昨日気になったので言っておきたいこと 3件 

2017年03月16日(木) 4時22分
 意見に渡るようなことはあまり言いたくないのだが・・・

 昨日のこと3件は言っておきたいので



 1件目

 警察のGPS捜査で端末を取り付けることの可否、令状が必要な強制捜査にあたるとの最高裁判決は至極妥当

 こんなことが、当然のごとく行われていたこと自体が異常だった

 こんな手抜き捜査が合法ならば、恣意的に誰にでも取り付けられる可能性がある

 もちろん例外的なごく一部のもののしたことではあるが、手柄を立てるために、事件そのものをでっち上げることさえする警察やそれを事件として、受理してしまう検察の体制を許容すことになりかねない

 法整備が必要というが、それも単なる窃盗などに安易に適用できるようにはすべきでなく、極めて重大な犯罪の捜査に関する際など以外は、適用されるべきではないだろう

 取調べの可視化や、事件の複雑化、被害者対策、など、警察捜査や、業務が複雑困難化していることを前提としても、民主主義社会は、人権尊重の上に成り立つもので、それは多少の治安の安寧や、公共の福祉に反しても、その犠牲の上になりたつものであって、このような捜査を、適法と判断し、指導もしくは受任した警察庁や、判決を下した下級裁判所の良識を疑う
 
 2件目

 自衛隊の日報問題

 自衛隊隊員の日報が、野党の言うほどその表現を問題視すべきものとも思われないが、それが国会で問擬される以上、誠実に正確に答弁すべきである
 
 近頃、隠蔽や、些細ではあっても虚言にあたる答弁が頻繁に行われているような気がする

 誰もが、何かを隠し、誰もが何かをごまかし、自分の有利な状況を作り出そうとしている作為を感じる

 豊洲問題、森友学園問題、東芝問題、医療問題など、立場、立場で思いは違うことも分かるが、今は嘘や隠蔽は、いずれはばれる時代、嘘はつけない時代、メディア(メディアの偏りも問題だが)や、インターネットで拡散する時代だということは、政治家や組織の上層部はもとより誰もが銘記して事に当たらなければならない
 
 3件目

 白鳳と勢の昨日の相撲、確かに相撲の勢いは、勢が勝っていたが、スロービデオで違う角度から見ると、先に手を付いていたのは、間違いなく勢だった

 懸賞を受けた後に、物言いが付くのも、タイミングがずれていて、不自然だったが、物言いが付くこと自体は審判の公正な判断だった

 しかしスロービデオで、違う角度から見れば、どうみても、白鳳の勝利、勢は、いわゆる相撲に勝って、勝負で負けていた

 あれだけ実績を残している白鳳が、一昨日のように品格もなくダメ押しするのはもう見たくないが、昨日の取り組みは、公正を欠き、何のためのスロービデオかと思わせた  最低でも取り直しが妥当だった

  

何も書く気がしない日が続いて(3) 

2017年02月28日(火) 14時39分


 1月16日 自宅近くの風景



 1月18日、この日は、家内の一人暮らしの友達を連れ出して、映画を見に行く



 その友人宅近くの文化住宅



 映画館のある泉南イオンの窓から、関空方向


 
 泉南イオンペットショップ前の置物、右側



 同上、左側



 泉南イオン海側



 映画を見た後、帰りがけ、家内の友人が行ってみたいと言うので、信達童子畑に行く



 信達童子畑、諏訪神社の犬堂



 同 上

何も書く気がしない日が続いて(2) 

2017年02月28日(火) 14時34分


 1月15日 六十谷の鳴滝不動 水量の多い時は、下の滝は左右から流れている

 この日も左右から流れていた



 同上、御滝場の着がえ場 簡素だけど、整理されている



 同上、御滝場本殿、本尊不動明王、午後4時過ぎなので、画像も悪い



 同上、画像が悪くて申し訳ないですが、葛城修験の「ひで」も多く掲げられている



 同上、祀られている白い蛇神、淫祠に近いこのような神が今も信仰されているのだろうか

 しかし民俗学的には、貴重になりつつある気がする



 同上、帰り道、振り返る



 同上、帰り道、上は紀伊松風苑、何人かの知り合いがあの施設で生涯を終えた


何も書く気がしない日が続いて(1) 

2017年02月28日(火) 14時32分
 少し忙しかったこともあるが、2月は何もしなかった訳でもないが、何も書く気がしないで、日が過ぎていった

 これからは、少しづつあたたかくなり、日も長くなり始めるので、もう少しブログも書く気になるだろう

 このままでは、いままで更新を全くしなかった月は無かったブログの更新も今月はゼロで終わるので、1月4日以降2月中の画像だけでもアップしておこう



 1月14日土曜日、この日は4月の泉南地域のウオーキングのボランティア案内の下見に参加

 これは熊取町、永楽ダムの周りに咲いていた冬桜、縮かんで寒そうに少しだけ咲いていたけれど、この時期にも桜の種類の花が咲くことに驚いて、一応撮しておいた

 

 1月14日10時13分の永楽ダム



 ウオーキング下見の途中に咲いていた椿の花



 ウオーキング下見の終わり頃、大森神社近くで見た、楠の木?大きな瘤が珍しかったので撮しておいた



  ウオーキング下見が終わって帰りしな熊取町内で見つけた古いたばこ屋さん



 同 上

1月4日の水間寺 

2017年01月09日(月) 10時30分


 1月4日は、孫とたこ揚げに、貝塚の水間公園に行く



 水間公園に居着いている野良猫は、孫が動物好きと分かるのか、近づくとすぐ、すり寄って孫の体の回りにマーキングしている



 孫はたこ揚げにはすぐ飽きて、止めてしまったので、公園の下にある水間寺に行ってみる



 お寺の初詣は、珍しいが、ここは初詣で有名だ



 それにしても、正月三が日が過ぎても、屋台がびっしり列んでいる



 もう午後5時というのに、まだ人出も相当だ



 なんとなく、台湾の関帝廟の賑わいに似ている



 神社の初詣とは趣の違った、エキゾチックジャパンな感じ



 新年の厳粛さはあまり無くて、



 雑多、多様性、ごちゃ混ぜ、そんな言葉が似合う大阪の初詣名所だ 



 今まで、正月は車では来られないほど、混雑するだろうし、お寺の初詣はもう一つと思って避けていたのだけど



 なるほど、これはこれで有りかなとも思う



 それでもこの辺りは、なんとなく日本の普通のお正月の趣が漂う



 来年来られたら、三が日の内に、一度来てみようかな

2017 元旦に 

2017年01月05日(木) 16時38分
 年の初めの朔日は、



 朝は教会の元旦礼拝へ



 午後からは、和歌浦にある



 紀州東照宮へ初詣



 同 上

  

 露天も沢山出ていて



 孫は参道を駈けていく



 階段で孫と競争



 なんとか、面目を保つ 結構傾斜が急な階段です 



 参拝者は引きも切らず 境内は大賑わい



 巫女さんも大忙し



 さぞかしお賽銭も・・・



 権現さんも御機嫌さん

 権現さんでも恵比寿顔



 和歌浦の海を見ながら帰りました

幼い頃、磐盾のおばあさんの思い出 

2016年12月29日(木) 6時26分


 新宮聖テレジア幼稚園

 私は、紀伊大島で生まれ、物心付く以前に新宮に引っ越し、その後約6年の間に、木場町、磐盾(いわたて)、井の沢 、と新宮市内で居所が変わり、更に、和歌山市岡山丁、片岡町、紀伊、そして又その後、大阪府南河内郡河南町東山、大阪府泉南郡熊取町野田、朝代と転居を繰り返した

 先日、テレビでゲストの俳優に、自分の原点の場所を聞く対談番組を見た後、「自分の一番思い出深い、原点のような居所は何処?、何処だったと思う?」と家内に聞かれ、「60年以上前、三才から五才の頃、新宮の神倉山の麓の磐盾(いわたて)で、大工の統領が大家さんで、その家の納屋兼作業場を改造した、土間と板間と6畳一間の家で親子3人で暮らした頃が、自分の物心が付いた原点のような場所かな」、と答えた

 その家の庭には胡桃の木が一本生えていて、家の中の照明は、削りガラスの皿のような覆いをかぶせた電球が一個だけ、母は木製のリンゴ箱等に、私が幼稚園で月ごとに貰っていた、チャイルドブックという絵本雑誌のページを一枚一枚貼って、物入れや衣装入れにしたり、文机をこしらえたり、父の古い背広を裁断して私の服を造ったり、戦後まだ物の無かった時代、自分で工夫して、その頃の若い主婦として、それなりの生活をしていた

 元大工の大家さんの家の納屋を改造した離れで、昭和27年位から31年位まで両親と一人っ子の私と三人で暮らしていたのだが、その家から父は新宮の裁判所に、私はとうに廃園なってしまった、カトリックのテレジア幼稚園に通っていた

 大家の大工さんは70代くらいで、その奥さんのおばあさんも同じくらいの年で、置屋の娼妓だったそうだが、旦那の大工さんに身請けされ、後妻になった、気丈な性格の人だった

 20代の私の母は、そのおばあさんとは、義母のような、関係で、そのおばあさんからすれば、店子の私の両親は、自分の子供で、私は孫のような感じがしていたようだ

 そのおばあさんは、春には、「檜杖(ひづえ)の岡に、蕨採りに行くぞ、」初夏には「三輪崎の浜に、海老掬いに行くぞ、」と、気分ガ向けば、ことあるごとに母を連れだって外遊びをしたがり、まだ若かった母は、気が乗らなくても、断ることができないで、何時も私を連れて何処へでもそのおばあさんに付いていき、それでもそれなりにその時は、行楽気分も感じていたようだった

 そして母親の様子を見ていた幼い私には、嫌いではなかったが少し怖いおばあさんだった

 そのおばあさんは、気丈だが非常に感情の起伏の激しい人で、先妻の子供の義娘とは仲が悪く、時々父親に会いに来る別居の義娘としょっちゅう喧嘩になり、ある時尋ねてきたその娘と玄関先で喧嘩になり、たまたま私らが住んでいた家に来ていた母方の祖母が大声で罵り合っている声を聞いて、仲裁に行ったのだが、髪の毛の束が玄関内に落ちていたのを見て、祖母は怖くて仲裁も出来ずに帰ってきた

 その家には周囲にカラタチの垣根があって、ときどきボロ買いのおばあさんが来るのだが、母がそのおばあさんと門の中で話していると、大家のおばあさんは、あんな人を家の敷地内に入れてはいけないと激しく母を叱っていた

 けれども、戦争で腕を無くした朝鮮の汲み取り屋のおじさんとは、気さくに話をしていた

 そのおじさんは、爆弾で左前腕を無くしたのだが、左上腕を支えにして、右腕だけで、肥柄杓を上手に使って、軽口を言いながら元気に雪隠の肥を肥桶に汲んでいた

 おばあさんは、家の敷地内で蛇を見つけると、どんな大きな蛇でも、木の棒で激しくたたいて必ず殺していた

 そして、神様は信じていないようだったが、朝には太陽に向かって手を合わせていた

 さてそのころ、私が或る夜、部屋で目が覚めてみると両親がどこにもいない

 私はたまらなく不安になり、一人大声で泣いていた

 その声を聞きつけた大家のおばあさんが、布団に座って泣いている、離れの私の寝床に来て、「子を放ったらかして何処へ行ってるんや、あいつ等、どうせオールナイトの映画館でも行ってるんやろ、明日おこっといたるからな」と言う

 私はオールナイトの意味は分からなかったが、映画館に行っていることは、私の親たちならば、あるかも知れないと思い、それでもあまり両親を怒らないで欲しいと幼心に思っていた

 おばあさんは「もうじき帰ってくるわ、うちで寝ときなあ」と云ってくれたので、私も少し安心し、その晩は、母屋で家主のおばあさんと一緒に寝たのだった

 明くる朝、自分の床で目覚めると、両親は帰っていて、なにごともなかったかの様にいつもの生活に戻り、私は両親に映画館に行ったのかどうかは聞かなかったが、昨夜のことを思い出して、大家のおばあさんは何でもわかっていて、わりと優しい人なんだ、と思ったのだった
 

12月の大島、墓掃除 

2016年12月22日(木) 18時35分
12月5日から6日に架けて、大島の墓掃除に行く



 5日、

 阪和高速が周参見まで延びて、インターを出ると真正面に、この「道の駅すさみ」ができたのでいつも立ち寄る



 同 上 左側に見える白と水色の建物が、自称日本一貧乏な水族館「エビとカニの水族館」 



 「道の駅すさみ」の建物の左側に細い道があって



 その道を海側に下っていくと、今回見つけたビュースポット 



 ススキの原の向こうに江須崎



 大島についたのは、3時前で、今回も草はよく生えていたが、午後4時20分頃には、日が暮れ始めたので、もう一度明日することにして、掃除を止めた 



 大島港では例年通り、開いたウツボを干していたが、干しているウツボの数も少なくなっていた

 この風景も、南紀の風物詩なのだが、食べる者も少なくなってきているのだろう



 黄昏の島の空には、鳶が群れて舞っている



 港に、ポツンと人なつこい猫がいたので、抱いてやると、気持ちよさげにしている



 大島港の赤灯台にあかりが灯り始め、串本のホテルに向かう



 ホテルの食堂に掲げてあった絵

 上の文はなんとか読めたのだが、崩し字でもないのに、下の字が一部読めなくて、文意が分からず給仕の女性に教えてもらう

 上は 「あそぼ たのしも いま いま このめでたきいま」

 下は 「ゆるされ はげまされ しゅくふくされたる いま」 




 6日、

 串本のホテルから 黎明の海辺

 手前が橋杭岩 左奥に九龍島(くろしま)



 同 上 大島全景



 朝のホテルの庭



 サン・ナンタンランド(串本町総合運動公園)の多目的グランド内にトンビが、同じ方向に向かって「全員集合」していました 



 平らな場所にトンビが集まってのんびりしている こんな光景は始めてみました

 芝生があって、周りがフェンスに囲われていて、人がいないときは、ここは安全でいごこちがいいと、いつのまにか学習したのでしょう



 ホテルを出てすぐの所に、新しい串本町立病院が立っている

 地震にともなう津波に備えて、串本町は病院や消防署などの公共施設を山側に建てて、民家も新しく建てるところや、建て替える際は、なるべく海抜の高いところへ建て始めている



 大島の村中に下っていく一本道 中程に権現島 

 大島に帰るときは、必ず通る見慣れた風景 



 大島港 12時37分 この日は良い天気だった



 昭和30年代 まだフェリーも通っていなかった当時、巡航船はこの辺りに停まっていた



 大島港から蓮生寺方向への道 民家が減り、少しずつ更地が増えている



 カモメが二羽、入り江の中で、のんびりと飛んでいる

 「カモメは低く波に飛ぶ、見よ昼の海」 唱歌の歌詞を思い出す



 大島港 赤灯台 車の窓から



 中央に弔鯨塔 親戚の家の前から

 この辺に、昭和30年代頃まで鯨の解体場があったことも知る人も少なくなり、忘れ去られて草や蔦に覆われていたこの塔が、今は大島の小さな観光スポットになり、草が刈られ蔦が払われている


 
 親戚の家の前



 親戚のおばさんが植えたレモン 沢山生っていた 



 地域の医家だった親戚のおばさんの家族写真

 お母さんに抱かれている可愛い子が、90年くらい前のおばさんです 



 墓掃除を終えてから大島漁港へ

 

 同 上



 橋杭岩遠望 大島漁港から

信達楠畑の大雄寺と神社 

2016年11月15日(火) 13時55分
 10月31日、奥三か村で最も戸数の少ない信達楠畑に行く

 風吹峠から根来街道を泉南側に下って、右に葛畑、童子畑、そして左に楠畑への入り口がある

 それぞれの入り口は葛畑、童子畑、そして一番下が楠畑なのだが、楠畑へは、細い長い上りの坂道が続き、おそらく、標高は三か村でもっとも高い位置にあるようだ

 要するに奥三か村の最も奥にあるのが楠畑で続いて葛畑、そして一番下に童子畑がある



 根来街道を風吹峠から泉南側に下り、この標識を左に入り
 


 舗装された道を少し下ってから



 後は、だんだん細くなっている坂道を2キロくらい上っていくと



 突然楠畑の集落にたどり着く 楠畑川に掛かった小さな橋を渡って



 橋から見た楠畑川下流側



 道の入り口付近は、少し空き地のような広い場所があって



 家並みの間の細い道を山側に登っていく



 人家の軒先に狸と蛙の置物が置かれていた



 道の向こうに大雄寺の堂が見える



 村に一つある小堂が大雄寺



 浄土宗、大雄寺 無住の寺で、山号は分からなかった



 寺の左に隣接して小さな神社があって、整然と布積みされた石垣が印象深い



 たまたま大雄寺の掲示板の月ごとの標語を貼り替えに来ていた80代の村の男性がいて、その方に尋ねると、神社の名前は知れなかったが、村の戸数は現在11戸くらいで、空き家も多いので、現在祭りは絶えているが、昭和30年代くらいまで、泉南地域で祭りに使用される二輪の櫓(やぐら)が、祭りの時は出ていたとのことだった



 階段の両側には立派な石の狛犬があって



 同 上



 同じく一対の石灯籠には、「正徳四年甲午」、1714年の年号が刻まれている



 本社は簡素な小さな社だった

 前記80代の古老によると、この本社は古い社が傷みが激しかったので、20年ほど前に建て替えたものだ、ということだった

 以前どのような形態であったのかはその方に聞き逃したが、(堂犬についてはその方の記憶では無かったように思うと言っていた)、現在の本社には本坪鈴(ほんつぼすず)と鈴尾、賽銭箱、榊立、くらいしかなく、本社の縁に狛犬は配置されていなかった 



 同 上 ウエブ上でこの神社の画像があり、詳細は書かれていなかったが、名称を「山神社」と記したものがあった



 同 上



 神社本殿側から



 神社下の広場、神社左側から、大雄寺方向



 神社下の広場、神社から左方向

 桜の古木の木の根方に数個の石碑や、数体の石仏があった



 桜の古木の木の根方



 そこに折り重なるように、石碑や石仏があって、その右端に、上部に梵字らしきものが刻まれていているものがあった

 けれど、その石碑は前の石仏と重なっている上、表面に苔が生え、文字が判読出来るような状態では無かった



 これがその石碑ですが、泉南市のホームページで、この石碑について、「大雄寺の石碑」と題して、紹介されていたので、下にその記事をそのまま記しておきます

 <大雄寺の石碑

 泉南市信達楠畑

信達楠畑(しんだちくすはた)、大雄寺(だいゆうじ)の境内には、いくつかの石碑(せきひ)が肩を寄せ合うように立っています。中でも向かって左端に立つ石碑には、如来(にょらい)を表す大きな梵字(ぼんじ)がひときわ大きく刻まれ、梵字の下には「六十六部功 正平廿二年十月卅日」と記されています。
正平22(1367)年10月30日とあることから、南北朝(なんぼくちょう)時代に造られた石碑であることがわかるのですが、注目されるのは「六十六部功(ろくじゅうろくぶこう)」とあることです。
六十六部とは六十六部の「法華経(ほっけきょう)」を書き写し、全国の霊場に一部ずつ納めていく修行のことをさし、このような修行は遅くとも鎌倉時代にはじまり、江戸時代頃まで盛んに行われていました。その功績を称えて各地に記念碑が建てられていますが、それら中でも大雄寺に残るものは西日本では最も古く、全国的にみても5番目に古い貴重なものなのです。>



 大雄寺横の広場から見た信達楠畑の集落



 同広場隅にある石灯籠 「安政五戊午」1858年、と年号が刻まれている



 大雄寺右横にある楠畑老人集会所



 土地の古老に村の墓が老人集会所のすぐ上にあると聞いていたので、集会所の前の山道を登って行く



 同 上



 民家の片隅に何時からか、使われなくなった肥桶と肥柄杓があった

 昭和20年代には、各家のくみ取りは、バキュームカーでなく、これでしていたことを、記憶している



 この挽き臼は、見たことはあるが、使っているのを見た記憶は私には無い



 今では、見ることも無くなった道具に目をやりながら、更に山道を登っていくと



 道の右側に英霊の尖塔墓が列んでいた



 同 上 それはみな昭和38年に建てたもので、第二次大戦で無くなった英霊の墓だろうが、戦後すぐには建てられず、日本がやっと落ち着き、豊かさを取り戻した頃、敗戦の年である昭和20年を基準にし、十七回忌前後の同じ時期に、この村の人達が、戦死者を忘れることなく、相応の墓を建てたのだろう

 しかしこんな小さな村落で、多くの死者を出しているということは、ここの人達は相当な激戦区に配属されたのだろうか



 英霊の墓所は、村の皆が通る道沿いや、集まる場所に建てられることが多いから、村の墓所も近いだろうと思いながら更に山道を登っていくと



 楠畑川砂防ダムがあって



 その左側に村の墓地があった



 その墓石の一つに、空譽浄恵信士、生譽知善信女と左右に刻された間に芳善童子、圓玉童女、霊と刻まれていた

 夫婦の間に男の子と女の子が生まれたけれど、どちらも親よりも先、子どもの頃無くなったものだと思われる

 その前後に、子どもに恵まれなかったのかは分からないが、両親に抱かれるように幼年の戒名が刻まれているのが、心に残った



 帰りがけ、楠畑川の護岸上に、何かの実の種らしきもののまじった小動物の糞らしきものがあった

 里近くまで、動物が出没しているようだ



 集落に下る道沿いの風景



 楠畑集落、川沿いの家並み



 集落を後に、元来た道を、根来街道へと下る


 前記村の古老の話では、今は童子畑が人口も一番多く発展しているが、従来楠畑、葛畑、童子畑の奥三ヶ畑では、楠畑がもっとも古く、童子畑の墓地から、古い墓を新しい共同墓地に移す際は、楠畑の先祖に繋がったものが多かったので、楠畑の者に確認し、許可を得てから、移動させたとのことだった

 また大雄寺は、現在無住で、泉南市新家の浄土宗の浄福寺が、寺務や法会を行っているとのことだった

 尚、現在若い者は色々な地域のものと結婚しているが、従来村の婚姻は、ほとんど三ヶ畑間で行われ、金熊寺村など泉南側の者との婚姻は無く、むしろ紀州の者との婚姻関係があったとのことだった

 当方が聞いたある神社関係の方の話では、奥三ヶ畑の者は、根来の忍者の子孫だと云っていたが、以前或る機会に参加した講義で、根来寺の学芸員の方は、根来流忍法のようなものは無く、忍者がいたことを示すようなものも残っていない、と云っていた

 いずれにしても、同三ヶ畑は、神社は金熊寺村の信達神社との関わりが深いが、お寺は、真言宗の金熊寺とは関わらず、三ヶ畑とも浄土宗であり、新家の浄土宗、浄福寺の末寺で、婚姻関係は、泉南地域よりも紀州との関わりが強いという、泉南地域では特異な環境にあったようだ

 このことから楠畑は、葛畑よりもさらに古い( 正平22(1367)年10月30日)銘の石碑が残っており、三ヶ畑では最も古くからあった集落で、その碑には「六十六部功(ろくじゅうろくぶこう)」等と刻されていることなどから、その宗教文化の程度も高く、紀州との関わりの深い三村の発祥の地であり、さらに犬堂の形式は、現在は楠畑では確認出来なかったが、葛畑、童子畑、信達神社(金熊権現社)には残っており、いずれも祖先は同族関係があったものと推測される

 だが、婚姻関係などを見ると、江戸期幕藩体制の基で、人口が少なく、経済的な生産性が少なかった三村が、泉州地域からは、阻害されていったものではないかと思われる

 またその老人の話のなかで、昔は金熊寺村などよりも阪南市の山中渓などへ、山の中の道を通って、歩いて行き来することが多かった、と云っていた

 道路や町の状況が昔と劇的に変化している今ではこの楠畑村と山中渓との間に交流があったことは想像しづらいが、嘗て紀州街道の宿場街となっていた紀泉国境の山中渓辺りは、地図で直線的に見れば分かるとおり、歩くことが唯一の交通手段であった時代には、楠畑村からは最も近い都会であり、生活圏内であったのだろう

 楠畑から山中渓へは、現在では根来街道を通って泉南の金熊寺、六尾、岡中、和泉鳥取、山中渓と大きく回り道しなければ行けないが、昭和の初めころまでは、山中に今では廃道のようになっている幾つもの歩いて通う近道があり、紀泉国境の山中渓や、紀泉高原を越えて紀州の山村などとの往来があったのだろう

 全国の山奥の村々では、嘗て山の中の歩く道を通じて、現在とは違う、村落間の交流があったことが偲ばれた

 しかしその一つ一つを掘り起こし、どの村とどの村が深く関わっていたかを確かめることは、多くの山村が限界集落となっている現在、非常に難しいことであろう


信達葛畑の八坂神社 

2016年10月27日(木) 2時25分
 信達葛畑(しんだちつづらばた)は、泉南の三ヶ畑、「奥三村」の中でも、最も奥の紀伊と和泉の国境の村である

 10月24日、ここにある八坂神社を訪ねてみた



 根来街道を、風吹峠から泉南方向に下り、和歌山県岩出市を越えるとすぐ、「葛畑」と書かれた案内板が目に入る

 

 矢印に沿って左に入り、更に右に曲がって、山道を登っていく



 ここからが、葛畑集落への登り口


 
 道なりに車で上っていくと、集落の入り口に出て、そこからは道が細くなり、この先行き止まりと書かれた案内板が見える



 その手前の道幅が広くなっlた場所に泉南市の広報掲示板があって、童子畑にあったものと同じ、「有害鳥獣」イノシシの捕獲に関する注意書きが貼られていた

 そこのふくらみの在る道路脇に車を停めて歩き始める



 集落の入り口には、地蔵と、陽物を型どった道祖神のような石造物が置かれた小祠があった

 おそらくいずれも塞の神の役割を持つものだろう

 

 その向かい側には、フェンスで囲われた檻の中に、二匹の黒い犬が飼われていて、当方の姿を見て、クンクンと人なつこい甘えたような鳴き声をしていた



 古道の趣を残す集落の細い道を歩いて上っていくと

 

 暫くすると、童子畑にあったものと同じ「してもろたことだけ覚えていればいい」という、標語と、浄土宗極楽寺、と記された紙の貼られた掲示板があったが、その前の建物はお寺というよりは、一般住宅のようであった



 そこから少し登ると、八坂神社に続くこの石段がある



 石段を登りきったところに社務所のような、集会所のような建物があって



 その前に平成八年五月建立の、八坂神社の小さな石鳥居があった



 そこには二坪ほどの建坪の小さな本社があった

 八坂神社なのだから、祭神は素戔男尊、もしくは牛頭天王なのだろうが・・・



 その本社の濡れ縁には、童子畑と同じく、木造の狛犬が一対置かれていた

 やはりここも山民が祀り続けてきた犬堂だった



 左側の阿形狛犬は、顔面がかなり欠損しており



 この像も、後ろ足股間部には、陽物らしきふくらみがあって、古式を残しているようだった



 後方から見ると、後頭部はまるで役行者のように、人間の伸ばした髪の毛のようで、背面部もなぜか人間の体型を思わせ、太い尻尾は喜んでいる犬のように、ピンと立てた形になっていて、とても珍しい形だ 



 本殿右側の吽形狛犬も同じく木造で、同じような体躯、髪、(たてがみ)をしていて、 



 瞳孔の無い大きな不思議な目が、この狛犬の強い霊力をあらわしているようだ



 同 上 

 多くの神像や眷属動物の像で、この世には無いような奇怪な体の部位表現は、その像の霊力の強さを現しているもので、この狛犬は瞳孔の無い大きな見えない目で、見えないもの全てを見通しているようだ

 この狛犬の目は異界の神の目であり、、たてがみや背は人のようであり、神、人、狗、が、同じ像の中で渾然一体となっている

 このような異形は、この像自体が、強い霊威を持っていることを現している



 社の境内には二つの石碑があって、その一つがこれなのだが



 上に梵字が刻まれていて、石碑に掛かっている木の枝を除けて見ると、下の方には「 千 部、應 安 七、十一月 」の文字が読みとれ、その左右には「 甲、寅 」きのえとら、の文字が刻されている

 他の文字は、当方浅学にして読めなかったが、千部という文字から推測して、この碑は、泉佐野市中大木の西光寺前にあった、「大乗妙典一千部供養塔」のように経典を誦したり、写経したりした際の記念碑のようなものではないかと思われた

 年代と六十干支も完全に一致しており応安7年は、西暦1374年で、現在から642年も以前の南北朝時代になる

 日本人の識字率が高くなるのは、江戸時代以降だから、どのような状況でこの碑が建てられたのであれ、その時代にこのような山間の奥地で、既にこの石碑が建てられていたことは、戦国時代以前のこの村の文化水準を表していて驚きである

 このように古い年代の明らかな石碑が、保存措置もとらず、文化財指定も受けていないことは残念なことだ 山の斜面が少し崩れれば、すぐ土に埋もれ、人々の目にも触れることなく忘れ去られてしまうであろう 



 もう一つの石碑は、更に古いもののようで、上部に梵字らしき文字が刻まれていることは知れ、その下にも文字は刻されていたようだが、当方には全く判読不能だった



 本堂からさらに細くなった登り道が続いておりいくつかの小祠が見えた



 これは稲荷社のようだ



 さらに登るとこの小祠や



 この小祠があり、社の形でおおむねの祭神は知れたのかも知れないが、当方にはいずれの祭神も不明だった



 その後、神社を出て、人家の裏道を抜けて、



 暫く山村の道を登って行く



 暫く登ってから、両側に柑橘類が植えられた畑の間を通る山道を、また下り始めると、前方に折り重なる山並みが見えて、山深い国境の里を、一人歩いていることが実感された 
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プロフィール
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    ・へぼ碁 
    ・外歩き
    ・古社寺めぐり 
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   日本と日本の風物を最も愛しているけれど、他国と他国民を軽視したり蔑視してはいけないと強く思っている  基本的にイデオロギーは、信じていない 中〜高年男性
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