ヘンリー・ソローの暮らし(H・S・ソルト著作)
〜森を読む(種子の拡散)
ヘンリー・ソローについて書かれた伝記は、前に採り上げた=ウォルター・ハーディングの大著である≪ヘンリー・ソローの日々≫が完結した様相を見せている、、、が、むしろ、ソローの精神世界を色濃く映した伝記(スピリットの伝記)としては、こちらの、HS・ソルトの≪ヘンリー・ソローの暮らし≫をもって嚆矢とする。
1908年最終稿とされる本書を、現代に読む意味合いは、どこにあるのだろう。それは、ソロ―の生き方やもろもろの考え方そのものを美談化するわけでさえなく、むしろソローが抱いていた現実社会に対しての問題の投げかけ方自体に、いまでも学ぶべき方向性が秘められていると思う。しっかりと萌芽を掴んでいたのは、自己修養の必需性と自己尊厳の確立である。
ソローが一見すると読み捨てられたかのような現況に至ったわけは、忙しない現代からは分かり難いがために時代から取り残された結果からではなく、あくまで彼のエッセンスが人間の自由意思に基づいた諦観であったことに多くは起因します。言いかえると、体系的ーシステマチックであることを嫌ったということ。
飾り気のない権威で、すべての人々に語りかける、、、、そういった性格の気高さ、つまり、どんな教義・主義からも拘束されず、ひとりの人間として生きて、暮らしていくなかでの堅実な構えと各個人個人で確立して実践すべき、生の条件のしっかりとした獲得あるいは、それへの不断の希求と意志であったわけです。彼の哲学の中心的特徴と私たちが看做す楽観的な信条は、大自然がもつ永遠の善きもの(グッドネス)への本能的信仰に基づいていたのです。
『 このオプティミスティックな信条を抱いて、ソロ―はおそらく他のどのような思想家よりも強く、人間の自らのパーソナリティーへの満足の気持を繰り返し述べるのでした。各人に自分の能力と条件に応じて落ち着いて成長してもらいたかったのです。過去について考え込んで時間を無駄にせず、今を生き、未来への無限の信頼を養うこと、これが彼の実践的な哲学のエッセンスでした。 』
豊かになる最も確かな道は必要なものを少なくすること。人は、構わないでおける物事の数に応じて豊かなのである。たとえば風の中にあるものを表現すること。ソローが、本質的に、科学者ではなく、詩人またはナチュラリスト(博物誌家)であったことは、よく知られた事実です。しかし、研究者としての一面もあって、生涯、自然を観察して、それを書き残していました。
そのことを好く伝えたエピソードとして、科学的なアプローチつまり解剖学的な所見を得るのなら、標本が必要かと思われますが、彼はこう言います。小鳥を研究したいなら、撃ち落としたらいい、、、、でも、そうではなく、観察はしますが、殺しません。手の中でというより、愛情のなかで小鳥を抱き、それに向い合って、観察するのでした。
それらは、あくまで人道的な感情と結びついた見解をもたらし、結果として、自然を対象としてではなく、自然を通して見た、彼の人道的な感情からの超・自然史が出来上がった。
ソローが勧める簡潔さ(シンプリシティー)は、禁欲主義者のように宗教的な罪の償いといった方法によって生活の贅沢さを放棄するのではなくて、暮らしは贅沢でない方が概して幸せであるという確信によるのです。
ソロ―は、わたしの理想とするひとりの人物です。そういう人間に、わたしもなりたい、、と常日頃から思うのでした。
〜森を読む(種子の拡散)
ヘンリー・ソローについて書かれた伝記は、前に採り上げた=ウォルター・ハーディングの大著である≪ヘンリー・ソローの日々≫が完結した様相を見せている、、、が、むしろ、ソローの精神世界を色濃く映した伝記(スピリットの伝記)としては、こちらの、HS・ソルトの≪ヘンリー・ソローの暮らし≫をもって嚆矢とする。
1908年最終稿とされる本書を、現代に読む意味合いは、どこにあるのだろう。それは、ソロ―の生き方やもろもろの考え方そのものを美談化するわけでさえなく、むしろソローが抱いていた現実社会に対しての問題の投げかけ方自体に、いまでも学ぶべき方向性が秘められていると思う。しっかりと萌芽を掴んでいたのは、自己修養の必需性と自己尊厳の確立である。
ソローが一見すると読み捨てられたかのような現況に至ったわけは、忙しない現代からは分かり難いがために時代から取り残された結果からではなく、あくまで彼のエッセンスが人間の自由意思に基づいた諦観であったことに多くは起因します。言いかえると、体系的ーシステマチックであることを嫌ったということ。
飾り気のない権威で、すべての人々に語りかける、、、、そういった性格の気高さ、つまり、どんな教義・主義からも拘束されず、ひとりの人間として生きて、暮らしていくなかでの堅実な構えと各個人個人で確立して実践すべき、生の条件のしっかりとした獲得あるいは、それへの不断の希求と意志であったわけです。彼の哲学の中心的特徴と私たちが看做す楽観的な信条は、大自然がもつ永遠の善きもの(グッドネス)への本能的信仰に基づいていたのです。
『 このオプティミスティックな信条を抱いて、ソロ―はおそらく他のどのような思想家よりも強く、人間の自らのパーソナリティーへの満足の気持を繰り返し述べるのでした。各人に自分の能力と条件に応じて落ち着いて成長してもらいたかったのです。過去について考え込んで時間を無駄にせず、今を生き、未来への無限の信頼を養うこと、これが彼の実践的な哲学のエッセンスでした。 』
豊かになる最も確かな道は必要なものを少なくすること。人は、構わないでおける物事の数に応じて豊かなのである。たとえば風の中にあるものを表現すること。ソローが、本質的に、科学者ではなく、詩人またはナチュラリスト(博物誌家)であったことは、よく知られた事実です。しかし、研究者としての一面もあって、生涯、自然を観察して、それを書き残していました。そのことを好く伝えたエピソードとして、科学的なアプローチつまり解剖学的な所見を得るのなら、標本が必要かと思われますが、彼はこう言います。小鳥を研究したいなら、撃ち落としたらいい、、、、でも、そうではなく、観察はしますが、殺しません。手の中でというより、愛情のなかで小鳥を抱き、それに向い合って、観察するのでした。
それらは、あくまで人道的な感情と結びついた見解をもたらし、結果として、自然を対象としてではなく、自然を通して見た、彼の人道的な感情からの超・自然史が出来上がった。
ソローが勧める簡潔さ(シンプリシティー)は、禁欲主義者のように宗教的な罪の償いといった方法によって生活の贅沢さを放棄するのではなくて、暮らしは贅沢でない方が概して幸せであるという確信によるのです。
ソロ―は、わたしの理想とするひとりの人物です。そういう人間に、わたしもなりたい、、と常日頃から思うのでした。


























