和歌山市和歌浦中の津屋地区にある養珠寺は正保4年(1647)紀州藩祖徳川頼宣が寺庵を建立し、京都鳴滝より、中正院日護を招き、住持させた事に始まる。
日護は日蓮宗の信仰篤い養珠院(徳川家康の側室お万の方・紀州徳川家の藩祖、徳川頼宣の生母)の晩年の指導者で、ここに住まいしながら、妹背山を開き、徳川家康の冥福を祈ると共に、国内の滅悪生善、抜苦与楽を発願して題目石を藏する事業を指導した
お万の方養珠院は文禄二年(1593)十七歳の頃より徳川家康に仕え、その美しい容姿と誠実な人がらから、晩年の家康に最も寵愛された女性と言われ、御三家のうちの二家、紀伊徳川家、水戸徳川家、の初代藩主の母であると共に、後の水戸光圀公の祖母、八代将軍吉宗公の曾祖母にあたる
お万の方は、家康の亡くなった元和二年(1616)年、40歳の若さで剃髪し養珠院と号した
承応2年(1653)に養珠婦人が七十七歳で逝去すると、藩主頼宣は、同承応3年、(1654)和歌浦の日護の寺庵に宝塔堂舎を建立し、母の院号から、妹背山養珠寺と号し200石を寄進、養珠婦人の遺骨を分収、位牌を安置して堂内に御霊屋を造営し菩提所とした
また境内南西の現妙見山山上に、万治3年(1660)北辰大菩薩を祀る妙見堂を創建する
この山上から養珠院の菩提を弔うために頼宣公により建てられた和歌浦湾内の小島、妹背山に建つ海禅院多宝塔は指呼の間である
南龍公と呼ばれ勇猛で名を馳せた紀州藩祖徳川頼宣の実母である養珠院は、日蓮宗に帰依した信仰篤い慎ましい女性という側面ばかりでは無かった
養珠院は育ての親である義父の蔭山氏広等、蔭山家が代々信じていた日蓮宗の、日遠上人に帰依したが、家康は旗印に南無阿弥陀仏の六字名号を掲げるほどの浄土宗信者であり、日蓮宗側の論者を家臣に襲わせたりしており、不法な家康に抗議して日遠上人が身延山法主を辞し、家康が禁止していた浄土宗との宗教論争を上申した
これに激怒した家康は、日遠を駿府の阿倍川原で磔に処そうとしたため、お万の方は日遠の助命嘆願するも家康は聞き入れなかったことから、「師の日遠が死ぬときは自らも死出の旅につく」と、日遠と自分の死装束を縫ってその決意を示し、これには家康も驚きあきれて日遠を放免した
いわゆる信教の自由を命を賭して貫いたお万の勇気は当時朝廷でも話題となり、後陽成天皇も万の行動に感激し天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と書いた御物を賜ったと言われる
寛永十七年(1640)年には、それまで女人禁制であった見延の七面山に「女人成仏の法華経守護の七面天女の御山に、法華経を信ずる女人が登れぬはずはない」と、白糸の瀧で七日間の水垢離を取って、始めて女人として山頂をきわめ、七面山女人踏み分けの祖とされ、自ら納得できない不当と思われる女性差別に対しては果敢に因習を廃する行動を取っている
また10歳の頃、小田原の陣では、実父上総勝浦城主正木左近大夫頼忠落城の際に、海に面した50m近い断崖絶壁に布を垂らして、それを伝って海上脱出に成功したのだという
しかも弟や母を背負って、それは現代的に言えば15階位のマンションから布を伝って脱出するようなもの
歴戦の強者である南龍公頼宣を生んだ母らしい強毅な彼女の一面を現す逸話だ
また養珠婦人は、関ヶ原で敗し、大阪夏の陣で破れた敵方、豊臣恩顧の多くの家臣たちの窮乏を察し、自分の資財を投じてその生活を支えたたとも伝わる
承応二年(1653)三月二十八日、七十七歳の喜寿を親族一同で祝ったが、四月中旬頃から「オコリ」の気味で、体温の高下に悩まされる日々が続き、御典医の施薬治療で一時は小康を得ていたが、衰弱が加わり、ついに臨終の時を迎えられ、八月二一日江戸紀州邸にて七七歳にてその生涯を閉じられた
藩祖頼宣の生母養珠婦人は、波瀾万丈の戦国の世から、家康以来徳川三百年の泰平の世を開くことに、少なからず貢献した、優しくもたくましい日本の大和撫子の一人だった
養珠寺本堂
養珠寺釈迦堂
隣接する津屋公園 ここも嘗ては養珠寺境内だった
同じく津屋公園内、
頼宣公が養珠院の菩提を弔うために建てた海禅院多宝塔