劇団どくんご「ただちに犬」
2009年06月13日(土) 1時07分
今年、ついに全国40箇所近くをテントで巡演する劇団どくんご。半年以上をかけて回ることになり、ほぼ芝居で食えるかどうかの実験になる。ちょっとうらやましい。10月に大阪城公園太陽の広場でもやるのだが、その時はうちの公演直前なので、先日京都の吉田神社に行ってきた。
劇団どくんごの芝居はすでにある程度のスタイルを確立している。とても前衛的で、一種ナンセンスなシーンの連続だ。ストーリーはないと言っていいが、役者たちの身体も声も鍛え上げられていて、見ていて大いに笑えるし、爽快感がある。
冒頭、犬のぬいぐるみを死体に見立て、誰が犯人かを5人の役者たちが推理する。犯人を特定するたび誰かがそれに意義を申し立て、次の推理を語る。これが囁き声でなされ、次に大きな声でなされる。チラシにも「作・演出」ではなく、「構成・演出」となっているが、おそらく役者たち自身が練り上げた言葉で構成されているのだろうと思う。その後、それぞれの役者が紡ぐ色々な物語もある。前衛的なナンセンスにも思えるが、決して理屈っぽいものではなく、むしろイノセント(純粋無垢)な印象。言葉そのものの喚起力やからだそのものから発せられるイメージが重要視される。役者たちはそれぞれ強烈なキャラクターがあって、そのキャラクターは数年前に見たときともかなり近いから、こういうところも求道的な、一つの自分自身の演技スタイルに向かう精神が伺われる。
一人一人の個性の尊重や確立と共に、集団性というものをどう考えるかというのが、どくんぐのテーマかもしれない。これは見終わってからの考えだが、冒頭とラストで、一つ一つの推理が順番に否定されていくのは、ある主の平等の観念、民主主義のイデオロギーかもしれない。ヒーローやヒロインの否定、場合によっては役割分担の否定でもある。誰もが探偵でありうるし、犯人でもあり得るということ。一人一人の肉体の特権性に比べ、言葉とか意味という特権性は相対化される。そういう歴史性をどくんごは背負っているのかもしれない。
ジョン・ケージはメロディや感情を音から排することによって、<音そのもの>の価値を際立てた。究極なのは沈黙の演奏で、ピアノを弾くことなく、その時間の間、周囲の物音に耳を済ませてみようという試みだ。これはすごく新鮮な体験だ。
だからと言ってその後の音楽にメロディもリズムもなくなったかと言えばそんなことはない。ラップミュージックはジョン・ケージ以降という気がしないでもないが、どんなにメロディアスな音楽でも、音一つ一つの粒は重要であり得る。イデオロギーに支配された人生が、まったくの台無しの人生になってしまうかと言えばそんなことはなく、実はイデオロギーのまったくない人生などあり得ないし、何かを選択しつつ、いろいろなイデオロギーの中で迷いつつ私たちは生きている。逆に、<平等の観念>も実は一つのイデオロギーでありうるし、一人一人の人生を否定することもある。
役者たちの個々の演し物は、それをクローズアップすれば、一つ一つの中でポリフォニックな思いの交錯が有機的に蠢いている。もしこの一つを2時間ものの劇として構成すればどうなるのだろう。そうなれば確実に劇には物語が存在しはじめる。それぞれの役者たちが提出した物語はそれが可能に思えるほど強いものだ。その時、劇は主役と脇とか、一見善悪とかいう対立項とか、そういうものが発生してくる。その中でも明確な関係性を持つことで生まれる個々の十分な価値は出てくるはずだ。
どくんごの劇を楽しみつつ、たぶん私は少し批判的に考えている。ストーリーというものの凄さ、キャラクターの有機的な関係性、そういう言わば伝統的な作劇法の掘り起こしにこそ自分の興味があるのだ。だから芸能ということにこだわる。私にはどくんごの作劇術は、駆けっこで手をつないでゴールするような居心地の悪さも感じる。それでもゴールに向って走る駆けっこは競争と勝負の方法であるし、どくんごも劇的なクライマックス作りはシーンごとに多用している。
どくんごがすごく面白く、楽しく、問題意識を持った集団であることは変わりない。こんなふうに、いろんなことを考えさせてくれる、今どき珍しい劇に出会えることに感謝したい。健康に注意して旅を続けて欲しい。そして、先々でたくさんのお客さんに恵まれることを祈ってます。
劇団どくんごのHPはこちら。
http://homepage3.nifty.com/dokungo/index1.htm
劇団どくんごの芝居はすでにある程度のスタイルを確立している。とても前衛的で、一種ナンセンスなシーンの連続だ。ストーリーはないと言っていいが、役者たちの身体も声も鍛え上げられていて、見ていて大いに笑えるし、爽快感がある。
冒頭、犬のぬいぐるみを死体に見立て、誰が犯人かを5人の役者たちが推理する。犯人を特定するたび誰かがそれに意義を申し立て、次の推理を語る。これが囁き声でなされ、次に大きな声でなされる。チラシにも「作・演出」ではなく、「構成・演出」となっているが、おそらく役者たち自身が練り上げた言葉で構成されているのだろうと思う。その後、それぞれの役者が紡ぐ色々な物語もある。前衛的なナンセンスにも思えるが、決して理屈っぽいものではなく、むしろイノセント(純粋無垢)な印象。言葉そのものの喚起力やからだそのものから発せられるイメージが重要視される。役者たちはそれぞれ強烈なキャラクターがあって、そのキャラクターは数年前に見たときともかなり近いから、こういうところも求道的な、一つの自分自身の演技スタイルに向かう精神が伺われる。
一人一人の個性の尊重や確立と共に、集団性というものをどう考えるかというのが、どくんぐのテーマかもしれない。これは見終わってからの考えだが、冒頭とラストで、一つ一つの推理が順番に否定されていくのは、ある主の平等の観念、民主主義のイデオロギーかもしれない。ヒーローやヒロインの否定、場合によっては役割分担の否定でもある。誰もが探偵でありうるし、犯人でもあり得るということ。一人一人の肉体の特権性に比べ、言葉とか意味という特権性は相対化される。そういう歴史性をどくんごは背負っているのかもしれない。
ジョン・ケージはメロディや感情を音から排することによって、<音そのもの>の価値を際立てた。究極なのは沈黙の演奏で、ピアノを弾くことなく、その時間の間、周囲の物音に耳を済ませてみようという試みだ。これはすごく新鮮な体験だ。
だからと言ってその後の音楽にメロディもリズムもなくなったかと言えばそんなことはない。ラップミュージックはジョン・ケージ以降という気がしないでもないが、どんなにメロディアスな音楽でも、音一つ一つの粒は重要であり得る。イデオロギーに支配された人生が、まったくの台無しの人生になってしまうかと言えばそんなことはなく、実はイデオロギーのまったくない人生などあり得ないし、何かを選択しつつ、いろいろなイデオロギーの中で迷いつつ私たちは生きている。逆に、<平等の観念>も実は一つのイデオロギーでありうるし、一人一人の人生を否定することもある。
役者たちの個々の演し物は、それをクローズアップすれば、一つ一つの中でポリフォニックな思いの交錯が有機的に蠢いている。もしこの一つを2時間ものの劇として構成すればどうなるのだろう。そうなれば確実に劇には物語が存在しはじめる。それぞれの役者たちが提出した物語はそれが可能に思えるほど強いものだ。その時、劇は主役と脇とか、一見善悪とかいう対立項とか、そういうものが発生してくる。その中でも明確な関係性を持つことで生まれる個々の十分な価値は出てくるはずだ。
どくんごの劇を楽しみつつ、たぶん私は少し批判的に考えている。ストーリーというものの凄さ、キャラクターの有機的な関係性、そういう言わば伝統的な作劇法の掘り起こしにこそ自分の興味があるのだ。だから芸能ということにこだわる。私にはどくんごの作劇術は、駆けっこで手をつないでゴールするような居心地の悪さも感じる。それでもゴールに向って走る駆けっこは競争と勝負の方法であるし、どくんごも劇的なクライマックス作りはシーンごとに多用している。
どくんごがすごく面白く、楽しく、問題意識を持った集団であることは変わりない。こんなふうに、いろんなことを考えさせてくれる、今どき珍しい劇に出会えることに感謝したい。健康に注意して旅を続けて欲しい。そして、先々でたくさんのお客さんに恵まれることを祈ってます。
劇団どくんごのHPはこちら。
http://homepage3.nifty.com/dokungo/index1.htm
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