手のひらの涙 

2006年11月01日(水) 1時03分
不二周助視点の物語。
出会いから付き合うまでのお話です。
まだまだ恋人未満…

手のひらの涙*1 

2006年11月01日(水) 16時24分
 

 どんな時も諦めない瞳をしているきみが泣いていた。
 小さく肩を震わせて、声もなく泣いていた。
 あの瞬間に気付いたんだ、ぼくの本当の気持ちに―――。

************************************************

 青春学園中等部、三年生になった春。
 クラスメイトでありテニス部仲間でもある菊丸英二に誘われて、初めて彼女に逢いに行った。
 彼女は日本中…いや、世界中でもテニスの世界では有名なひと。
 十五歳にしてジュニア世界ランキング10位以内。
 国内においてはジュニアランキング1位という、偉業を成し遂げている人だから。
 僕にとっても、彼女は憧れの存在であることは確かだった。
 彼女のプレイはまるで蝶のように軽やかで、観る人を魅了する。
 相手がどんなに強くても、“絶対に諦めない”瞳を持ったひと。
 英二も彼女のファンで、彼女が青春学園の高等部に入学したことを知ると、早速彼女に会いに行こうと、僕たちを誘った。
 男だけじゃ気まずい――ということで、クラスメイトの女子もふたり誘って、
お昼休みに高等部へと潜入したのだ。

「初めまして、不二周助です」

 英二に急かされて、柄にもなく緊張して名乗るしかできなかった僕に、彼女は淡い苦笑を揺らす。

「こんにちは」

 初めて聞いた彼女の声は、少し高くて柔らかくて優しい色をしていた。
 雑誌で見る印象より少し小柄で、瞳はくりくりと大きくて、少し幼く見える。
 スコート姿は凛々しさを感じさせていたけど、制服を着ている目の前の彼女はどこにでもいるような普通の女の子に見えた。
 明るくて気さくで、とても笑顔が似合う女の子。
 突然訪れた中等部からの珍客にも嫌な顔ひとつすることなく、お昼休みいっぱい付き合ってくれたのだ。
 藤堂紗羅――。
 遠い世界の人だと思っていた彼女が、ほんの少し近くなった。


 その日の練習終わりの帰り道。
 夕暮れの太陽が濃い影を作り出す時間。

「不二…周助くん?」
「え?」
 
 突然後ろから声をかけられた。
 驚いて振り返ると、そこには彼女が微笑んで立っていた。

「やっぱり。良かった、間違ってたどうしようかと思っちゃった」

 ホッと安心した顔と同時に、少しいたずらっぽい笑顔を揺らし、僕の隣へと小さく駆け寄ってくる。

「一緒に帰ってもいい?」
「――僕で良ければ」

 人懐こい彼女に苦笑しながら、僕は歩くペースを少し緩める。
 他のテニスプレイヤーに比べると、少し小柄な彼女。
 この小さな身体のどこに、あんな強さが秘められているのだろう、と不思議に思う。
 気付かないうちにジィ…と見つめてしまっていたのか、彼女は小さく首を傾げながら僕を見つめ返す。

「なに??」
「いえ、べつに」

 僕は慌てて目を逸らしながらそう答えた。
 会話が思い浮かばずに、ふたりの間に少しの沈黙がたゆたう。
 僕はふたつ並んだ影に目を落としながら、一生懸命に言葉を探していた。
 そんな時、彼女の方が先に口を開いた。

「ねえ、周助くん? 少し時間あるかな?」
「え?」
「付き合ってほしいところがあるの」

 にこっと微笑む彼女の言葉に戸惑いながらも、僕は快く頷いた。 

手のひらの涙*2 

2006年11月02日(木) 16時57分
 

          ☆   ☆   ☆


「見て見て、こないだ買ったシューズ。可愛くない?」

 紗羅は子供のようにはしゃいで買ったばかりのシューズでくるくると回ってみせる。
 初めて一緒に帰った日――スポーツ店の場所が分からない、と付き合わされた日に購入したものだ。
 アメリカから帰国したばかりの彼女は、まだこの辺りの地理が分からないらしく、あの日もスポーツ店へと案内させられた。

「あまり回りすぎると転ぶよ?」
「だぁいじょー…ブッ」
 
 僕が言ったソバから、バランスを崩してコケる始末だ。
 紗羅はテニスをしている時からは想像もつかないほどドンくさい。
 何もないところでコケる。
 壁にぶつかる。
 モノは落としたり失くしたり。
 見ているこっちがハラハラするほどだ。

「ほら」

 僕が苦笑しながら手を差し出すと、テヘヘと照れ笑いをしながら僕の手を掴む。

「本当に目が離せないひとだよね」
「どーゆ意味っ?!」

 僕の言葉に含まれた揶揄に気付いたらしく、上目遣いに睨んでご立腹だ。
 こういういちいちの反応も可愛くて、つい苛めたくなってしまうんだってこと、きっときみは分かっていないんだろうね。

「さて、そろそろ行かないといけないね」
「あら、もうこんな時間??」
 
 手塚がやってくるのを見つけて、僕たちはコートへと移動する。
 紗羅は時間があるときは、こうして青学の男子テニス部へと顔を出すようになった。
 というのも、初めて彼女に会いに行った時、英二が、

『ぜひ練習を見に来てください!!』

 と駄々をこねたせいだ。
 女子と男子という違いがあるとはいえ、世界レベルで活躍している人間がいると自然と気持ちは引き締まるのは事実。
 高等部にも女子テニス部はあるけれど、紗羅は入部するつもりはないようだ。
 それ以前に、テニスクラブの方が忙しくて、高校のクラブ活動どころじゃないんだろうけど。
 一度、この先はどうするの?と聞いてみたことがある。
 すると紗羅はあっさりと「分からない」と答えた。
 テニスは好きだけど、プロになるかどうかは分からないし、自分で未来を束縛したくない、と言っていた。

「今はテニスを楽しめたらそれでいいの」

 と―――。

 僕たちは似ているのかもしれない――この時、少しだけそう思ったんだ。

 

手のひらの涙*3 

2006年11月03日(金) 17時13分
 
          ☆   ☆   ☆


 ――紗羅とは縁があるのかもしれない。
 目の前にいる彼女を見つけ、僕はふとそんなことを思う。
 今日は休日。
 部活も今日だけは丸一日休みだ。
 僕は以前から気になっていたカメラを見に行こうと、少し遠いカメラ屋へと来ていた。
 そしてその店のなかに、ショーケースに釘付けになっているきみを見つけたんだ。

「紗羅」
「え? わ、周助だ。どうしたの、こんなところで?」

 後ろから声をかけた僕にびっくりして、紗羅は瞳を丸く膨らませた。
 
「少し気になるカメラがあってね。紗羅は何を見てたの?」
「もしかして周助もカメラ好きなの? 私はコレ。前からずっと欲しくて、買っちゃおうか迷ってたの」

 と紗羅が指差したのは、ロシア製のトイカメラ――ROMO LC-A。
 すでに生産が中止されていて、なかなか手に入りにくい代物のうえ、トイカメラと言いながら結構な値段がする。

「可愛くていいカメラだよね。画像もいい具合にボケるし」
「そうなの〜。まぁ、値段は可愛くないけど」

 少し恨めしそうな表情でカメラを見つめた後、彼女はいたずらっぽく笑う。
 それから僕たちは一緒にいろんなカメラを見て回りながら、いろんな話をした。
 結局、彼女はカメラを買うことに決め、店を出たあと一緒にお昼ご飯を食べにいくことになった。
 小さなレストランの窓際。
 春の柔らかな陽射しが揺れるなか、彼女はオムライスを食べながらにこっと笑いかけてくる。

「それにしても、周助とはほんとよく偶然に会うよね」
「そうだね」

 僕たちは初めて会った日から、色んなところで遭遇するようになった。
 帰り道や本屋さん、近所のコンビニやスポーツ店。
 待ち合わせているわけでもないのに、偶然にもよく出会う。

「それに、まさか周助もカメラが好きなんて思ってなかったし」
「そうだね、僕もまさか趣味まで一緒なんて思ってなかったよ」
「周助とは縁でもあるのかなぁ?」

 紗羅はそう言うと、いたずらっぽい笑顔を揺らしながら、じーっとまっすぐな瞳で見つめてくる。
 アメリカで過ごしてきたせいかな?
 彼女はとても自然体だ。
 日本の女の子なら恥ずかしがるような照れくさいことも平気で口にするけれど、媚びた雰囲気はどこにもない。
 たぶん、頭に浮かんだことがすぐに口に出る性質なんだろう。

「じゃあ、今度は一緒に写真を撮りに行こうか?」

 僕はそう誘ってみた。
 たとえ縁があるにしても、きっとそれだけじゃ何も変わらないから。
 もっときみのことを知ってみたい――。
 そんな僕の気持ちなんてきっと気付いてないんだろうけど、彼女は嬉しそうに笑顔を咲かせて頷いた。

「今度はちゃんとしたデートね?」
「デートか、いいね」

 どこまでもいたずらっぽい表情を崩さないきみに、僕も冗談めかしてそう答える。
 だけど初めて待ち合わせをして、ふたりでどこかへ出かける。
 そう考えると、少し胸が暖かい気持ちになったんだ。

手のひらの涙*4 

2006年11月04日(土) 21時43分
 
          ☆   ☆   ☆

 紗羅の様子がおかしい――
 そう感じ始めたのは、夏の入り口の季節だった。
 ぼんやりとしていて、笑っていてもどこか上の空の笑顔ばかり。
 テニスコートもに姿を現さなくなり、以前のようにどこかでばったり会うことも少なくなった。
 メールや電話をすることはあっても、直接顔を会わせることが極端に減った。

「なんだか紗羅の様子がヘンだにゃ〜?」
「英二…」
「テニスの練習が忙しいのかにゃ?」
「それだけならいいんだけどね…」

 僕は曖昧にしか答えられない。
 確かに電話でも、「今は忙しいから」と紗羅は言っていた。だけど――本当にそれだけ?
 英二も気がつくくらい、紗羅の様子はおかしいのに。

「不二はなにか知ってんの?」
「いや…僕にも分からない」
「そっか〜」

 英二がお箸を咥えたまま、ウーンと唸りながら考え込む。 
 その隣で佐藤さんと柚乃ちゃんも顔を見合わせながら、一緒に悩んでいた。
 僕はお弁当を食べる気にもなれず、窓から見える小さな空を見上げながら、紗羅に思いを馳せる。
 彼女は素直でなんでも口に出すけれど、本当の悩みや本音を吐き出すことが苦手なんじゃないだろうか。
 本当に辛いことや悲しいことは、心に溜め込んでしまう…そんな気がする。
 
 いつでも明るく振舞うきみだから。
 自分より、他人の気持ちを優先させてしまうきみだから。
 
 どうしてこんなにも紗羅のことが気にかかるのか分からない。
 分からないけれど――やっぱり気になるんだ。

「ごめん、英二。ちょっと行って来るよ」
「紗羅んとこ?」
「ああ」
「そっか、紗羅によろしくにゃ♪」

 いつもなら「俺も行く!」と言い出しそうな英二も、今回は笑顔で手を振りながら見送ってくれる。
 英二の気遣いに感謝しながら、僕は紗羅の教室へと向かった。

          ☆   ☆   ☆

「紗羅? この頃ずっと学校休んでるのよ?」
「え?」
「もう一週間以上かなぁ? 理由は知らないんだけどね」

 紗羅のクラスメイトがそう教えてくれた。
 僕はお礼だけを言うと、その場を離れる。

 ――学校を休んでいる? 一週間以上も?

 メールでも電話でも、紗羅は一言もそんなことは言っていなかった。
 他愛のない話や大会なんかの話もして…。
 確かに声に元気がないことには気付いていたけど、まさか学校を休んでたなんて。

「もっと早く来るべきだった…」

 僕は自然と拳を握る手に力が入る。

「不二ぃ。紗羅はどうだったにゃ?」
「英二…」

 教室に戻ると、英二が声を掛けてきた。
 佐藤さんと柚乃ちゃんも心配そうにこちらを見ている。
 彼女たちも紗羅と仲良くなっていたから、心配してくれているんだろう。

「不二くん、顔色悪いよ?」

 佐藤さんが心配そうに声を掛けてくれる。
 僕は力が入らない首を、それでもゆっくりと横に振って見せた。

「大丈夫、だから」
「でも…」
「にゃににゃに? 何があったんだ?」

 僕の様子がおかしいと思ったのか、英二まで佐藤さんと一緒になって心配そうな顔をする。

「紗羅は?」
「――ずっと学校に来てないって」
「ええ――っ?!」

 英二は大げさなほどの声をあげて驚いた。
 佐藤さんと柚乃ちゃんもビックリした顔をして、お互いの顔を見合わせている。

「なんで?」
「分からない」

 僕は誰にも気付かれないように小さく唇を噛む。
 誰よりも近くにいるつもりだったのに。
 紗羅の一番近くにいるのは自分だと思っていたのに。
 彼女は僕の知らない道をひとりで歩いていたのか――。

 ――悔しい…

 僕の心に浮かんだのは悔しさだ。
 気付けなかった自分への悔しさ。
 何も言ってくれなかった彼女への悔しさ。

「不二、今日行ってみれば?」
「え?」
「紗羅の家、直接行って確かめてみなきゃ、何も分かんないじゃん? な?」
「英二…」

 英二はウインクしながら、ポンと軽く僕の肩を叩く。
 彼が背中を押してくれているのが分かって、彼の優しさが嬉しくて、僕は深く頷いた。

手のひらの涙*5 

2006年11月05日(日) 22時07分
 

 紗羅はあまり驚かなかった。
 僕の顔を見て、諦めたような…そして少し寂しそうな苦い微笑みを浮かべる。

「バレちゃったんだ?」
「…紗羅」
「…上がって?」

 何の連絡もせずに突然、紗羅の家に訪れた僕を、彼女は招き入れてくれた。
 病気かもしれない――そんな僕の考えはどうやら違うかったようだ。
 顔色も悪くはないし、普段と変わりはないカンジだ。
 ただ違うのは、笑顔にも瞳にもいつものようなチカラがないこと。

「ママ、お茶淹れてくれる?」
「すぐに持ってくわ」

 キッチンにいるおばさんに声を掛けると、紗羅は2階にある自室へと僕を案内してくれた。
 彼女らしく少しオトメちっくな、だけどキレイに整頓されている部屋。
 僕たちは机を挟んで向かい合って座る。

「ごめんね、何も言わなくて…怒ってる、よね?」
「怒ってないよ」
 
 確かめるように訊ねてくる紗羅に、僕は小さく首を振る。
 そう答えた僕の気持ちに偽りはなかった。
 感じていた悔しさや怒りも、彼女の顔を見た瞬間にすぅ…と溶けてしまった。
 おばさんが持ってきてくれた紅茶を目の前にしても、僕たちの間には気まずい空気が漂う。
 やがてその沈黙に耐えかねたのか、紗羅が口を開く。

「聞きたいこと、聞いてくれていいよ?」
「――――」

 紗羅はそう言ってくれるけど、実際に彼女を目の前にすると聞きたかった言葉が喉の奥で萎える。

 どうして学校を休んでるの?
 どうしてテニス部にこないの?
 どうして…心から笑わないの?

 聞きたいことはたくさんあるのに、聞けない。
 そんな僕の心に気付いたのか、彼女は頬を緩めてそっと小さく笑った。

「ごめんね――いつかは言わなくちゃいけないことだって分かってたけど…まだ自分でも認められなかったの」
「紗羅?」
「今までの自分が全部消えてしまう気がして…全部奪われてくこと信じたくなくて――だから言えなかった」

 そういうと彼女は今までに見せたことのない悲しい笑顔を揺らしながら、そっと僕から目を逸らす。
 だけど僕は見てしまった。

「…紗羅」

 彼女は泣いていた。
 俯いた頬に透明な雫が伝う。
 小さな肩を震わせて、声もなく押し殺した涙。
 いつも強く前だけを見ていた彼女が、初めて僕の前で涙を見せた。
 僕はそっと彼女の隣へと移動する。
 すると紗羅はしがみつくように、僕の胸に顔をうずめた。

「怖い…っ」

 紗羅は振り絞るような声でそう呟く。
 それがひどく寂しそうで、悲しそうで、僕は何も言えずにただ彼女を抱きしめる腕に力を込める。
 小さくて細くて儚くて、今にも壊れてしまいそうだった。
 この時、初めて僕はこのこみ上げてくる感情が何なのか――理解した。

「言いたくないなら、言わなくていいんだよ」

 僕の言葉に、紗羅はぴくりと肩を揺らす。
 しばらくの沈黙のあと、彼女は腕の中で小さく首を振った。

「ううん…もう、覚悟決める」
「覚悟?」
「もう、大丈夫…」

 紗羅はそういうと、静かに僕の腕の中から抜け出した。
 そして僕と目を合わせると、涙に濡れた瞳でにこっと笑う。

「来てくれてありがとう。――明日はテニス部行くね」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫…。そのとき、ちゃんと言うから」
「…わかったよ」
 
 僕はそっと彼女の髪を撫でて頷く。
 紗羅が自分のなかで、何か決意を固めたのだと分かった。
 だから、僕からは何も言わないよ。
 何があったのかは分からない。
 だけど――きみの言葉を待つよ。

手のひらの涙*6 

2006年11月06日(月) 22時27分

          ☆   ☆   ☆


「紗羅――!」
「紗羅さんだぁ、久しぶりですっ!」

 テニス部が一気に活気づいて騒がしくなった。
 久しぶりに紗羅がテニスコートに現れたんだから当然かもしれない。

「紗羅、サボりすぎだにゃ」
「ごめんってば〜」

 英二に怒られて、紗羅は申し訳なさそうに、だけど楽しそうに笑っていた。
 僕は少し離れたところから彼女を見守る。
 彼女の瞳にはもう迷いは滲んでいなかった。
 紗羅が僕に気付き、小さく微笑みながら頷いてみせる。
 だから僕も頷き返した。
 彼女はそれを確認すると、竜崎先生の元へと近づき少し会話をしたようだった。

「みんな、ちょっと集まっておくれ。藤堂から話があるそうだ」
「ハイ!」

 竜崎先生がみんなを集め、紗羅が少し緊張した面持ちで前に立つ。

「今日は…お世話になったみんなには、ちゃんと自分で言っておきたいことがあって…無理を言って時間を作ってもらいました」

 紗羅はそう言うと、大きく深呼吸をする。
 一息分の間を置くと、まっすぐに前を見つめて言葉を続けた。

「この何日間かテニスから離れて考えてました。…私からテニスを取ったら何が残るんだろう、私に何ができるんだろう…て。でも何も思い浮かばなくて、どうしたらいいか分からなくて、すごく怖かった」

 紗羅の言葉にざわめきが走る。
 どうして急に彼女がこんなことを言い出すのか、みんな困惑しているようだった。
 もちろん僕も――。
 僕はまっすぐに紗羅を見つめる。
 彼女が覚悟を決めたように、僕も覚悟を決めたことがあるから――。

「…私はもう、テニスプレイヤーとしては生きていけません」

 紗羅が少し震える声でそう告げた瞬間、空気が凍った。

「え…?」
「ウソだろ?」
「どういうことだよ?」
 
 部員たちの間に動揺が走る。誰もが困惑を隠せない表情で、目の前の紗羅を凝視していた。

「私ね、筋肉が衰えていく病気で…生活に支障はないけど、スポーツ選手としては致命的で…そう宣告されました」
「そんな…」

 紗羅の言葉に、隣の英二が呆然と呟くのが聞こえた。
 アメリカにいた頃から一緒にテニスをしていたという越前も、さすがにいつものクールな表情を忘れ、彼女を凝視している。
 その場にいた誰もが呆然として言葉を失った。
 そのなかで、紗羅だけが普段と変わりのない穏やかな微笑みを湛えている。

「でもね、諦めない。最初は何もかも嫌になって投げやりになってたけど…もうプロにはなれなくても、テニス自体ができないわけじゃないし」
「紗羅…」
「テニスだけがすべてだったわけじゃないもの。これからもっと夢中になれるものに出逢えるかもしれない、何か違うものを見つけられるかもしれない。だから――諦めない」

 そう言った紗羅は、今までで一番キレイで鮮やかな笑みを咲かせた。
 困惑に満ちた部員の間から、誰からともなく拍手が沸き起こる。
 大石なんて目に涙を浮かべながら盛大な拍手を送っている。
 もちろん僕も拍手を送った。
 自覚したばかりのありったけの想いと、決意をきみにこめて―――。


          ☆   ☆  ☆


「ちゃんと話せてた?」

 帰り道、紗羅は心配そうに訊ねた。

「大丈夫、ちゃんと伝わっているよ」

 きみの気持ちも想いも、みんなの心に残っている、ちゃんと届いている。
 きみが“最後まで諦めない”こと――。
 みんな紗羅がランキング選手だったから慕ってたわけじゃない。
 紗羅が紗羅だから…だからきみを慕っていたんだ。

「周助のおかげよ」
「え?」
「あなたがいてくれたから…だから私は諦めないでいられるの」

 彼女はふわりと笑う。
 頬に透明な雫を零しながら…きみは鮮やかに笑う。
 僕はそっとその涙を手のひらで拭い、彼女を抱きしめた。
 この僕の想いが、きみに伝わるように――そう願いを込めて。


          ☆   ☆   ☆


 初めて、きみの涙を見たときに決めたんだ。
 僕がきみを守っていこうって。
 僕がきみのすべてを受け止めようって、

 きみに逢えてよかった。
 憧れよりも確かな気持ちで、きみを想えるようになったから。

 ――きみがすきだよ――

 きみの涙はすべてこの手のひらで受け止めてあげるから。


END

sunshine 

2006年11月07日(火) 0時05分
ヒロイン視点の物語。
出会い編です。

sunshine*1 

2006年11月07日(火) 0時23分
 

 退屈な放課後が待ち遠しくなったのは、彼の姿を見つけた日から。
 まるで太陽のような存在のひと。
 それから毎日のように美術室の窓から見つめていた。
 元気にテニスコートの上で飛び回っているあのひとを――。


******************************************************


「あ、いた」
 
 気怠るさの拭えない静かな放課後。
 私は誰もいない美術室の窓枠にもたれて、そこから見えるテニスコートを眺める。
 私の通う青学のテニス部は関東でも強豪として知られていて、それに相応しく厳しい練習が毎日のように行われている。
 その中でもひときわ目立つ動きのプレイヤー、菊丸英二先輩。
 アクロバティックなプレイを得意としていて、青学のレギュラーの座を勝ち取っている人。
 大石秀一郎先輩とのダブルスは『青学のゴールデンペア』とまで言われていて、全国区のプレイヤーなのだ。
 今も二年生の桃城くん相手に模擬試合をしているけれど、やっぱり強いの。

「イエーイ!」

 なんてショットを決めるたびに、英二先輩の弾けたとおりのいい声が校庭に響く。
 明るくていつでも元気で快活な英二先輩。笑顔が似合う先輩。
 私のなかで、彼は太陽のように眩しい存在だった。
 それだけで私は太陽から光をもらって育つ植物のように、元気になれる。
 私は幸せな気持ちいっぱいで英二先輩の試合を見つめる。
 そのとき、バイブにしている携帯電話が机の上で震えた。

「もう着いちゃったのか…」

 私は残念な気持ちでママからのメールを読む。
 もう少しここで英二先輩の姿を見つめてたかったな。
 ここでしか彼の姿を見ることができないんだから。
 小さくため息をつきながら、私はとぼとぼと昇降口へと向かう。 
 私は生まれつき、身体が丈夫じゃない。体育もいつも見学だし、体育祭やマラソン大会なんてものにも参加できたことがない。
 登下校も心配性のママが送迎してくれる。きっと小学校の頃、ひとりで帰宅途中に倒れたのが原因なんだろうけど。
 ママは仕事もしてるから、送迎するのも大変なはずなのに。
 私が「大丈夫だから」と言っても、送迎だけは絶対にしてくれるのだ。
 だから、ママが仕事終わりに迎えに来るまでの短い時間が、かけがえない宝物の時間。
 この一年間、英二先輩を知ってからずっと見つめ続けてた…。
 

 ――あの日、テニスコートを見つけたのは偶然だった。
 ママを待っているのも退屈で、一年生になりたてだった私は校舎内を見学することにした。
 音楽室や被服室、視聴覚室にパソコンルーム。
 色んなところをゆっくりと歩き回って、最後に辿り着いたのが美術室。
 微かに漂う絵の具の匂いとか、気の匂いがとても落ち着いたのを覚えてる。
 誰もいない静寂な教室の机に座ってボーっとしていると、外からテニスボールの弾む音が聞こえた。
 なんとなく、本当にただなんとなく外に視線を向けて――そこに英二先輩の姿を見つけた。
 その頃は二年生だった英二先輩は、三年生の先輩相手に試合をしていた。
 私と同じ人間とは思えないくらい身軽な動きで飛び跳ねて、軽やかにボールを打ち返す。
 ショットが決まったときの満面の笑顔に、天真爛漫な態度。
 テニス部のムードメーカー的な存在で、みんなから好かれているのが分かるひと。
 すべてが私とは正反対だった。
 だからかもしれない。
 こんなにも英二先輩に惹かれてやまないのは。
 私にはないものを持ってるひとだから。

sunshine*2 

2006年11月08日(水) 11時46分


 今日もまた、ママが迎えに来るまでの時間をすべてテニスコートへ注ぐ。
 今は休憩中らしく、英二先輩は桃城くんや一年生の越前リョーマくんと楽しそうにじゃれあっている。
 先輩は後輩のなかでも特にリョーマくんを可愛がっているらしく、今でもギューっと抱きついたりしてて、とても楽しそう。

「いいなぁ、あんな風にお話できて…」

 男の子同士っていうのもあるんだろうけど、気兼ねなく英二先輩とお話できるのが羨ましい。
 私はいつでもこの美術室から一方的に見つめるだけで、きっと英二先輩は私の存在すら知らないんだもの。
 もう、こうして先輩を見つめ続けて一年が経とうとしているのに。
 近づきたい――そんな気持ちがないわけじゃない。
 だけど学年も違うから、話しかけるキッカケもなければ勇気もない。
 
 ――きっと英二先輩に近づいたら、私はあっという間に焦げ付いてしまう。
 だからこうして見つめられたら、それでいい――

 なんて自分に言い訳をしているうちに一年が経ってしまった。
 先輩が引退しちゃったらもう、ここで彼を見つめることはもう出来ないのに。

 ――本当にこのままでいいの?

 桃城くんやリョーマくんと遊んでいる先輩を見つめながら、私は自分に問いかけた。
 その時だ。

「え…っ?」

 私は思わずピクっと身を引いた。
 その一瞬後には慌ててしゃがみこんで身を隠す。

「え…えぇっ?」

 私はパニックになった頭を抱え込んで、なんとか冷静になろうと努力をする。
 心臓はバクバクとうるさいし、顔が火照っているのも自分で分かってしまう。
 
 ――今…目、合った? 手、振ってくれた??

 ううん、そんなことがあるはずない。
 きっと上の階に誰か知ってるひとがいたとか…きっとそんなことだよ。
 私は今起こったことが信じられずに、頭をフル回転させる。
 だって、英二先輩が私に手を振ってくれるなんて、そんなことあるはずない。
 私は確かめるのも怖くて、しばらくその場にうずくまる。
 もしここで先輩を見ていたのがバレていたとしたら――2度と先輩を見られなくなっちゃう。
 確認なんかして、さらに顔を晒す危険なマネは出来ないっ。
 私はそう結論付けて、慌てて美術室から逃げ出した。

          ☆   ☆   ☆

 その翌日、思いも寄らない訪問者が来た。

「芦原さん、お客さんだよ〜」
「お客??」

 お昼休みも終わりかけの頃。
 クラスメイトの女の子がニマっと笑って私を呼んだ。
 廊下で待っている彼の姿を見つけて驚く。

「桃城くん?」
「よぉ」

 ニカっと笑って、桃城くんが手を挙げる。
 桃城くんとは同じクラスになったこともないし、今まで挨拶すら交わしたことがない。
 英二先輩とよく一緒にいるから、私が一方的に知っているだけだと思ってたのに。
 その桃城くんが、一体私に何の用事があるんだろう?

「今日の放課後ヒマ?」
「え?」
「ヒマだったらちょっと付き合ってくんねえかな?」

 唐突な桃城くんの言葉に、私はきょとんとする。
 彼は意味ありげにニマニマといたずらっ子みたいな笑顔で私を見つめた。

「え?」

 なんで…?と理由を訊ねようとしたとき、運悪く授業開始の本鈴が鳴ってしまった。
 彼は慌てたように、

「じゃ、放課後迎えに来るぜ」
「え、ちょっと…!!」

 私の返答も聞かずに用件だけ言うと、呼び止める声も無視してさっさと教室へ戻ってしまった。
 取り残された私は、ただ呆然とするしかなかった。


 

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