いじめ自殺の増加で、教育の現場は神経質になっています。TVからはコメンテーターの「生命の尊さについて教育が足りない、いまの子どもは死によってリセットできる、また生き返ってやり直せると思っている」「いじめの問題で学校の教育がバッシングされるが、そもそも教育の原点は家庭」といった分析が聞こえてきます。
時代ごとに、一定の年齢層や性別や社会的地位の自殺率が上昇すると、社会的背景をふまえて自殺傾向が分析されて、その当時の社会問題として議論されます。
ただここ数年は、いじめ問題が深刻化する社会を背景に子どもの自殺が増えている。これは他の自殺よりも少し問題が大きいかもしれません。というわけで、私なりにいじめ自殺について。
私が親になり子どもがいじめにあったら、はじめに他の学校に行かせます。それでもやはり学校でやっていけない子だと分ったら、「学校に行かなくてよい」と教えます。そしてその子を連れて旅行にいきます。
生きれる場所はどこにでもある。たとえ学校の同級生とやっていけなくても、別の場所でさまざまな生き方をしている人々の誰かとやっていければよい。その子が身をもって学んで、どこへ行っても自分の居場所をみつけられる子になれば、親としてこれ以上うれしいことがあるでしょうか。
子どもにかぎらず、生きていられない気持になる人を、旅に連れ出したい!というのは、私の一つの夢プログラムです。人が死を決意するときは、生きていられる場所を失ったと感じるときだと私は思っています。その場所は家であり、家族や友人や大切な人の隣です。ここが自分の居場所だと思っていたものがなくなったとき、人は生きていられなくなる。また何かしら拠り所があれば、人は生きていられる。そう思います。
元気にやっていても、自分の居場所が心地悪い人や、気楽に一人で居たいという人も多い、個人主義の現代です。ここぞ自分の居場所、という感覚は希少かもしれません。
私は前者のほうで、ときどき旅にでて、全く違う場所で全く知らない人とやっていく新鮮な「生きてる」という感覚で、自分を再生してきます。
一人で気楽だからこれでいいよ、と言っている人に出会うと、その人の腕をつかんで一緒に旅に出たくなってしまいます。楽に生きるのと幸せに生きるのは違う!ここが自分の居場所、という幸せを感じるときは、隣にいて一緒にやっていく誰かがいるときだと、私は思うからです。
子どもにとって、自分の居場所はまだとてもせまいです。学生までは、ほとんどの人にとって家庭と学校の半々でしょう。よい学校ならば、尚よい。たとえ学校が悪くても家庭さえよければ大丈夫なはずです。それでも自殺する子どもがいるということは、家庭に子どもの居場所がないためです。
いじめの問題、家庭の問題は複雑な社会問題で、簡単には解決しないでしょうから、現に居場所のない子どもは、他の人より少し不運かもしれません。けれど、その不運にめげないでほしいと思います。どこへ行っても自分の居場所は必ずみつかる、いっしょにやっていける誰かがいる。なんとかこのメッセージを届けたいと切実に思うAIでした。