友達

October 12 [Mon], 2009, 15:18
小学校は田舎だったため人数も少なく1クラスしかない小さな学校だった。
クラスメイトは28人。
私の外見に誰1人拒絶することなくみんな仲間に入れてくれた。
だから私は大好きだった。
気がつけば5年生まで皆勤賞だった。
小学6年生になった頃私の持病は悪化した。
術部は赤黒くそまりとても人に対面できるような容姿ではなくなった。
友達は心配して我が家を訪れてくれた。
そのことには気がついていた。
玄関横の部屋で寝ていたから。
本当は大丈夫だよ。と今にも出て行きたかった。
でもとても人に会う度胸がなかった。
これまで友達でいてくれた仲間が離れていってしまうようで・・・。
だから私はそっと隣の部屋で声を潜めていた。

1週間ほどたった。
ようやく腫れも赤黒みもとれた。
母はこの間仕事も休み私の看病にあたってくれた。
本当にありがたかった。
実を言うと最初の3日間ぐらいは記憶が曖昧だった。
あまりの激痛だったため記憶が飛んでいたのだ。
後から母に聞いた話だが、
「もおいい。殺して。痛いから。もうやめたい。頭とりたい。」
ずっと繰り返していたらしい。
母は見ていられなかった。
変わってあげられるのなら変わってあげたいと何度思ったかわからなかったそうだ。
その後私の体調は回復していった。
どうやらこの悪化はホルモンバランスが崩れたことによる影響だったらしい。
女の子に訪れる最初の変化。
月経。
すっごく苦しんだ。
後にも先にもこんなにくるしんだのは最初で最後になることを心から望みたい。

初めてのお家

October 09 [Fri], 2009, 16:38
家に帰ってきたばかりの頃の話はほとんど聞いたことがない。
きっとバタバタしていたに違いない。
退院したといっても毎日通院の日々だった。
母は40分ちかくかかる病院へ毎日足を運んだ。
相当な体力と周りの協力が必要だっただろう。
それでも私が元気になれるならと必死で動いてくれた。

実を言うと母は家族というものに縁がなかった。
両親は離婚していたため女でひとつでそだててもらった。
姉は早々と結婚したため母は1人ぼっちのことが多かった。
兄はバイク事故で亡くなっている。
ちなみに母の親(私の祖母)は交通事故で半身不随となり病院の施設へ入ることとなった。
それが姉が結婚した時と同時期だった。
そのせいか母は家族というものへの憧れが大きかった。
家族がほしかった。
だから私を失いたくなかったのだろう。
やっとできた家族。
母はそんな風に思っていたのかもしれない。

母の甲斐も報われ私の通院は日に日に間隔が伸びていった。
その頃には姉も私と遊ぶようになっていた。
他人から見れば私には違和感がある。
顔面がゆがんで見える。
手術の傷跡。
左腕のやけど。
はっきり言ってかわいそうな子供と感じる人もいる。
未だに上記の点は改善されていない。
むしろ自らが改善する気がない。
これが私だ。
そう思って生きていたいからだ。
認めてくれない人がいてもいい。
この姿の私を受け止めてくれる人が1人でもいる限り私はその人のために生き続ける。

姉は優しかった。
ブランコをえいって揺すって歌を歌う。
「アホちゃんだね。アホ。」
私は意味もわからないこの歌が大好きで姉が歌うたびにけらけらと笑った。
そんな母の求めていた平穏な日がついに訪れていた。

そういえば姉の七五三の写真に写る私はチューブだらけだった。
でも私の七五三の写真は姉と同じ着物を来て笑う私の姿が映っていた。
かわいいとは決していえないけど子供らしい私がそこにはいた。
母のおかげだとこころからそう思う。
毎年ひな祭りの日に写真を撮っていた。
反抗期の時も、部活で疲れてぶっさいくなときも、全部。
成長のしるしにって。
今思うと撮ってて良かったと思う。
年々私の傷が癒えていくのがわかる。

幼稚園にあがる頃には普通のことなんら変わりのない遊びが出来るまでになっていた。
運動も勉強も。
卒園式の時なぜか母は保護者代表で号泣しながら感謝の気持ちを読んでいた。
産後あれだけ苦しんだ私がここまで大きくなったことに喜びをかくしきれなかったのだろう。
小学校の入学式の日の写真もばっちり残っているところがその証拠だろう。
新品の靴をはきランドセルをしょって制服をまとい玄関でニコーって。
毎日「行ってきまーす。」と元気に学校へ通う日々が始まった。

生い立ち

October 09 [Fri], 2009, 15:52
1987年秋 私は静岡県の片田舎で生まれた。
車もほとんど走ってない、信号機も町内に1つしかないコンビニなんて3キロ先まで行かなくてはならない。
そんなとんでもない田舎で私は育った。
父は車で20分程度のところにある会社に勤め、母は私が小学校に入るまで内職をしていた。
私には3歳年上の姉がいる。
性格はまるで違う。
おとなしく控えめで近所でも評判のいい子だった姉。
男の子とはしゃいでばっかりいた活発な私。
でも正直根は一緒なんだ。
2人ともなんだかんだで目立つことは大嫌い。

私を産んだ時母は違和感を感じていた。
すでに姉を産んでいた母には明らかな異変だった。
産まれてすぐ産科の先生に相談したが「たまにいますよ。」程度の返事であっけなく退院させられた。
家に連れてきてからも母は私に感じた違和感が心配でならなかった。
やけに首が腫れている。
それが私へ感じていた違和感。
確かにたまに新生児で首が腫れあがっているように見える子はいるそうだ。
だが日に日に腫れが大きくなっている。
母は退院から2週間たった日少し離れた総合病院を受診することにした。
娘のいびきは尋常ではなかった。
呼吸を苦しそうにする娘を見てはいられなかった。
「次の方、どうぞ。」
野太い男性の声で母は診察室へと入った。
先生は私を見るなり検査へ回した。
一通り検査が終わるともう1度診察室へ入った。
先生の人数が明らかに増えていた。
なにか相談しているようだった。
決心したように先生は私を片手でひょいと持ち上げ「緊急手術しますね。」と母へ伝えた。
母はうろたえた。
産んだばかりの娘が死んでしまうようなきがしたのだろう。
その場へ泣き崩れた。
「大丈夫。お母さんがしっかりしなくてどうするの?娘さん頑張るんだからお母さんも頑張るの。」
そういい残すと先生は手術室へ向かった。
4時間近く過ぎた時、手術中のランプが消えた。
母は出てきた先生へかけよった。
「大丈夫っていったでしょ?」とにこやかに母を安心させた。
それから2ヶ月間母は就き切りで私の闘病生活を支えた。
まだ首もすわっていない、お母さんのおっぱいを飲む私にとって必要不可欠な人だった。
3歳年上の姉は子供のため私に触れることすら許されなかった。
カラス越しにチューブまみれの妹を見ては父の実家へ帰っていく。
間違いなくさびしかっただろう。
私に触れないことではなく、母と一緒にいられないことが・・・。
姉はずっと我慢してくれたんだ。
文句一つ言わず、じっと耐えてくれたんだ。
母を困らせないために。
父は毎日仕事帰りに病院へ寄ってくれた。
母の心配と私の様子を見に。
入院中6人部屋に移った。
ナースセンターの横の部屋。
同じ病室になった子が亡くなることもあった。
母はそのたびに我が子の生命力を信じた。
必ず生きて連れて帰ると。
2ヵ月後母の看病と先生の技術、私の生命力すべての力が糧となり私は退院の日を迎えた。
まだチューブの痕が痛々しく残るが、母は退院できることが何より嬉しかった。

家に帰ると待ちわびていたように姉が迎えた。
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