新撰組? 

2004年12月13日(月) 0時17分
実はこの一年大河ドラマの「新撰組!」をかなり熱心に見ていた私です。
初回は白馬の民宿で見たなあ。

そんで今日は最終回で、香取慎吾(字違ってる?)の演技以外はよかったなあと
しみじみ反芻するわけですが、幕末〜明治とかからまだ200年も経ってないわけで、
私の祖母が明治生まれだからまあ3代前のひいばあちゃんだったらリアルに生きてた
かもしれないというわりと身近な時代のわけで、そんでまあ何が言いたいかというと、
今みたいな命の扱われ方ってけっこう新しい考え方なのよねということです。

自分の名誉のために腹切って死んでみたり、邪魔な政敵殺してみたり、
街中に刀差した人がうろうろしてたり、伝染病が蔓延してみたり、
まあそういう比較的あっさり人が死んでしまう時代がわりと最近まではあったと。

それがいい時代だった、だから今も命をあっさりどうこうしましょうと思うわけではないが、
そういう時代には命をどうあつかうかについてのはっきりしたガイドラインつーか哲学つーか
があったんじゃないかと思うんですがどうでしょう。

翻って現在の私が住むこの社会について考えてみると、「科学」の名の下に脱イデオロギー化された(そういうイデオロギーなのではあるが)状況において、命にまつわる哲学や態度があいまいなのではないかと思います。
価値の序列の中にどう位置づけてよいものかわからない命をとりあえず至上の価値を持つものであるということにしておいて大事にする。
いやまあ命が大事であることに異議を唱えるつもりはありませんが、確固たる信念や哲学がなければならないと思うのです。だってそうでなければどうせ大事なものなんでしょうと甘え切って自分の生を大事に扱わない人が出てきてしまうんじゃないかと思う。

場合によっては命よりも大事なものがあってもいいと私は思う。
もちろんそれが安易にもたらされては困るのだけれど、まあそういう、命の位置づけみたいなのはもっと真摯に検討されてしかるべきだと思う。生まれてありがとう、あなたは大事な命です、ということがあまりにあたり前に認められすぎているような気がするのです私には。
命は大事、と簡単に言うことのできるこの状況が先人たちの苦闘の末にもたらされたものであることをきちんと理解し、過去に敬意を払うとともにこの時代に生まれたことに感謝をしなければいけないと思う。んですけどどうでしょう。

棚卸 

2004年12月08日(水) 0時26分
年末に近づくとなんだかこう鬱屈もきわまれりという状態になるのが
毎年の恒例になっている気がしますがどうでしょうか。
去年の今頃はそういえばまだ一人暮らししてたのか。
そんで泥棒があったりなんだりでどこに住まえばいいのかも迷ってたんだよなあ。
寝起きする場所が決まっているぶんだけ今年の方がまだいいのかもしれない。

ところで、私は愚痴というやつを言うのを極力抑えて生きていこうと思っていたのですが、
しかし愚痴を言ったところでまともに聞いてくれる人なんてほとんどいないし、
聞いてくれたところで聞く以上のことをしてくれようとする人はもっといない。
私は私がどれだけ蔑まれて見られるようになっても私はもうこの際どうでもいくて、
愚痴を言うことによって相手に精神的な負担を与えまいと思って愚痴を控えていたのですが、
言っても言わなくてもどうせ誰も聞かないなら言ってすっきりした方が得じゃん?
とか思うわけです。

なので愚痴を書きます。

来年のいまごろに生業が決められてるといいなあと思う。
家族と職業と、ふたつながらに何も定まったものがないものねえ。
ふらふらふわふわとどこに行くのかわからない。行きたいところもない。
支点なくぐるぐると不細工にまわり続ける私の人生なわけで。
虫ピンほどの支えでいいから、どこか自分に中心がほしいと思う。

退屈なほどの安寧がうらやましいなあと思う。
退屈を感じるほどの安寧なんてのはたぶん人生のうちのほんの一瞬だと思う。
大した努力もせずその退屈を得ているように見えるひとたちが多い中で
どうして私だけがこんな、とかすら思えてきてしまう。

まあそれもこれもみんな私の気の持ちようなんだろうとは思うんだけど。
鬱なのは私なのか、それとも状況なのか。

ああ、なんかすっきりした。ような気がする。ごめんなさい。

かもしれない 

2004年11月03日(水) 22時58分
このところ知らない人と会うことが何度かあって、それで改めて思ったのだけど私は他人に対する寛容さの度合いが極端に低い。たぶん。
他人に優しくしていたいといつも思っているつもりなのだがそうわざわざ思わなければいけないこと自体が他人に対して基本的には拒絶的な姿勢であるということの逆説的な証左なのだろう。

私自身も大した人間じゃないてゆうかどうしようもない人間なのにねえ。
だからこそ他人に多くを求めてしまうのだろうか。ますますもってどうしようもない。

誰かとつきあう中でなんだこいつと思うことも多々あるが、つきあえているだけでそれはもうかなり私がそいつを気に入っているということなのだ。事実私の友人の少なさを見てみたまえ。いやそう言われて見れるものでもなかろうが。

ところでまたその一方で比較的最近知り合った人でけっこう好きかもと思う人もいて、でもまあそんなに好きでもないのかもとか思う人がいるんだけど、けっこう好きかもと思った時点でだから私はかなりその人が好きなんじゃないかと思うんだけどどうだろう。
とか考えるとなんかどきどきするんですけどどうしたらいいんでしょうか。

なるべくクリアに論旨を伝えるトレーニングとかなら心当たりはあるのですが、こと異性に自分を売り込むとなるとそのスキルにまったく自信がありませんし自信をつけるためになにかする気にもなれません。ぶっちゃけモテません。はたしてどうしたらよいのでしょうか。

いちばん簡単なのはあきらめることだろうな。
あとはananとか買えばいいのかな。むずかしいな。

じゃない 

2004年11月02日(火) 1時13分
私には明らかに恋人ではなく、かつ継続的に接触(肉体的にじゃないよ)を持っている異性の相手がいる。

男女の間に友情は成立しうるか、という未だその解が示されていない有名な命題があるけれど、この命題に対して否の立場を取る人たちは私と彼(あるいは彼ら)の関係をどう定義するのだろう?恋愛へと向かう途上?欺瞞?あるいは互いに自身の心情を偽りつつすでに恋愛が成立しているのだ、とか乱暴に決め付けられてしまうのだろうか?

今日もひさしぶりに、そしていつものように長電話をした彼もそういう相手の一人だけれど、少なくとも私は彼と恋愛をしたいとは思わない。彼の恋人になりたいかと聞かれたらまじりっけのない気持ちで「いいえ」と即答できる。「いやだ」とさえ言うかもしれない。

しかしだからといって私が彼を嫌いなわけなどではぜんぜんなく、彼が好きかと聞かれたらやはりまじりっけのない気持ちで「はい」と答える。「大好きだ」とさえ言うだろう。もしも彼がとてもかなしい気持ちで、彼をなぐさめるための有効な手段がほかにないのなら私は彼を抱きしめるだろうしそれ以上の私にできるいろいろなことを試みるだろう。だけど私は彼に恋をしない。それは愛情の範疇に入る感情から生じる行動かもしれないけど、でもやっぱ恋愛じゃないよなあと思う。

思うにまあ二人の人間が関係を持つ持ち方にはあたり前だがいろいろなやり方があって、私と彼(あるいは私が恋をしない私の大好きな彼ら)は同じ方向を見ているのだと思う。
私○→
彼○→
てな感じで。あ、矢印は見ている方向ね。
しかるに恋愛というのは二者が互いに互いを興味の対象とすることによって成立するものなのではないかと。
A○→ ←○B
という感じで。

私と彼(あるいは彼ら)は互いが見ている対象を共通の興味の対象として楽しくお話をすることができるけれど、お互い自身に対する興味がそれほどないので恋愛にはならないのよね。
ってことなんじゃないかと思うんだけど。

そういう関係を何と呼ぼうがべつにいいけど、恋愛とは明らかに別のものだと私は思うな。すべての異性間の関係が恋愛にされるのでは、恋愛として成就しない異性間の関係はすべて失恋になってしまう。それは悲しいと思う。

などと思っているのが私のひとりよがりでなければいいのだけれど。
というようなはなしをこんど彼に会うときしてみよう、と書き留めておく。

くつが一足あったなら 

2004年11月01日(月) 0時51分
池袋のプラネタリウムで高田渡&高田漣のライブを見たり聞いたりしました。
感想としてはもうただ行って良かったなあというそれに尽きるのですが行って良かったなあ。
運営側の手際のまずさとか気負いからくるイタさとかが感じられるところもあったけど
それを補って余りある行って良かったっぷりでした。

うろおぼえのセットリストもどき(こういうのをちゃんと書く人はメモか何かしてるのだろうか?)
渡さん:
アイスクリーム/秋の夜の会話/コーヒーブルース/系図/酒が飲みたい夜は/仕事探し/鎮静剤/トンネルの唄/くつが一足あったなら/ブラザー軒/ひまわり/生活の柄/あきらめ節/スキンシップ・ブルース/自転車に乗って
漣くん:
what a wonderful world/Mojito/For you
とあといくつかあった気がするけど忘れました

渡さんは漣くんを「漣くん」と呼んで、
漣くんは渡さんを「うちのおとうさん」と呼んで、
それがなんだかとてもいいなあと思いました。
その幸せな距離と幸せな近しさの感覚は「母と娘」でも「母と息子」でも「父と娘」でもけっして生まれえないもので、「父と息子」、それもとびきり上等なその一組によってしか生まれえないものであるにちがいない、とそこに加わる可能性をあらかじめ持たない私はただ羨望しました。

ところで渡さんはなんだか仙人みたいな印象がありますがよく見るとそんなことはなくて、肉体労働者の首と女の手と獣の目を持ち、老人のひげを蓄えた不思議な存在だと思いました。
あと漣くんは大理石の肌を持っていて何でできているのか不思議だった。お手入れの仕方を教えて欲しいです。
それから渡さんが「ジャノメミシン」と言っていたペダルスチールはミシンと言うより編み機に近いと思いました。左右にすべらすとことかも。もちろん音はちがうけど。編めないし。

そいうことでまあ渡さんには元気でいてもらいたいなと。
聴いた歌の中では「系図」がすごくよかったです。こんなによかったのかとびっくりするくらいよかったです。泣けました。まあ隣に息子を置いて歌うのは反則だと思うのですが。
あとは「くつが一足あったなら」。たぶん私もくつに似た何かを持っていないんだなあとか思った。どうかわたしのさだめがつらくあたらないでいてくれますように。
ということでおやすみ私。おやすみアイリーン。おやすみ。バイバイ。



天城越え(2) 

2004年10月25日(月) 23時03分
10月24日(日)
8時40分くらいのバスで出発。9時ちょっと過ぎに天城峠へ到着。歩き始める。
旧天城トンネルまで急な坂を登るのだが台風で大きめの木が倒れていたりしてちょっと大変。木が折れたり倒れたりしているのにはその後もたびたび遭遇。やっぱすごかったんだな台風。

そんな大変な山でもなかろうと思っていたがそんなことはなくそれなりに疲れる。
八丁池にコースタイムの1時間50分から20分くらい遅れて到着。11時17分着だったか。
あこがれの「山でホットワイン」をすべくコンロを出して昼食。ホットワインは美味かったけど、これは小屋とかで夜ゆっくり語らいながらのみたいものだな。日帰りの山行でむりくり火使ってめしくわなくてもいいやと思う。でもまあやってみたかったことをやれたのでよかった。
八丁池は広々しててきもちよかったです。岸にはもさもさ草が生えてて獣の背中を歩いてるようなふしぎな感じ。昼寝したかったな。

このまま行くと帰りのバスに間に合わないかもしれないということが判明しちょっと急ぐ。
八丁池から戸塚峠までだいたい1時間。でも小岳〜万三郎岳の登りはそれなりの登りで急げない。いや、我々の身体がもっと頑健であればいいだけのことなんだけどさ。
まあそんでバス乗れなくても何とかなるじゃろーと思い定めて普通に歩く。万三郎岳周辺のブナの木立はきれい。ヒメシャラという木も多くて、それはなめらかな樹皮がなんだか色っぽかった。
万三郎岳〜万二郎岳は地味にアップダウンがあってやらしい。途中何か所かハシゴっぽい階段もあり。
万二郎岳からは林間の下り。下るとゴルフ場わき。
4時7分に着いたので9分発の最終バスに間に合うか間に合わないかのビミョーな時間で、バス停がどこかわからずうろうろしてたらバスがやってきたので手をふって止まってもらい乗る。ラッキー。てゆうかここで乗れなかったら私たちはどうしていたのだろう。

伊東駅までバス内で爆睡。駅前の回転寿司屋で夕飯。店員さんに山やる人がいたらしくいろいろ話しかけてもらう。中年の男性で山をやるという人はけっこういるものだなあ。しかしなぜそういう人は「○○の小屋の親父と親しい」とかそういうことを得々として喋るのか。まあいいけど。寿司はうまかったです。

そんで家帰って見たら両足の薬指にバターポップコーン味のジェリーベリーみたいな見事なマメができてた。いい靴下が必要だ。

天城越え(1) 

2004年10月25日(月) 22時31分
 土曜日に熱海で用事があったのでそのままちょっと足を伸ばして天城山縦走してきました。

10月23日(土)
16時頃修善寺で同行者と待ち合わせ。バスで湯ヶ島温泉へ移動。

なんか全体的にやばい感じの温泉街。何がやばいっていうんじゃないけど、なんかやばい。
すでに死後硬直が始まっているような感じのどんよりしたグルーヴが漂っている。
泊まった旅館もこれまたやばい。
女中さん(と宿のおかみらしきばあちゃんが言ってた)に、布団の上げ下ろしはやってもらえるのかと聞いたら「わからない」とな。
「仙人風呂」という風呂の壁にはものすごく稚拙なタッチのタイル絵で髪を振り乱し斧を持った女の絵が。うわあああ。
結局布団は敷いてくれたが夜はなんだか寝苦しい。部屋にあった日本人形が胸の上で踊ってたりしたのだろうか。
なんかいたんじゃないか、と同行者ともども思っていたようだが宿を立つまでは口に出来ず。

Not in Employment,Training but Education 

2004年10月21日(木) 0時42分
学校やめよっかなー
とかちょっと思ってたのですが
同級生がさっさと留学決めて出て行ってしまうことになったのでなんか機を逸して
とりあえずまあべつに他にやることもないし奨学金もあるしと
結論としては惰性で現状維持ということにしてるんですが
やはり働かなくていいなら働かないでいたいと思うわけです

勤労は国民の義務らしいですがまあ社会人になって社会に混じらしてもらったところで
いままで社会とやらにいい目見してもらったことない自分としては
なんかいいことあるような気もしないからべつに混じらしてもらいたいとかも思わないし

好きなことやって好きなように生きてくなんて無理だとか言う奴もいたけど
無理かどうかを決めるのはお前じゃねえよと思うし
社会とやらが決めるなら勝手に決めてくれ決まるまでは好きにやるよと思う
あんたが我慢してるからってそれが私も我慢しなきゃいけない理由にはならないでしょ
磨り減ってくだけの人生なんてただゆっくり死んでいってるだけじゃん
だったら生きられるだけ生きてバターン死の行軍でいいよもう
とかも思う

まあそれほど鮮烈に主張したいことなわけでもないんだけど
だらだらやってきたいならそれがやりたいようにやる人生なんだからだらだらやるよと思う
なんでそれがいけないの
経済が成長しないから?
成長って何?
でかくなり続けたらどっかで倒れない?
とか思うのよね

なんてな感じのことを旅立ちを前にした同級生とちょっと喋ってお互い同意して
意外と気の合う子だったのかもしれないといまさら気づいたりして

そりゃー焦りも迷いも不安も後ろめたさもあるけれど
自分以上に大事なものなんてないからねえ
自分を大事にできないで自分の目に映る世界を愛することなんてどうしてできるのかと
思うわけです

ですから私の人生を見てばかじゃねえのと思うあなた
私がばかな人生を送るのはほかならぬあなたを愛するためなのですよ
なんて詭弁を弄してもみるわけですが
それにしても愛といって思い出すプラネテスのタナベは原作とアニメとでは別人で
アニメはこれからどうなるのと思います
私は原作の筋肉質なタナベの方が好きだなあ

そんな感じで今週も十二国記とプラネテスを見たので寝ます。



暴風 

2004年10月20日(水) 23時59分
「台風」とあたかもそれが手に触れることのできる物体であるかのように人々は言うけれど
それはただ気圧の変化が生ぜしめた現象なのであって
あるけどないものなのだ
と思うとなんだか不思議で
そのないものにたびたび翻弄される人間の営みとはなんと脆く文字通り不自然なものなのか
とか思う。

電車が時間通り運行されるとか
家が壊れずにそこにあるとか
雨や風に晒されずにまっすぐ歩けるとか
そういうことが正常なのではなく
電車は時間通り運行されるかもしれないしされないかもしれない
家は壊れるかもしれないし壊れないかもしれない
前へ進めるかもしれないし進めないかもしれない
いつでもどちらの可能性もあって
たまたまそのとき安定な状態が顕れているのだと思うのが合理的なんじゃないだろうか。

そう思えば今日の退屈も僥倖であると思えるし
未来の不運もただ起こりうることが起こっただけのことと思えるのではないか。
と思うので私はそう思うことにする。

そらトび 

2004年10月11日(月) 0時27分
最近はすっかりあたまがぬるくなってマンガしか読んでないんですが
マンガしかって言っても面白いマンガは面白くてとてもいい。

黒田硫黄があんまり書かなくなってつまんないなあなんか面白いのないかなあと思っていたんだけど面白いのはたぶんいろいろあるんだな、と今日五十嵐大介のマンガを読んで思い直した。

リトル・フォレストは茄子以来のてゆうか茄子以上の食欲刺激マンガでとてもいい。
新宿とか行くたびに都会はいやだよおっかさん、とか思う中途半端な都会育ちの私ですが人もモノも大量になるとどうしていいかわからなくなるどうしようもない私はいつかそのうちゆくゆく最終的にはどっかの田舎で暮らしたい、とか思うわけですがそういう田舎欲もたいへんに強く刺激される。
マンガの舞台の小森は岩手らしいけど、ときどき遊びに行かせてもらう新潟のお家のことを思い出す。ああそう、オニグルミ送ってもらったよな、とか、コゴミとかフキノトウとか取ったよな、とか。
たぶん実際に暮らすといろいろなことというかあらゆることを自分でやらなきゃいけないんだからとてもたいへんなんだろうと思うけど、そういうたいへんさを補って余りあるうらやましさを感じます。ああ、私もいつかは。きっとだれかと。とか思うんですけどね。

まあそういうことで、なんだかなあこの自分の生活とか思いますけどね。
どうにかしようと思えるまではどうしようもないんだろうな。

そういうわけで五十嵐大介のマンガは面白いなあという話。
あとは三宅乱丈と萩尾望都の「バルバラ異界」も面白いですよ。ええ。