと前足を立てた巨躯がフォルカーに問い掛ける。その口調もやはり柔らかなもので、返答を促されるまで眺めていた。
「特には……」
 曖昧な返答に、狼は一つ大きく頷くとこちらを見て目を細める。
「分かりました」
 返ってきた一言は同じ声にも関わらず、先程とは違う響きで耳に入った。狼の姿から人型へと変化した青年は、フォルカーを見つめてもう一度頷く。後はこちらを見る事無く。傍の少女に対して二三言、出掛ける場所についての会話を行うだけだった。


 ファルクレイに対して抱く“違和感”は確かなものなのだが、その正体が一体何であるかは分からない。台所に立って使える材料を確認している最中にまで、フォルカーはあれこれ考えを巡らせていたが結局答えは出なかった。
 適当に取ってきた卵を割り、卵黄だけを取り出しボウルに移す。五つ程その作業を行った後は、ボウルに別の卵を選り分ける事無く落とした。檸檬の皮を擦りおろし、小麦粉を計ってふるう作業は既に終えている。
 久々に立つ台所は、居間や居室と異なり若干冷える。だが、下ごしらえを行いオーブンの予熱を入れている間に薄れていった。
 椅子に腰掛ける事も考えたが、どうせこれ以外の用事は今日はすることが無い。ボウルに湯煎を施し砂糖を加えてかき混ぜ始める。
 修道院に入ってから色々と本を見て作ってみたいものがあれば、可能な範囲で菓子を作るようになってから気付いた事が一つある。菓子を作る過程で、体力を使うという事だ。
 今もなるべく凝らないものを作ろうと思っていたが、卵と砂糖を混ぜる作業でさえ、結構な時間腕を使い続けなければならない。
 菓子を作り始めた最初のうちは、それこそ写本程度にしか腕を動かさなかった生活を送っていた為に苦戦した。今となっては腕を動かし続けてもさして疲れは感じないが、前腕に随分と筋肉が付いた気がする。そんな事を思いながら掻き混ぜていたが、泡立てる感触が変わったところでフォルカーは手を止めた。
 一旦ボウルを置き、小麦粉と檸檬の皮をその中に入れ、今度は木製のベラで混ぜる。小麦粉が綺麗に混ざったのを確認すると、あらかじめ用意していた丸いケーキ型に流し込んだ。
 予熱を確かめオーブンの中に型を入れた後に、額が僅かに汗ばんでいることに気付く。
 後は様子を二度程焼き加減を伺うだけなので、先に使った道具を洗う。普段ならば感覚を奪うだけの水も、まだ微熱が残る所為か妙に気持ち良く感じた。
 一通り片付けも済ませたところで、漸く傍に置いてあった椅子に腰掛ける。焼き上がるまでにはそう時間が掛かるわけでは無いが、決して短いわけでも無い。
 正確に時間を計らなくとも、大体の焼き加減は匂いを嗅げば気付く。恐らく風邪で鼻が鈍っている居間でも大丈夫だろう。
 何をするわけでも無く、キッチンの出窓に目を向けた。
 好きな時に起きては読書に耽り、思い立てば好きな菓子を焼いて時間を潰す。
 ──成る程、こういう過ごし方も悪くは無い。
 久々に自分の元へと訪れた友の為にと、暇を捻出して菓子を焼いていた頃。似た様な事を考えたことがある。
 オーブン前を占拠して、他の修道士に呆れられたりした過去をフォルカーが懐かしんでいると、無遠慮に廊下を走る音が耳に入った。
 誰だか知らないが、随分と慌てている。蛇達は足音など立てる筈も無いし、クローシェとファルクレイの可能性も無い。
 ならば自分が声を掛けて先日越してきた、二人のうちどちらだろうか。
 そんな推測を立てていると、台所の入口に掛けられているカーテンから飛び出した小さな影が目に映った。

「美味そうな匂いだな!」
 明るい声の主が告げた第一声がそれだった。続いて慌てて付け足すように「旦那、もう起きてていいのか?」という、こちらを気遣う言葉に苦笑が浮かぶ。
「カラバ……お前本当に鼻がいいな」
 人間のフォルカーが意識してやっと、微かに菓子が焼ける良い匂いに気付く程度だ。何処にいたかは分からないが、現時点の段階でこちらにやってきた相手に対して呆れながらも声を掛ける。
 椅子に腰掛けているフォルカーよりも、さらに小さい猫の剣士は「おう」と嬉しそうに耳をピンと立てた。
「何作ってんだ? ケーキか? ケーキなら俺も好きだぞ!」
「確かにケーキなんだが……」
 こちらが起きて動いている以上、大事は無いと判断してくれたのは素直に有難い。焼き加減を見る為に立ち上がった。オーブンから取り出して焼き加減を見た後に、言葉を続ける。
「“パンデロー”ってやつだ、ケーキと違って半熟で仕上げて食うんだ」
「生焼けでも美味いのか?」
「……まあ美味いと思ったから、考えた奴は半熟にしたんだろうよ」
 表面が焼けている事を確認して、再びオーブンへと戻す。カラバに向き直るが、やはり猫の剣士は小さいので随分と視線を下げねばならない。
「お前も食うか?」
 確認を含めて尋ねると、カラバは勢い良く頷いた。
「旦那の作るモンはみんな美味いからな!」
「そうか? そう言ってくれれば、作り甲斐があるな」
「おう!」
 もう一度、普段は丸めている背筋を伸ばしてカラバは笑った。子供と大して変わらない、小柄な彼を前に「そういえば……」とフォルカーは言葉を続ける。
「迷惑掛けちまって、色々と済まなかったな」
 思えばこうして、面と向かってカラバと話す機会は余り無かったかもしれない。
 何かを作っている時に彼が匂いを嗅ぎつけて訪れる事は、今まで何度かあったが大抵傍にはクローシェがいた。考える程のことではないが、意識すれば不思議な感じもする。
 一方のカラバは、フォルカーの言葉を前に暫く考える素振りを見せた。
「だって旦那、年末もデカい旦那の看病もしてたろ? それに色々あったしな。仕方無いって! ただですら旦那は毎日苦労してんだからよ、あんまり気にしてるとハゲちまうぞ?」
「……昔、全く同じことを言われた事があるんだが。俺はそんなに髪が抜ける様に見えるのか?」
「おう。旦那、昔から苦労してたんだな」
 返ってくる言葉は軽く聞こえるが、実際彼が色々と気遣ってくれていたのは知っていた。懐かしさを覚える言葉の応酬を行った後、フォルカーはもう一度礼を述べる。カラバは真っ直ぐに伸びた髭を整え、軽く笑い飛ばしてくれた。
「パ……それ、まだ出来上がるのに時間かかるのか?」
「“パンデロー”な。もう少しかかると思うが、出来上がっても買い物に行ってる二人が帰ってきてからだな」
 先に家を出た二人が帰ってくるよりも先に、こちらの焼き上がりの方が早いだろう。そう見通しを立てて伝えると、カラバは素直に了承してくれた。
「分かった、じゃあまた修行してくる!」
「……元気だな」
 昼間とはいえ、寒空の下で修行に励む猫を前に素直な感想を漏らしていた。──同時に、一心不乱とはいえ将来を見据える同居人を素直に羨ましいと思ってしまう。

 もう少し、また別の機会に今日みたいな時間が設けられたら。
 自分に対する思いを見つめ直してみたら、ずっと求めていた答えが分かるかもしれない。
 次第に嗅覚を刺激する甘い匂いが強くなる中、フォルカーがそんな事を考えているうちに──目の前に居た筈の、小柄な剣士の姿は既に見えなくなっていた。

(第19回:2013/1/26)

January 26 [Sat], 2013, 4:44
 短調な動きで延々と、ゆっくり身体を揺すられていると眠気を覚えるのは仕方が無い。それも、自分が疲れている状態で腕の中に温もりがあれば尚更だった。

 怒った様な、だけども困った風にも取れる声が聞こえていたのは、いつからだろう。声と首周りを引っ張られる軽い感触で、フォルカーは自分が眠っていた事に気付いた。
 目を開けると最初に見えたのが、金色の髪とこちらに伸ばされた小さな手。顔を上げて背中を預けていた片翼と、周りの景色を暫く眺めた後に今の状況を把握した。それでも何故自分が抱いて眠っていた少女が、こちらの首元に手を伸ばしているのかまでは分からない。大きく首元を引っ張られ、そこで漸く少女が何に対して愚痴を漏らしているのかに気付いた。
「強く引っ張ると、余計に絡まってしまうぞ」
 こちらに伸ばしていたクローシェの手に触れ、言い聞かせようと出した声は掠れていた。結構な時間眠っていたのかと驚いていると、こちらの首元から視線を動かさなかったクローシェが顔を上げた。
「起こしちゃった? ごめんね」
 申し訳無さそうに目を伏せる少女に、首を振って返してやる。続いて首の後ろへと手を回し、身につけていた鎖を外した。そこに通していた銀の指輪を失くさないよう、口に咥えるとクローシェの髪が絡まっている箇所を見る。
 癖毛で常日頃から髪を結ってやっていたが、それでも移動中に抱いて眠っていたからだろう。フォルカーが目覚めるまで引っ張っていた所為もあり、簡単に外れるものでは無いと判断して指輪をポケットへと突っ込んだ。
「切るしか無いな、これは……」
 何度か絡んだ髪が解けないか試みたが、幾らフォルカーが器用だといってもこればかりは無理だと悟って溜息を吐く。絡まった箇所はそれほど多くは無いが、幼い子供と言えども女性の髪を切る事には抵抗を覚えた。伺いも兼ねてクローシェに尋ねると、彼女の顔が曇る。
「前も言ったろ、こうなったら取れなくなるから引っ張るんじゃないって」
「……ごめんなさい」
「すまない、早く鎖を替えておけばよかったな」
 旅装だったことも幸いして、腿に固定していたポーチの中から小型のナイフを取り出す。
「よし、もう動いていいぞ」
 慎重に細い髪を切った後に、フォルカーはゆっくりと息を吐く。髪を切る様子を息を止めて必死に眺めていたのか、クローシェも同時に大きく息を吐いた。
「大切な指輪だったら指につけたらいいのに」
 クローシェの髪が絡まるのは、初めてなわけでは無く。何度かこういう事があった為に漏らしたものだろうが、一方のフォルカーは返答に困る。
 素直に答えたところで幼いクローシェには到底理解出来無いだろうし、何より今は人目がある。それも同行者は前回同様、森にまだ不死者が居るという報告を受けて依頼を寄越してきた例の女だ。なので噛み砕いて説明してやることも何も出来ず、言葉に詰まっているとクローシェの方が追求を諦めてくれたようだ。彼女なりに触れてはいけない話題だと悟ってくれたのか、思いの他子供という生き物は賢いものだと安堵と共に感心を覚えた。
 ナイフをポーチに戻した後は、再び指輪を取り出し鎖に通し首へと掛け直す。久し振りに眺めるが何の変哲も無い、細工すら施されていない指輪だった。
 子供の頃から自分が『先生』と呼んでいた相手に貰って以来ずっと身につけているものだが、これだけは指に嵌める事が出来無い。戻る気などは微塵も無いが、全てを断ち切ってしまうには抵抗があった。本当ならば何で未だに手放せないのか、理由は分かっているのだが……考えようとすればする程、自分を許せなくなる。
 ぼんやりとした頭で思考を巡らせていると、余り良い事は思いつかない。眠気の所為だけでなく、数日に渡って続く熱と精神的な疲れも相成っての事だった。
 熟考しなければならない事は他にある、今はそちらを考える方が先決だと思った時だった。
 クローシェが服を引っ張り、フォルカーを呼ぶ。
「おくちあけて」
 腕の中に大人しく収まっていた少女が、振り返ってこちらを見上げていた。意味も分からず言われるままに口を開くと、何やら小さな塊を口の中に放り込まれる。
「疲れた時は、甘いものが一番なのよ」
 そう言った後に、手にしていたもう一つの塊を小さな口に入れて彼女は笑ってみせた。口の中に広がる砂糖の甘さと、ざらついた食感。ほんのりと後からくるバターの味で、何を食べさせたのかを把握する。
 自分が出発前に作ったバターファッジを味わいながら、苦笑を浮かべてクローシェの頭を撫でた。褒められた事が分かった少女は、再び笑顔を浮かべてこちらに背を預けてきた。
 今度は鎖に髪が絡むこと無い様、喉元までコートのボタンを止める。身体に熱が篭っている事は自分でも分かっていたが、肌が晒される箇所が減ればその分暑くなるのは仕方が無い。
 熱があることは誰にも言っていないので、今は悟られないように平常を装うので手一杯だ。つい眠ってしまったのは、単に乗り心地がいい相手の上で移動していたからだと、周りは思ってくれているだろう。
 暫く何も喋らず黙っていたが、不意に頭の中で過去に告げられた言葉が響く。それは、今自分が乗っている──魔獣がひとの形を模っている時に告げた一言だった。

「貴方は俺を助けたいんじゃない。俺が死んだらあの子が悲しむから。あの子が帰れないからでしょう? 本当のところ、俺の命などはどうでもいいと思っている」
 助けたいと思っていた相手に、治療が終わった後で言い放たれたのは──手痛い言葉と、怒りを含んだ視線と、荒々しい態度だった。
 治療を施したフォルカー自身、相手の意識が戻ったならば何をされてもいいと思っていた。だが、思い返せば良く殺されなかったものだと不思議で仕方が無い。それでも怒りに任せてこちらへと向けてきた暴力に対し、顔や腕程度は治療しなければ支障が出る程の怪我は負っていた。
 敢えて自分が選択した上で覚悟を決めていた為、自分に治癒を施すのには抵抗を覚えたが、放っておけば回復に何日費やすか分からない。
 幾つもの罵りと痛みを受けてもまだ耐えれたが、思い起こす度に先の言葉だけは胸を抉られる様な感触に襲われた。
 かの魔獣は何度か吐き捨てるように、名と契約の旨を口にしたフォルカーに対し口走った言葉を取り消すよう求めてきた。だが意識を失うまで耐えていたら、一旦は諦めてくれたらしい。意識を失う直前に、冷たい目をこちらに向けていたことだけは覚えている。何かを言っていた気もするが、そこまで覚えているような余力など残されていなかった。

「俺達は、契約者にみっつ願いのやり取りを求めます」
 先の出来事と併せて思い出される次の言葉は、これもまた彼のものだ。
 別の日に、ふと世間話でもするかの様に彼はフォルカーに話し掛けてきた。獣の姿を模った穏やかな口調とは裏腹に、それはずっとフォルカーが望んでいた『契約』に関するものであった。
 彼が話した事は要点だけ抜粋すれば、至って簡単なもの。『契約と使役に至るには、願いのやり取りが求められる』という事だ。補足すれば契約の判断を取り決める為に、必ず一つは願いを告げる事。
「一番重要であるのは、一番初めの願いです。それを以て俺達は主人の下につくことを決める」
 と、確かに彼はそう告げた。
 フォルカーが本名を名乗り契約を申し出た以上、説明を拒否する権利は無い。散々取り消しを求めてきたのは、恐らくこれらの理由を告げねばならなかった為なのだろう。それでも契約の意思を取り消さなかった事が余程気に食わなかったのか、余計な一言を最後に付けてきた。
「だからよぅく考えて、納得の行く願いをしてください。尤も、貴方に出来るとは思っていませんが」
 告げた契約の内容は、彼自身が望んだものでは無いという旨と──明らかな軽視が混じった挑発じみたものだ。
 彼は自分自身の存在価値が未だ分かっていないフォルカーに『自身の願いを告げる』という行為が難しい事だと解って告げたのか。若しくは単に何を告げても、反対する気なのか。どちらかは分からないが、両方である可能性もある。
 魔力が尽き倒れたファルクレイの治療を施した後、四日程で彼は問題無く動ける状態にまで回復した。その間魔力を提供したのはフォルカーだったが、契約も行っていない状態で与えた反動と疲労が今になって身体に出ているのが、続く熱や時折襲う眩暈かもしれない。
 シュヴァルツヴァルトに忘れ物をしたから、というファルクレイの言葉とクリスティーナの再度依頼が重なって森に向かったのが、ファルクレイが回復した三日後の今日だ。
 契約の詳細を聞かされてから数日間、フォルカーはひたすら考えてはその度思考を止めるの繰り返しを行ってきた。何日も掛けて考え続けるモノの答えは、幾ら熟考しても一つしか思い浮かばない。他の選択が無いか思案するも、やはり何日掛けても思い付かなかった。

 纏まることの無い思考に巻き付かれ、軽く眩暈を覚えたのでフォルカーは考える事を中断する。ふと目を下ろすと、黙ってこちらをじっと見上げているクローシェと目が合った。誤魔化す言葉も見つからず、黙っていると眠いのと勘違いされたのか。「まだ寝ていてもいいよ」と言ってくれた。
 素直に礼を述べた後に、フォルカーは背を再度ファルクレイの片翼に預け目を閉じる。獣の姿でも人語を話す事が出来る狼は、今回家を出てから一切言葉を口にしていない。
 こちらに背を預けるクローシェの小さな重みと、温もりを感じるうちに眠気はすぐに訪れた。

 落ちてゆく意識の中で、最後にひとつだけ──背を預けた狼の姿で語りかけられた言葉を思い出す。
 「父親の振りも上手くなりましたね」
 数日前、大きな獣が何の気無しに放った言葉に悪意などは無かったのだろう。だがフォルカーにとっては自己否定以上に抉られる一言だった。
 返す文句が何一つ見つからなかったのは、微塵も思っていなかった事をさも当然の様に言われた所為。クローシェの世話を見るようになってから、彼女の父親代理をしようなど指摘された後でも思わなかった。彼女にとって父親という存在はたった一人なのだから、その代わりなど自分が演じれる筈も無ければ、なれるとも思わない。
 単にフォルカーが彼女を気に掛けていたのは──片手で収まる程度の歳で独りきりになるという事の不安や、悲しみを自分が人一倍知っていたからだ。だからこそ、自分の努力で少しでも寂しさや不安を取り除けたらいい程度で面倒を見てきただけである。

 何度かここ一週間ばかりの出来事を、延々と振り返っても導き出されるのは一つだけ。
 今まで生きた三十余年、自分の為に動いてきた事はただの一度も無いという事だった。
 将来を約束されていた筈の教区を飛び出したのも、死に際に友人が自分を気遣ってくれた言葉に従っただけで、それが自分の意思だったのかどうかは分からない。今こうして不思議な縁で冒険者という職についているが、その前に居た場所だって強引に滞在を求められていただけで、自分の意思でいたとは断言出来なかった。

 自分の求めているものが分からないから、自分の為に思う願いもある筈が無い。
 唯一、自分の為と強引にこじつける願いとて、結局は自分の願いなのかは決めかねる。
 だが──やはり自分にとってそれが叶えば、一番望む形になるには変わりないのだ。
 徐々に沈む意識の中で、フォルカーが考える事は二つ。
 何度考えても変わる事の無い、身勝手な自分の願いをファルクレイに告げる機会と……契約の条件としてそれを口にしたら、呆れられるか怒られるかの不安であった。

(第18回:2013/1/19)

January 19 [Sat], 2013, 0:42
 無抵抗な相手の四肢を拘束する事に抵抗は無いか? と聞かれれば、迷わず首を横に振るだろう。
 だけども、自分がこれから行なおうとしていることは──例え望まなくとも、相手を苦しめ痛みを与える行為だ。意識が無い相手の四肢を縄で縛る行為は、相手にとっても自分にとっても事前の対策として仕方が無い。必死にフォルカーは自身に言い聞かせ、幾つめかになる縄の結び目をきつく結んだ。

 刃物でも使わない限りは決して解けない様、出来る限りの力を込めて結わえたつもりだが……本来、診療が目的では無いベッドだと不安は残る。
 不安を考えれば、これから行なう事に関しても躊躇が生まれてしまう。フォルカーは荒れた呼吸を整え、頬から落ちる汗を服の袖で乱暴に拭った。
 ベッドへ横たわるファルクレイに視線を降ろし、無意識のうちに出た謝罪の言葉は──今日という長い一日で、何度呟いたかもわからない。
 呟いている言葉の意味ですら朦朧として分からなくなってきたが、まだやるべき事は残されている。身体は疲労で言う事を聞いてくれないが、それでも無理矢理に腕を伸ばして脇に置いてある縄の束に手を伸ばした。
 酷使している腕が震えるも、最後の縄束を手にするとフォルカーは横たわって全く動かない相手の胸元をじっと眺める。酷く焼け爛れた皮膚を見るのは今だ慣れない。微かに上下する胸を確認して落ち着いた容態を確認すると、膝をベッドに載せ腰付近を固定する作業を始めた。
 眠っている青年に最後の拘束を施す中、手首に痛みを感じてフォルカーの動きが止まる。一度だけ見ると、利腕の手首に巻かれた包帯から染み出た鮮やかな朱色が目に入った。これまでは気付かなかったが、何度も力を込めて縄を結っていた際に力を込めすぎて血がまた出てきたのだろう。大した傷では無いと思っていたが、自分で付けた傷は思いの他深いものなのだと今更ながらに実感した。
 此処へ戻って来るまでの間に起きた出来事を、腕を動かし続けながらフォルカーは思い返す。

 シュヴァルツヴァルトで不死者との戦闘で最後の一体が崩れ落ちた後。倒れ込んだファルクレイを抱き上げた辺りは覚えているが、その後暫くは記憶に無い。
 不死者を生み出していた原因は同行者が取り除いたが、彼女がこちらへ近付こうとしたので怒鳴りつけたような気もする。
 神官と名乗った彼女が無事に戻ったかなど、今は確認の手立てすら行なう気にもなれないが、一度ファルクレイを降ろして脈を計った際にミミタニ以外傍に居なかったのは確かだ。
 人は命を失う寸前にまで陥ると、身体の熱ですら発する事を止める。尤も、相手がひとと異なる存在の場合も適応されるのかは知らないが、獣の形を取っていない状況だと人を基準として判断する他無い。
 首筋に手を当てた時に脈が弱っていたのと、冷たい肌の温度。厚着にも関わらず小刻みに震える様子に気付いた時には、フォルカーの中でずっと抱いていた躊躇は振り切れていた。

 腰周りを固定した縄を結ぶ前に、なるべく背中の傷が痛まない様腰下に敷いた枕の状態を確認する。多少暴れても大丈夫だと判断すると、最後となった結び目をしっかりと念入りに結んだ。
 溜息だと思っていたものは、やはり謝罪の言葉で──自らの手で動きを封じた相手に対し、余程の罪悪感を抱いているのだろうと。まるで人事の様な感想を抱く。
 人を喰らうという方法で命を繋ぐ存在に、元々自身の血を与える行為には抵抗が無かった。あるとすれば、彼が以前それを嫌う素振りを見せたからこその躊躇だ。実際、森で一度フォルカーが自分の身体を傷付けて血を飲ませた時に、激しい拒絶を前にして後悔はした。だけども、生死が関わっている以上は仕方の無かった事だと自分に言い聞かせる。
 戻ってきて寝かせた際に二度目の血液を飲ませたが、物言わずこちらを眺めていた空色の右目が脳裏から離れない。意識が戻ったという事は、血液を飲ませるという行為が実際に回復手段としては有効なのだと認識するいい判断基準なのだが……良心の呵責が無くなるわけでは無い。寧ろ薄まるどころか、フォルカーの心を深く抉っていった。

「……すまない」
 幾ら同じ言葉を口にしたとしても、許しを乞う相手は何も答えない。
 血液を与えた時にあったファルクレイの意識は今は無い、尤も──フォルカーが意図して彼に眠るように指示したからなのだが。素直に眠っている青年は、今は夢でも見ているのか時々寝言と共に涙を流していた。掠れて聞き取れる程の声量では無かったので、一体何の夢を見ているのかはフォルカーには分からない。
 親指で涙を拭き取ってやった際に、彼の口から漏れた言葉の一箇所だけは聞き取れた。だが意味を知った所で、どうしてやることも出来無い。
 目の前にいる存在に対して自分が出来る事といったら恨まれてもいいから、と治癒を施してやる程度。しかもファルクレイ本人が望んでもいないにも関わらず、フォルカーが勝手に判断した独断だ。
「元気になったら、何でもしてやるから今は我慢してくれ……な?」
 随分と勝手な言い分の気もするが、フォルカーの本心だった。相手が眠っているからこそ告げることが出来る言葉もある。彼の意識がある時に告げれば、恐らく無表情のままで殴りかかってくるだろう。

「単に人助けをしている自分に酔いたい──か」
 ずっと何とかしてやりたいと思っていた相手に、剣を突き付けられ笑顔で放たれた言葉を唐突に思い出す。声に出してみると、口端が自然に上がり笑みが浮かぶ。但しそれは笑顔では無く、自嘲めいたものだ。
「痛いところを見抜きやがって……確かに、そう思ってた事も認めるさ」
 大きく息を吸い、曲げっぱなしだった背を伸ばす。手首に感じていた痛みも多少和らいだ頃に、眠っているファルクレイを見下ろして力無く笑い飛ばした。
 彼があの時フォルカーに告げた言葉に対して何も返せなかったのは、多少なれども意味合い的には似たような事を常日頃から思っていたからこそだ。今こうして親友の名を騙っているのも、仕えるべき教区を捨てて出てきたのも──全てが事実であり、何一つ否定は出来無い。
「……一つだけ、言い訳をさせてくれ」
 当然ながら、返ってくる言葉は無い。
 それでも自分に言い聞かせる意味も含め、フォルカーは苦笑混じりに告げた。
「例え自分の為だろうが何だろうが、人助けは人助け。助かる奴がいるって結果は同じだ。お前が何と言おうが、それは止めないし止める気もさらさら無い。それに……」
 続けようとしたフォルカーの言葉は、そこで区切られる。代わりに出たのは、舌打ちと溜息だけだった。
「……言い訳なんか、らしくねぇな」
 “らしくない”というのは、本来の自分に対してなのか?
 それとも名を騙ってる、自分が今まで憧れていた親友の素行から反するものなのか?
 ──どちらの意味合いなのかは、呟いたフォルカー自身ですら解らない。
「まあ、いいか」
 これ以上考えようが何を告げようが、結局今から行う事に変わりは無い。
 なるべく感情も思考も乱れない様、精神集中を行う。
 今の状況と比べると明らかに軽度と思われる傷でも、以前治癒を施したら彼は痛がる素振りを見せていた。周りに悟られないよう誤魔化しても、僅かに引こうとする身体の動きは治癒を施す本人には分かる。
 全身に火傷を負っている上に、さらに酷くなっていた背中の傷。不死者との戦闘で浸透した毒も併せて考慮すれば、最低限の治癒を施したとしても痛みで暴れるのは間違い無い。拘束を行ったのは自衛の手段でもあり、手早く治癒を済ませる彼の為でもあった。
「多分、許してはくれんだろうなあ……」
 最後にフォルカーが呟いた自嘲めいた文句は──突然身体を大きく跳ねたファルクレイの叫びによって、かき消された。


「……気付いたか?」
 うっすらと開かれた右目がこちらを見据えている事に気付いたのは、何気無しに顔を上げて様子を伺った時だった。
 治癒が終わり全ての拘束を外した後。背中の傷以外の箇所を何度も丁寧に拭い、包帯を全身に巻いてやる作業も明け方を迎える今しがたに終わっていた。服は血が外側まで付着していたので、自分用にと買った新しいシャツを着せている。
 こちらが話掛けても反応を殆ど見せないファルクレイを前に、フォルカーは困って頭を掻いた。続ける言葉が見当たらず、それどころか目を合わせる事ですら憚られた。今のフォルカーが何を告げても、恐らく彼から返ってくる言葉は攻撃的なものに違い無い。
 互いに無言のうちに時間は流れてゆくが、ファルクレイが両手首に巻かれた包帯のうち片方に腕を伸ばしたところで、フォルカーが慌ててそれを止めた。
「待て、そこは治してない……」
 腕を掴んで止めると、ファルクレイは不思議そうにフォルカーの顔を見上げた。
「暴れ過ぎて皮が擦り剥けている。覚えてないのか?」
 問い掛けると、青年はこれもまた首を傾げるだけで終わる。こちらの言う事は理解しているようだが、普段の様子から比較すると違和感しか覚えない。瀕死の状況だった為、仕方が無いといえば仕方が無いのだが。治療の際に与えた痛みからくる一時的なものかは判断に困る。念の為に自分の名前を訪ねてみる。ファルクレイは暫く考えた後、騙っている方の名を呼ぶ。そこで彼の記憶は大丈夫だと判断した。
 今のところ、施した治療に対する反発は無いので安堵するも、暫く時間が経てば徐々に横たわっている理由を思い出す事だろう。そうなれば間違い無く、激しい怒りをぶつけてくるに違い無い。
「傷は最低限だけ治した、後はお前の魔力で何とか補いをつけてくれれば問題無いと思う。但し──その魔力の補いが、お前の場合つかないんだったよな?」
 普段ならば邪魔でしかない疲労と眠気が手伝って、躊躇しながらもフォルカーは予測しているファルクレイの状態を問い掛ける。これもまた、迷い無く頷かれた。
 そうか、と短く一言だけ返すと黙り込んだフォルカーに対しても、彼は不思議そうに眺めているだけだ。
「それに関して、一つ提案があるんだが……言ってもいいか?」
 暫く黙った後に、覚悟を決めて尋ねた言葉もやはり頷かれる。やけに態度が素直なのは、正直気が楽になる。しかし、後に待っている事態を考えれば不安も残った。だが幾ら熟考しても、前々から考えていた唯一の提案を言い出すには今が恰好の条件である事には違いない。
 この期を逃せば恐らく──双方にとって余り良い結果は待ち受けていないだろう。
 “あの時”言われた言葉を思い出し、ゆっくりとフォルカーは口を開く。

「……クラウス。偽名では無く、それが俺の本当の名前だ」
 名前は大切な取引材料。
 呼ばれれば逃げられず、提示されても逃げられない。
 魔獣が自ら口にした言葉通りならば、自分が偽っていた名を口にして交渉へと持ち出せば。彼は自分の意思とは関係無しに、こちらの話を聞く他無い。
「何故、名をお前に告げたか……寝惚けていても、本業ならばそれ位は分かるだろ?」
 本当ならば口にしたくも無い、過去に呼ばれていた名を声に乗せた後。今はフォルカーと名乗る男は、人を模る魔獣を見据えた。何を考えているのか分からないが、彼は黙って空色の瞳をこちらへと向けている。異論を挟んでこないということは、先を促していると取っていいのだろうか。
 ならば後は──ここ数週間で、何度も考えを巡らせていた自分なりの妥協案を言うだけだ。

「俺はお前と交渉……つまり『契約』を行いたい」
 意を決して放ったクラウスの言葉は、震えを抑えていたつもりだったが。
 手の震えと、僅かに強ばる顔は──嫌というほど、自分でもはっきりと分かるものだった。

(第17回:2013/1/12)

January 12 [Sat], 2013, 0:40
 「派遣任務と聞いて楽しみにしてたのに」とハッキリ言い放った同行者の小娘に悪態を吐かなかったのは、今まで築き上げてきたものが感情一つで崩れ去る恐れがあるからだ。
 だからこそ、盲信的ともいえる同行者の振る舞いを前にしても必死で堪える事に努めていた。

 今こうして色々と振り返れば、僅かな期間で随分と自分の中で割合が変わったなと思う。
 最初は、意味も分からないうちに親元から引き離される事になった少女──クローシェの不安がフォルカーには嫌というほど分かるから、放ってはおけなかった。
 彼女の側にいる狼が人語を介する存在なのに、彼女との交流は必要最低限に留めていたのが気にくわなかった所為もある。同郷であり彼女との関係があるにも関わらず、突き放した態度は傍から見ていても明確なものだった。

 人型にも狼にもなれる異形が、殆ど少女と自分の関係や背景を一切語らなかったことも大きい。
 時折、彼の口から出る僅かな情報から推測するのは時間が掛かる作業だった。
 本当ならば、他人の関係や背景をあれこれ推測するものではない。それは重々理解していたのだが……冷たくあしらわれる度に浮かべる少女の顔と、少女を眺めて時たま見せる異形の浮かべる表情は、到底無視できるものではなかった。
 恐らく、本人は気付かれない様振る舞っているつもりだろうが、注意深く眺めればすぐに気付く。まるで──本当は関わりたいのに、酷く恐れて拒むような。そんな表情を彼は時折見せていた。
 その事をフォルカーが指摘すれば、恐らく彼は否定するに違いない。彼自身の口からいずれ聞ければいいと思っていた。少しでも信じてくれるのならば、そのうち事情を話してくれるかもしれない。そうしたら役に立てる最大限の事をしてやればいいと思っていた。

 なのにだ。
 結果的に待っていたのは、憎悪とも取れる激しい拒否だった。
 差し伸べた手を払われ、悪意に満ち溢れた言葉を吐かれた今でも尚、彼と少女の間にある隔たりを埋めたいと思うのは、自己満足にしか過ぎない。
 本当は触れたくて、声を掛けたくて。
 それでも黙って自らを痛みに晒す事でしかその感情を表現できない者を前に沈黙を貫けるほど──お人好しの親友から名を継いだ男は、できた人間ではなかった。


「どうしたものか……あの馬鹿は」
 口から出た言葉は、内心で呟く筈のものだった。
 声に出てしまったが、恐らく誰にも聞こえる筈も無いと思っていたのが甘かった。強く服を捕まれる感触で我に返る。
 視線を腕の辺りまで落とすと、不安気にこちらを見上げている少女と目が合った。
「おじさん、どうしたの? ばか?」
「いや……」
 腕に抱いてたクローシェに悪態を聞かれていた事に慌て、挙げ句聞き返される羽目になるとは思わなかった。暫く返答に困っていると、聞いてはいけない事を尋ねてしまったと気付いたのか、そっぽを向かれた。
「……すまんな、独り言だ」
 少女の機嫌を損ねてしまった事と、焚火を挟んで正面に座るファルクレイがこちらを見据えた為、つい言葉を濁してしまう。返答代わりに今は、頭を撫でてやることしかできない。
 そんな二人のやり取りも、クリスティーナの声で中断させられた。

 クリスティーナ曰く、森で遭遇した不死者は本来のものとは別の魂を入れられて動いていたということだ。そして、原因を突き止めるべく突き進めとなおも主張している。
 尤も、わざわざ教えを乞わなくとも修道院で勤めていた以上、不死者などという自然の摂理から外れた者の存在は知っていたし、何が原因なのかも大体は分かる。
 だからこそ、安全な場所で一旦態勢を整えるのが最適ではないのかと進言もした。
 闇雲に散策すると夜になる。そうなれば闇が味方して危険が増すとも言って安全な場所を探して野営を行なう事にしたが、不満は続いていた。
 神という唯一絶対の存在を信じて疑わず、道理に外れた者は全て邪なる存在と信じて疑わない存在を久々に眺めていても、不思議と懐かしさは感じなかった。
「おじさん」
 もう一度服を引っ張られ、再度クローシェの方へ目を落す。彼女は相変わらず、こちらを伺うように見上げていた。
 簡単な食事を済ませ、漸く片付けも終わったがクローシェは始終フォルカーの傍から離れず、落ち着いた今となっては膝の上に乗っている始末だ。陽の光すらも遮断する鬱蒼と茂る森の中で不安も相まっているのだろう。したいようにさせていたが、つい彼女が傍に居る事を忘れて口走ってしまったのが、先の独り言だった。
「どうした?」
「……まだ、怒ってるの?」
「怒ってる?」
 小さな口から飛び出した言葉は意外なもので、聞き返すとクローシェは暫く考えてから言葉の真意を語ってくれた。
「クーちゃんに怒ってた?」
「ああ……」
 言われて漸く、何故怒っていると思われていたのかを理解した。

 恐らく先の戦闘でフォルカーが行なった、ファルクレイとのやり取りが原因に違いない。
 戦闘においては、不利どころかこちらの弱点ともなるクローシェを彼はフォルカーへと預け、自ら前面に立つという行為に出た。無論、幾度となくフォルカーは彼の独断を咎めたが、返ってきたのは拒絶の言葉と冷たい視線だけだった。
 口では何とでも虚勢を張れるだろうが、明らかに傷を負っているのは一目瞭然である。幾ら治療を申し出ても、眼帯の青年はそれを強く拒むことだろう。
 無論、庇われた事とその時に言い放たれた言葉が気に食わないのは当然だ。
 だが、理由はそれだけではない。
 治癒を施したくとも──精霊術と称している、実際は違う治癒の力をファルクレイに使う事をフォルカーは強く躊躇っていた。特別信仰深いわけでも無いが、不思議と傷を癒す力を魔獣の類に使えば、傷は癒えども痛みが伴う。ファルクレイ本人は決して口にする事は無かったが、ここ数ヶ月の付き合いで気付いた事だった。

 これらの出来事も併せ、充分にクローシェの言いたい事を吟味する。結果、ゆっくりとフォルカーは首を横に振った。
「いや、違う」
「そうなの?」
 こちらを見てくる蒼い目は何もかも見透かされているような気がするけども、それは単に自分の気のせいだと言い聞かせて『安心させる為の嘘』を貫く。
「……また戦う事を考えて、少し苛ついてたのかもしれないな」
「でもおじさん怒ってるし“ばか”って言ってたし、元気ないし」
「それは──」
「わたしに、何か出来る事はある?」
 やはり、子供というものは勘が鋭い。
 漠然とながら気取られているのは確かなので、曖昧な笑顔を浮かべて考える素振りを見せる。
「そうだなあ……」
 子供に気を使われている程、自分には余裕が無いのか。それとも明らかに彼女もファルクレイの様子に気付いているのか、どちらかは分からない。
「いつも通りにしててくれたら、それが一番有難いな」
「いつも通り?」
「そのままの意味だ、変に気遣われても……逆に大人は傷付くものだ。だから、いつも通りの良い子にしてくれれば……守れて良かったと思えるもんだ」
 最後に口走ったのは、偽りの無い本心だった。
 今の彼女に告げる意味としては、内容と全く噛み合わないので僅かな焦りが生まれる。だがクローシェの表情を見る限り、杞憂に終わったのだと分かりフォルカーは安堵した。
「へんなの」
「……そのうち分かるさ」
 口を上げ笑みを作って安心させてやる。向けられる気配を感じ、クローシェの方へと落としていた目線を上げると無愛想な青年と目が合った。こちらを見据える片目が『余計な事を言うな』と訴えているのは、無表情ながら悟る事ができる。
 今は彼に向けて放つ言葉が何も見当たらないので、視線をファルクレイから外すと溜息を一度吐いた。それを話の切り上げとして、フォルカーは口を閉ざす事にした。
 強引に切り上げたが、本当はクローシェにどこまで説明すればいいのか分からない。ファルクレイの態度は褒められたものでは無いが、一応は心の中で感謝を述べる。

 二、三言クローシェと交わした後は、少し距離を空けて剣の手入れを行なっていたカラバと見張りの交代を確認する。交わす中で、臆病者のミミタニと怪我を負っているファルクレイは数に入れていない。猫の剣士も言わずもがな了承していたようで、話は簡潔に纏まった。
 てっきり反論が返ってくると思っていたが、不思議と異論を唱える声は無かった。それでも少々不安を感じて、フォルカーはファルクレイの方へと視線を向ける。空色の目がこちらを静かに見据えていたが、相変わらず何を考えているのか全く表情が読めない。
 間違い無く好意的でないものであるのは確かだが、多くを語らない異形が何を思ってこちらを見ているのかは気掛かりだった。
 問い質したい事が多すぎるが、今の段階で感情任せに尋ねたところで決して語らないのは目に見えている。それどころか、幾度か味わった手痛い言葉と共に拒否されるところまでは容易に想像が出来た。疎ましい同行者の存在もいる以上は、ファルクレイもフォルカーも下手に動く事は出来ないのが救いといえば救いであった。

 そこまで考慮して、何故に自分が酷く拒否されても異形の存在に執着するのかを思い起こす。
 最近では特に『何故そうまでして拘るのか』と自問自答する機会も増えた気がするが──何のことは無い。
 自分が行なう不器用な行為が愚直だと自嘲しようが、結局導き出される答えはいつも決まっていた。
 人間だから、神だから、魔獣だから。
 そんな区分はどうでもいい。
 単に自分は苦しむ相手が目の前にいて放っておける人間では無いから。
 それに──今自分の腕の中にいる小さな少女。その少女にとって、最良だと思える選択肢を単に選んでやりたいが為だけだった。

(第16回:2013/1/5)

January 05 [Sat], 2013, 0:37
 最近、不安に襲われ目を覚ます。
 その不安が何かは、決まって忘れていた。

 何を考える訳でもなく。見上げていた天井の木目が瞼で遮られ、視界が閉ざされた。
 暫くして、頭上から声を掛けられる。一度だれかの名を呼び、暫く間をあけてもう一度。三度目にしてようやく、それが自分の名前だとフォルカーは気付いた。
 眠りかけていたので、強引に眠気から引き剥がした身体が一度だけびくりと跳ねる。うっすらと目を開けると、天井が見える前に窓から射す西日で目が眩んだ。
 ほんの数分だけ眠っていたと思っていたが、どうやら違うらしい。目を閉じる前は当たらなかった陽の光と、身体に掛けられていた自分の上着を見てぼんやりと考える。声の主へ視線を向けないが、フォルカーが起きた事に気付いたようだ。身体を預けていた大きな巨躯を通じて、低い声が耳に届く。
「今日もお疲れですか?」
「……そんなところだ」
「最近、無理をし過ぎではありませんか?」
「ほんの少しだけ、な」
 明らかに嘘と分かる返答に、こちらを見下ろす狼の吐いた溜息が前髪を揺らす。思えば昼間起きてから、髪を整えなければ髭も一昨日から剃っていない。
 身体を預けていたのは狼の身体なので、溜息と一緒に凭れていたフォルカーの身体も軽く上下した。
「──実際に貴方を疲れさせてしまった者がいうのは、おかしな気もしますが。貴方に倒れられるとあの子が悲しむ。無理をするのは勝手だが、あの子が悲しむ顔は見たくない」
「……そうか」
「一度、丸一日は休まれてはいかがですか? 何かあってからでは遅いですし、今も少し顔色が悪い」
 珍しく身を案じてくれる相手に対し、フォルカーは黙って首を横に振った。
「昨日もそれで、迷惑かけちまったしな……流石に二日続けては、な?」
「そのうち本当に倒れてしまっても知りませんから」
「お前さんだけには、言われたくねぇよ……」
 嫌味を混ぜて返してやると、機嫌を損ねた狼は鼻息で返事をする。獣の姿を保っている時は、妙に愛嬌のある仕草に見えるから不思議なものだ。
「取り合えず、今日はゆっくりしてください」
「いや、だから……」
「貴方が俺を枕にして寝ているうちに夕方です。今から食事の支度をしても間に合いませんし、俺はもう少ししたらあの子と出掛けます」
 反論などいらないとばかりに、一方的に強い口調でフォルカーの言葉は遮られた。憮然と放たれたそれが、彼なりの気遣いだと知っているので黙る他無い。
「すまない、助かる」
 回らない頭で暫くの間、返答に適した言葉を模索していたが──結局出たのは、単純な言葉だけだ。
「また、何か買ってきましょうか?」
 もう一度、黙って首を横に振る。力なく笑い弾力のある腹を軽く叩くと、狼も先程と同じ様に溜息を吐いて返事とした。
「分かりました、帰りは香水の匂いに気を付けてください。何度嗅いでも、あれは好きになれない」
「違う……」
「おや」
 無言で伝えた意が通じたかと思うと、的外れもいいところの回答を耳にして、フォルカーは即座に異を唱える。軽く流されただけなので、完全に誤解されているようだ。
 或いは──解っていても人をからかうのが好きな狼の事だから、気付かないふりをしているだけかもしれない。
 普段なら真面目に考えるところだが、今は言葉遊びの相手をする気になれなかった。
「まあいい、お言葉に甘えさせて貰うさ。帰りは遅くなるから……後は頼むわ」
 精一杯の軽口を叩いた後に、フォルカーは毛皮に預けていた身体を起こし立ち上がる。
 暖かい動物に密着していた背中にひんやりとした感触と、蓄積された疲労が訴える痛みを感じるも──今は何も考えない事にした。


「……つかれた」
 半ば寝言の様に口から漏れた言葉は、酔いが回ってから何度飛び出したか分からない。

 日付は変わる寸前だが、酒場に居る限りは外の寒を感じなかった。
 年の瀬で仕事を遅く終えた者が多いのと、暖炉に入った蒔が充分な量なので長時間居座っているフォルカーには居心地が良い。
 用事は手早く終える事が出来たし、真っ直ぐ帰ればよかったのだが……そんな気分では無いからと思い、此処に立ち寄ったのが間違いだった。
 馴染みの酒場に顔見せで訪れたのは、陽が暮れて暫くしてからの事だ。
 訪れてから随分と経った今では、頬杖をつきながら飲んでいた最初の面影など既に無い。殆ど突っ伏した格好でフォルカーは、酒を飲む時だけ僅かに身体を起こすという緩慢な動作をひたすら繰り返していた。
 どれだけ酔おうが酒を飲もうが、文句を行って来ないのは馴染みの店だからである。フォルカーが人一倍酒に強く、多少酔った所で迷惑を掛けない客であるという事を知っているからこそ、現状が生まれてしまった。
 酒場の主人も珍しい事もあるもんだ、と眉を一つ上げただけで終わらすのみ。給仕ですら注文を取りに来なくなったのは、『纏めて運んでくるように』と酔ったフォルカーが頼んだ酒瓶を素直に持ってきた結果だ。

「眠いし、疲れたし。酒というやつは、調子にのって飲みすぎるもんじゃあない」
「なら、帰ったらどうだ?」
 口に出す言葉とは裏腹に、空になったグラスに酒を注ぐフォルカーに声が掛かる。低い声はフォルカーの隣に座っている男のものだった。
 男は体躯が大きいフォルカーと並んで座っていても、同じ位の体格が幸いして違和感が無い。
「帰るのですら、もう面倒臭い……」
「では、そのまま酔い潰れとけ」
「帰らないと駄目だから……それは駄目でちゃんと仕事をしなきゃいけないし、朝飯を作ってやらんと……腹を空かせた子供と猫に怒られて駄目で……俺がそこに居る意味がないから駄目なんで、妖精の野郎に睨まれる。鍋も多分呆れる。こうなると、全部が駄目になるから今までやってきたことが無駄になる」
「……そうか」
 加減を無視して飲み続けているフォルカーは、既に話している内容が言葉としての機能を果たしていない。対して男は苛立つ様子も無く、淡々と意味が破綻している言葉に相槌を打っている。時々フォルカーから酒瓶を取り上げて自分のグラスに注ぐ様子は、互いに今日出会ったばかりのものとは思えなかった。
「ヴィンセントさんも、こんな酔っ払いに絡まれて大変だ」
「自分でその判断が出来るだけ、まだましだろう」
 ヴィンセントと呼ばれた赤毛の男は、フォルカーの声に肩を竦めて返す。
「……どうだか」
「それに、善意で付き合っているわけじゃない。報酬なら後で貰うし、酒も俺のじゃない」
「ああ……そうだ! 帰らないと……ヴィンセントさんに、そうだ……霊玉」
「少し落ち着くまで待て。急ぎではないし、依頼の期日までにあれば構わない」
 立ち上がろうと上半身を起こすフォルカーの肩を片手で押さえ、残った手で頭を持ちテーブルへと戻させる。勢い余って鈍い音が一度だけ聞こえ、テーブルに伏せたフォルカーの口から呻き声が漏れるが、赤毛の大男は涼しい顔を保っていた。
「落ち着いたか?」
「……申し訳無い」
「構わん」
 額を打ちつけ、幾分頭に掛かっていた霧が晴れた気がする。なおも酔いで回る頭ながら、フォルカーは初対面の相手に非礼を行なってしまった事を詫びる。
 快い返事を貰えた事が幸いとして、気付けば酔いに任せてずっと胸に抱いていたものまで口走っていた。

「なら帰る前に一つ……ヴィンセントさん。貴方が今日こうして出会ったばかりの人だからこそ、尋ねたい事がある」
「何だ?」
 唐突に口調を変えたフォルカーに対して、ヴィンセントは目を細める。
「失礼を承知で、例えさせて貰うが。貴方はかつて──とある国と戦争を行なっていた国の兵で、何人もの敵兵を殺して戦歴を積んできた者とする」
 それまで涼しい顔で話を聞いていたヴィンセントの顔が、僅かに強張ったのが酔っていてもフォルカーには分かった。
「……例えの話です」
 人の過去などには興味も無いし、万が一踏み込んだところで良い結果などはまず無い。フォルカーにだって、土足で他人には踏み込んで欲しく無い過去がある。そう思い即座に取り繕うと、ヴィンセントも了承して頷いた。
「今は退役して国を飛び出し、過去とは全く関わりの無い生活をしていると思って欲しい。過去と切り離した生活の中で仲良くなり、信頼のおける友人が出来た時。その相手が過去に戦った国の兵士で、数多くの戦友を手にかけていたと知ったら……その事実を知ってもなお、今まで通り仲良く……できるものなのだろうか?」
 そこまで一度に話し終えると、フォルカーはヴィンセントの方に目を向ける。ヴィンセントもまた、黙って何かを考えているようだった。
「……俺は、出来ると思っていたんです。だって過去は過去だ。どう足掻いたって、変わりはしない。出会った場所も戦場なんかじゃない。本当に偶然だったし……互いに刃を交えた事も、顔を見たことも無い。争う理由なんて、理屈で考えたら殆ど無い。精々が愛国心程度だ。そんなものだって、俺には無い」
 ヴィンセントに意見を求める例え話から飛躍して、自分の感情任せに話している事はフォルカーも自覚していた。だが酔いを借りて飛び出した本心は、抑えが効かない。
「本当に、本当に俺はそう思ってたんです。だけども、それは俺の勝手な考えなだけで。相手はそう思っていなかったんだ……と」
「で、それがどうした?」
「……そいつの身が危なくて、助けようとしても助けられない。それどころか、強く拒まれる。でもやっぱり、助けたいって俺の我侭を突き通すなら……そいつに嫌われても、強引に手を伸ばして助けてやりたい」
「そうか」
「……変、ですよね?」
「俺に聞かれても困る、俺はお前じゃない」
 ヴィンセントが、不満気に眉を顰めていることに気付く。自分の内心を吐露してしまった事を振り返り、フォルカーは隣に座ってる男から視線を外しテーブルへと顔を伏せた。
「すみません、つい……」
「いや、気にするな。だが……」
 言葉を濁したヴィンセントが何を告げようとしているのかは分からない。だが続きを待っていると『先を言っていいか』と聞かれフォルカーは頷いた。
「話を聞く限り、お前は恐ろしく馬鹿だ。良くも悪くも真っ直ぐ過ぎて、もし例え通りに兵士をしてたならば──今すら無く、とっくに死んでいる程の愚直さだ」
「……ですね」
 はっきりと告げられ、フォルカーは力無く笑う事しか出来ない。
 自分でもその通りだと思うし、過去に何度も指摘された事を再び──今日出会ったばかりの男に突きつけられ。笑う事でしか返せなかった。
「変な事を口走ってしまって、申し訳無い。今のは……忘れてください」
 返事代わりに返ってきたのは、肩を軽く叩かれる感触だった。フォルカーはゆっくりと瞼を閉じて、安堵の息を漏らす。
 頃合を見たかのように“店を閉めるから帰る様に”と声をかけられ、我に返ったのはその時だった。よろよろと立ち上がった、フォルカーの巨躯が揺らぐ。
 ぼんやりとした頭でこれは酒の所為だけでは無いのだろう、と考える。疲れからの微熱が残っていた身体も、今は感じない程の酒を飲んだが……下がるどころか恐らく上がっている筈だ。
 同時に込み上がる吐き気と、理由の分からない感情を押さえ込もうと必死になればなるほど──意識が朦朧としてゆくのが分かった。
 床に身体を打ち付けるかと思ったが、何時まで経っても痛みが訪れない。
 誰かが倒れそうになった自分を支えてくれたのだと分かり、失ってゆく意識の中で驚いた。
 自分の身体は人よりも大きいのだから、受け止められる筈も無い。そう思っていたフォルカーだったが、ずっと酒に付き合ってくれた無口な男の存在を思い出した頃には──滅多に落ちない意識が落ちきる直前のことだった。

(第15回:2012/12/22)

December 22 [Sat], 2012, 0:30
「……そうか。俺らが居ない間、ちゃんと一人で冬の準備をしたんだな」
「うん」
 そう言って頷くクローシェは、普段と違って随分と大人しいものだった。


 フォルカーは切り分けたパウンドケーキを二枚の皿に載せ、両方クローシェの方へと渡してやる。片方は彼女に、次はその隣──誰も座っていない席に置いた。
 妖精など本来ならば見えない存在を見ようと意識を集中させ、目を凝らすのも面倒だ。なので、家の主に仕えている蛇達がいない今日みたいな日には、適当に置く事にしている。
「クローシェも、随分とお姉さんになったな」
 充分に蒸したティーポットから紅茶を注ぎフォルカーは呟く。それを聞いて、皿に手を伸ばしていたクローシェの動きが止まった。
 食べながらでも話を聞けばいい。とフォルカーが目線で促せば素直に頷き、フォークを突き刺して切り分けたケーキを食べ始める。
「そりゃまあ、協会の依頼も勿論大切な仕事かもしれないが……一人で冬越しの準備をする事だって同じ位大切な仕事だと俺は思うぞ」
 クローシェは黙って口を動かしながら、相槌を打っていた。
 やはり元気が無いが、フォルカーはそれに関して今は触れるつもりは無い。クローシェが気落ちしている原因よりも、先にもう一つの問題を解決させる方を優先する。
「あのな。お姉さんになったクローシェに、一つ教えなきゃいけないことがあるんだが……今言ってもいいか?」
 口調こそ穏やかだが、確認を求めるフォルカーを見たクローシェに戸惑いの色が浮かぶ。
 短い沈黙の後に、一度だけ小さい頭を縦に振る。フォルカーの言葉を促す頷きだった。
「じゃあ、ここからは大切な話だ。みんな大人になれば仕事をするだろう? クローシェもお姉さんになったってことはこれから、さらに色んな仕事をしなきゃいけないってことだ」
 クローシェに整理する時間を与えるために、フォルカーはカップに入った紅茶を啜った。
 充分に間が取れたと判断すると、再び口を開く。
「だけど仕事をするっていうのは……楽しい事ばかりじゃないのも分かってるよな?」
「……うん」
「でも自分が嫌だなと思う相手と一緒でも、やらなきゃいけない時があるのが“お仕事”ってやつだ」
「……ミミタニさん?」
 フォルカーが言おうとしている事を素早く悟り、即座に告げた名は正解だった。クローシェはまだ幼いが、本当に賢いし鋭い子供だと感心する。
 だが理解することと、感情はまた違ものだ。
 事実、その名を口にした後のクローシェには若干の怯えが伺える。
「嫌いっていうか……ミミタニが怖いんだよな? この前みたいに怖かったらどうしよう、って思うんだろ?」
 言葉が見当たらず、上手く口に出せないであろう感情を想像ながらも代わりに言ってやる。
 フォルカーの予想通り、クローシェは黙ってこくりと頷いた。
「次の依頼な、取り合えずもう一度訓練に行こうかと思うんだが……」
 行けるか? とはあえて聞かずに、フォルカーは話を続ける。
「クローシェは無理に喋らなくてもいいし、ミミタニは絶対もうお前を怖がらせたりしない。ってさ」
「……本当?」
 漸く返ってきた答えは、真意を問うものだった。
 フォルカーはこちらの様子を伺うクローシェに、返事する代わりに皿に置いてあるパウンドケーキを指差してみせる。
 苺のジャムを混ぜてほんのりと甘みを加え、さらに新鮮な苺を細かく切ってシロップと絡めた後に混ぜている。
「美味いか? それ」
 一転した話題を振られ、さらには関連性の無い質問に戸惑うクローシェだったが……フォルカーが黙って返事を待っていると分かるなり頷く。
 フォークを握り締め小さな手を皿に伸ばし、残ったケーキの残りを口に含む。再度味わいを確認しているようだ。
「これは昨日俺が買ってきた苺だが……ミミタニがこの前の仕事の時、キイチゴっぽいのをくれてな。本当はお前に渡したかったんだろうが、日持ちしないから俺が全部食った。美味かったぞ。プチプチしてたからケーキに入れたり、ジャムにしても美味いんじゃないかと思う」
 疑いの表情から一転、今度は心底驚いた表情をクローシェは浮かべていた。
 無理もない、と声には出さずフォルカーは心の中で呟く。
 こればかりは、自分がクローシェの立場でも驚く出来事だ。実際、ミミタニが手紙とフユイチゴを置いて立ち去った時に、フォルカーでさえ驚いてしまった。

「一緒に手紙も貰ったんだが、お前宛てで『この前は怖がらせてしまって本当にごめんなさい、許してください』って書いてたぞ。多分、直接謝ろうとしたらまた怖がられると思ったんじゃないか?」
 書かれていた内容全てを告げると、五歳のクローシェにとっては少々難しいと思い、簡単に噛み砕いた言葉で説明してやる。
 ついでに『直接謝りに来ない理由』も──フォルカーが勝手に解釈したものだが、大方当たっているだろうと目星をつけて付け足しておいた。
 クローシェと目が合うが、無言の中に戸惑いが伺える。
「悪戯でも失敗でも……悪い事をしたと思ったら、謝るのが普通だな」
「……うん」
 漸く肯定の返事が貰え安堵を覚えるが、解決と決めつけるのにはまだ早い。
「許す許さないは、俺がとやかく言う事じゃない。けど、前とは違って少しお姉さんになったクローシェなら……頑張れそうか?」
「うん」
 二度目の肯定は、はっきりとクローシェの意思で頷いたものだった。
 だか続いて彼女が告げた言葉は、フォルカーの心を揺さぶる。

「クーちゃんが今大変だから、わたしが頑張らなきゃだめなの」
 子供だからこその、現実を有りの侭に受け止めた発言は──大人にとっては残酷で重い。
 フォルカーには返す言葉が見付からず、黙る事しか出来なかった。

「……おじさん?」
 フォルカーに対し、クローシェが怪訝そうに訪ねる。が、短時間で曖昧な態度や表情を取り繕える程、フォルカーは器用な人間では無い。
「おじさんも、無理しちゃだめだよ」
 隠していた筈の疲労も、クローシェは見抜いていたようだ。
 短い合間でフォルカーが返せた精一杯の返答は、たった一言。

 自分を気遣ってくれた事に対する感謝と謝罪の言葉と、腕を伸ばして曖昧な笑顔で……自分と同じ髪色の、癖毛を優しく撫でる事だけだった。

 何に対しての謝罪なのかは、幼い彼女は知らなくてもいい。
 それでもフォルカーが黙っていられなかったのは、名を借り生きる前の自分自身の偽善じみた行動からだ。それを嫌というほど知っているからこそ──告げることができたのは、単純な謝罪と感謝のみだった。

(第13回:2012/12/8)

December 08 [Sat], 2012, 4:51


 昔──自分がまだ片手で数え終えるような歳だった頃の記憶を、ふと思い出す。

 当時、子供ならば「楽しい」と思える筈である遊びや行動などに興味が沸かず。先生がいつも子供達に、読み聞かせていた本の方に興味があった。
 擦り切れた薄い古着で走り回る事も無く、ただひたすらに文字を学ぶ事への憧れ。先生から譲り受けた小さな石盤に、粗悪な羊皮紙に書かれた手本の文字を何度も繰り返し真似て書く事が一番の幸せだった。
 そんな幼少期を送っていたので、他に生活する子供達……それも自分と近い歳の輪から孤立してしまたのは当然の流れであった。
 自分も子供なりに彼等が自分に抱く感情は何となく察していたが、一体それが何故なのかという理由を考えるまでには至らなかった。
 考えていたならば、双方に生じてた溝など簡単に埋まっていたのかもしれない。

 ……とはいっても。
 単に自分の場合は、幾つになっても孤立していたのだが、物心ついた時から執拗にまとわりついてくる奇特な相手がいたから良かったのかもしれない。
 本や勉学に勤しむ中──何度追い払っても戻ってくる相手に対し、逐一抱いている疑問を問い掛けても「分かるわけ無いだろ馬鹿」という答えと共に頭を小突かれていた。なので深く考える間も無く、結局最後は彼の我侭に付き合わされる羽目となっていた。

 きっと今、目の前で項垂れる青年もかつての自分の様なものかもしれない。
 考えるよりも先に、周りに蔑まれる現実を前に全てを放棄してきた存在なのだろうと。漠然とながら、これまでの言動から推測を立ててみる。
 だが、幾ら勝手に推測したところで自分が言うべき言葉はそう変わらないし、恐らく相手も同じ事なのだろうという結論へと達した。
 溜息を吐いた後、フォルカーは手に持った酒瓶を傾け酒を喉へと注ぎ込む。一呼吸終えて、瓶を置いたと同時にでたのは、やはり溜息だった。


「……さっきから、答えを待ってるんだが?」
 苛立ちをついに押さえ切れず、放たれた言葉は低めの声色になっていた。余程それが怖かったのか、正面で両膝を抱えて座っていたミミタニの口から短い悲鳴が漏れる。
「いや、だから。俺はお前を叱りに来たわけじゃなくてだな……」
「あの、でもでも。どうせ僕ク……」
「てめぇがクズでも、そこら辺で飛んでる埃よりかは頭あるだろ」
 言葉を言い終える前に、フォルカーは腕を伸ばしてミミタニの頭に被っている鍋を数発殴る。恨み言を重ねるな、と目で脅すと再びミミタニは俯き黙り込んだ。
 フォルカーが持ってきた食事を前に全く手をつけていないところを見ると、相当ミミタニも反省しているのが伺える。だが、反省したところで行動に移さない限りは、結局何も変わらない。
 仕方が無いのでもう一度、ゆっくりとミミタニに確認も含めて話をする。

「お前にほら、好きな相手が出来るのはいい事だと思う。勿論それに伴って“自分を変えたい”と思うってのも良い事だと……俺は思う。努力も認める」
 話しながら、ここまでは問題無い。と、素直に頷くミミタニを見てフォルカーは確信する。問題はその後に告げる言葉だ。
「ただな、その結果で他人を傷付けちまうと……まあ、今回みたいな事になる。そして……お前は反省しつつも優しいお嬢さん方に励まされ、色々と浮かれていたわけだ」
「だから、ああああれは違うんです! さっき僕自分の姿を鏡で見……」
「お前の為にもう一度説明してやってるんだから、最後まで黙ってろ」
 反論が出る前に素早く三回、強めに鍋を叩くと再びミミタニは黙る。取り敢えず、夕食を終えて色々と話が終わった後に訪れて今までの短い間に……何度この奇妙な鍋を叩いたか分からないが、つい手が出てしまうのはミミタニの言い訳じみた諦めの言葉が気に食わないからだ。

「クローシェを怖がらせた問題よりも、色々と浮かれていたのはカラバからちゃんと聞いてるので言い訳すんな。そもそも、何で人様にまで頼って今回分かれたのか言ってみろ……」
「それは僕が底辺突き抜けてマントル層まで一直線に落ちきったクズだからです……」
「…………」
 フォルカーの返事は、無言で鍋を五回程殴る事だった。頭(の上に乗った鍋)を押さえ、呻き声を上げていたミミタニはもう一度言い直す羽目となる。
「……僕が、クローシェさんを怖がらせてしまった生物史上最底辺ク……いえ、怖がらせちゃったから……です」
「……よし」
 “クズ”と自分で言ったら、容赦無く殴られると分かったらしい。ミミタニは状況を理解していると確認が出来たところで、フォルカーは頷いた。

「……でだ。さっきも言った通り、お前次の依頼でまたクローシェを怖がらせたら……どうなるって俺言った?」
「い、いぬとクローシェさんが出て行くか、僕がいぬに殺されるかのデッドオアアライブです。死のナイアガラです」
「お、おう……何か少し違うが一応、分かってるみたいだな」
 小声で口走った言葉の一部が分からなかったが、取り敢えず意味合い的には正解だと判定してフォルカーは頷く。
「それで……だ。お前このままでいいのか?」
「……僕、別に追い出されてもいいですよ。そんなのもう慣れてますし」
 即座に返ってきた言葉は、フォルカーが予想した通りのものだった。
 この場所に訪れてもう何度目かも分からなくなった溜息を吐いて、暫しフォルカーは思案する。

 ミミタニという男は、自分をとことんまで卑下にする傾向が兎に角酷い。何事も謙遜するのは悪い事ではないが、それを遥かに凌駕した自己否定の様子は病気にも似たものだろう。
 それでも──出会った当初から比べれば、幾分かはマシになった気もする。マシに……というのは、少しでも現状から変わりたいという努力の事なのだが。
 だからこそ余計、このミミタニという青年が若干……いや若干を遥かに通り越し、おかしな方向へ向かっているのが分かるからこそ、フォルカーには歯痒いものがあった。

「なあ……俺はお前が居なくなったら寂しいぞ」
 放っておけばさらに続けて自己嫌悪の文句が続くのも分かりきっていたし、取り敢えずミミタニ本人の考え方を改めなければ話は進まない。ここへ向かう前、共に生活をしている者に呼び止められ事情を説明された時に抱いた気持ちを素直にフォルカーは告げた。
 一方のミミタニは、フォルカーの口から出た言葉が余程意外だったのか自己嫌悪の文句すら言わずに驚いている。
「勿論、あのお嬢ちゃんと犬が何処かに行くのも寂しいな。お前も寂しくないか? 自分の所為で傷付いた女の子に直接謝れず姿を消されると、嫌じゃないか?」
「ええと……はい、ちょっと……いえ、すごく……嫌です」
 自己否定の塊である筈のミミタニとて、自分の所為で幼い子供を怖がらせた事は気に留めているらしい。何か奇妙なモノを持ってきたとファルクレイが眉間の皺をさらに深くして愚痴っていたが、それは現時点でのミミタニにとって精一杯なのだろう。
 案の定、口篭りながらも僅かにミミタニが本心を告げたのは初めての事かもしれない。
 フォルカーが待っていたのは、そのミミタニの本心だった。
 言葉を引きずり出した以上、絶対にこの機を逃すわけにはいかない。

「だろ? よし、だからこれは俺の我侭なんだが……お前何とかしろ」
「アイエエエエ!! ぼぼぼぼ僕がですか?」
 少し強引過ぎたか? とフォルカー自身ですら思うが、目の前にいる相手には強引過ぎる手口を使う他無いのだから、と割り切るよう勤める。
 実際に今後もミミタニがクローシェにとって恐怖の対象となるならば、どちらかが離れていくというのもいい気はしない。
 偽善者過ぎて何処かの誰かに呆れられそうだが、これは紛れも無いフォルカーの本心だ。
「俺が幾ら言ったところで意味が無いし、そもそも……聞いてくれんだろうしな。ならお前が気張らないでどうするよ?」
「いや、でも僕……一体どうやったらクローシェさんに怖がられないか……わわかりません」
「そこは自分で考えろ、人に頼ってたらお前いつまで経っても変われないぞ? 外見からじゃなくて内面から変われよ、自己啓発とかそういう胡散臭い人から与えられたものじゃなくて……」
 柄にも無い事を言ってしまった感が拭えず、フォルカーは勢い良く酒を煽って誤魔化す。
 横目に見ると、ミミタニは俯いてブツブツと何かを言っているようだが内容まではフォルカーの耳では聞き取れない。

 これ以上は何を言っても意味は無いだろうし、暫くの間は一人にさせておいておくのがいいかもしれない。ミミタニの様子を見て、そう判断するなりフォルカーは立ち上がっていた。
「……まあ、次の仕事までまだ何日かあるだろうし。ゆっくり自分なりに考えてみろ」
 子供にでも言い聞かせるような声色で、返事の無いミミタニの鍋を何度か軽く叩く。先程みたく乱暴なものでは無く、コツンと小気味の良い金属の音にフォルカーは苦笑する。

「人間、誰しも上手く人生なんか歩んじゃいないんだから……一度や二度失敗した位で諦めるな。数撃ちゃ正解っぽいのが、そのうち出てくるさ。まあ出来る限りは何とかしてやるけど、ここが自分で考える正念場だぞ」

 ミミタニから返ってくる言葉は相変わらず無かったが、小さく震える肩が彼なりの返事なのだろう。フォルカーはそう思う事にして、黙ってその場を去る選択を取る事にした。

(第12回:2012/12/1)

December 01 [Sat], 2012, 15:28
 11月というのは「昼間は暖かいから」といって薄着で過ごすと、あっという間に体調を崩してしまう。そう考えると、厚着をした上で体調管理が慎重になる冬の方がまだマシだとフォルカーは思っていた。
 この街にやってきて3ヶ月程になるが、この地方での冬は初めての経験となる。
 準備の勝手が分からず戸惑っているうちに、共に暮らしている者の一人が体調を崩してしまったのは……本当に間が悪かった。
 体調管理うんぬんの問題では無く、単に悪い要因が重なった結果の末なのだが。自分が注意すれば防げた事態なのかもしれない、と思うとフォルカーの内では罪悪感が芽生えてしまう。
 幸いにも体調を崩した相手は、2日程寝込んだだけで回復したのが救いだった。

 今日は快晴ということもあり、気分転換に外の空気でも吸わせてやろう。と思って連れ出した少女は病み上がりにも関わらず随分と元気そうだ。
 店が連なる通りを嬉しそうに歩き、こちらの手を引っ張ってあちこち寄り道をしたがるクローシェの笑顔は、フォルカーが勝手に抱いている罪悪感を紛らわせてくれた。
 『夕飯に支障が無い程度ならば、昼食はどうぞお好きに』と憮然に言い放ちながらも、二人を見送ってくれた青年にもフォルカーは幾分救われていた。
 多分、まかり間違っても本人を前に言う事は無いだろうが……人と狼の形を使い分けるあの異形の者に随分と感謝をしている。
 たまに真顔で飛ばしてくる、良く分からない冗談を除けば──の話だが。



「ああ……そうだ」
 はぐれないようクローシェと手を繋ぎ、ゆっくりと一通りの用事を終えた頃には、丁度昼食を取るには良い時間となっていた。幼い少女のいる手前、酒を過度に飲むのは控えようと適当な店へと足を運び、今は注文の品を待っている最中である。
 外を歩いていると結構身体が冷えた為、果汁を湯で割り蜂蜜を加えたものを注文し、一息ついたところでフォルカーは口を開いた。

「今度、行く仕事の事……ちゃんとアイツから聞いたか?」
「うん。クーちゃんから“お姉ちゃん達とお仕事”って聞いた」
「そうか、なら充分だ」
 今度引き受ける事になった依頼──といっても、精霊協会に所属する者同士の訓練に付き合わされるだけだが、フォルカーの口からその事をクローシェに伝えていなかった。ふと、それを思い出したので確認を含めて聞いてみたのだ。
 テーブルを挟んで眼前にいる少女が元気良く頷く姿を見て、ファルクレイが上手く伝えている事を知って安堵する。
 確認が取れたところで丁度、給仕が注文していた品をトレイに載せて席へとやってきた。

「ねえ、おじさん」
 マッシュルームパイを切り分け、数度口に含んで満足したのかクローシェがフォルカーの顔を見上げる。
「さっき頼んだわたしの服、お姉ちゃん達とお仕事する日まで間に合う?」
 どうやらクローシェは、先程買い物に回った際に立ち寄った仕立て屋で頼んだ服を“お仕事”でお披露目したいらしい。
 もうじき昼夜問わず暖かい服装をしなければならない時期が来るのと、何やら服が欲しいと言っていたから丁度良い機会だと思い、クローシェ自身に色々と選ばせてやったのだが……余程楽しみにしているのだろう。
 意外と出費が痛かったが、これは単にフォルカーが自分の懐から出したものなので彼女の付添い人には何も言っていない。実物を受け取ってからならば文句は言われまいと、二人で秘密にしておこうと言ったのがクローシェの中で、さらに待ちきれない原因となってしまったのだろう。
 しかし……。
 訓練とはいえ、依頼なのだから仕立てたばかりの服を着て行くのは非常に危険だ。

「そうだなあ……仕立て屋は早くても7日程と言っていたから、今回は間に合わんと思うぞ」
「……そっかあ」
 クローシェを家に帰した後に、仕立て屋の元へ行って急かせば何とかなるかもしれないが、流石にそればかりは彼女の言う事を聞くわけにはいかない。言われた通りの日数を告げてやると、彼女はパイをつつくフォークを止め残念そうに俯いた。
「今から間に合うとなると……ショール程度か。それ位なら編んでやろうか? 毛糸も色々種類が出てるだろうし」
「いいの?」
 どの道これから冬を迎えるのならば、あった方がいいと思ってフォルカーは口にした一言だったが。思いの他クローシェが興味を持ってくれたようなので、口端が自然と上がってしまう。
「ついでに……後は“お姉ちゃん達”にお菓子でも持って行くか?」
「うん、そうだね」
 さらにフォルカーが付け加えた言葉が効果的だったのか、単に“お菓子”という言葉につられたのか。どちらかは分からないが、クローシェはさらに明るい笑顔で頷いた。
「紅茶に合いそうなものなら……スコーンと、後は……何かあるか?」
「クッキー」
「そいつは名案だ、じゃあその二つにしよう」
 食事をしながら後日作る菓子の内容を相談しあうのは随分と奇妙な感覚に陥るが、クローシェの頭から残念さが飛べば易いものだと思い話を合わせてやる。
 最も──短期とはいえパーティの面子を変えるという相談をファルクレイからされ、尚且つ相手が女性二人。
 これまで女性と接点があると言えば酒場の給仕や、娼婦程度しか知らないフォルカーにとっては充分気は重いのだが。それはこの際考えないように勤める。


 気が重い原因といえば、もう一つ。
 パーティの面子を少し入れ替えようという原因になった、青年──ミミタニの事であった。

 自己啓発だか何だか分からないが、宗教にでも染まった方がまだマシではないのか? と元聖職者のフォルカーですら思わせる程の豹変っぷりに、すっかりクローシェが怯えてしまっているのだ。家を連れ出した時も、不安げに周囲を伺っていた様子を見る限り……余程子供であるクローシェには怖い経験となってしまったのだろう。
 だからこそ今回、彼女をミミタニから少し距離を置こうという話をファルクレイに相談された時は、フォルカーも迷う事無く賛同した。

 無論、双方がいつまでもこの調子だと埒が明かない事も分かっている。
 クローシェが体調を壊したのも、元はといえばミミタニが原因の事だ。だからといって、ミミタニに対して強く憤りをぶつけるのは何か違う気もする。
 一応別行動の間は、彼に関して嫌悪を抱いていないカラバに任せる事にしているが……それでも、改善される見込みは無いと思えば頭が痛い。

 フォルカーには、ミミタニが豹変した原因を知っているからこそ。なおさら彼だけを責め立てる気にもなれなかった。
 もしその事をファルクレイに話したならば、呆れられるのが目に見えている。
 ……とは言っても、あの異形は恐らくフォルカーが思っている事など見通してる事だろう。その事に関して何も言ってこないのは、彼にも何か思うところがあるのかもしれない。

 後日共にパーティを組む事になった、顔も知らぬ女性陣。
 自分を変えようと必死に努力した結果、空回りに終わっているミミタニ。


 あれこれと思考を巡らせ、食事を口に運んでいると時間が過ぎるのはあっという間だった。
 気付けば──ちゃっかりと食後の紅茶を頼んでいたクローシェが、不思議そうにこちらを見ている。それに気付いたフォルカーは、曖昧な表情で目の前に座ってる少女を誤魔化すのが精一杯となっていた。