運動会―その2 

2006年04月20日(木) 15時21分
 息子にとって運動会は特別な場だったと思う。
 彼の場合は、みんなと同じスタートラインから『よーい・ドン』で走り出した。当然みるみるうちに一人置き去りにされていく。後ろの列に追い越されない程度にインターバルを空け、次の子供達がスタートしていたが、それでも追いつかれたことがあったように思う。

 高学年になると組体操がある。親達が楽しみにしている競技の一つだ。果たして息子は無事参加出来るかと心配だった。何しろ、小さい上に細い。たまに会う親類の者には、あまりの細さに腕を持ったら折れるのではないかと心配だ、と言われたぐらいだった。そしてミオパチーである。
 でも息子は自分なりに参加の方法を考えていた。
 最初の簡単な組体操は皆と同じように行い、途中から抜けて、各々の組体操のナレーションをしたのだった。そして最後に、又、列に戻って締めくくりをしたのだ。
 自分で先生に提案してのことだったそうで、成長したものだとつくづく思った。

 さて、徒競走の話に戻るが、小学校最後の六年生の時のこと。
 相変わらず最後一人残されて一生懸命に走る彼に対し、「頑張れ!」の声援が上がっていた。ところが彼は時々腕を顔の前に持ってくるのである。よく見ると、その腕で涙を拭っているように見えた。後で、「何で泣いていたの」と尋ねると、最初は否定していたが、事実はこうだった。
 六年間で最後の運動会だと思うと、色々の事が思い出され、自然に涙が浮かんでしまったというのだ。そして、運動会は決して嫌ではない。なぜなら、お友達は皆、自分の事を知っている。ただ、見学に来ている親や大人たちは知らないので、好奇な目で見られているようで、それがたまらなかったとも付け加えたのだった。
 確かにそうなのである。二人の子供達からは、ただの一度も体育の授業や運動会が嫌だという言葉は聞いたことがなかったのだ。
 ともあれ、彼の六年間の思いは、あの涙の中に凝縮されていたに違いない。十年以上経った今でも、私のまぶたに焼きついて消えることのない一コマと、息子の言葉である。

運動会―その1 

2006年03月22日(水) 18時55分
 運動会の定番と言えば、徒競走だ。だが、その徒競走は子供たちにとっては試練の場だ。普通の体育の授業と違い、多数の親や子供たちの視線にさらされる。同じ小学校なのに、娘と息子とでは参加の方法が異なっていた。

 娘の場合、同じ組の最後にゴールする子供に合わせ、コースの途中からスタートした。娘の列がスタートラインに近づくと、娘は先回りして待ちうけ、「ドン」の合図で一緒に飛び出す訳だが、その場面になると周りの親達の間で、「なんであの子は前に行っているの?」と必ず小さなささやきやざわめきとなって私の耳に届くのである。そして娘が走り出すと、「なんだそうか」という納得の顔になるのが手にとるようにわかった。そして最後には必ず「頑張れ」の応援が沸く。
 必死に走ろうとする娘の姿を見て、毎年、毎年、目頭が熱くなっていたものだ。

 そういえば、ある年の運動会の時、こんな事があった。
 娘がゴールを一着で走り抜けた。二着の子は当然納得いくはずもなく、「途中から走ったのにずるい。一着は自分だ」と先生に抗議したそうである。娘としても懸命に走った結果の初めての一着である。はいそうですかと座を譲るのには惜しい。さりとて途中からのスタートである。ジレンマに陥ったに違いない。順位を決める先生の間でももめたようだった。
 でも、ある一人の先生の粋な計らいで決着した。二人ともに一着になったのである。

心を鬼にして 

2006年03月09日(木) 22時35分
 幼稚園児の息子は顔がぽっちゃりして(体は痩せているけれど)とても愛らしかった。お弁当を作る私の傍らに来て甘え、「デザートはフルーツにしてネ。」などと言っていたものだ。

 その幼稚園での運動会では、先生が各競技をサポートしてくださり、紅白リレーでは相手チームが一周分余分に走り、バランスをとってくださったりした。
 近くの多摩川にお散歩の時などは、園長先生が自転車の荷台に乗せてくださったそうだ。私としては、その好意は嬉しい反面、歩かせて欲しかったと身勝手な思いを抱いたりしたが、他の園児の事を考えると、団体行動の為、望むべくもない事だ。勿論、息子はVIP待遇なので、得意満面だった。

 通園の送り迎えは徒歩で、私と母でかわるがわる行っていたが、大人は自転車を転がして行った。息子はその自転車に乗りたくて、すねたり、泣いたり、ぐずったりした。途中で立ち止まり、、座り込んだりして、自転車に乗れることを期待するのだが、我々は無視し、さっさと置いていってしまう。そうすると、大きな声で「待ってヨ!待ってヨ!」と泣きながら走って(?本人にとっては走っています)くるのである。母はこの涙に弱く、つい乗せてあげようと思ったらしいのだが、私が「絶対ダメ。本人にとっても歩く事がリハビリになるのだから。」と言って許さなかった。
 大きな声で叫び、涙ながらに訴え、必死に走ろうとしている息子が、他人の目にはどう映っていただろうか。薄情な親と思ったかもしれない。でも、たとえ小さな事でも、それがリハビリにつながると思えばこそ、心を鬼にしていたのである。

いじめっ子に応戦する 

2006年02月19日(日) 13時12分
 娘が小学校に入学した頃、いじめが巷で問題となっていたと思う。私は日頃、いわれのない意地悪や嫌がらせを受けたときは、そのまま引きさがらず、その子と対峙するよう言い聞かせていた。

 入学間もない頃のこと。娘が踏み切り待ちしていたとき、後ろから押され転ぶ事件があった。舗道のレンガの隙間につまづいて転ぶのであるから、押されればひとたまりもない。当然とどまることなど不可能である。大事に至らなかったのが幸いであるが、今思い返しても鳥肌が立つぐらいゾッとする。
 勿論、学校に報告し、注意してもらった。

 その後のことである。ある雨の日、今度は傘でたたかれたのである。この時、娘はけなげにも自分の傘で応戦した。町内会で入学祝としていただいた黄色の傘は骨が折れ、二度と使い物にならなかった。娘の必死の勇気に乾杯だ。よくやったと娘をほめてやった。

母は強し、されど腰は弱し 

2006年01月22日(日) 21時47分
 息子が小学校2年の時だったと思う。親子の親睦会がクラス単位で催されたことがあった。
 粉の中のあめ玉を口で探る競技は、なにしろ粉の中に顔をつっこむ訳であるから、白塗りのお化けのようになった。
 大豆を塗り箸ではさむ競技もあったが、息子はなかなか器用につまんでいたと思う。

 その中に大縄跳びがあった。皆で歌いながら親が回す縄の中に入るのであるが、当然ジャンプの出来ない息子は参加出来るはずもない。うらやましそうに見ている息子の顔を見て、私はハタと思い付いた。

 背負って跳んでやれば、雰囲気だけでも味わうことが出来るだろう。

 そして私は挑戦したのだ。私の背中で息子は「キャッキャッ」と言って喜んでいた。私もその時はグッドアイデアだと思ったが…。

 後がいけなかった。腰を痛めて医者通いとなってしまったのだ。歩くのがやっとという状態になってしまい、腰ベルトのお世話になった。そして医者には「いくら軽いとはいえ、背負って縄跳びとは無茶ですよ」と言われた。
 私の腰痛との長い付き合いのルーツは、まさにここにあった。

初めてぶつかった現実の壁 

2005年12月15日(木) 23時20分
 息子の場合、私が勤めていなかったため、幼稚園に通わせることにした。近所に同じ歳の仲良しさんがいて、一緒に近くの二年保育の幼稚園へ入園を希望した。筆記試験なるものは無く、親子で面接をした。当然私は息子の病気のことを報告した。型通りの合格発表があったが、その掲示板に息子の番号はなかった。
 4月からお揃いの園服を着て通園することを楽しみにしていた息子に対し、私は何も言えなかった。要するに、面倒な児は受け入れてもらえなかったのであろうが、この幼稚園はある宗教系が経営していたので、私の宗教嫌いに拍車がかかったのは間違いない。

 翌年、区立の幼稚園に入園を希望した。教育委員会から呼び出しがあり、息子の様子を見たいという。私はまるで罪を負った被告人が、裁かれる為法廷へ行くような気分で、息子の手を引いて向かった。
 教育委員会の人は3人で面接に当たった。知能的な遅れは全く無いのに、色々の質問をされ、立ち居振舞いを観察された。見せ物にされているような不快感を覚えたものだった。
 そして最後に委員が集まり、ボソボソと話していた。「この程度だったら、特別問題ないんじゃないの」と一人が言っているのが耳に入った。
 そんなことがあった末、入園許可の通知が届き、晴れて幼稚園児の誕生となった。
 水色の園服や帽子、通園カバンを手にした時の息子の喜びようは、言うべくもない。これを書きながら当時が思い起こされ、涙ぐんでしまった次第である。

手は悪くないんでしょう 

2005年12月07日(水) 23時15分
 子供達が入学の時や、クラス替えで担任が代わる度に、私は先生に病症の説明をした。特別な運動制限の無い事。予防接種等も問題無い事。そして何より、体育の授業には無理が無い範囲で、積極的に参加させて欲しい旨、伝えていた。

 以下は成長した娘から聞いた事だが、小学校中学年の時、「うんてい」の授業があった時のこと。ぶら下がったのはよいが、前にも後ろにも行くことが出来ず、その場に宙吊りになった。勿論その状態も長く続くはずがなく、落下の憂き目に会ったのは言うまでもない。その時に先生がこうおっしゃったそうだ。
「足が悪いのはわかるが、手は悪くないんでしょう。ちゃんとやりなさい。」
と。
 この話を聞いたとき、私は娘に対し、非常に申し訳ないことをしたと自己嫌悪した。何故なら、病状説明をきちんとしていなかった為、先生に誤解を与える結果を作ってしまったからだ。
 「筋肉の病気の為、走ったり、ジャンプしたり出来ません。運動能力が他のお子さんと比べ、非常に劣っています。」この様にお話ししていたと思う。筋肉は足に限らず体全体にあるということを、故に、手も指も首も普通と違うということをもっときちんと説明すべきだったのである。ごめんね

悪意のない幼いひとこと 

2005年11月22日(火) 23時09分
 娘は保育園に通っていた。園児達は毎朝近くの公園までのランニングが日課だった。勿論一緒について行けるべくもなく、仲間から「頑張れ!頑張れ!」の応援があったという。

 そんなある日、紅白リレーがあったようだ。娘を迎えに行った時、ある園児が自分の母親に「おゆうちゃんと同じ組に入るのはイヤだ。おゆうちゃんのせいで負けちゃうから。」と訴えているのを耳にした。(おゆうは娘の仮名)
 悪意のない真実だけに、私は胸が痛んだ。

 小さいうちは病気が原因でいじめに会うかもしれない。大人社会に近づけば、表面では気にしていないふりをしても、内心ではうとんじる人達も出てくるかもしれない。小学校に入学してから体育の授業は、運動会はどうなるだろうか?また、休み時間の外遊びでは仲間外れにならないだろうか…と、そんな心配がふくらんできた一言だった。

病名がわかる 

2005年11月15日(火) 17時13分
 赤茶色のレンガ造りの大学病院の一室で、私は息子を抱きながら患者用の丸椅子に腰掛け、目の前に座る主治医の口元をじっとみつめていた。その口から言われた言葉は

「お子さん達は先天性ミオパチー・セントラルコア病という病気です。」

その聞いたことの無い病名に「えっ?もう一度言って下さい」と頼んだ。
 医師は以下のような説明を付け加えた。
「筋生検の結果、細胞の中央、つまりセントラルに穴があいている状態が見られる。その為、筋力低下を引き起こしている。又、症状の重軽は穴の多少とは関係ない。治療法はない。人間は一人ひとり、目や鼻の形が違うように、もって生まれたものなので、進行性のものではない(※)。リハビリによって、筋力を維持、高めるようするしか、方法が無い。ちなみに、日本でこの病気と判定されたのは、お子さん達が7、8例目だ。ただし、欧州では非常にめずらしいという訳ではなく、日本でも筋生検までする人は少ない為、運動が苦手、出来ないという程度で見過ごしてしまっている人が多いと思う。潜在的な患者はかなりいると思う。」
そして、世田谷の国立小児病院に一人同じ患者がいるとも付け加えた。私は初めて耳にした病名を紙に書いてもらい、病室を後にしたのだった。
 娘が生まれて5年間、求めていた答えが出たものの、それは私にとって二人の将来はどうなるのだろうか、代われるものなら代わってやりたいと、ただただ大きな不安に包まれるものだった。

 あれから23年が経過し、遺伝子学的な研究も進み、高熱症や側わん症との関係も明らかになってきた。14〜15年ほど前までは医師の間でもマイナーな病気だったのが、今では東京都の難病指定にもなっている。にもかかわらず、未だ多くの人が病名もわからず、複数の病院をまわるなど、悩み多き日々を送っていたという事を聞き、信じられなかった。そのような方々の為にも私のブログや、「みおぱちっく」がお役に立つことを祈っている。

※今は進行性であると訂正されている。

こんな医者はいらない 

2005年11月11日(金) 22時13分
 万葉の時代、山上憶良が詠んだこんな和歌がある。
「白銀も黄金も珠も何せぬに 優れる宝 子にしかめやも」
ご存知の方も多いであろう。

 さて、大学病院に検査入院した約二週間の間に、教授回診なるものがただ一度だけあった。初めて顔を見る教授からどんな事を言われるのであろうかと不安だった。2〜3人の若い医師を引き連れて病室に入ってきた教授は、彼らと二言、三言、言葉を交わしていた。
 おそらくこの時点で、私はまだ知らされていなかったものの、子供達の病名は90%以上分かっていたのだと思う。
 その教授が私に向かってこう言ったのだ。

「なんで産んだの?」

 私は頭の中がガーンとし、真っ白になった。この人はなにを言っているのだろうと、一瞬思考が止まってしまった。考えてもみなかった問いかけに、当然答えなどあるはずがない。生まれてきた子供達の全人格を否定しているかのような言葉。まるで、生まれた事自体がまちがっているかのような言葉。五体満足を望まぬ親が、どこの世界にいるというのか。どのようなハンディを背負っていても、この世に生まれてきたからには、より幸せな人生を送ってもらいたい。そしてなにより、子供自身が自らを否定するようなことにだけはなってもらいたくない。そう願うのが親であると思う。そのためにできることなら何でもしようと思うのが親である。医者はその為のサポートをするのが、本来のつとめだと思う。
 優しい言葉や、なぐさめの言葉を欲しているわけではないが、せめて一緒に頑張りましょうの一言ぐらいは言っても悪くないと思う。それなのにこの教授は「なんで産んだの?」である。

 当時私も若かった。返す言葉も持たなかった。でも今だったら言ってやれる。
「あなたはなんで医者になったの?あなたのような医者はいらない」
と。思い出すたびに、悔しさとせつなさで涙ぐんでしまう。今でも決して忘れることの出来ない、心の澱として残っている。
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