和歌浦散策(6) 「カルパの月」 

2012年02月13日(月) 23時02分
 今日あしべ通り沿い、玉津島神社近く、和歌浦中3丁目のハートブルーユニオンという複合店舗内にある「カルパの月」というカフェテラスにたまたま入った

 店内は、曼陀羅や、ヒンズー教の神の絵や像、シュールな感じのイラストなどがあり、雑多なギャラリー風だった

 野菜ソムリエの女性シェフに聞くと、食事は味付けまで、完全菜食とのこと

 今日のランチは、大豆のハンバーグとソイミート、玄米ご飯に玄米パン等々

 オール菜食だけど、味が濃いめでおいしかった

 健康志向の店のランチタイムなのに、入るなり「タバコ吸われますか」と聞かれたのと、ランチを出したあと、店内奥で彼女も食事している様子だったのが、とてもファミリーな感じがした
 








2012年 水門祭(1) 

2012年02月13日(月) 5時01分
 20年ぶりに、大島の水門祭(みなとまつり)の日に合わせて島に帰ってきました

 水門祭は、南紀に春を呼ぶ祭と言われていますが、今年は良く晴れて温かく、海も凪いで、絶好の祭日和でした

 勇壮で、にぎやかで、和やかな島の祭の画像です

























和歌浦散策(5) 妹背山養珠寺 

2012年01月09日(月) 7時31分
  和歌山市和歌浦中の津屋地区にある養珠寺は正保4年(1647)紀州藩祖徳川頼宣が寺庵を建立し、京都鳴滝より、中正院日護を招き、住持させた事に始まる。

 日護は日蓮宗の信仰篤い養珠院(徳川家康の側室お万の方・紀州徳川家の藩祖、徳川頼宣の生母)の晩年の指導者で、ここに住まいしながら、妹背山を開き、徳川家康の冥福を祈ると共に、国内の滅悪生善、抜苦与楽を発願して題目石を藏する事業を指導した

  お万の方養珠院は文禄二年(1593)十七歳の頃より徳川家康に仕え、その美しい容姿と誠実な人がらから、晩年の家康に最も寵愛された女性と言われ、御三家のうちの二家、紀伊徳川家、水戸徳川家、の初代藩主の母であると共に、後の水戸光圀公の祖母、八代将軍吉宗公の曾祖母にあたる

 お万の方は、家康の亡くなった元和二年(1616)年、40歳の若さで剃髪し養珠院と号した

 承応2年(1653)に養珠婦人が七十七歳で逝去すると、藩主頼宣は、同承応3年、(1654)和歌浦の日護の寺庵に宝塔堂舎を建立し、母の院号から、妹背山養珠寺と号し200石を寄進、養珠婦人の遺骨を分収、位牌を安置して堂内に御霊屋を造営し菩提所とした

 また境内南西の現妙見山山上に、万治3年(1660)北辰大菩薩を祀る妙見堂を創建する

 この山上から養珠院の菩提を弔うために頼宣公により建てられた和歌浦湾内の小島、妹背山に建つ海禅院多宝塔は指呼の間である 

 南龍公と呼ばれ勇猛で名を馳せた紀州藩祖徳川頼宣の実母である養珠院は、日蓮宗に帰依した信仰篤い慎ましい女性という側面ばかりでは無かった

 養珠院は育ての親である義父の蔭山氏広等、蔭山家が代々信じていた日蓮宗の、日遠上人に帰依したが、家康は旗印に南無阿弥陀仏の六字名号を掲げるほどの浄土宗信者であり、日蓮宗側の論者を家臣に襲わせたりしており、不法な家康に抗議して日遠上人が身延山法主を辞し、家康が禁止していた浄土宗との宗教論争を上申した

 これに激怒した家康は、日遠を駿府の阿倍川原で磔に処そうとしたため、お万の方は日遠の助命嘆願するも家康は聞き入れなかったことから、「師の日遠が死ぬときは自らも死出の旅につく」と、日遠と自分の死装束を縫ってその決意を示し、これには家康も驚きあきれて日遠を放免した

 いわゆる信教の自由を命を賭して貫いたお万の勇気は当時朝廷でも話題となり、後陽成天皇も万の行動に感激し天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と書いた御物を賜ったと言われる

 寛永十七年(1640)年には、それまで女人禁制であった見延の七面山に「女人成仏の法華経守護の七面天女の御山に、法華経を信ずる女人が登れぬはずはない」と、白糸の瀧で七日間の水垢離を取って、始めて女人として山頂をきわめ、七面山女人踏み分けの祖とされ、自ら納得できない不当と思われる女性差別に対しては果敢に因習を廃する行動を取っている

 また10歳の頃、小田原の陣では、実父上総勝浦城主正木左近大夫頼忠落城の際に、海に面した50m近い断崖絶壁に布を垂らして、それを伝って海上脱出に成功したのだという

 しかも弟や母を背負って、それは現代的に言えば15階位のマンションから布を伝って脱出するようなもの

 歴戦の強者である南龍公頼宣を生んだ母らしい強毅な彼女の一面を現す逸話だ  

 また養珠婦人は、関ヶ原で敗し、大阪夏の陣で破れた敵方、豊臣恩顧の多くの家臣たちの窮乏を察し、自分の資財を投じてその生活を支えたたとも伝わる

  承応二年(1653)三月二十八日、七十七歳の喜寿を親族一同で祝ったが、四月中旬頃から「オコリ」の気味で、体温の高下に悩まされる日々が続き、御典医の施薬治療で一時は小康を得ていたが、衰弱が加わり、ついに臨終の時を迎えられ、八月二一日江戸紀州邸にて七七歳にてその生涯を閉じられた

 藩祖頼宣の生母養珠婦人は、波瀾万丈の戦国の世から、家康以来徳川三百年の泰平の世を開くことに、少なからず貢献した、優しくもたくましい日本の大和撫子の一人だった



    養珠寺本堂



    養珠寺釈迦堂



    隣接する津屋公園 ここも嘗ては養珠寺境内だった



    同じく津屋公園内、



   頼宣公が養珠院の菩提を弔うために建てた海禅院多宝塔

年の瀬の大島風景 

2012年01月04日(水) 2時25分
 12月29日に大島に墓掃除に行ってきました

 年の瀬に大島に帰るのは初めてなので、画像のみですがアップします









 

解けた疑問 (古道の葉寿司のこと) 

2011年12月30日(金) 1時30分
 8月に墓の掃除に行って以来、気になりながらも仕事に追われ、大島に帰っていなかった

 墓地の草が伸びほうだいで新年を迎えるわけにもいかないので、休暇になった昨日、日帰りで大島に行って来た

 行きがけに、国道42号線沿いにある高富地区で、以前から気になっていた古道の葉寿司と看板の掲がった店(といっても販売のみ)に立ち寄った

 柿の葉寿司は奈良の吉野から紀北にかけての郷土料理だが、今では全国的に知られている

 泉州地区などでも最近「しぶ柿の葉寿司」という鯖を柿の葉で包んだ同じ形のものが、名前を少し変えて売られている

 気になっていたのは、たぶん柿の葉寿司と中身は同じで、鯖の寿司なんだろうけど、それを包んでいる柿の葉に代わる「古道の葉」と名付けた葉は何の葉なんだろうと疑問に思っていたから

 「古道」は当然熊野古道のブームもあったし、大辺路沿いにあるから、つけた名だろうと思っていた
 
 いつも墓に行くときは、串本町田子のシーサイドサンワに寄ってサンマ寿司とめはり寿司を買って車の中で食べるのだが、サンワは前回来たときに既に廃業してたし、今回はその謎を解くためもあって、この店に寄った

 ところが、寿司を挟んでいるものが野いちごの葉ということは解ったが、寿司自体はまったく予想に反し鯖だけの寿司ではなかった

 それは、酢飯の上に薄く切ったにんじん、しいたけ、ごぼう、高野豆腐、そして鯖などの魚を乗せた押し寿司だった

 帰宅してからネットで調べると、この店は尾鷲牛乳という牧場と牛乳販売をしている業者の直売店だった

 ネットの広告では「紀伊半島の南西部に古くから伝わる郷土料理で、さば、椎茸、高野豆腐、人参、ごぼう、生姜を載せた酢飯を野苺の葉で挟んでいます。お寿司に使っている野苺の葉は地元ではハネと言いますが、これを採りに行くことから寿司作りは始まります。草木の生い茂る古い山道をハネを探して歩くことからこの名前を付けました。云々」 と書かれていた

 最初からネットで調べれば、疑問は「ゼーンブ」解けていたんだ 

 それから、和歌山県の郷土料理の本などを調べてみたが、この寿司は見つからず、紀ノ川流域で棟上げや法事など、客をもてなすときに作られる切り寿司というものが、わりと似ていたが、こちらはばれんの葉を敷いて作る押し寿司だった

 ちなみに古道の葉寿司の味は甘めのちらし寿司のようで、鯖の寿司を期待していた当方には美味しいんだけど少し甘いかなという感じでしたが、魚類がさほど好きではない家内の舌には合ったようでとてもおいしいと言ってました



 古道の葉すし販売店〜次はソフトクリームも食べてみようかな



 首にタオルを巻いて、墓掃除のスタンバイできてる人が買いに来ているところ



 野いちごの葉でお寿司の上と下を挟んでいます



 寿司はこんな感じで丁寧に具を乗せて、彩りが良いです



 串本のスーパーで買ったサンマ寿司、鰺寿司の入った、このお寿司もお昼にしました 
 

冬至なので 

2011年12月22日(木) 23時33分
 冬至なのでカボチャを買おうと思い、近くのスーパーに行くと外国産の(どこか忘れたけど)カボチャ半分が100円で売っていた

 実家に帰って、そのカボチャと小豆を炊いて、大島の親戚が送ってきてくれた、サンマの開きを焼いて、実家の庭のゆずの汁を掛けて今日、父と家内と三人の夕餉は、それなりの冬至の食卓になった

 夜は、絞ったあとの、残りのゆずを入れた湯に浸かりながら、明日から少しずつ日が長くなるなーと、ぼーと思った

 なんとなく少し元気になった気がした





42年間の伴侶との別れ 

2011年12月10日(土) 14時16分
 42年間同居していた伴侶との別れ

 学生寮に入った19歳の頃から今まで、ずっと同居していた

 淡々としたつきあいだったけど、冬はいつもだまって僕を暖めてくれたし、冬以外も徹夜の麻雀や、徹夜の試験勉強、手紙を書くときや、ものを書くときはたいてい一緒に付き合ってくれた

 42年間つれそった、自分用のちいさな電気ごたつ

 でもついに別れがやってきた

 末の娘がこれで居眠りしているときに、とうとう電気が点かなくなったのだ

 いいかげんにしろ、だから家族が勝手に使うなって、言ってきたのに

 両親よりも、妻よりも、誰よりも同居期間の長かった伴侶とも言うべき電気ごたつ

 さようなら、天国でもまた、おまえと一緒に暮らそう












 

錦秋 和歌山城公園(3) 

2011年12月08日(木) 0時44分
紅葉渓から鶴の渓、砂の丸、新裏坂、駐車場へと戻る、和歌山城公園 残りの画像です



紅葉渓から西南に進むとすぐ鶴の渓

関ヶ原で功のあった先代城主浅野氏の頃、この辺りで鶴を飼っていたと言われている









上の4画像は鶴の渓から新裏坂に至る高石垣の紅葉

錦秋 和歌山城公園(2) 

2011年12月06日(火) 1時20分
 紅葉が例年よりは鮮やかではなかったけれど、ここはビュースポット

 西の丸、「紅葉渓庭園」辺り 画像のみです















錦秋 和歌山城公園(1) 

2011年12月04日(日) 23時59分
 晴天の日曜日、午前中に和歌山に行き、和歌浦から和歌山城を散策した

 和歌浦では、明光通りの町並み、養珠寺、津屋公園、雑賀城跡を巡り、和歌山城の銀杏や紅葉を見たくなり、その後すぐ、和歌山城公園に向かった

 毎年公園、駐車場の入り口付近から眺める銀杏の木を見ると、今年も黄葉が見事だった

 今年は紅葉の見所も、色づかず、落葉しているところが多く、秋らしい風景に出会えなかったのに、このポイントは、いつもの年に変わらず、日を浴びて、黄金色に輝いていた

 日曜日ということもあり、このポイントを知る人が少なからず訪れて、銀杏の木の下で、晩秋の一時を楽しんでいた

 それから、岡口門から、紅葉渓庭園、鶴の渓と巡って行く秋の、たぶん最後の日曜日を、一人、時のたつのも忘れて写真を撮ったが、車を置いた駐車場に戻るころには、既に日は、夕暮れの陽射しになっていた



















日中よく歩いたので、少し眠たくなってきました

 この後の画像は、また明日アップします
 
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