34.こころ

March 01 [Tue], 2016, 23:53
人のこころってどこにあるの?
小さい頃、不思議に想っていた問いの答えはおとなになるとわかることがある。

たとえば恋をしたとき、胸がきゅんとして痛んだり。
たとえば誰かの泣く姿を見て胸がじんと痛んだり。

大体、なにかしら痛い想いをしたときに、こころの在り処を感じとる。
そしてどうしたらいいのかは頭のなかで考えて、自分のこころの痛みを取ろうとする。

これはとても普通のこと。
なのに最近、私はこころの痛みの取り方って頭で考えることだろうかと想うようになった。

それがどうしてかといえば、自分の痛みのように誰かの痛みを感じる時。
頭で考えることなく、こころが求めるままに、なにかをすることが多いからだ。

もちろんその痛みから逃げることも、その痛みに飛び込むことも。
誰かの痛みに寄り添って、手を差し伸べることも。

感じる誰かの自由のなかで、一瞬考えなければできないことだけれど、
その考えている合間にも目の前にある痛みが火傷のような熱を持って自分に移ってくる。

ほんの一瞬。
些細なことがきっかけで落ちてくる痛みが味わったことのあるものであればあるほど、
こころが勝手に反応して、まるで共鳴でもするかのように、自分のすべきことを求めるのだ。

これこそ経験値がものを言う、というような世界だと想うのだけれど、
その痛みに飛び込もうとすればするほど、躊躇も考えることも必要なくなる気がする。

それにただ痛みから逃げることはとても簡単に見えるくせに、
いざ逃げてみれば案外、飛びこむよりも重たい荷物を背負って山道を登っているような感じがする。

そんな生き方はとても窮屈で、なんだか心を浪費しているだけな気がしてもったいないから、
いつでも受け入れる気持ちを持っていた方が、実は幸せな生き方かもしれない、と想う。

こんな風にこころの持ち方で沢山のものごとが変わる時、
アンテナはいつも胸の奥にあって、わたしにやらなければいけないことを教えてくれる。

そしてこのなかにも喜びの痛みや嬉しい痛みは当たり前にあるのだから、
それも丸ごと自分のこころで抱きしめて、いつかなにかのために使えるように置いておく。

そんな場所も実はこころのなかにあったりするんじゃないかな。
なんて夢でも見てるかのように考えることがある。

こころが狭い、こころが広い。

こんな言葉が世の中にはあるけれど、
こういう人生で得た財産の起き場所が大きいほど、こころが広い、になるのかもしれませんね。



――あなたの心の広さはどのくらいですか?
残念ながらこのストールくらいです。でも温かさには自信があります^^

■お団子■

February 29 [Mon], 2016, 23:01
今日、いつも行くスーパーを歩いていたら、
物産展で出店している和菓子屋さんに呼びとめられた。

「綺麗なお姉さん、わらびもち美味しいよ!」

実に上手な褒め言葉である。
ちょうどおなかも空いていた私はふらふらとわらびもちをもらった。

おいしい!!!

その間にもおじさんが色々とほめちぎってくれるので、
うっかり気をよくした私はわらびもちとあるものを買ってしまった。



冷凍しておけばひなまつりくらいまで大丈夫らしいのだけれど、
そんなところまで待っておけないので、明日食べることにする。

見ず知らずの人でも褒めてくれると嬉しいものですね^^

33.不調

February 28 [Sun], 2016, 18:26
ここ三日くらい、体調がすぐれず寝るかぼーっとして一日を過ごしていた。
久しぶりにここまで体調が崩れたな、と想うくらいピンチに陥っていたのだけれど、
今のところは少し落ち着いて、なんとか明日は会社にも行けそうで良かった。

それでも本当なら今週末は妹とちょっと出かける予定があっただけに、
不調が長々と続いてしまって、出かけられなかったのがとても残念だったりする。

こんな風に不調が続いた時、温かく声をかけてくれたり、
食べたいものを買ってきてくれたりされるとなんだか胸にじーんとくるものがある。

特に今回は心が焦げ付いたような感じが強くて、
身体以上に精神的な不調が大きかったから、とても安心してしまった。

「もうこれ以上は無理」

そう想った瞬間、一日一歩ずつ歩いているつもりでも、気づけば三歩歩こうとしていたり、
無理をしているつもりがなくても、無理が重なっていたりして、とてもバランスが悪い。

特に私の場合は周りの人から「頑張り過ぎちゃだめだよ」とよく言われるのだけれど、
本当にうっかり、エンジンをフルで動かしている時があって、そのあとのダウンタイムが長い。

じゃあ、どうしたら治るのかな。

と想っても、案外のんびりしているようでせっかちなところもあるから、
それで私自身、どんどん箱の隅に追いやられて逃げ場がなくなっている時もある。

本当に、気持ちのバランスを保ちながら生きていくってどういうことだろう。
ただ生きるだけなら毎日をちゃんと歩いていけば済むことだと想うのだけれど、
このバランスを取りながら生きていく、ということは考えてばかりいると難しかったりする。

自分が本来の自分じゃないような気がしたり、
本当はやらないといけないことをやれていないんじゃないかと考えたり。

そういうことを考えはじめると途端に「生きる」ということの彩度が落ちて、
急に難しいことのように思えはじめてくるから、とても悪循環。

なら、この悪循環をどうやったら取れるのか。

それがまだまだわからないのだけれど、それでも毎日少しずつ新しいものを見つけたり、
空を見ながらぼんやり深呼吸をしていれば、また今までとは違う色合いで彩度が上がるだろうか。

ぜひそうであってほしいな、と想う。

しかし、今回のダウンタイムは自分でも長かったと想うから、
明日からの過ごし方をまたゆっくり考えて、もっとのんびりする時間をつくりたいと想う。



身体や心がきついときは「止まれ」
こんな標識が時々、人生にも設定されていると想うから、
その標識を見落とさずに、あるいは標識が現れる前に私自身ゆっくりしたいと想う。

じゃないと、生きるのってしんどくなっちゃうから。
本当に「生きたい」けど「しんどい」っていうのが一番つらいと想った三日間でした。

明日はなにか良いことや楽しいことを見つけられるといいな!

32.世界

February 25 [Thu], 2016, 22:23
昨日、ある人のインタビュー記事を読んだ。
もちろんインタビューされるくらいだから私より随分と世界の広い人の記事だったのだけれど、
そこには私の知らないその人が載っていて、それなのに不思議なくらい親近感を覚える記事だった。

「自分の中に枠を作りたくない。壊したい。」

そう言いながら何かと闘っているようなその人の世界観はとても面白くて、
私が自分のなかに作っている世界観とよく似ているように思った。

ただ感性の赴くままに、何かを感じながら、見つけながら生きていきたい。
私は常にこういう考え方で生きているのだけれど、それは枠に囚われたくない、のと同じだったりする。

たとえば常識に囚われてしまえば新しいなにかを取りこぼしそうになるし、
決められた枠のなかにおさまったらまだ出逢っていない自分を失くしてしまう。
そんな気がしていつも見るもの、聴くもの、感じるものには両手を広げているのだけれど。

自分の世界を広げるってどういうことなんだろう?
時々そう想いながら、それでも足踏みして私自身、小さな世界に留まることがある。

できるならやったことのないことをやったり、見たことのない場所に行って、
知らないものを沢山知りたい、触れたことのないものに触れたいと思っているのに
ついつい「現実」に腕を引かれて、立ち止まったり、同じことを繰り返したりもする。

それに気づく時、やっぱり自分の知っている世界は狭いんだな、と落胆して、
どうやったら世界を広げられるんだろう、と同じ自問自答を繰り返す。

私が生きている「今」という瞬間はとても短いものなのに、どうやったら、どうやったら。
そう考えていること自体が本当はもったいない時間なのかもしれないけれど。

だから最近はちょっとしんどくても休日に誰かと一緒に出かけたり、
会社の帰り道もわざと遠回りをしてみたりして、見るもの、触れるものを新しくしながら、
本当に小さな広げ方だけれど、自分の生きる世界がもっともっと色づくように試している。

もちろん、これで枠を取り払えたなんて言うつもりはないけれど、
その中で感じるものが増えてくれれば私の生き方としては良い感じな方だ。
そしてこういうことを始めてから、ただ受け入れるだけだった人生が、少し変わった気がする。

それでも生き方の話をすれば、少し前に流行ったディズニー映画の主題歌で
「ありの〜ままの〜」がサビの歌が、私はあまり好きじゃなかった。

ただ「ありのままの」と歌ってるだけでなにか変わるのか。
なんて睨んでしまうような、ちょっとした反発心みたいなものもあったのだと思う。

こう言うとなんだかその頃、私が尖った生き方をしていたようにもみえるけれど、
ただ自分の想いの向かう先に、意志を持って、歩いて、生きていきたい。

そう想って毎日それだけは曲げることなく、当たり前のように繰り返していたから、
それが私自身にとっての「ありのまま」だと訴えたかったのかもしれない。

そういう意味で私の生き方は枠を取り払いつづけて生きていくというよりは
いつでもさらっとかわして受け取りながら擦り抜ける感じに近いかな、と思うけれど。

今も、この先も、その生き方だけは変えたくないと想う。
そしてそれはしなやかさを持ったままで。

質実剛健穏健。

日常と今を連続するように生きていく人生のなかで、
つねになにかを壊しながら創りつづけていく道は本当に険しいと思うから、
それよりは柔らかく、それでも自分らしく、生きていける道を探し続けたいな、と想う。

あとは優しさ、想いやりを忘れずに。
それを大事に、今年もがんばって生きていきたいと思う。
なんて言いながら、最近毎日飲んでいるお気に入りのコーヒーは変わらない。



やっぱりコーヒーはLATTEからフレーバーものに限る。
おかげでブラックはご無沙汰になったけれど、お気に入りなんだから仕方ないね。^^

31.愛

February 23 [Tue], 2016, 23:45
You Don't Have To Say You Love Me.

愛している人にいきなりそう言われたら、普通の人はどう思うのだろう?
ただ単純に嫌われたと想うのか、それともその愛はいらないと言われているのか。
どう解釈するとしても、とてもネガティブな言葉に見えるのがこの言葉だと想う。

あなたは私を愛しているという必要はありません。

日本語にしたらこんな言葉なのだけれど、
もし私が愛している人に言うことがあるとしたらこの言葉を言ってみたいと想う。

ちなみにどうしてかと聴かれたら私は愛している、方が好きなタイプだからで、
別に「愛している」と言われたくない、というわけではないのだけれど、
どうしてもそこでそれを言って欲しいとは思わない人間なのだ。

もちろんそれを言われないだけで人生、ひとつ損をしているような気がしないでもないけれど、
そもそも「愛している」ということがどういうことなのかを考えたら、言葉は飾りにしか思えない。

じゃあ、愛するってどういうことなの?
考えていたら普通にぶつかるこの疑問の答えもシチュエーションによって変わるのだけれど
恋愛だけで言えば、ただ静かに向き合って、夢中で相手を抱きしめることじゃないかな、と想う。

それが物理的にでも、精神的にでも、いっそ関係なく。
そこに浮ついた情熱もなければ、荒々しすぎる風もなくて、
ひっそりと耳をすませば胸の奥で煙草の燃える音によく似た音がする。

そんな静かすぎる感情を、私は「愛」と呼んでいるけれど、
この感情を「愛」だと感じる人もいれば、そうでない人も居たりして、
そういう誰かとぶつかったとき、どんな表現も大きな壁に阻まれて「伝わらない」と思う。

そしてその「伝わらない」感情を無理矢理言葉にしようとすれば、
結局は「愛している」んだけど「愛していない」になる気がして、その義務感が嫌になる。

ただ苦しいときに寄り添いあうこと。
相手の存在自体を丸ごと抱きしめること。

これを黙ったままでやれることが「愛している」ことになるのなら、
「愛している」なんて言う必要はないから、心はずっとそばに居ましょう。

そういう意味で、言ってみたいのがあの言葉だ。
「だから、あなたは愛していると言う必要なんてないから愛されていて。」
そんな風に言えるとちょっとは「愛」っていう言葉がカッコよく見えるのかもしれない。



愛する・愛されると言えば、甘える・甘えさせる、に変換もできるけれど、
本当に何かを「愛する」時、実はその言葉が一番厳しい言葉に変わるんじゃないかな、と私は想う。

P R
プロフィール
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  • アイコン画像 ニックネーム:叶夜 遊
  • アイコン画像 性別:女性
  • アイコン画像 血液型:A型
  • アイコン画像 趣味:
    ・カメラ-大体、目についたものを。
    ・音楽-メッセージのある曲が好き。
    ・旅行-港町が好き。
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