ネタバレ注意!!「流れよ我が涙、と警官は言った」についての深読み 

August 14 [Sun], 2016, 22:57
ネタバレがものすごいので、嫌な方は読まないでくださいね。





実に、30年ぶりに読み返した。
当時はほとんど良さがわからなかった。たぶん、登場人物の誰にも感情移入できなかったからだと思う。
30年の時を経て!読み返してみたが、やはり感情移入できない。
そして、筋書きのつながりの悪さがいっそうモヤモヤさせる。

ただ、テーマはわかる。それは昔よりよくわかるようになった。
ずばり、「愛による破滅」だ。
人は愛することによって破滅する。
他者を愛することがない、愛されるばかりで愛する能力のない男が
一番長生きしたという結末は、そういうことだ。

しかし、たとえ破滅に向かっているとしても、
人が生きるということは誰かを愛さずにはいられない。
タヴァナーが愛さずに生きていけるのは
そのように人工的に作られたからで、
自然に生まれてきた人間にはできないのだ。
キャシイは夫の死を認めないことで夫を愛し続けることができ、
そのおかげでいくらか正気を保てる。
フェリックスも妹に手を焼きながらも愛していたから、
彼女を守るためにも警察本部長の地位を守っていたのだろう。

愛するものを失った時に、破滅が始まる。
本当はアリスの死によって露見するスキャンダルを隠蔽するために
死んでもらうのはタヴァナーではなくて、
もっと政敵に近い誰かにすべきだったのに、
フェリックスはタヴァナーにしてしまう。
それはたぶん、単純に嫉妬心からだ。
今までもたくさんの人間を利用して殺してきたと言っても、
個人的な嫉妬心で面識のある男を陥れたことはない。
失われた愛の苦しさとその愛ゆえの業の深さに
フェリックスは泣き続ける。

主要な人間たちはみな愛によって破滅する。
アリスはなぜ破滅したのだろう?まぁ、ジャンキーだから、
っていえばその通りなんだけど。
ルール無用の存在であるとは本編に書かれている。
でもここで、あえて彼女に愛による破滅を当てはめてみる。

アリスは薬物によって、パラレルワールドを一遍に見て、
好きなように出入りし、連れてくる能力を得ていた。
だからきっと、何度かタヴァナーを自分の家に入れていたのだろう。
いろんな次元のタヴァナー。
どの次元のタヴァナーであっても、彼を愛していた。
だから、有毒生物によって殺されてしまう彼をなんとか救おうとしたのだ。
きっと、別次元をつないで次元の流れを変えてしまうことまで
無理に頑張った結果、骸骨になって死んでしまったのではないだろうか。

最後はみんなが彼のこと知っている世界に戻ってきたようであった。
でも、警察の数人はタヴァナーを知らないままだったし、
なにより、黒人が優生学によって絶滅されて行く世界ではなくなっていたのは、
あきらかに元の世界とは違う世界になっていた。

アリスがタヴァナーを救った。
そう考えた時に、初めのタヴァナーが襲撃された話が急に生きてくる。
タヴァナーを誰も知らない世界で、自分だけのものにしようとしたけど、
本人がそれを望まないとわかったとき、アリスは自分の欲を諦めて、
彼の望みを叶えたのだ。
タヴァナーが有名人である世界へ。
そして同時に無数にある平行世界の中の地獄のような世界を消し去った。
そのことによって、タヴァナーは元より、
フェリックスも穏やかな世界でしばらく生きて行けるようになったのだ。
(とはいえ、結局は暗殺されちゃうから、
アリスがどこまで手を加えられたのかはよくわからない。)
愛ゆえに破滅したわけだけど、その愛ゆえに守られる命と世界もある。
自分が消滅した後も、愛する人たちが幸せでいてくれれば何の心配もない。
という話が、途中で語られていたし。

アリスの破滅については、作中で何も語られないので、
これは私の深読み、ほぼ妄想。
でもそう読み取ったほうが、フェリックスの破壊する愛との対比で、
より深く美しくなると、私は思うのです。

嫌いなものをどうするか 

June 20 [Mon], 2016, 10:52
 生きてる上で何が大切かというと、やはり「気持ちがいい」ということだろう。それは瞬間的爆発的なものもあれば、持続的穏やかなものもあるし、まぁ、不愉快ではない、という程度だったり、ひどい苦痛よりは幾分マシ、と言う程度などいろいろあるが、とにかく「快」という気分が大事なんだと思う。人間が集団で生きているものも、集団ゆえの不快さはあるけど、天秤にかければ「快」の方が多いからなのではないだろうか。
 集団で生活するとルールが生まれる。ルールがあるから集団になれる。いろんな集団にいろんなルールがあるのだけれど、一つの集団というのは同じルールが適応されているということである。そしてそれを守ることで、快適に暮らせる。そしてそのことが集団に対する愛着になって、集団自体を快く好意的なものと感じるのである。でも集団の中に入ってしまうと、他のルールが適応されている他の集団があることがわからなくなってしまう。とても快適にその集団の中で暮らしている分にはなんの問題もない。しかしそのルールが自分にとって不快の方が多くなって苦しいとか、ルールを破る奴が出たので集団としてのまとまりが壊れそう、とか、身近にいるけど実は別の集団に属していたとか、そういう問題が起こってくる。個人が自分の「快」を求めた結果、集団にとっての異物となって集団を壊しかねない。そうなると愛する集団を壊す憎い異物、集団の中の多くの人々のためにその不愉快な異物としての個は抹殺すべきであるとみなされてしまう。自殺というのは集団を維持するためにそこに合わない自分を抹殺することに他ならない。暗に強制されているのかもしれない。少数の個の「快」よりも多数の「快」を優先した結果である。
 ところで他国のことはよくわからないが、日本においては人権を守るというルールがある。これは人間だったら誰でも最低限の快適さを守っていい、生きていていい、ということだと解釈している。不当に苦痛を与えられたら公に文句言っていいし、人に与えてもいけない。そういうルール。このルールはとても大きくて大雑把なので、これだけで集団を作るのは難しいけど、このルールの中でもう少し狭いルールの集団を複数作ることもできる。人権というルールで囲まれた枠の中にいろんなルールの集団があるのだ。だからある集団でのルールにあわない少数派はその集団を出て別の集団に行くとか、新たな集団を作るとかが可能になる。そして、集団にあわない少数を抹殺することを禁じることで最低限の生きることが守られる。ただ抹殺を禁じるだけでなく、少数派の生存も保障しなければいけない。
  しかしながら嫌いな奴と仲良くする必要はない。我々の集団のルールに合わない奴は出て行く。それはそれでいいと思う。ただ、出て行った人の行先を潰したり、侮辱したりするのはおかしい。個人が居たいと言ってるのに追い出すのは条件による。追い出せる正当な条件がなければ、集団の暴力だ。
 嫌いなものを好きになる必要なない。そんなものは欺瞞だ。自分の大好きな集団とそこでのルールを乱す奴は大嫌いでいい。でもそいつの生存についても真剣に考えてやらなければならない。嫌いな奴を嫌いなまま生かし続けることを考える。それは「明日は我が身」という処世術でもある。
 
 どうせ人間必ず死ぬんんだから虐殺されようといじめ自殺しようと同じだという人もいるかもしれない。でもこの世に生きている時間は有限なのだからこそ、誰も皆、ちょっとでも気持ちよく過ごしたらいいなぁ、と私は思う。主観的なもので何の説得力もないけど、まぁ、苦しんでいる人を見るのはとても辛いので。

 一つの集団、社会、文化の様式が完成してそれを回していくのはある意味美しい。しかしそこに異分子が紛れ込んで様式が崩れて新たな様式を構築し直すことが人類という集合生物の醍醐味だとも思う。だから集団の中に異端者を抱えることは大切なことではないかとも思っている…

小人の饗宴 

June 11 [Sat], 2016, 11:33
 ヴェルナー・ヘルツォーク「小人の饗宴」は20歳の時に見た。その時にはグロテスクな乱痴気騒ぎとしか思わなかったのだけど、今はそうは思わない。これはマンガだな、と。ギャグマンガの実写。

 登場人物たちはただひたすらに悪ふざけを続ける。子供じみた馬鹿騒ぎ。彼らの姿は子供なのだから違和感はない。ではこれを子供でやればいいのではないか?たとえば「台風クラブ」みたいに。
 人生の中の子供時代はほんの一瞬。その移ろいゆく一瞬に破壊し尽くして、彼らは走り去る。一晩で通り過ぎる台風そのもの。成長と呼ばれる変化の実体としての子供。

 しかし、「小人の饗宴」の登場人物たちは子供ではない。もちろん大人でもない。大人は秩序建った日常を永遠として守るものだから。彼らは子供のように秩序を破壊する。しかし彼らは走り去ることはできない。それは彼らが成長という変化の実体ではないから。走り去るべきなのに、この場所に閉じ込められてしまった嵐なのである。
 子供達の破壊衝動は嵐のようにやってきて破壊し過ぎ去っていく。でも永遠に子供のままだったとしたらそれは過ぎ去らず破壊し続ける。そうなったものを狂気と呼ぶ。

 子供が演じれば、誰でも人生の中に狂気の時代があり、それは刹那で過ぎ去っていく儚さや美しさとして描ける。でも子供の姿をした大人が演じると、誰の中にも狂気が子供の姿をして閉じ込められているという別の話になる。それはグロテスクで不快だけど、ユーモラスでかわいくもある。それは子供の特徴によく合っている。狂気というのは永遠の子供である。赤塚不二夫のマンガっぽいなと、あらためて思った。

後悔についての個人的つぶやき 

February 26 [Fri], 2016, 10:24
 家族が亡くなって、こんなことならああすればよかった、こうすればよかったと、後悔するのが当たり前なんだろうけど、私はそういう部分がほとんどない。子育てでは、まぁ、少しは後悔もあるけど、でも大筋ではほとんどない。(自分の子育てが大成功!って思ってるわけでもないけど。)
 基本的にあまり後悔しない。後悔という後ろ向きのセンチメンタルが大嫌いだから。後悔している自分に酔ってる風な人、多いと思う。私は何かするときにいつも悩んでいて、悩みながら選択しているので、後悔は選択した直後に感じるんだけど、そのままやるしかない。
 また、後悔は傲慢の一種でもあるように思う。できもしないちっぽけな自分を受け入れられないから苦しいのであり、後悔することでそれをごまかしている。

 しかし、本当は私の中にはいつも私を苦しめようとする人格があって、後悔という行為はそいつの大好物で私を苦しませ続ける。私には辛すぎることで、心を病む。だから変えることのできない過去の可能性については考えないように心がけている。でも、なぜか急に昔の大失敗の出来事がそのときの感情と一緒にフラッシュバックしてくることがあって、七転八倒してしまう。私を苦しめる私。私に苦しめられる私。その私から私を守る私。そのどれも私と知っている私。

この一年 

December 01 [Tue], 2015, 9:21
早くも2015年の総括か?というとそうではなくて。

夫の父がおかしくなってきたのは2010年頃ではないかと思う。
でもその頃は「ちょっと変だよね」ぐらいで、これといって何もしなかった。
大学付属病院で検査をしてアルツハイマー病の診断が出てたらしいけど、
ちゃんと教えてもらってないから、それがいつのことなのかも知らない。

私から見れば段々と症状がひどくなってきたと思うのだが、
やはり重大な突破点は去年の10月の末に家で大暴れした時だろう。
3日後には公園で暴れてついに警察に保護。
それからこの1年の間に警察に保護は4回、救急車は2回。

今年の春頃までは昼夜を問わず家を出て行ってしまうことと
誰かれ構わず叱りつけることが問題だったのが、
夏頃からちょっとの段差で転ぶ、自力で起き上がれない、
といった身体的な問題が中心に変わっていった。

こんな調子で体が動かなくなって、寝たきりになっていくのかな、
と思っていたところで突然の腸捻転、緊急手術。
術後の回復は良くて、2週間で退院。
でもその四日後に腸閉塞からの敗血症で亡くなってしまった。
医者の話では、あっという間の敗血症でショック死だから、
ほとんど苦しいところはなかっただろうと。

「認知症は神様がくれた贈り物」なんて話も聞くが、
夫の父は違っていた。
最後まで不安でいっぱいという顔つきだった。
結局、認知症になると、その人本来の性格がものをいうんだと思う。
楽天的な人はより楽天的になれるし、
悲観的な人はより悲観的になるだけ。

この一年の介護の日々が唐突に終わってしまって、
総括がまだ全然できない。
この文章もまとめようがわからない。
でもちょっとした覚え書きとして、ここに残しておきます。

商業映画ということ 

June 05 [Fri], 2015, 16:50
数年前に『死刑台のエレベーター』のリメイクがあったんだけど、
名作に対する冒涜だって言う話で,もちろん当たり前。
あの映像センス、
そして何よりあの音楽がなかったら名作足り得ないわけだから、
何と恐れを知らぬ不届きもの。

ネットでレヴューを読んでみても軒並み低評価。
まぁ当然。でも別の事実に気がついて唖然とした。

レヴューを投稿している人のほとんどが
元ネタの作品を観ていないのだ。なんと。
古い映画とはいえ、レンタル屋に行けばあるだろうに。

そこで気がついた。
これは名作に対する挑戦でもなければ,
リスペクトでもなんでもなくて,
単なる素材に過ぎないのだ。

この映画ルックスだけのタレント女優が主演で
相手役も有名二枚目俳優ということだから,
その美しい姿が拝めればそれで良いのだ。
見に来る客は元々の作品なんか知る由もないのだからそれで良いのだ。

実際,ルイ・マルのその作品が大好きなので,
私なら絶対に観ない。
つまり私のような人はもともと対象ではないのだ。

そいうわけで、これは商業映画なのだ。
初めから,名作リメイクに対する気負いなど無いのだろう。
タレント女優の動くグラビア、ファン対象の作品と思えば
楽しいエンタメ作品なんじゃないの?
と、私は思うのです。

目標なんて… 

May 18 [Mon], 2015, 11:30
エゴグラムをやれば「目標を持て」と言われ、
占いをみれば「5年、10年先の将来の設計をしろ」と言われる。
しかし振り返ってみれば子どものこと、親のこと、夫のこと、自分の体調のことなど、
予期せぬ出来事が次々と起きて、
数年単位の人生設計など本当に虚しいものだと感じてしまう。

結局中腰の姿勢で、どんなボールが飛んでくるか
(飛んで来ないかもしれないけど)待つ。
試合真っ最中だからこの一瞬がすべて。

この試合が終わるのか、
その後があるのかどうかも分からない。
でもそんなこと今考えるのは無駄だし、
集中していないと判断を間違える要因にもなるでしょう。

長期の目標なんて、恵まれた暇な人が持つものなのかも。

でもまぁ、結構人生哲学的でもあるのです。

マジック・イン・ムーンライト 

May 06 [Wed], 2015, 16:05
ウディ・アレンはいい歳なのに、元気ですね。
どんどん新作が発表されます。
今回はラブコメ。主役がコリン・ファース。
無粋な悲観男は恋に落ちたことがなかったから、
自分が恋していたことも分からない。
そしてたくさんの男を虜にしてきた娘は、
自分の魅力に参らない男にひきつけられていく。

1920年代の終わりという時代は
虚飾に満ちて本当に美しい。
ほとんどがペテンだったけど、
それを信じてしまう不器用な純情が、
まだ生きていた。

美しい風景を「そのうち滅びる」と毒づくスタンリーが
美しいペテン師の笑顔に心を奪われる。
その美貌だってすぐに滅びるものなのに。
でも、その真実を忘れて
その一瞬のマジックに心を奪われることこそが、
生きる意味ってことなのかも。

時はいにしえの昔。すべてがおとぎ話。
たまらん。

黄金の季節に(泣) 

May 03 [Sun], 2015, 17:42
自分ちの近所がとても美しい。
瑞々しい新緑に薄紫の藤が随所に咲いている。
木漏れ日の中を歩くと、何度かキジにでくわした。
頭上では歌を覚えたウグイスたちが美声を競っている。
足元ですばやく動くトカゲやカナヘビも、
芽吹く雑草でさえも生き生きとして、
なんてこの世は素晴らしいんだろうとうっとりとする。
どこか遠くの観光地もいいけれど、
今いるこの地も栄光に輝いている。

と、無心に喜びたいところだがそうはいかない。
徘徊老人を探しているから。
乾燥しているので日陰は楽だが、
日なたは夏そのもの。
暑さが結構身にしみてきた。
いなくなってからすでに3時間が経っている…


で、それからさらに1時間後、
パトカーに乗って老人は帰ってきました。
これで警察に保護されたのは4回目です。
熱中症にならなくて本当によかったっていったら、
夫が、「身体の丈夫さは昔から超人的だから、
そういうことはありえない」と。
ま、いろいろ定説を覆す老人です。

連休最初のイベントでした…とほほ。



かたづけ 

April 29 [Wed], 2015, 9:30
娘の押し入れにつっこまれている、
多量なぬいぐるみを片付けた。
下の娘も成人したというのに、
長女の赤ちゃんのときにもらったものなどが
始末に困って突っ込んであった。
本当は子ども等にやってもらいたいのだが、
何年も放置状態なので私が大ナタを振るう。

ほとんどが貰い物だ。
それは彼女たちが愛されていた証拠だ。
新しい人間に対する慈しみ。
でももうそういう愛情の時代はとうに終わっている。

大きくてきれいなものは忍びなくて別の箱に入れてしまい直した。
単純に貧乏性。

でもまだ、捨てきれないおもちゃはたくさん残っている。
あと、小さな洋服も。
この次はいつなのかな。