行って来まーす 

2006年07月08日(土) 9時57分
 今日から北海道は大雪山縦走(旭岳〜黒岳〜層雲峡)の旅に出かけます。福岡空港発着で新千歳空港往復なので、帰りは熊本の光原処に寄り、更に南阿蘇、白川、高森を回って、小倉を経て安来に帰ってくるのは17日夕方の予定。いささか「年寄りの冷や水」かとも思うが、足腰の立つうちにと頑張っています。
 それまでに庭木の剪定、排水工事(U字溝の敷設)を済ませてしまおうと、ここ10日余り重労働の連続で、やっと昨日で一段落した。やれやれ草臥れたなあといったところ。
 そのほかにも、ボランテアで中国からの帰国残留婦人一家のお世話(通訳、日本での生活常識や日本語指導など)もあって、結構忙しかった。
 これから10日ばかり、しっかり遊んできます。それまでブログはしばらくお休みです。帰ってきたらまた香港行きの続きを書きましょう。波乱万丈の物語、乞うご期待!

庭師 

2006年06月13日(火) 21時44分
 この頃は庭木の剪定で忙しい。こちらに帰ってから、裏の山畑から裏庭、表庭、家の前の畑に植えた木々、すっかり大きくなって深緑に包まれた枝葉を茂らせている。このままでは家の周りは森になってしまう。木によじ登って上のほうの大枝を鋸でひいてばっさばっさと切り落とし、三脚にまたがり剪定鋏で小枝をぱっちん、ぱっちん。山茶花やつつじの刈り込み、ざっくり、ざっくり。5時起きして朝食までに一仕事。シャワーをかぶって朝飯。また昼まで一仕事もふた仕事も。汗びっしょりになって帰ってくるとまた水をかぶってその後で飲むビールの旨いこと。お昼をはさんで日中はもう暑くて仕事になりまへん。4時ごろまで昼寝。それから7時ごろまでまた一仕事。庭木の手入ればかりではなく、まだ排水溝敷設の土建業も残ってます。お陰で体重が1キロ近く減った。万歳!今日定例の糖尿検査で病院にいったところ、血糖値もよろしいようで先ずは結構、結構。

北九大に奉職するまで(十)承前 

2006年06月13日(火) 20時31分
 話は前にさかのぼるが、前年64年の春には、母が子宮ガンで亡くなった。残された父は淋しさもあったろう。葬式や法事で帰省する度に「山本家の跡継ぎが何時までも家を外にしていては困る。同じ高校の先生をするなら安来に帰って、島根県の教員採用試験を受けて、県内どこかの高校に勤めて家の面倒を見てくれ。」と矢の催促。この年の秋頃には、「二足の草鞋」で茫茫碌碌の生活に疲れていたこともあってか、「仕方ないかな、この辺が年貢の納め時かな」と些か落ち込んで弱気になっていたところに、思いがけない山口先生のお話。「今、外務省の中国課が香港総領事館で、中国問題の調査研究をしてくれる人を求めている。もし君に行く気があれば、中国課の課長が自分の友人だから紹介してあげるが、どうかね?」とまあ大体こんな話だった。もともと大阪市大の学生だった頃から、エドガー・スノーの『中国の赤い星』、アグネス・スメドレーの『中国の歌声』『偉大なる道』などの現代中国革命に就いて紹介した著作を読んで、すっかり中国にはまり込んでいた私にとって、願ってもない話だった。親不孝の話だが「これで田舎にも帰らなくてすむ。よし決めた!」という訳で慌ただしく香港行きが決まった。

北九大に奉職するまで(十) 

2006年06月06日(火) 22時04分
 1965年2月 在香港日本国総領事館調査室特別補佐員。これが当時名刺に刷り込んだ肩書きだが、裏側の英文のほうは「スぺッシャルアシスタント(special assistant)」となっていて、何やら007めいた感じだが、正式の身分は外務省の所謂「嘱託」ということなんだそうで、パスポートも「公用旅券」というやつだった。だから外交官ではないが一応政府公務員ということなんだろう。ところでつい先ほどまでは学生運動の先頭に立って「赤旗」を振ってた所謂「左翼学生くずれ」が、どうしてこんな事になったのか、自分でも驚きの「変身」だ。人生の転機は人との出会いから齎されるものだと、今も痛感している。この2年間所謂「オーバードクター」の間、夜は高校の国語教師、昼間はあちこちの大学の中国語非常勤講師をしながら、時々母校大阪市大の中文教室に顔を出していた。市大では中国文学を専攻し、「魯迅」研究者として名高い増田渉先生に就いて中国近・現代文学を学んでいたが、同時に当時神戸大学から市大に出講されていた、「孫文」研究者として知られた山口一郎先生に就いて中国近・現代思想についても教えを受けていた。山口先生とは学部の頃からほとんど1対1の授業が多く、ずいぶん可愛がっていただいた。その山口先生の推薦で香港行きとなったのだ。(続)

ガラス工芸 

2006年05月27日(土) 9時21分
昨日勝部英子さん(忠正さんの奥さん)から、ガラス工芸作家の横山尚人さんを囲んでの夕食会に招待されました。東京で活躍されている方で、米子高島屋で個展をされていると聞き、夕食会の前に高島屋に見に行きました。原色の赤、青、黄色、緑等を使った色鮮やかな作品が多く、20万、30万、50万と、とても私たちの手の届く品ではなく、そのまま帰るつもりが、表に3万から5万ほどのワイングラスやビールグラスが有りましたので、私も永平寺に行ったと思い、ワイングラスを2個買いました。安来に来たら見せてあげるね。夕食会で話を聞くと、横山さんは8歳迄台湾にいたとの事、井関先生が、「京子の色使いは東南アジア系だ。」と言われたのを思い出しました。

永平寺 

2006年05月23日(火) 12時30分
朝7時半のバスでお父さんは松源寺さんのツァーで永平寺に行きました。私は前に二度も行ったのでパスしました。今日は雨降りですが明日は晴れるといいね。

北九大に奉職するまで(九) 

2006年05月22日(月) 19時18分
 1964年3月 博士課程単位取得退学。60年結婚以来、私立大阪星光学院の国語科専任教員として勤務。大学院生と高校教師の二足の草鞋を履いていた。星光学院ではクラス担任もやり、3年目には進学クラスを持ったりして結構忙しかった。しかし収入の面では多少楽になったが、奨学金は正規の2年課程を過ぎると打ち切られ、長女の幸子、次女の京子と続いて子供が生まれると家計も逼迫、お母さんもやりくりに大変だったと思う。当時星光学院の給料は安かったので、先行き大学に就職できる保証もないので、長期戦の構えで所謂「オーバードクター」生活を切り抜けようと、星光学院を退職、63年4月から大阪府立天王寺高校の定時制(夜間部)の国語教師に就職。昼間は関西大学、関西外国語大学の中国語非常勤講師を兼任、やはり二足の草鞋生活が続いた。お母さんも子育てしながら家庭教師をして家計を支え、なりふり構わずの大奮闘。思えば二人とも若くて馬力があったんだなあ、、、、。とにかく無我夢中で過ごした2〜3年でした。ところが人生行く手に何が待っているか分からないもの。その年も暮れ、65年の1月には思いがけない人生の転機が訪れた。

大山横手道「ぶなの森ウォーク」 

2006年05月21日(日) 22時58分
 今日は久しぶりに朝から快晴。外仕事も溜まっているが、大山のぶなの若葉は今頃が一番。自然との一期一会は大切にせにゃあ。という訳で朝6時起き。パーっと遊びに行く事にした。
 大山大野池のほとり、レークホテル9時出発のガイドつき「ぶなの森ツァー」に参加。ガイドはボランテァのS氏60歳。自己紹介によれば8年前、大山の自然の中で暮らしたいと大阪から引っ越してきたとの話。山野草の説明が詳しい。道端の小さな花を咲かせた草花、目にも鮮やかな青葉若葉を茂らせ、枝を中天に広げてそそり立つぶなや水なら、名も知れぬ潅木、その名前、葉の形や幹の特徴など詳しく解説してくれる。今まで味わえなかった、新しい山歩きの楽しみ方を教わった。すっかりおなかを空かせて1時ごろホテルに帰り、ローストビーフ定食で昼食。2000円。でもローストビーフは一皿分お代わりが出来て勿論タダ。食後、無料入浴券をもらって、ゆったりと新緑を眺めながら温泉に浸かる。結構な一日でした。
 5時頃家に帰って、ふと思いついて竹薮を見回りに行ったら、もう破竹が生え出していた。何本か折り取って帰り、茹で上げた。明日の夕食はチリソース炒めの「紅焼き竹の子」だ。もう一品追加。裏山で摘んできた山独活の新芽のてんぷら。これで薩摩の芋焼酎。献立決まり。

北九大に奉職するまで(八) 

2006年05月18日(木) 14時25分
 1960年5月29日 結婚。4月には博士課程に進学していたので、いわゆる学生結婚。相手は学部一期下の後輩。54年、彼女と同期入学の女子学生は11名。それまでの1〜2名に比べ急増の年だった。当時私は商、経、法、文、4学部の教養課程学生自治会執行委員長。そこで全学の女子学生に呼びかけ、「大阪市大女子学生の会」を組織し、大学当局に対して女子専用トイレや女子更衣室の設置を要求する運動を支援した。そんなことが彼女と知り合うきっかけだったと思う。15年にわたる交際の末という事になる。
 さてこの年は日本戦後史上特筆されるべき大事件、「安保反対闘争」に明け暮れていた。この春、私は大学院の授業はそっちのけで、「安保改定反対」の国会請願署名運動や上京国会請願団、大衆デモなどの組織に奔走していた。その合間を縫って、学生運動の仲間たちが私たちの「結婚式実行委員会」なるものを組織し、大阪教育会館の会議室を借りて会費300円の結婚パーティーを開いてくれた。バス・トイレなし4畳半一間のアパート住まい、貧乏生活の始まりだった。(続く)

北九大に奉職するまで(七) 

2006年05月17日(水) 10時15分
 1957年4月 大阪市立大学大学院文学研究科修士課程(中国語・中国文学専攻)入学。何も学問研究が大好きで大学院に進学したわけでもなかった。当時は今のように大変不景気で就職難。まして札付きの「全学連」の「アカ」学生、その上「中共」のことなどを専攻した学生には、まともな就職口など有ろうはずもなかった。当時中国は「第一次五カ年計画」を「勝利のうちに達成し」、アジアの、そして世界の「民族解放・独立革命闘争の輝ける旗手」としての名声をますます高めつつあるように思えた。もう少し中国のことが知りたい、それに大学院ではひょっとしたら奨学金も受けられるかもしれない、そうすればそんなにアルバイトしないでもやって行けるかも。とまあ正直言ってこんなところが大学院進学の一番の動機だったようだ。深刻な不況下、奨学金付きの大学院生の身分はかなり魅力的で、旗を巻いて田舎に帰る気のない私にとって、いわば格好の「緊急避難」の場所だったのだ。50年代後半から70年代前半にかけて、「全学連」や「全共闘」(注1)の闘士で、後に大学の先生、研究者、学者となった人が少なくないのも、一方でこうした事情が背後にあったことも否定は出来ないだろう。そうこうしている内に、やがて「60年安保」(注2)の年が近づいていた。(続く)
 注1 全学共闘会議 60年代の終わりからベトナム反戦運動に端を発し、全世界的に広がった所謂「学生たちの反乱」の風潮の中、日本全国の各大学、高校などに誕生した闘争組織。
 注2 1960年、日米安全保障条約改定に反対し、時の政府岸内閣打倒を目指した全国的な政治闘争。
P R
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