最近は家にこもって卒論を書いてます。今は14世紀前半、鎌倉時代と南北朝時代の間くらいを中心に、宮廷の人間関係を洗い出しているところです。
この時代の宮廷というと、後醍醐天皇とか後醍醐天皇とか建武の新政ばかり歴史の教科書ではピックアップされてしまうのですが、そのかげに、ちいさな甥っ子を育てた「花園天皇」というひとりの人間がいたことに感動させられました。
(以下敬語の使い方などに至らないところがあると思いますが、気になるという方には申し訳ありません。)
花園天皇は天皇家の系図をみると後醍醐天皇のひとつ前の代の天皇です。といっても後醍醐天皇とはひいおじいちゃんがいっしょなだけです。この時期には天皇家が「持明院統」と「大覚寺統」に分かれていて、しょうがないので両方の家から交代で天皇を出すことになっていました。
花園天皇が持明院統の代表として突然即位することになったのは十二歳のときでした。それまで天皇だった大覚寺統の後二条天皇がたった二十四歳で亡くなってしまったからです。大覚寺統に属していた人々が嘆き悲しむ中、花園天皇は即位しました。
このころ、実際の政治は天皇のお父さんなどの役割でした。というか、政治をしていたのははるか東の鎌倉幕府の武士たちでした。天皇になった花園天皇は、宮廷の儀式に出たり、和歌や学問をして一日を過ごしていました。花園天皇は和歌がとても上手で、信仰心も強い青年になりました。
花園天皇が十六歳のとき、お兄さんの後伏見上皇のところに男の子が生まれました。花園天皇はお祝いを贈りました。この子が自分の次に持明院統から出る天皇になる子どもだな、と思いました。もともと自分が即位したのは、この子が生まれて成長するまでのつなぎだったのです。
花園天皇が後醍醐天皇に譲位することになったのは、即位してから十年後、二十二歳になったときでした。もちろんこの譲位は鎌倉幕府の政治家たちの後押しによるところも大きかったのです。
花園天皇の周りから人々は去っていきました。
殿守のとものみやつこよそにしてはらはぬ庭に花ぞ散りしく
(主殿の役人たちが、知らんぷりをして掃除をしないこの庭に、桜の花は一面に散り敷いている)
花園天皇はお兄さんの後伏見上皇が天皇だったときのことを思い出していました。お兄さんが天皇になったのは十一歳のときで、退位したときにはたった十四歳でした。大覚寺統の圧力によるものでした。
翌年の寒くなってきたころ、ふっと花園天皇は、何もかも捨ててみたい気になりました。出家をしてしまおうか。花園天皇は退位してからお兄さんのところに同居していたので、夜になってからお兄さんとお義姉さんのところに相談に行きました。
お兄さんは反対しました。出家などしたら世間が騒ぐにちがいない。この家で静かにしていなさい。
思い立った出家は、諦めざるをえませんでした。
そんな日々の中、花園天皇が甥の量任親王(光厳天皇)の教育をしはじめた理由はよく分かっていません。
二十二歳で隠居生活に入った花園天皇は、七歳の小さな甥っ子の手に琵琶を持たせました。それから和歌を詠むための練習も始めさせました。連句、漢詩、笛。甥っ子のための学問所。それらのこともみんな日記に書いてあります。
甥っ子がひと月以上病気で苦しんだあと、ようやく回復してお風呂に入れるようになったときには、花園天皇は関係者たちに牛一頭・馬一頭を与えました。
都は荒れていました。後醍醐天皇は古代のように天皇による政治を行おうとやっきになり、武士たちは不満をもらし、貴族たちは右往左往していました。そんななか、ひっそりと学問をして暮らすこの二人の間にどんな絆が生まれたのか。
それは嵐の吹くなか、壁に囲まれた小さな庭園で過ごす穏やかさだったのではないでしょうか。
花園天皇は三十四歳のときに、甥っこのために本を書きました。千四百八十九字の漢文で書かれたそれには、この嵐の中で生き抜くために、帝王としての徳を身につけることの重要性が切々と説かれています。
ちょうどこれが書かれた翌年には、後醍醐天皇は幕府によって佐渡へ流され、十九歳の甥っこが光厳天皇として即位しました。
「後醍醐天皇」という中世の巨人のかげに、こうした伯父と甥の姿があることは、いまでは殆ど知られることはありません。
花園上皇は三十年の長い隠居生活を過ごし、そして光厳天皇の長男・崇光天皇が即位した同じ年に、五十二歳でなくなりました。
中世のひとこまでした。