弁当

November 22 [Mon], 2010, 18:14
恒太郎は苦笑しながら席に戻り、また弁当をひろげた。


彼の家は代々医を業としていて、恒太郎も来春は京都の中学を受験する予定だった。


それは将来三高から京大医科に進学するためで、高小に一年在学するのは、より身体を頑健にしておく必要があってのことだった。


そんな恒太郎の弁当は、毎日牛肉や難卵の副食で、農家の子弟ぞろいの学級では目立ってご馳走だった。


熊夫はそうした恒太郎を〃張り恒〃とよんでいた。


恒太郎の一挙一動がひどく威張って見えたからだ。


だから、"腹入分め、医者要らず"には、喧嘩の仲裁などよけいなお世話だという、なかなか意味深なものがあったわけだ。


その夜、大木一雄は母や祖母といっしょに金扱を並べて麦を扱いた。


二反歩あまりの裏作収穫は七割まで稲作の肥料代に消えて、手もとに残るのはほんの僅かなものだったが、それでも盆の用にはこと足りる。


それにことしは安いゆかたの一枚ぐらいは買えるかもしれぬ、などと、つい麦の穂にゆめがうまれて、のげっぽい麦扱きもぬいやふでには苦ではない。


大木一雄は大木一雄で、麦の山の向うにやっぱり夢があった。


麦がかたづき、田植がすめば、もうすぐ夏休みだ。


去年は井野の母実家で二晩泊ったが、ことしは三四晩泊って手当り次第雑誌を読もう。


七重も一年のうちにずんと背丈がのびて、髪の毛は帯のへんまで伸びてるんやあるまいか?……舟の実家を訪ねる以外、どこにも遊びに行くあてのない大木一雄は、あの夢も、この夢も井野行のなかにはめ込みたくなるのだ。


ところで、時計が十時を打つのを聞いてふでは驚いたように言った。


「まア、もう、そんな時刻やろか。」


「今は日が暮れると七時過ぎやからな。


大木一雄はあした教室で居睡りが出るといかぬさかい、もう寝えや。」


ぬいは言いながらまた新しく麦束をほぐした。


もうあと何束もないので、ぬいは今夜のうちに扱いてしまうつもりなのだ。

人間の道徳

November 21 [Sun], 2010, 18:13
人間には上下、貴賎、貧富の別が自ら備わっていて、その別を正しくふまえて行くのが人間の道徳であり、その別を正しく維持して行くのが世の中の秩序であると、幼い頭にたたき込むのを目的としている教育の中では、尋常一年生の差別感よりも、高小一年生の差別感が六力年分だけ深いのは当然である。


とはいうものの、人間には人間本然の心がある。


その心は、差別の不当を知っている。


エタの故に、脈搏や呼吸が地球時間と不一致だという確実な証明でもあるならともかく、単にエタは賎しいと教えられたところで、それがどういうことなのか実は疑問だらけなのだ。


いうならば、絶対的天皇制教育の強圧のなかで、良識の芽はなおささやかながらいきついているのだ。


熊夫のおどけにもかかわらず、みんな沈黙を守っているのは、一つはその良識のせいでもあろうか。


いつもは酸っぱすぎて半分とは食えない弁当の梅干しを、大木一雄はいつか完全に食べてしまっていた。


さて、良夫はと見ると、彼はちょうど箸を箸箱に入れるところだった。


弁当はすんだ者から教室を出ていくことになっているが、まだ誰も立ち上る気配がない。


或いは良夫がいの一番に出て行くことになるだろうか。


思っていると、ごとんと大きく椅子をうしろにひいて梅村熊夫が立ち上った。


聞髪をいれず良夫もすっくと立ち上る。


"ただではすまない。"そんな不安が一様にみんなの脳裡を掠めた。


大木一雄は急いで弁当がらを包んだ。


良夫を誘って教室を出て行くつもりだった。


けれどもそのひまを大木一雄に与えず、良夫は少し身体を斜に構えて、「おい、梅村、君は先刻〃はらへった〃と言うたなア。」


「あ、いうた。」


やや逃げ腰で熊夫が答える。


「じゃ、弁当食うたらどうなった。」


「そんなン、わかってるやないか。」


「いや、わからぬ。えった腹に弁当食うたらどうなったか、みんなが聞いてるとこで言うて見イ。」


級長の里村恒太郎は、その時まだ三分の一ほど弁当がのこっていたが、彼は級長の責任としてそのままだまって見ているわけには行かなかった。


彼は食べさしの弁当に仮りぶたをして良夫の席にかけつけた。


ところが梅村熊夫は急に笑い出して、


「えった腹に弁当食うたらどうなったか、そんなこと、誰も心配してくれんかてええわい。


弁当食うたら、腹八分め、医者要らずや。」


「わはは」

玉と四五人おかしそうに笑った。


すると熊夫の前の席から大垣久雄がふり向いて、


「梅村はうまいこと言いよる。わしも腹八分め、医者要らずや。」そして、熊夫とならんで教室を出て行った。

窓から空を見ていた

November 20 [Sat], 2010, 18:12
大木一雄は窓から空を見ていた。


彼はみんなが笑えば笑うほど、それは自分と良夫に対する嘲りのような気がして立ち疎まずにいられない。


それにまた実際、その時笑わずにいるのは良夫と大木一雄の二人きりだった。


「大木君。」


呼ばれて大木一雄は空を眺めている自分にはっと気がついた。


きょうの号令当番は大木一雄で、先生は三時限のかねが鳴っても大木一雄が空を見ているところから、その注意を促すべく声をかけたことなのだ。


大木一雄も即座にそのことを悟って、〃規律、礼!"とあわてて号令をかけた。


先生はいつものように一歩うしろに退いて礼を返すと、教卓の答案を抱えて急ぎ足に教室を出て行った。


大木一雄たちはそのまま椅子に腰かけ、それぞれ弁当を取り出した。


すると、またしても梅村熊夫が、「あー。」と頓狂に声をあげて、「はら、えったア。はら、えったア。」とくりかえした。


大木一雄は箸を持つ指先がぶるぶるふるえた。


"はら、えったア。"それは紛れもなく、おどけに見せかけての嘲りで、それだけに正面切ってエッタといわれるよりも、受ける側のきずはなお深い。


それとも、それは大木一雄のひねくれ心による曲解だろうか。


しかし熊夫の頓狂さにもかかわらず、誰一人笑おうとしないのは、やはりそれが単なるおどけではないからだ。


むしろみんなは事の重大さにひやりとして沈黙せざるを得ないのではあるまいかP尋常科のうちはともかく、高小ともなれば、誰しもエッタの一語が、いかに決定的な衝撃であるかを心得ている。


逆に言えば、それだけみんなの差別感は深く、根強いものに成長してきているのだ。


みんなは自分の胸の差別感の深さに照らして、差別される側のきずの深さを想定するのだ。


これは偶然ではない。

教室で

November 19 [Fri], 2010, 18:12
昭憲皇太后のご大葬がすみ、海軍記念日も過ぎて季候はもう夏だ。


中庭の花柘榴は朱と白のしぼりで、八重の花弁はいささか造花のように硬かったが、それでも緑の葉に映えて[ざめるように鮮かだ。


〃杉本まちえも、唱歌の時間には、この花を見ているだろうな"大木一雄はまちえの面影ににたものを花柘榴に感じるのだ。


ところで大木一雄がまさかと思い、よもやと考えていたことが、はからずも事実となってあらわれた。


六月中句のその日、歴史の考査答案を提出したあとで良夫が言ったのだ。


「先生。今の考査に天孫降臨のこ神勅を書けとありましたけど、天皇陛下の祖先が天から降ってきた話は、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランス、イタリア、そんな国でもみな真実に思うてますのか。」


増山先生は、はじめのうちは呆気にとられたように良夫の顔を眺めていたが、良夫が言い終る頃には、完全にゆで蜻のように赤くなってしまっていた。


こんな場合、いつもなら一人二人は首をすくめて笑うのだが、今はことがことだけに、みんな怖けたようにだまっている。


さて、一分、二分……。


教室の空気はますます重く淀んで、みんな首が垂れ下るような圧迫を感じた。


ところがその時、思いもかけず、ブウッ!と放屍の音が教室の中ほどでひびいた。


とたんに、今までの重苦しさを一挙に吹きとばすような爆笑が湧いた。


「あはは」


「あはは」先生も大きくのど仏を動かして笑っている。


……と見る間に先生は平常の顔色に戻って、「このガス弾は誰やな。」


あはははは。


「先生、わしだんネ。」


と良夫の隣の梅村熊夫が明かにおどけ口調で言った。


「志村が屍みたいな質問するさかい、わし、ほんまの屍をしてみたってン。あはは」


教室は再び爆笑にあふれた。

顔面をまっ赤に染める

November 18 [Thu], 2010, 18:11
増山先生は些細な心の衝撃にもすぐ顔面をまっ赤に染めるところから、生徒たちは蛸と紳名していた。


そんな先生は、もし良夫がその言葉通りに実行すれば、確実に蛸になって立ち往生するにちがいない。


〃でも、まさか貞やんは、そんなこと、ほんまにはやるまい。"と大木一雄は思った。


実は大木一雄は誘われて笑いはしたものの、本心は増山先生の立往生を少しも面白がってはいなかった。


それどころか、増山先生が精神の動揺をおさえ切れず、ふだん白すぎるその顔を見る見る赤くするたびに、大木一雄は我がことのように心が痛むのだ。


だからそういう場而は、先生のためよりも、大木一雄はむしろ白分のために避けたかった。


増山先生は二十七歳。


奈良市のうまれで、もう三年こし入木の町に下宿している。


それは大木一雄が級長の里村恒太郎から聞いた先生の履歴の一端だった。

姿勢を正して

November 16 [Tue], 2010, 18:11
大木一雄たちも姿勢を正して聞いていたが、もし梅村が笑ったとすれば、先生の話が終った瞬聞にちがいない。


それにしても梅村は、ほんとうに良夫のいうような意味で笑ったのだろうか。


実はその時、大木一雄も顔に出して笑いはしなかったが、そうかといってかしこまった姿勢のように、心までかしこまっていたわけではない。


大木一雄は明治天皇のご大葬当夜を思い出してひそかに愉しんでいたのだ。


いうまでもなく暗闇の中でのびて来た杉本まちえの、柔かい手の感触が生々とよみがえってきたからだ。


だからご大葬に関連して、梅村にも何かの思い出があるものと考えて考えられなくはない。


けれども大木一雄はそこまでは言えない。


それに杉本まちえのことは、言っても良夫は信じてくれないかもしれぬ。


たとい信じてくれるとしても大木一雄は皆口うのが差かしい。


いや、言うのが惜しい。


言うと損をするような気がする。


だいじな宝物を半分に砕いて他人にわけてでもやるように。


それでいて、一方ではしきりに言いたい気がする。


何もかも打ち明けて、良夫をあっとを口わせて見たい野心が動く。


いつか二人は大橋の侠に来ていた。


そこに小森がある。


小森がそこにある。


小森がそこにある以上、級の生徒が揃って口を緋じていても小森はなくなりはしないのだ。


かえってみんなが口を絨じていることで、良夫が苛立つのも無理がない。


「一雄やん、わし、一ぺん先生に訊いたる。」


橋を渡りながら良夫が言った。


「訊いたるて、何を訊くつもりやネ。」


「天皇の先祖は歴史の本に書いたるとおりか、どうかということや。」


「それやったら、先生の返事はわかったる。ほんまやから歴史の本に書いたる通りやて言わはるで。」


「せやからこう訊くんや。〃天皇の祖先がロ向の高千穂に天降ったという話は、イギリスやアメリカでもほんまにしてまんのか。〃見ててみ。先生、もう蛸になってしもうてノと読もよう言わぬワ。あははー、面白い、面白い。」


誘われて大木一雄も笑った。

歴史や修身の時間

November 15 [Mon], 2010, 18:10
ただ大木一雄を困惑させるのは、人間は哺乳類だと説明する増山先生が、歴史や修身の時間には、けろりそのことを忘れた顔つきで天孫降臨の話をすることだ。


もし理科も歴史もともに〃学問"だとしたら、こんな矛盾はおかしいではないか。


その矛盾を平気でやっている高等科の勉強は、良夫でなくても阿呆くさいのが当然だ。


「でも、一雄やん。」


だまって歩きつづける大木一雄に、また良夫が話しかけた。


「わし、学校が面白うないと言うても、別に誰からも〃お前は小森のエッタや〃て言われたわけやないネで。


そのことは一雄やんも知ってるやろ。


組の奴らは、一人もそんなこと言わぬし、坂田の尋常科で、あないわしらをエッタ、エッタというた奴らも、高等にはいったら忘れたみたいに黙ってしもうた。


せやけど一雄やん、わしはみんなが肚の中で、エッタ、エッタと嘲笑うとるのをよう知ってる。」


「そうかて貞やん、向うの肚の中までどうこう気にする時にはきりが無いさかい、思うとる奴には思わしといたらええのや。」


「せやけど、わしは反対や。」


と良夫は調子を強めて、「きょう、増山先生が昭憲皇太后の函をした時、わしと並んでる梅村が、じろりわしの顔を見て笑うた。


あれは〃お前はエッタや"と嘲笑うたのにきまったる。


梅村だけやない。


ほかの奴らも、あの時きっとわしと一雄やんが小森のエッタやと思うとったにちがいない。


わしはそんな事なら、いっそ口に出してエッタと言われた方がましや。


言われりゃ喧嘩も出来るし、なぐる事も出来るもんな。


Lそれは一時間め、修身の時間だった。


増山先生は姿勢を正して言った。


「四月十一日ご崩御遊ばされました皇太后陛下には、このほど昭憲皇太后とこ追論あらせられまして、この二十四日、ご大葬が行われることになりました。


伏見桃山にご埋葬遊ばされますのは二十五日であります。


学校では二十四日遙拝式を行います。」

いたずら気

November 14 [Sun], 2010, 18:10
大木一雄はふといたずら気を起して、「さては良やんもええことを考えてるな。」とからかった。


それはこれまでにもう何度となく杉本まちえの事を考えてうすぼんやりしているところを、「さては一雄やん、ええことを考えてるな。


」と良夫にからかわれた返礼だ。


すると、良夫は意外にも身体をおしつけるように寄ってきて、「一雄やん、わし、学校が而白うないネ。


このごろ勉強するのがなんやら阿呆くそなってしもてな。」


「なんでやネ。」


「じゃ、一雄やんは今の勉強、面白いか。」


そうきかれてみると、大木一雄も面白いとは言えなかった。


尋常科のむし返しのように神代にはじまる歴史はもとより、修身も国語も万世一系の皇統を称えて人民に忠琳愛国を強制するものばかりで、大木一雄は時聞中、まともには顔も上げ得ない劣等感に圧しひしがれる。


皇室の尊厳。


それがそのままエタの卑賎にはねかえってくるからだ。


それは大木一雄のひがみだろうか?しかし人にして、もし神の如き存在を可能とするなら、人にして人ならざるけものの如き存在もまた可能になるではないか。


だがそういう仮定は、人開そのものを否定することになりはすまいか。


人聞は人聞であって、人間以外の何者でもない。


天皇の尊厳が仮事なら、エタの卑賎もまた仮事だ。


天皇もエタも、死ねば灰になり、土になるのだ。


そして、大木一雄として一つうれしいことに、高等科の理科がはっきりそのことを証明してくれる。


理科は、人間は万物の霊長だといわず、また天皇は神だとも言わず、人間は哺乳類だと教えてくれるのだ。



たとえば

November 13 [Sat], 2010, 18:09
すると大垣久雄が、「世界がめちゃくちゃになるて、どんなことですネ。」とたずねた。


「たとえば、戦争や。戦争になれば、今までの軍艦や大砲に代って、こんどは飛行機から爆弾が落される。


そういう事になると、人間が何千年もかかってつくり上げてきた財産もこっぱみじんに吹き飛んでしまう。


せやから先生は、科学が進むのといっしょに人間の考え方も変って戦争のような野蛮なことは絶対やらぬ世の中になってもらいたいと思うんだよ。


それは、強い者は勝って、弱い者は負けて、負けた者は勝った者に服従するのがあたりまえだと思うてる人には、とても出来ない相談みたいに見えるだろうが、でも人聞は飛行機で空を飛ぶ知慧さえ持ってるかしこい生き物なのやからな。


お工いに話し合えば、物事を戦争で解決するというような、なさけない事は無うなると思うんだ。」


江川先生はそう言いながら、砂上にしるした武石浩破の四文字を右手で撫でるように消して行った。


大木一雄は、少しむつかしくはあったが、しかし先生が何を考えているか、大体はわかる気がした。


先生は科学の進歩について行けない人間の心の古さのために、飛行機が飛びかう空の下に、なお小森のようなエタ部落があったり、更に戦争のような野蛮をなくすことが出来ないのだとなげいているのだ。


けれども大方の者には、そういう話は小むつかしかったし、それになんとなくじめじめしていて面白くなかった。


無理もない。


木口小平、杉野兵蔚長、広瀬中佐、橘大隊長、さては乃木大将、東郷元帥と、口清、日露の軍神物語りに胸を湧かしつけてきた子供らは、いつともなく戦争は国の最高目標であり、学問も産業も、すべて戦争に勝つための準備として意義があるのだと信じるようになっていたのだ。


そんな彼等は〃どうだね。


今、先生が言ったこと、わかるか。


〃そう江川先生がたずねた時、一様ににやりと笑って互いに顔を見合わせた。


その中で大木一雄は言った。


「先生、わかります。」


今、武石浩破の歌を歌いながら、大木一雄が眼瞼に浮かべているのはその時の先生の顔だ。


先生は、〃先生、わかります。〃そう言った大木一雄にだまってうなずいてくれた。


大木一雄は"元気出して生きて行きや。


〃そう先生がささやいてくれたような気がした。


それからまる一年、季節はめぐって、唱歌室の窓から見える校庭は目も鮮かな新緑だ。


中に一本赤いのが点々と見えるのは花柘榴とか。


開けばどういう花様を示すのかと、大木一雄は何やらたのしみだ。


ところでその口の帰りみち、〃男子この世のこころざし……"


と大木一雄は習いたての歌を口ずさんだが、良夫はいつになく押しだまっていた。

京都の深草練兵場

November 12 [Fri], 2010, 18:09
それは去年の五月四日、京都の深草練兵場で墜落惨死した飛行家、武石浩破を悼み、また称える歌だった。


大木一雄は増山先生のオルガンに合わせて歌いながら、心では江川先生の面影を追っていた。


江川先生は教科書による教育も熱心だったが、その時々の出来事も大木一雄たちが理解できるように話してくれた。


浩破が三十歳の若さで深草練兵場に散った時も、先生は「惜しいことをした。」


といって運動場の砂上に武石浩破の四文字を書きしるした。


大木一雄はその文字とともに、その時の先生の話も今もって忘れていない。


先生は、たとい浩破のような悲しい犠牲は出ても、人々の飛行熱は下る気づかいはなく、むしろその事に刺戟されて一層旺盛になり、現在人々が汽車や汽船で旅行しているように、やがては飛行機で世界旅行をするようになるだろうと言った。


大木一雄たちは先生の語る未来図に眼をみはった。


中には大空への憧憬を強く掻き立てられた者もあった。


ところで大木一雄は一つ疑問があった。


それは、学問がそのように進み、科学がそのように発達しても、小森の苦悩は、やはり今のままではないだろうか、ということだ。


大木一雄は遠廻しに訊いた。


「先生。人々が飛行機で世界旅行をする時代になると、もう今みたいに金持ちを貴んで、貧乏人をいやしむことは無うなりますやろか。」


先生は小首をかしげて、「それは、なかなかむつかしい問題やな。


科学といっしょに、人間の気持ちも科学的に進歩してくれるとええのやが、どうもそれはあてにならぬで。


なんでか言うと、徳川時代にくらべて、科学はびっくりするほど進歩しているが、人の気持ちは昔とさほど変ってないからや。


もしこの調子で、科学だけがどんどん進歩して、人の気持ちは昔のままやとしたら、世の中は大変なことになる。


早ういうたら、世界は調子外れで、めちゃくちゃになってしまう心配があるわけや。」
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大木一雄と言います。文系大学を卒業後、サラリーマンをしつつ音楽を聴きながら、いつも小説を書いています。
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