「寂しい」と言えたのなら(津田信澄)

June 17 [Tue], 2014, 17:38



弘治元年(1555年)に、織田信勝(織田信行)とその正室・荒尾御前(または側室・高嶋局)との第一子としてその人は尾張国は末森城(末守城)に生を受けました。
幼名は坊丸といい信勝にとっては嫡男です。


私はこの人が好きです。とてもとても好きです。
でも、彼を知れば知るほどに「寂しい」という声が聞こえてくるようでもあります。とても寂しいのだと、寂しくて寂しくて仕方が無いのだと。だからこそ私は心を惹かれるのかも知れません。ですから誰かのことを書くのなら一番最初は彼と決めていました。



さて、誕生した頃の織田家とは、まだまだのちの天下取りなど想像も出来ないほどで、信長もとても若い頃です。その頃の信長はまだ清洲城主に過ぎなかったのです。
ところで、坊丸について話すにはこの信長、とても重要な人物なのです。

というのも、織田信長は坊丸にとって伯父にあたり、坊丸の父は信長の実弟、しかも同母弟であったのです。ですから坊丸はその出生により生涯苦労することになります。ご存知の方はさておき、「どういうこと?」と思う方もいらっしゃるでしょうから少しこの兄弟について説明することにします。


織田信長には多くの兄弟姉妹が存在しますが、そのほとんどが腹違いです。信長自身も実は三男で本名は織田三郎信長といい、この三郎とは三男につけられる名前です。しかし、信長の生母・土田御前が正室であったことから側室から生まれた兄たちを差し置いて嫡男(家督を相続をする人)となったのです。
その信長には数少ない母を同じくする兄弟がいて、それが坊丸の父・織田信勝なのです。

この兄弟、とても仲のよい兄弟で一緒に遊んで育ってきた、というわけではありませんでした。生まれてすぐに信長は那古野城主となり乳母に育てられ家臣たちに教育を受けたのに対し、弟の信勝は両親と共に古渡城へ移り両親のもとで愛情を全身に受けて育ちました。
のちに「尾張の大うつけ」と呼ばれ素行不良とされた信長に対しても、信勝は品行方正で文武両道に秀でていたといいますから、両親もこの信勝をとても愛して可愛がっていたようです。兄弟仲はだからそこまでいいものではなかったのです。
坊丸が誕生する頃には兄弟仲が深刻化し家臣が二分し、信長派と信勝派に分かれての冷戦状態が続いていました。(違った見方もありますがこの兄弟を題材とした記事で詳しく書きたいのでここでは割愛します)



そんな中、坊丸の人生に大きく影を落とす出来事が起こります。


信長派と信勝派が最初の戦を起こした時、信勝は負けるのですが母・土田御前のとりなしで信長と和解し、信勝の謝罪を持って終結したのですが、弘治3年(1557年)に当時は信勝に仕えていた柴田勝家の密告で再び信勝が信長を狙っているとされる目論見が露見しました。
このことから、信長は信勝を呼び出して殺してしまいます。坊丸2歳の頃です。


それだけではありませんでした。
母・荒尾御前が実家へと戻る途中のこと、信長はその輿を襲撃し荒尾御前を清洲城に奪ってきてしまいます。そして、あろうことか信長の命令によって信勝を直接殺した池田恒興の妻になれと命じられ嫁ぐことになるのです。坊丸は母をも奪われてしまいました。

唯一、坊丸本人の命については祖母にあたる土田御前の嘆願により、信長の許しを得ることが出来たので殺されずに済みました。ですが、養育係に任命されたのは柴田勝家、父を密告した男だったのです。つまり坊丸は仇の手によって命を永らえ、仇に育てられたのです。


さぞや苦しくてつらい少年時代を送ったことでしょう。
どこを見ても何をしても、謀反人の息子というレッテルを貼られ、敵に囲まれた人生、やはりここで「寂しい」と彼の声が聞こえてくるのです。母にも思うように会えないのです。そして子供である自分は何も出来ない、何も知らない、そんな中で彼は過ごしていました。その胸のうちを誰にも語れず、友もなく。




さて時代はぐんと進みます。

信長が天下取りを目指す第一歩として美濃国は斉藤家を倒し、稲葉山城を岐阜城と改め居城にしていた頃にはすっかり元服し青年になっていた坊丸は、これ以後、津田七兵衛信澄と名乗ります。津田氏は織田家の分家にあたります。父親が謀反人として処分されたこともあり織田家を名乗れず津田氏を名乗ったものだろうと思われます。

この頃になりますと、縁談も持ち上がるのですが、信長自らが選んだ縁談を受けて信澄は妻を迎えています。それが天正2年〜天正6年(1574年〜1578年)頃だといわれています。迎えたのは明智光秀の二女でした。二人の男の子にも恵まれていますので夫婦仲はよかったようです(妻が他にいないところを見ると愛妻家だったのかもしれませんね)


ところで、明智光秀と聞くと本能寺の変で信長に反旗を翻し謀反を起こす人ですが、この時はとても有力な家臣だったのです。だからこそ大変ありがたいご縁と信澄も受けたのであってこののちの悲劇など当時の人々は知る由もありません。




さて、ここで織田家中における信澄とはどんな男だったのか。
「寂しい」と言えない少年時代を送ったであろう信澄がどう成長を果たしていったのかという点が気になりませんか?


人間としての評価はさまざまあります。しかし、人物においての評価は「甚だ勇敢だが残酷」(耶蘇年報)とか、「一段の逸物」(多聞院日記)と大変評価が高いのです。文武両道に優れ多方面で活躍が窺えます。

信長が完全実力主義として足軽に過ぎなかった秀吉を高く評価し出世させたのに対し、実子でも信正のように冷遇された人がいたりするように、織田家では実力がなければ徹底的に干されてしまうのですが、信澄は「信長公記」などでも信長、信忠(信長嫡男)、信雄(信長次男)に次いで登場回数が多く、謀反人の子とされながらこの待遇は信長に溺愛された証拠です。つまり当時の織田家で彼はとても重要な役どころにいたのです。


いくら幼少の頃に父を信長に殺されているとは言え、ここまで武将として愛されたのです。嫌な思いなどしないでしょうし、それから逃げることもせずに従い続け功績を残した信澄です。彼の中には恨みや憎しみとは違った感情が芽生えていたのではないかなと私は思います。
仇としての伯父ではなく、ひとりの織田信長という人間として彼に惚れ込んでいくような、彼が居なければ自分の人生などどうでもいいような、この人に自分の命運を預けてみよう、そう思える人。当時の時代背景は戦乱の世ですが、それでもこの人についていこう!と思えばければ命は預けません。信長に惚れ込んだ人間は多く居ますが、信澄もその一人だったのではないでしょうか。

信長にしても、自分を二度も殺そうとした弟の子です。いつ寝首をかかれるかわからないそんな人間をこれほどに優遇し傍近くに置いたのは武将として政治家としてこの甥を大切にしたいから、その才能を惜しんだからだったのではないでしょうか。

もし二人がそんな関係だったのなら、私はとても嬉しいのです。
「寂しい」とそう思わずに済んだのなら、恨みも忘れて惚れ込んでいける人に出会えたのなら、何だか信澄の人生がとても明るくなったような、そんな気されするからです。



しかし、運命とは残酷なものです。

天正10年(1582年)6月2日に天下を揺るがす本能寺の変が起きます。


狙われて殺されたのは織田信長。伯父です。
襲撃を企て指示したは明智光秀。舅なのです。


この時、信澄も大阪にいたのですが、5日に大阪の野田城を織田信孝・丹羽長秀に襲撃・包囲され信澄は殺害されてしまいます。
名目は父・織田信勝と同じく「謀反を企てた」というものです。信澄の首は堺に晒されました。


さて、現代においては研究が進み信澄のこの時の無実がほぼ有力視されています。というのも、信澄はこの時、四国討伐に向けて大軍を率いて大阪に駐留しており、本能寺の変で明智光秀と共謀していたとすればもっと早く援軍を出したり一緒に攻めることが出来たからです。

そして何より、この織田信孝という人物、信長の三男あるいは四男とされる人ですが、信長存命の頃にその活躍はあまりありません。神戸氏の養子に入ったりしていますし、それなりの役職を得てはいますが、パッとしないのです
が、しかし、天下取りの野望はすさまじいものだったと思われます。嫡男である兄・信忠が亡くなるや否や、兄・信雄を差し置いて自分が天下を取るためにまずは邪魔だった信澄を殺害しようとしたのではないでしょうか。兄たちよりずっと家中の評価が高い信澄にも織田家を継ぐ資格があったからです。
そして信澄死後ですが、信孝は豊臣秀吉(当時は羽柴を名乗っていました)とも兄の信雄とも対立し挙兵し、最後は自害に追い込まれて結局天下を取ることが出来ませんでした。



話を戻しますが、信長が亡くなったすぐあとに包囲され、信澄はさして驚きもせず抵抗もしなかったようです。何故でしょう?私はこの時のことを思うと二つ思うことがあるのです。


ひとつは、喪失感。といっても、織田信長という人を失い「どうしよう」となったのではなく、織田信長を失った自分はこの先のことなどもうどうでもよいのだと、この人の作る世の中に、この人が起こす出来事に感心があっただけなのだと、だからこそ彼のいない世に未練などないのだとそういう喪失感。

ふたつ目は、出自の諦めと覚悟。自分はもともと物心つく頃から謀反人の子として育ってきたのだから、いつ殺されるかわからないしそんなものがいつ来てもいいように覚悟はしてきたのだ、と。だから抵抗をして人の血を流す必要などない、自分が死ねばそれで済むのなら最初からそうしよう、と。


あくまでも私の考えです。
でも、そうだったのならどんなに切ないだろう、と思わずにはいられないのです。

「寂しい」と。
私にはやはりその声が聞こえるのです。結局、運命は最初に帰り、父と同じ罪を背負わされ亡くなるのです。その父・織田信勝とて近年、無実とは言わないまでも本人の意思で逆らったのではなく家臣たちが勝手に企んだという説も有力視されているのです。ともなれば父子揃って現代まで汚名を着させられ、悪人として名を残すことになってしまっていると、そういうことです。

現代において、津田信澄の名が有名ではないのも、その活躍に嫉妬した信孝によって多くの資料が焼かれたという説もあります。信孝死後、信澄の死を惜しんだ人々によって少しだけ信澄は文字の中に生かされているのですが。



しかし、当時は死より生より名こそ惜しめの時代です。自分の家名を後世まで残すこそ、子孫を繁栄させることが大事とされてきました。
そういう点では信孝は殺され失敗しているのです。

では津田信澄の子供たちはどうでしょう?


藤堂高虎という武将は有名ですね。この人物、もともとは信澄に仕えていました。信澄には二人の男子がいますが、二人はこの縁を辿り高虎の斡旋で江戸幕府においては旗本になっており、幕末まで続くのです。そういった点では子孫(尚、現代においても子孫がいます)を残すことに成功したのは信澄の方なのです。

背景には豊臣政権化においては淀殿、徳川幕府においては二代将軍の妻・お江が信澄にとってはいとこだったこともあります。水より濃い血ですね。


信澄がどんな思いで亡くなったのかはわかりませんし、子孫繁栄を喜んでいるかはわかりません。でも、彼があの時代を逞しく生き抜いたことは確かなのです。


もし、「寂しい」と、本当は甘えたくて仕方なかったのだと、誰かを恨んで生きていければ幸せだったのにと、そう誰かに話せていたのなら、結末は少し違ったようにも思えます。でも、この終わり方がとても彼らしく思えて、私は愛おしくて仕方ないのです。

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