オペラ座のすべてを見に行って、ベジャールに泣く 

2009年11月05日(木) 22時52分
という映画を見に行ってきました。

2時間半は長かった・・・。

コンテンポラリー偏重の影響で、カメラがみっちり追っているのはマッツ・エクとかプレルジョカージュとか、それよりももっと新しい振付家の作品群で。

・・・その新しい人たちについては全く知らず・・・。
マッツ・エクなんかもう白髪だらけのおじいちゃんやった。プレルジョカージュも。
昔、彼の作品のとんでもなさにびっくりしたのが懐かしい中学生の自分には衝撃的でした。


あと、ローラン・イレールが現役ダンサーに稽古をつけているのですが、思いのほか饒舌に語っていたのでびっくり。
一つ一つの振りに言葉を付けて説明する彼の解釈は説得力にあふれていた。
やっぱりできる人はここまで噛み砕いて消化するものなんだなあ。
ダンサー時代を知っているだけに一番印象深かった場面。

そんなわけで終わって思い返すと・・・自分の年を痛感した映画、という結論。
どうでもよいのですが、予告のベジャールに泣きました。
あれは絶対見に行きます。

てことでタイトル。

コーラスライン 

2009年08月27日(木) 23時51分
バレエではないものの、ちょっとこっちのカテゴリーで書かせてもらいます。

「コーラスライン」

今度見に行きます。

昨年、大好きな友人と「ブロードウェイ・ブロードウェイ」をみにいった。
コーラスライン06年リバイバル版のオーディションの模様を追いかけたドキュメンタリーだ。
コーラスラインは役を勝ち取ろうとする若者たちの物語。
カメラはそのオーディションに臨む多くの人たちを追いかけていて、奇しくもドキュメンタリー自体がコーラスラインという作品にリンクし、二重三重の深みを与えている。

いろいろな人達にスポットが当てられていた。
それでも全員が口にするのは「これはダンサーの物語。真実か描かれている」ということ。
でも確かにダンサーという一区画を切り取ってはいるが、付け加えるならこれは万人に響く物語であり、ドキュメンタリーであったと思うのだ。
どこかで必ずひとつは琴線に響いてしまうと思う・・・が、どうなんだろう。
私は響く情報が多すぎて処理しきれず大変なことになってしまっていた。

たとえば。「私にはこれしかないの」とジェシカ・リー・ゴールディンが語っていた。
他に何かあればそっちをすればいい。でも私にはこれしかないのと。
彼女は役を勝ち取り、千秋楽では主役を勤めている。
かなり最初のほうだったが、私はこの言葉で涙があふれた。
当時隣に座っていた友人との別れが見えており(距離的別離なだけなんですが)、動揺でアイデンティティを見失っていた私には痛い言葉だった。

そこまで強く思えることがどれほど素晴らしいか。私には何もないのだ。

悔いはないと思えるほど何かに賭けたことはあったんだろうか。
そんなことをずっと考えていた。

映画の一瞬一瞬に感動しながら、同時に辛くて仕方がなかった。
観終わったときしゃくりあげていて。・・・まー友人はびっくりしていましたよ。



そんなこんなで、見たくて仕方がなかった舞台。
今の私にはどういう風に映るんだろうか。
そしてこれをみて、どんな風に自分を見つめるのか。


できることなら彼と見たかったのだが。

心して臨みます。

ルグリ引退ドキュメンタリー 

2009年08月24日(月) 0時37分
家族と見ていてちょっぴり涙して、一人で見て大泣きした。

NHKhiでルグリの引退までの60日を追ったドキュメンタリーが放映された。


正確無比。安定。確実。誠実な役つくり。徹底した美学。

彼のこんなイメージは日本でも大いに受け入れられ、もちろん世界中で受け入れられるからより日本ではありがたがられた存在だった。だから来日回数は群を抜く。私もこれまでで一番見てきたダンサーだったんじゃないだろうか。

ギエムとのグラン・パ・クラシック
ルディエールとのマノンやオネーギン
オーレりとはカルメンと扉は必ず
あとはパリで見たアルルの女、ロビンスのアザーダンス
キリアンのやさしい嘘、小さな死

覚えているものをあげていくと、なんとなく彼の作品選択・好みが透けて見える。

彼の演技は確立された枠から超えるものを見ることはなかったかもしれない。
たとえばル・リッシュのように。
それでもその枠を形造る素材は一級品である。完璧にコントロールされた彼のバレエはフランスのスタイルの象徴となり、バレエという技術を追い求めるゆえどこか過剰になりがちな世界において、バランスを保つことがいかに大切かを体現した。


ドキュメンタリーはオペラ座の基本的説明に始まり、デュポンとの最後の共演になった「ル・パルク」の模様、
クレール・マリ・オスタとのオネーギンのレッスン風景、舞台リハから本番までの一連の収録
そして引退後の公演のレッスン風景。


人は出会いと別れを繰り返す。
あらゆる場面で、あらゆる形で。
これまで多くのダンサーの引退を見つめてきたルグリが引退カウントダウンを迎える。
そして刻一刻と別れが積み重なっていく。
デュポンはル・パルク終演後に感情を抑えきれず涙し、ルグリはそんな彼女を笑顔で抱きしめた。
デフィレのリハでは皆が拍手で彼を迎え、引退前に彼のこれまでの軌跡を称賛するが、これは逆に彼が明日にはここにいるべき人間でなくなることを決定つけ、ルグリの目には涙が溢れる。

一方で、彼を見つめる子供たちの目のなんと澄んだことか。
この記念すべき場所に居合わせる奇跡を祝福し、ルグリを目に焼き付けるように見つめ続ける。
初舞台がデフィレであったルグリの最後のデフィレで、それに初めて参加する子供たちがルグリを取り囲む。
どこか象徴的な場面だ。
伝統の小さな炎がこうして決定づけられ受け継がれていくのだろう。

彼らにとっては間違いなく出会いの機会であった。




オネーギン終演後の彼のこの言葉が忘れられない。
「みんな、練習に励んでください」

同じことをベジャールも語っていた。
ベジャールが死に、ピナ・バウシュが死んで、ルグリが引退する。

時が経るのは何と早いのだろう。そして傍観者でしかありえない私にとってそれはても残酷で切ないことでもある。
そう思いながらも同時代に生きることを、現役の彼らを見ることのできた幸福をかみしめるのだ。



玉の段 

2009年05月30日(土) 16時12分
久しぶりに仕舞いのはなし。

9月発表会に向けて「海人」の玉の段を習い始めました。

「海人」は房前が母を求めて旅する物語。




自身の名前が付く地で、一人の海女に出会う。

その女が昔語りを始めた。
子の父親である大臣のため、龍に奪われた宝珠を取りに竜宮城まで行き命を落とした女のはなし。
身振り手振りを持ち饒舌に語る女は最後に、自分こそが房前の母であると告げて姿を消した。

ここで自身の出生を知った房前はこの地で母の霊を弔い、最後に母の霊が龍女となって再び現れ、仏縁を得た喜びを舞い消えていく。




玉の段は、母の霊が命を落し引き上げられるまでの件を語る場面だ。
今回、私は正直やりにくさを感じている。
今まで習った、田村とも天鼓とも富士大鼓とも違う。
それはある種の冒険譚でありながら、演ずる役に母性が強く、無償の愛が随所に感じられること。

女が命を投げうってまで行動する礎として、子どもなり・子の父親なりへの感情を常に抱かなければ、この役を理解するのは難しいだろう。


しかし。
私はそんなに愛するひとも子供もいないわけで・・・。
女はね、玉を隠し、龍を近寄らせないために左胸を短剣で切っちゃうわけです。


ああ・・・無理だわ・・・。

苦戦しそうな予感。

ボレロ 

2009年01月18日(日) 22時58分
夏以来、久しぶりのバレエ。
ギエムのボレロを東京バレエ団と共に。
他の演目はギリシャの踊りと中国の不思議な役人。
正直これらは…。

仕事の疲れも相まってほぼ記憶なし。
ただギリシャの若者の踊りに出ていた長瀬さんはポジションの安定感と、するどさと、それを綺麗に見せる抑制が好ましい。


で、ギエム。
これが本当の日本最後のボレロツアーなのだろう。


いつものオーボエの旋律とともに両手を照らすスポットが彼女の顔を捉えた時、私はまず彼女の視線の強さに目を奪われた。



前を見据える視線の先には何があるのか。

動きは淡淡としたもので、しかし計算され尽くしたポジションを隙なくあるべき位置に収めていく。
汗一つかかず踊りこなすギエムは今までに見た何よりも完璧で、情緒や感傷は全く無く。
ドンにあった退廃美や色気も無く。
また、前回ギエムをみた時のようなリズムとメロディの攻防戦も存在せず。
強靱な肉体と不明瞭ながらも舞台に厳然と存在するギエムの強い意志が、ギエムから性を取り去り、一つの何らかの「象徴」たらしめていた。


リズムはBBLでみた、メロディを食いかねないむせ返るような卑猥な勢いは皆無だ。
それでも徹底して個を排除した事で、音楽が膨らみを増すごとにメロディに対する無条件の抗進力が強調されていく。


ニコラ・ル・リッシュが語った、「政治的高揚感」という言葉が頭をよぎった。



ギエムが振り切る手の方へ、リズムは一斉に体を動かし
ギエムが煽ればリズムはそれ以上の高揚を返す。
性差を越えたギエムはまさに偶像化された求心力である。
そうなるとギエムに手を差し伸べるリズムは被統治者の盲信か。




しかし同時に。ふと。

ふと、ショナ・ミルクがヴェニスの芸術祭で涙を溢しベジャールを語った言葉も頭をよぎったのだ。
「彼は悪魔よ。全能の魔術師。私たちをこうやって生きさせる。」


・・・。
今舞台で起こっていることはまさにこれでは無いのか?



なんてこったい。
ギエムにベジャールがのりうつっている。



ショーマストゴーオンでダンサーとともに前に踏み出したあの時の
ドンの死を乗り越え前へ進まなくてはいけないと覚悟を決たベジャールを思い出した。



そんな彼の死から一年。
ベジャールを愛しながら、その日に留まり続けている私は、ギエムにベジャールと同じ視線で先へ進まねばならないという事実を突き付きつけられているのだろうか。

私の無限の妄想がリンクした。
それは傍から見れば突飛な発想。
でもそれは私にとってとても個人的ながらもとても重要な鍵である。



そんなこんなでフィナーレで涙があふれた。
一年を振り返って、ここに座る疲れた自分をみて。
ベジャールに出会った子供の自分にまで思いを馳せて。

降って湧いたようなベジャールとの再会。
自分を見つめ直すに絶好の機会とタイミングはちょっとした自己啓発だった。


カーテンコールで思わず立ち上がった。もちろんみんな立っている。
素晴らしい作品を踊りきったギエムを祝福し、そんな作品をつくったベジャールを祝福し、この場に居合わせた自分を祝福する。


やはり舞台が好きだ。
そしてなによりベジャールが。

こころからそう思った。




鬱にやられる 

2008年07月05日(土) 0時21分
鬱からの最後っぺのような手紙到着



忘れればよいのか、無視すればよいのか、反論を頭で固めるべきなのか。

回し読みして笑えばよいのか、破ればよいのか、一生もっとくべきなのか。

全てにおいて、裏に起こりうる事象を透かして考え、どれが最良なのかを考える。

でもそうやって頭を煩わすことこそが相手の思うつぼなのかもしれない。

平静でいようとするほど叫び出したい衝動にかられる。

ベジャール  BFL 

2008年06月27日(金) 0時55分
今日はBBLの公演。17日には「ボレロ」中心の作品集。
そして20日がBFL。ついでに19日にはトークショーにも行ってきた。
ベジャールを語る那須野君の涙を見たせいか。
BFLはみるわたしはちょっと、、、というか、かなりおセンチ気味だった。
初めて私が触れた生のベジャール。ベジャールにサインをせがんだ思い出。
そしてジュリアン・ファブローのダンサーとしての変化を来日する都度確認した作品。
これまでの色々な関わりが去来する。
加えて今回で、BFLはベジャールを追悼する作品ともなってしまった。

沢山の記憶と密接に繋がったBFLは一言では表せずちょっと私を切なくさせる。
特に今回は見終わってみるとダンスを堪能すると言うよりも、昔の自分を巡る旅にでたような、そんな感覚が残る。カウンセリングを受けたような感じだ。

ついでに配役は以下の通り。

フレディ:ジュリアン・ファブロー
ブライトン・ロック:ダリア・イワノワ
ヘヴン・フォー・エヴリワン:アレッサンドロ・スキアッタレッラ
天使:エクトール:ナヴァロ
ボーン・トゥ・ラヴ・ユー:エリザベット・ロス
モーツァルト「エジプト王タモス」への前奏曲:ジル・ロマン
モーツァルト「協奏曲第21番」:ダリア・イワノワ、ティエリー・デバル
シーサイド・ランデヴー:カトリーヌ・ズアナバール
Radio Ga Ga:ドメニコ・ルヴレ
ウィンターズ・テイル:那須野圭右
ミリオネア・ワルツ:アルトゥール・ルーアルティ


知らないダンサーが増えている・・・。
すでに2日前の公演で置いてきぼり感があり、ダンサーの意図を理解するまでに時間のかかる私はこのテンポの速い演目がとても不安だったわけだが。

It’s a beautiful day とともにそんな危惧はすぐに霧消した。

BFLの映像を初めて見た、あの夏の朝へ一気に引き戻された。



やはりあの光一杯の幕開けは涙が出るほど美しく、全ての人を祝福してくれる強さがある。
そしてわずかなに混じる金色の光に全てのものへの尊さとベジャールの暖かな視線をみつけ、心がじんわりと暖かくなった。



ダンサー個々ではどうしても知っている大御所メンバー中心になってしまう。
エリザベット・ロスは強さがなくなったのか、はたまた丸くなったのか。
いや丸いと言うより儚い、と言ってしまってもよいかもしれない。
マリオネットのような引きあげられるような動きの中で、それに対する苛々と糸を断ち切るような勢いとフレディとタイマン張る強さがあった (映像で残ってるやつなんかも)。
今回は支配されることへの諦念、だろうか。彼女の持ち味である母性的強さではなく、一女性として彼女のダンスをとらえたのは今回が初めてだ。両手で顔を覆うしぐさが本当にか弱い。


ジュリアンはどんどん役を自分色に染めていっている。
ずっと歌を口づさみながら踊っているのが印象的だったが、私が逆にそうしてしまうことでフレディ色が濃くなってしまうのが苦手というか・・・。
できれば、見る側にも役解釈が出来る余地を残してほしいのだが、今のジュリアンは「ジュリアンの考えるフレディ・マーキュリー像」でありそれ以上でも以下でもなくなってしまう感じ。
でもあの存在感はやはり稀有なものだ。恵まれた体躯を活かした大きな振りは他とは一線を画し、オフからは想像も付かないパワフルな演技にいつも驚かされる。

今回凄く気になったのはMILLIONAIR WALTZ のアルトゥール・アルティ。
若干18歳。こてこてベジャールバレエ団員たちの中において、凄くかわいらしくて、それが個性になっちゃった不思議な存在。
ダンスが楽しくてしょうがないと言った感じで「OHYES!」のせりふから私はとりこになってしまっていた。
個人的にはあのキャラクターのままで行ってほしいけど、でもあの年ならではのものなのかもしれない。でもそれを素直にダンスに表現し、個性として成立させてしまうのは・・・恐るべき子供か。

ジル・ロマンはHEAVEN FOR EVERYONEから。
芸監になったから、では無いと思うが、ますます存在感が増し気迫が凄い。カーテンコールではかつてベジャールが立っていた中心に彼がいる。大阪では過去全部そうだったのだが、もう彼はベジャールの代わりではなく、彼自身の任務としてあの役割を果たしていくのだ。



見ている間中、何度も記憶を引っ張り出し振りの刹那先未来を思い浮かべた。なのに昔に還る自分がいる矛盾。
先を想像するという行為は全てにおいて基盤となる過去があってのものなのだ。

そしてクィーンの歌を口ずさんでいた自分にびっくり。昔、クィーンの抑制ゼロの感傷的なメロディを、ああおっさんの懐メロだとどこかで気恥ずかしく思っていた。それが私にとっても体の一部となり私の愛すべき懐メロになってしまっていることに、改めて時の流れを感じる。
ジュリアンが口ずさむのもこんな気持ちなのだろうか。

とかちょっと考えた。ま、違うと思うけど。


来期からはかなり団員が入れ替わるらしい。
これからはベジャールと直接関わっていないダンサーがどんどん増えてベジャールを表現していくのだろう。
すでにドンを知らない世代であるジュリアンが団の中核を担っている。
ドンを知らない私が、いつか「ベジャールってね・・・」と舞台に立った彼や、終演後にみた彼を誰かに語のだろうか。
でもそんな小さなことが、増す増す彼を神格化させるのかもしれない。

「天鼓」。 

2008年05月07日(水) 23時48分
今度の仕舞いの番組は「天鼓」。

子を宿した王伯の妻が、天から鼓が降ってきて胎内に宿るという夢を見、生まれたわが子を「天鼓」と名づけた。
奇しくもそれは正夢となり、降ってきた鼓が天鼓に与えられる。
素晴らしい音色の鼓は帝の関心を惹くが、鼓を取り上げられることを恐れた天鼓は身を隠し、怒りをかった末に呂水に沈められ殺されてしまう。

一説には人々の心を動かすほどの美しい音色に帝が危機を感じ、この世から消そうとしたのだとも。

最後、王泊に鼓を返した帝は追善の仏事で天鼓を弔うが、そこで呂水から天鼓の霊が現れる。
弔いに感謝し返ってきた鼓に喜びの舞に興じた天鼓は夜明けと共に消えていく。


番組の主軸は死を悼む親の心である。
だけどもストーリー転換が鮮やかすぎて、やっぱり一見深みはなく。
しかしそれを深く見せるのが醍醐味でもある。私は無理だけど。

だけどぼんやり天鼓の像を形作る。

殺されたのに喜んで舞う天鼓は芸術至上なのかただただ純粋であるのかとか。



呂水から解き放たれた天鼓の霊はまず最初に空を見上げる。

見上げた空に何を思ったんだろうかとか。
地中に沈められた天鼓にとって、空は解放された喜びの象徴か。
そんなことより、やっぱり久しぶりにみた空に美を見つけてしまう天然さんなのか。

先生には「母も私も大好きなのですが、なかなかここまでこれる生徒さんがいなくって・・・」

・ ・・そりゃそうでしょう。

私も5年かかりました。

日々人々あれこれ 

2008年03月24日(月) 0時50分
人にまつわるあれこれ。
1 鬱病
2 派遣
3 上司


1鬱病
異動三日で鬱病発症の女子。
法律無知な総務が、勝手に元の職場に戻すと口約束をかます。
鬱病調子に乗って、元職場に意味の無い根回しを始める。
元売場スタッフドン引き。
当たり前だ・・・。
店長は私をとるか、鬱病を取るかまで言い出す始末。そうですよね、そう思って当然ですよね。

2派遣
2度と使うものかと心に刻んだ人材派遣。
全部要望は営業に。が鉄則。
しかし派遣は「私が要らないなら会社に言ってください」
うざいので
「やる気が無いならあなたと会社で話を付けてください」
・・・となるとあっさり会社に報告→退職
上司にルール違反としかられる営業・・・・私。

3上司
言うことがころころ変わる上司さん。
思い出したように、私の意志とはかけ離れた人案をのたまう上司。
身勝手でもうどうしたら良いか・・・。
あんたのせいで私は遠心力でぶんぶん振り回される。

3ヶ月ぶりにお会いした 

2008年03月03日(月) 0時01分


わたしのSOSに端を発し、半年前まで会社の先輩だった人のおうちにお邪魔してご飯食べました。

今、会社が嫌で仕方が無い私。

それは人に対してであるし、終わりも途中休憩も無い仕事自体に嫌気がさしているせいもあり。


先輩からの助言は。


ひとまず異動希望を書け。


となった。他部署を知らずして会社を語るのは早すぎる。

それが対人であるならばもっと、考えが浅すぎる。・・・自分でもよう判っていることですが。嫌と言うほど。


ま、大殺界明けまであと一年なので我慢するためにもこの方向で思考転換を図ることにする。


夏に異動したら、盆休み取れなくなるかな・・・。そんな自分勝手なことで頭一杯の馬鹿ももこ。