日中戦争従軍記と太平洋戦争下のマレー農園指導

October 28 [Fri], 2011, 15:57
日中戦争従軍記録
父の戦争体験、戦場での想い、そして彼は何を夢見たか?
What did Dad Do, Feel and Learn in the war?

日中戦争
Sino-Japanese War
シンガポールとマレー農園の指導
Singapore and Malay Plantation
編集 YOSHIYUKI HIRANO


English Homepage: see http://www.justmystage.com/home/jujube/
For more details, refer to Kindle ebooks 'Sino-Japanese War'
and 'Singapore and Malay Plantation.'


福知山市大江町の農家に生まれた春太郎は、日中戦争が勃発した約1年後の昭和13年7月、日本軍の召集を受けて中国戦線に従軍しました。福知山百二十聯隊(中支那派遣軍百十六師団)、第二小隊第四分隊長として派遣され、中国安慶を起点として、まる4年間、日本軍の治安警備の任に当たりました。軍隊の任務を終えて一旦帰国した春太郎は、石原産業の社員となり、昭和19年7月、太平洋戦争が激化する中、シンガポールに招聘され、マレー農園を指導するため海を渡りました。それは「夢」のような出来事でした。戦後、春太郎は、激動の時代の彼の経験を手記として記録し、家族に託しました。その手記の一部を紹介します。
In 1938, about one year after Sino-Japanese War (the Second, 1937-1945) started, Harutaro was called up by the Japanese army and dispatched to the Chinese front. He stayed mainly in Anqing of China and served there for four years as a squad leader of the Japanese security force. In 1944, amid the intensifying Pacific War, he chose to work on the Continent in Singapore as an agricultural expert and advisor to the Malay Plantation Project. After the war, he recollected his experience and left memoirs for his family.

父の遺骨から鉄砲の弾
昭和13年7月、春太郎の軍隊は上海に上陸しました。すでに、日本の武漢攻略の決定が行われていました。上海より杭州を経て、湖州に至り、ここで4ヶ月警備に就いた後、汽車と揚子江を利用した舟で、同年11月、安慶に到着しました。日本軍は、前月10月に武漢地区を占領しており、警備体制に移ったばかりの時期でした。周囲を取り囲む中国軍が絶えず攻撃をしかけ、日本軍を悩ませていました。春太郎は、内地に帰還するまで、安慶を基点として、出撃を幾たびとなく繰り返し、日本軍のために地域の治安警備の任に当たることになりました。この4年間にわたる戦闘で、春太郎は体に3発、雑嚢、水筒、円ぴにも8発被弾したといいます。終戦後、平成13年、88歳で亡くなりましたが、火葬後、遺骨に混じって出てきたものは鉄砲の鉛弾でした。
What did he experience in Sino-Japanese war?
In 1938, Harutaro was enrolled, as a squad leader, in Second Platoon, Fourth Company of Fukuchiyama Infantry Regiment 120. His troop landed at Shanghai, then moved to Huzhou, and arrived at Anqing in November, 1938. The previous month, the Japanese army had succeeded in occupying Wuhan district. The Chinese soldiers strongly resisted the Japanese army and frequently attacked them. In fierce battles over four years, he was hit three times in the body and eight more on a duffle bag, canteen, shovel and other things. In April, 2001, he passed away in the hospital near Lake Biwa at the age of 88. After the incineration of his body in the crematory, a piece of lead shot lurked long time near his heart was found in the funeral ashes.

 鮮烈な記憶の裏に錯綜する大陸への想い
安慶に到着した時、春太郎は24歳、常に17名の部下を率い、戦死・負傷兵が出るたびに、補充兵を迎えました。毎日、三度の食事を作り、苦しい時も、楽しい時も、心を合わせて暮らしました。自身は、内心、いつかは戦場で死ぬと、割合呑気な気持ちでいましたが、家族を持っていた部下は、内地に帰ることを夢にまで見ていたことでしょう。幸い、春太郎は、昭和17年5月、中国戦線での従軍の任務を終え、無事帰国しました。春太郎の特異なところは、そこを戦場と知りながら、天性の観察力と好奇心を備えていたためか、彼の心はむしろ敵軍との争い以外のところにあったことです。広大な大陸に感動したり、揚子江流域では乗馬に夢中になりました。駐屯地近くの池に洗濯にやってきた村の婦人たちはとても親切に何日もの間、彼に中国語を教えてくれました。
What did he feel and learn in China?
Harutaro was 24 years old when he arrived in Anqing and always led 17 soldiers. The men killed or wounded were replaced. They got along together, sharing hardships as well as some of happy time. He always went easy, since he took it for granted that he would die someday, somewhere, on a battlefield, but many of his men, he thought, might have dreamed of going home to join their family. He had realized the importance of his mission, but strange to say, what impressed him most on the battlefield of China was grandiose nature of China and people living there. Despite the wartime, he felt interested in Chinese language. He tried to learn Chinese language from local women coming to a pond for washing clothes. Two or three women always gathered around him and kindly cared for his practice for days. He also learned riding a horse. Galloping around along the Yangtze River remained long in his heart as an unforgettable memory.

 再び海を越えてシンガポールへ ― マレー農園の指導
中国戦線から帰国後、春太郎はしばらく舞鶴海軍工廠で青年学校の指導をしていました。一年ほど勤めた時、知人を通じて、「フィリピンのマニラか、シンガポールの農園に行ってくれないか」という知らせが大阪の石原産業から届きました。壮大な規模の農園を担当するという、夢のような役目でしたので、春太郎はその申し出を受け、シンガポールに行くことを決心しました。そして、太平洋戦争下の昭和19年7月、春太郎は、8千トンの汽船6,7隻、船団を護衛する海防艦2隻と共に、神戸港を出航しました。当時、渡航する30パーセントくらいの船が、米国の潜水艦に沈められているとの噂が流れていましたが、春太郎には戦場の経験があったため、何の不安もありませんでした。シンガポールとマレーでは、日本軍の占領下とはいえ、現地住民の暖かい心に接し、人種の違いを超えて交流することができました。華僑の青年たち、マレーの住民、インド人、ジャワ・ボルネオ・スマトラなどインドネシアの島々から渡ってきた旅人たちと親密な交流を行いました。春太郎にとって、おとぎの国に来たように思えたのです。
What was his new mission in Singapore and Malaya?
In August, 1944, amid the Pacific War, he left Kobe with a fleet of steamships to Singapore. Around this time, about 30 percent of the ships going abroad had been sunk by the U.S. submarines. His heart, however, bounded, all through the voyage, with expectation for the new land across the sea. In Singapore and Malaya, even under the Japanese occupation, the local people around him were all warm-hearted and generous for Harutaro. He could closely associate with many peple beyond racial differences - Singaporeans, Chinese, Malays, Indians and people from Indonesian islands. Harutaro felt as if he were in a fairy land.

 春太郎の人間性について
農村に生まれ育った環境が影響したのか、春太郎は生来何事にも好奇心が旺盛で、観察力に富んでいました。戦後60年を経ても、体験した当時の情景を詳細にほぼ正確に記憶していたのはそのためだと思います。戦後は郷里で酪農に従事し生計を立てましたが、日常生活では、社会情勢に特別関心をもっていました。一方で、雄大な大自然から宇宙の神秘まで、よく好んで話題にしました。さらに偏狭な人の心、不公平、社会的、人種的偏見を嫌ったのも特徴的でした。これからのアジアや世界の平和を願う時、単に戦争行為そのものを話題とするだけでなく、どんな人間性を培ってお互いに対応していくべきか、原点に戻って考えてみる必要があると思います。
What could be learned from his memoirs?
Harutaro, by nature, had a great deal of curiosity in many things. He liked to talk especially about grandiose nature, the vast universe, animals, human behaviors and world affairs. He hated the narrow-mindedness of people, unfairness, and racial and social prejudices. What he left for us is a valuable message.


日中戦争抜粋

 竹藪の高地での戦い
最初の戦いでは、月明かりの中、腰まで水につかりながら水田を走った。初めて体験する弾の嵐。弾の音がズーズーと聞こえ、左右の戦友が倒れた。別の戦いでも猛烈な射撃を受けた。中隊長戦死、小隊長は負傷、一個中隊二百人あまりの半数が戦死するという激しい戦いだった。ある隊員は「穴に頭を入れておれば、尻に弾が当たっても命は助かる」と、手で必死にその場に穴を掘ったという。機関銃の応酬でたくさんの血が流れた。日中両軍の兵士とも若く、妻子ある人も多かった。

 南昌攻略作戦
昭和14年春、南昌を南北から攻略した。広東省から北上した部隊と、漢口から南下した部隊が手を繋ぎ、中国軍を東西に切断して壊滅に追い込む作戦らしく思われた。春太郎の聯隊は鄱陽湖に出撃した。工兵の参加で10舟ほどの鉄舟に乗り、安慶から20キロ余り上流にある湖口を出発。敵軍から悟られないためか、湖口を出発したのは夜10時頃であった。暗闇の中でエンジンの音を聞きながら、知らぬ間に眠っていた。「飛び込め!」という工兵の声に目が覚めた。上陸した砂浜から丘に上がると、その丘の向こうに広々とした畑があった。黄色い菜の花が、見渡すかぎり延々と続いていた。あまりの美しさに夢のような気がした。

 中国軍の冬季攻勢
昭和14年12月、中国軍の全面攻撃が始まった。この頃、日本軍は戦線を拡大し過ぎたため、食糧、弾薬などの輸送が停滞、戦力は低下し始めていた。中国軍は、一挙に日本軍を攻撃して、戦線を奪回しようと計っていた。その時、春太郎の小隊は陳家牌という小さい部落で警備していた。陳家牌は、安慶の北方七、八キロの内陸部にある。前面に1キロほど先まで美しい田園地帯が開け、後方は、二百メートルを越す高い山に囲まれた盆地だった。日本軍による宣伝宣布がよく出来ていて、住民は日本軍に馴れていた。平常は穏やかな平和郷のようだった。しかし、冬季攻勢が始まって一夜明けると、様相はまるで変わっていた。後方の山々は中国兵に囲まれて、私の小隊はまるきり袋の鼠同様になっていた。

 青陽攻略
昭和17年2月頃、青陽攻略という新たな戦闘に参加することになった。 青陽は安徽省の南部、揚子江の南岸にある。人口一万人くらいの街で、路は狭かったが、案外美しい街であった。岩山を抜けて、草の生えた山道に出た。春太郎の中隊は聯隊の最後尾にあり、後衛尖兵という重大な役に就くことになった。もし、敵が追って来たら、命がけで追い払う責任がある。細道である上に、列はなかなか進まず、春太郎の隊は列から遅れていった。敵が造形を立て直したのだろうか、広いたんぼを通り、山道に入った時、後方の山やたんぼの中から、10名ほどの敵が追ってきた。


シンガポールとマレー農園の指導抜粋
 シンガポールへ出航
昭和19年8月、春太郎を乗せた汽船は、夕方になる2時間ほど前に、見送り人が一人もいない中を出航、台湾経由でシンガポールに向かった。予定通り、真夜中に、黒い大きな島に着いた。それが正しく台湾だったが、一つの明かりも見えない。これは敵の攻撃を恐れて暗くしていたためだと分かった。台湾を過ぎてからは、時々、島影が見えては過ぎ、また、見えては過ぎるという航海になった。海の上に飛ぶ鳥の姿は見えないが、幾百、幾千のトビウオの飛ぶ姿が珍しく、心が和む気持ちがした。時々、伝声管から「敵潜水艦から魚雷発射、退避!」の声が聞こえて来る。すると、皆、浮き袋を着けて甲板まで昇って行かなければならない。それが邪魔だった。4、5日もすると、皆、「ままよ」という気持ちになり、誰も上に昇らないようになった。

 マレー農園の経営
春太郎が従事したマレー農園は、ジョホール州の「南岸鉱山」だという。太平洋戦争中、石原産業が開発に携わったマレー半島の鉱山で、ボーキサイト鉱山として有望視され、農業開発を併せて行い、鉱石を掘り尽くした後も農地として現地人の生活を保証するよう計画されていた。春太郎は、農園指導の全責任を任された。農園の数は13、その間をジャングルに囲まれた道路が碁盤の目のように走っていた。付属事業として、塩の製造、漁場が4つ、炭焼き人夫200人、ヤシ油から石鹸も作っていた。そこで働く現地人の数は3,500人くらい、将来はそれが1万人になり、農園の面積は1万エーカーを目標にしていた。農園間の移動は馬と車。春太郎は、できるだけ各農園を回り、事務所で働く青年達と一緒に泊まって、夜中の2時、3時まで話すのが日課になった。

 スコールとマンデイが風呂代わり
赤道直下のマライでは、ほとんど毎日、「スコール」が降る。朝日が出ると、温度がぐんぐん上がり始め、正午頃には40度近くまで上昇する。午後2時か3時頃、赤道直下のマレーは、ほとんど毎日、スコールが降る。ドーナツ型の白い雲が頭上に出来ると、飴玉くらいの雨が落ちてくる。スコールが降り始めると百メートルも逃げる余裕はない。ところが、15分か20分過ぎると、また、からっと晴れる。スコールが降り始めると、皆、裸で外に飛び出す。これが風呂代わりにもなる。日本と違い風呂はないが、毎日3、4回くらい、頭から水をかぶり、体を洗う「マンデイ」という習慣がある。春太郎も朝起きると裸になり、タライを手に持って、近くの流れにマンデイに行った。実に気持ちが良い。一緒なので、皆と心安くなった。

 夜の光景とマレー人の踊り
夕暮れは、気持ちが良いほど涼しくなる。春太郎の事務所は、海岸からは僅か30メートルくらいの距離がある。砂浜が続いて、ヤシの木が並木のように植わっていた。まるで絵のように美しい光景だった。夜は、満天の星空を楽しむ。南十字星が美しく輝く夜、ポンポンという鼓(つづみ)の鳴るような音が、どこからともなく聞こえてくる。マレー人の美しい娘が数人踊っていた。至ってスローモーションの、のんびりした踊りだった。海辺のヤシの木にも親しみを覚えてきた。ヤシの木は、高さが30メートル近くあり、その羽根のような葉が、風に吹かれて揺れていた。

 シンガポールの泥棒市場
シンガポールは、いろいろと変わった面白いところがある。泥棒市場もその一つである。街の外れの北の端で、露天のように天幕を張って、日用品を売っている。見て回るだけでも気分転換になる。店の人々の性格もさまざまで、品物を買わないでも、ひやかしながら話しているだけでも面白い。赴任して間もない頃、マレー語がまだ少しも解らず、手真似でひやかしていた。さすが国際都市の商売人だけあって、客の気持ちがすぐ伝わる。店屋を回るだけで大変面白く、半日くらいは知らぬ間に過ぎていく。赴任して間もない頃、夕暮れ前になり、帰途に着くため人力車に乗った。そして路に迷った。車夫に、指で南の方を指して、帰り始めた。どんどん人力車を走らせた。いっこうに目的地に着かず、夜どうし人力車を走らせるはめになった。車夫は当惑し疲れ果てた様子だった。

 獣のハンティング
事務所で働く青年たち(カラニー)と、ゴム林を歩きながら話し合った。度々、野生の猿の群れに出会う。数百匹が群をなし、どこから来るのか、枝から枝を伝ってやってくる。その群が果てしもなく続く。何とも言えない光景だ。農園3ヶ所に、3千頭の豚を飼育していた。その豚小屋の豚を、ときどき虎が襲撃した。その襲撃の仕方は凄まじい。虎は、夜間、獲物を捜し回る。虎の生け捕り方法は3通りあった。インド人は、二人一組になり、槍を投げて、鹿を捕る。槍に刺さって勢いが弱った鹿のくびに、何と、両手を巻いてぶら下がるのである。猪捕りの話も面白い。昼間、中に隠れている猪の穴の前に忍び寄る。そこに隠れて、ゴマの実を取り出し、指で押して潰す。「パチン、パチン」というような音がする。ちょうど、猪の連れがゴマの実を食べている音と間違うのか、その音を聞いた猪が、だまされて、ひょいっと、穴から首を出す。出てきたところを、槍で突き刺して捕る。猪が頭を出すまで、3時間でも、4時間でも、ゴマの実を潰し続けるという。気の長いことである。

 元海賊の親方との交際
赤道直下の人々は、生まれつき正直で、人情に厚いことが分かった。特に、海賊の親方リンセンに出会ったことは、幸運であった。中国人の彼は、春太郎を大変可愛がった。立派な家に住み、春太郎が訪れる度に、「マカンブッサー」(たくさん食べてくれ)と言って、ご馳走してくれた。リンセンは、一隻に3、4千俵くらい詰める機帆船の船団を3個持っていた。現地人に人望が大変厚く、りっぱな人物だった。今は、タイから米を買い、マレーで売るのが仕事だった。連絡は無線で行うという。彼との付き合いは終戦になるまで続いた。終戦間際の混乱期、また終戦直後も、春太郎は彼のお陰で難を逃れることができた。

 村の酋長の家
村の酋長のことをマレー語でボンゴロという。住民の保護者として、よく面倒を見るので、尊敬を受けていた。酋長の家は20畳あまりある一階建て、高い床は板張りだった。縁の下は、人の頭より高く、楽に歩いて通れるようになっていた。幅20メートルくらいの階段から床に上がる。昼間は半分くらい開放してあって、風通しが良かった。宗教は回教である。人情に厚い。いつも、4、5人は知らない人がいた。春太郎も度々訪れて、彼らと話した。ジャワから旅して来た人が多かった。 ボルネオやセレベスなど、無数の小島を渡ってやって来るという。そこは宿るのも、食べるのも無料。日本人には考えられないことだった。

 インド人の若者ラジューの話
農場では、春太郎のそばにはいつも助手のように付いてくれたインド人がいた。名前はネサラジュー。「私の皮膚の色が黒いのは、先祖代々から、暑い所に暮らしてきたからだ」と、真剣に訴えるように何度も言った。何を言っているのだ、と春太郎は最初思った。ある時、また同じことを言った。またその次の時も、3遍までも同じことを言った。真剣な顔で訴えるように言うのを聞くと、なるほど、あるいはそうかも知れない、と思えるようになった。


太平洋戦争の崩壊、終戦前後の現地
 舟艇特攻隊
終戦まで半年もない春先、シンガポールにいた春太郎は軍の依頼を受け、舟艇特攻隊への副食物集荷に懸命になりました。舟艇特攻隊とは、一人乗りのエンジン付き小型舟の先端に、爆薬を付け、敵の軍隊に体当たりして沈める、決死の突撃隊のことです。事務所近くの湾に、200隻の舟を隠し、夜になると兵隊が訓練するのです。その時期、生活物資を集めるのが大変困難になっていたため、軍から春太郎にその役目を頼んできたのです。「それは無理な話だ」と鉱山長は反対しましたが、春太郎がそれを押し切って、手配を開始しました。春太郎は農園の責任者で、住民の支持がありました。事務所に様々な格好をした現地人が、ドカドカと出入りしていました。彼らは、回りの者には目もくれず、素通りして、皆、春太郎の前に集まり、色々の話をして帰りました。実際、春太郎は、現地人の家でも平気で一緒に寝ることができました。「よくそのようなことが、平気で出来るなあ。眠っている間に、バッサり、首を切られてしまったら、お終いではないか」事務所の者達は、あきれた表情で春太郎に言いました。

 ジャングルの共産本部
昭和20年5月、突然、春太郎は、シンガポール板垣征四郎総司令部から来て欲しいと連絡を受けました。春太郎は、すぐ参謀本部に出向きました。春太郎の他にも、二人、タイとマレーの国境から、それぞれ来たと言っていました。皆、春太郎と同様に、若い青年でした。その頃、日本軍の戦況は一進一退、万一、マレーが玉砕した場合、指定期日までにジャングルの共産本部に、入ってもらえないかというのです。日本軍が奪回作戦に来た際に、上陸地点を無線で知らせて欲しい、というものでした。春太郎は大変な依頼を受けてしまったのです。そして、終戦の8月15日を迎えました。日本が無条件降伏したのです。春太郎の農園やその他の日本人の倉庫では一部の現地人による略奪が始まりました。それを救ってくれたのは、元海賊の親方でした。


<あとがき>
私が幼少の頃、春太郎はよく話をしてくれました。話がうまいのです。子供にせがまれると、煙草をふかしながら様々な話をするのです。話題は、中国の広大さ、中国人の偉大さに話題が移りました。そして中国はいつか世界一の国になるというのが口癖でした。続いて、マレーでの生活が話題となりました。春太郎にとって、現地の住民との暮らしが、夢のように楽しい思い出だったようです。狭い国の日本から脱出したい気持ちはずっと持ち続けたようでしたが、平成13年4月、永眠するまで、二度とそのような機会は訪れませんでした。私達、息子も父のその気持ちを十分察することができませんでした。父の死後、故郷には、自宅前の庭に春太郎が大陸を偲んで植えた一本の大きい棗の木だけが残っていました。









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