小説「ボラカイ島」を読むなら 

December 23 [Tue], 2008, 10:18


小説「ボラカイ島」 南右近

携帯で読むなら、このサイト。
http://novel.fc2.com/novel.php?mode=tc&nid=2552&guid=on

ボラカイ島の写真を見るなら、このサイト。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~minamiukonboracay/



孤独 

November 30 [Sun], 2008, 10:27
孤独

 樫村直人は必ずまたボラカイ島に戻って来ると言い残して日本へ一人で帰って行った。その三日後、理沙はネグロス島のおじいさんと姉のもとへ正樹を連れて向かうことになった。隣のパナイ島へ渡るボート乗り場で、見送りに来ていたナミが正樹に言った。
「正樹さん、やっぱり行くことにしたんだ。」
 正樹は返事をせずにコクリとうなずいた。理沙がナミにお礼を言った。
「いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました。」
「また、いらっしゃいね。いつでも、大歓迎だから・・・・・・。」
「ええ、ありがとうございます。」
「小さい島だから、どうしても退屈。ほら、話に飢えちゃって、きっとよ、また来てね。そうだ、今度はお姉さんと一緒にいらっしゃいよ。」
「ええ、必ず。ナミさんもドゥマゲッティに遊びに来て下さいね。」
「そうね、あたしはいつも暇だから、きっと行くわよ。」

 二人を乗せたバンカーボートはゆっくりとボラカイ島を離れ、次第にそのスピードを上げていった。それはまるで飛び魚のように元気よく青い海を飛び跳ねていた。やがてボートはそれを見送るナミの視界から消えていった。


(ネグロス島南部)
 岡田拓実はわかっていた。もう自分の命が残り少ないことを、それは年齢からくる寿命ではなくて、自分の体が重篤な病に侵されていることを知っていた。そのことを孫の理沙や彩花、そして一緒にネグロス島で暮らす周りの者たちにはしらせずに慎重に振舞っていた。しかし、医者である正樹は岡田拓実と会ったその日のうちに、彼の顔色の悪さや仕草に気がついていた。
「岡田さん、一度、精密検査を受けられてはいかがですか?」
 岡田拓実は顔色を変えずに正樹の質問にゆっくりと答え始めた。その言葉は途切れ途切れではあったが、十分に正樹の心を震わせた。
「そうですか、無理でしたか、・・・・・・やはり正樹さんにはかくせなかったようですね。以前、テレビのニュースであなたのことをお見かけしましたよ。あなたがお医者様であることも知っています。そう、・・・分かってしまいましたか。・・・・・・でも、もう少しだけ待って下さい。どうしてもやっておきたいことがあるのでね。」
「いつからですか?」
「・・・・・・以前から調子は悪かったんですがね、先月あたりから、急に痛みが激しくなってきましてね、・・・・・・。でもね、この村の人々は、やっと、自給自足の生活ができるようになってきたんだ。あとは、私がいなくなっても、何とか現金収入を得られるようにしてやらないと、・・・・・・。」
「ご親戚で過去に病で、例えば癌でお亡くなりになった方はいらっしゃいますか?ご両親、ご兄弟は?」
「私は終戦をこの島でむかえました。戦争が終わって、日本へ帰ると、父も母も、それから・・・たった一人の姉も東京のあの大空襲で行方不明になってしまっていました。」
「すみませんでした。嫌なことを聞いてしまいましたね。お許し下さい。ではご親戚の方で、誰か病気で亡くなられた方はおありですか?・・・・・・ご記憶にありませんか?」
「親戚も、みんな、あの戦争で・・・・・・・亡くなりました。東京の焼け野原に立ち尽くし、あの時、私は涙を出しながら孤独というものを本当に実感しましたよ。」
「そうでしたか。」
「私はあの時から小さな希望を見つけて、一日一日を大切にすることにしました。大金持ちになってやろうとか、総理大臣になってやろうなんて一度もおもったことはありませんでした。だってそうでしょう、正樹先生、戦争が終わっても何が起こるか分かりませんからね。交通事故で突然に命を失うことだってあるんだ。先のことなんか誰にも分らないものね。将来のことを悩んで心配のあまりに今現在を無駄にしてはもったいないですからね。」
「確かにおっしゃる通りです。」
「人間、生まれてくる時もあの世に行く時も一人なんだ。人はどうあがいたって孤独なんです。そのことをしっかりと分かっておかないといけない。孤独だからといって寂しがってばかりいたら何も出来やしないですからね。」
「そうですね。人は孤独ゆえに人生をともに過ごしてくれる人をさがすのかもしれませんね。孤独な者同士がそれを癒そうとおもって一緒になる。結婚したりもするわけですね。でも何年かすると、子どもたちは自分の生活がありますからね。当然、巣立っていくし、パートナーともいずれは別れなくてはならない。病になることもあるでしょう。結局、人はみんな最後は孤独なんです。それは仕方がないことなんですね。」
 岡田拓実と正樹は理沙の姉の彩花が運んできた手料理に箸をすすめながら話を続けた。理沙が日本からみやげに持ってきた日本酒も惜し気もなく出されていた。二人は屋外の棚田がよく見渡せるテーブルで、とても初対面とはおもえない、極めて打ち解けた二人だけの宴を開いていた。
「正樹先生、先生は日本でコンビニでバイトをしていらっしゃると、理沙が言っていましたが、何かこの島の人たちの生活が安定する、・・・アイディアというか、方法はないでしょうかね?」
「それは難しい質問ですね。この国の人々が誰もが望むことですものね。そうですね、お店では、最近ではマンゴーやバナナ、それに、ナタデココなどが、また人気商品となっていますね。ナタデココもそうですけれど、僕はココナッツにとても興味がありますね。まあ、ココナッツはココナッツオイルのようにたいへん貴重なものも含めて、まったく捨てるところがないほど素晴らしいものです。以前からずっと考えていることなんですが、あの殻の繊維質をうまく利用できないでしょうかね。固い殻をほぐして園芸とか、食品とは別の方面に使えないでしょうかね。土の代わりとか肥料とか、うまく加工して商品にならないでしょうかね?」
「園芸ですか。・・・・・・例えば、道路のセンター分離帯にある植木とか、・・・・・・。」
「なるほど、それはおもしろいかもしれませんね。」
「燃料として使われることもありますが、捨てられている殻をもらってきて再利用する。」
「いいかもしれませんね。」
 二人は村人の喜ぶ顔を思い浮かべながら、話に花を咲かせた。正樹と岡田拓実は考え方や生き方に共通したところが多く、初対面からすぐに打ち解けた良い関係になった。

「岡田さんはタロウという芋焼酎をご存じですか?」
「ええ、よく知っていますよ。よくテレビで話題になる幻の焼酎ですよね。」

 ちょうどその時、彩花がチャップソイと呼ばれる野菜料理をテーブルに並べていた。正樹は早苗にそっくりな彩花にも一緒に話をしないかと誘った。彩花は妹の理沙も連れて来るからと言ってキッチンへ戻っていった。・・・・・・途切れた話の続きを正樹がした。

「そうです。その芋焼酎です。川平太郎さんがこちらで新しい品種の紫芋をみつけて、それで焼酎を作ったところ大当たりしたものです。僕らは商売のことを考える時、どうしても日本とのつながりを考えてしまいますよね。でも、太郎さんは日本を抜きにして、こちらで成功した人です。長い目で見たらどうでしょう。ここの村人のことを本当に考えたら、為替の変動や両国間の関係に左右されないこの国の中だけで生活の道を切り開いた方が良いのかもしれませんね。」
 岡田拓実は正樹の話を聞きながら笑顔でテーブルの上にひろげられた料理に箸をつけていた。

 しばらくすると、理沙と彩花がエプロン姿でやってきた。岡田と正樹はテーブルを挟んで向かい合って座っている。二人はそのテーブルの両脇にわかれて座った。覚悟はしていた正樹だったが、早苗とそっくりな彩花が隣に座り、さすがに平常心ではいられなかった。彩花の登場は正樹の心を大きく揺さぶり始めていた。理沙が岡田拓実に不思議なことを言い始めた。
「おじいちゃん、さっきね、お姉ちゃんが変なことを言っていたのよ。正樹さんと会ったのは今日が初めてなのに、前にも会ったような気がするんだって。」
 瞬間ではあったが、理沙のその一言でもって、その場にいた者はみな凍りついた感覚に陥っていた。岡田が彩花に聞いた。
「どういうことなんだ。」
 彩花は恥ずかしそうに言った。
「それが、自分でもよく分からないのよ。でも、どこかで正樹さんに会ったような気がして、・・・・・・とても不思議なの、よくあるじゃない、前にもこんな風景があったなんて、そんな感じが、初めて来た場所なのに前にもここに来たことがあるような錯覚が、・・・さっきから、ずうっとそんな感覚が続いているの。」
 理沙が茶化した。
「デージャーブーか、・・・もしかしたら早苗さんの霊がお姉ちゃんに乗り移ったとか?」
 岡田が理沙のことを叱りつけた。
「こら、理沙、馬鹿な事を言うものじゃない。失礼だぞ!・・・・・・正樹さん、ごめんなさいね。気にせんで下さい。」
「いや、いいんですよ。僕の方こそ、彩花さんに謝らないといけないのかもしれない。あまりにも亡くなった早苗とよく似ているものだから、もしかすると、おかしな目で彩花さんのことを見てしまっていたのかもしれない。正直に言うと、彩花さんは、ただ早苗に似ているというだけでなく、仕草もまったく早苗と同じなんです。だから、僕もさっきから早苗が戻ってきたような気がして、・・・そんなことがあるわけがないのにね。すみません。」
「いいんですよ。」
「彩花さん、趣味は何か?」
「旅行かな、あたしの好きな場所は京都、何度行っても飽きないわね。京都の街を歩くのが大好きです。」
 驚きを隠せない正樹であった。恐る恐る次の質問をしてみた。
「京都の、・・・・・・京都のどこがお好きですか?」
「そうね、一番好きな場所は、詩仙堂、・・・・・・そう詩仙堂だわ。きっと、正樹さんは知らないわよね、小さいなお庭だから。」
 正樹は真っ青になり完全に言葉を失ってしまった。早苗だ、今、隣に座っているのは早苗にまちがいない、それは偶然にしてはありえないことだった。早苗が一番愛してやまなかったお庭の名前を彩花が言ったからだ。素早く理沙が正樹の心の変化に気がついた。
「どうしたの、正樹さん。お顔が真っ青だわ。」
「いえ、大丈夫です。・・・・・・いや、ちょっと飲み過ぎたのかもしれないな。」

 正樹はまだ早苗が元気だった頃ことを思い出していた。二人で砂浜に寝転がり、冗談で死後の世界について話し合ったことがあった。
「ねえ、もし、どちらかが先に死んでしまったら、死後の世界がどういうものなのか、知らせに来ない。」
「いいよ。化けて出てくるわけだね。」
「そうよ。」
「でも、何か合図を決めておかないといけないな。二人にしか分からない秘密の合図をさ・・・、そうしないと他の悪い霊に騙されちゃうからね。」
「そうね、じゃあ、何にしましょうか?」
「早苗ちゃんの一番好きな場所はどこ?」
「そうね、京都の詩仙堂かしら。正樹さんは?」
「そうだな、僕は今、二人が寝転がっているホワイトサンド・ビーチかな。」
「この浜じゃあ、みんなが好きだもの、念のために、もう一つ、二人にしか分からない合言葉を決めておかないとダメよ。」
「じゃあ、二人に共通した事柄がいいな。」
「分かったわ、二人とも、とてもつらい失恋しているから、失恋にしましょう。」
「失恋ね、・・・よし、それにしよう。でも、どうやってその話を確認するんだい?」
「そうね、・・・・・・わかんないや。まあ、いいっか、そんなこと。」
 そこで二人の話は途切れてしまった。

 理沙の言葉で正樹は再び現実に戻された。理沙はしばらく東京の実家に帰っていたから、岡田が急にやせ細ってしまったことにやはり気がついていた。
「おじいちゃん、ちょっと見ないうちにスマートになったわね。何かダイエットでもしたの?」
「ああ、お前が留守の間にな、ちょっと調べたいことがあってな、村中を歩き回っていたからね。少し痩せたかもしれないな。」
「そうなんだ。」
 彩花はいつも岡田のそばにいたから祖父の体の変化には気がつかなかった。
「そう言われてみると、おじいちゃん、痩せたわね。」
 正樹が岡田に助け舟を出した。
「いや、人間、食べ過ぎ、肥り過ぎは体には良くありませんよ。バランスのとれた食事が大切ですね。アスリートやスポーツ選手は別として、普通の生活をしている分には小食で十分なんですよ。そうね、岡田さんくらいの細さがベストじゃないのかな。」
 医者の正樹の言葉で理沙と彩花は安心した様子だった。その夜は月がくっきりと四人の頭上に輝いていた。正樹がぽつりと言った。
「お月さんはさびしくないのですかね。ああやって、ぽつんと一人ぼっちだ。僕らのことを見守りながら照らしてくれているんだろうけれど、僕は月を見る度に人も孤独なんだと知らされますよ。」
 岡田はさっき正樹に言ったことをまた繰り返した。
「人間、生まれてくる時も死ぬ時も独りなんだよ。自分は孤独だと嘆いてばかりいてはだめだよ。人間は所詮、孤独であることを承知した上でしっかりと最後まで生き抜いていかなくてはいけない。特に、これからの日本では高齢化がどんどん進んでいって、一人ぼっちのお年寄りが激増するだろう。誰にも気づかれずに孤独死する老人がたくさん出てくる。例え、一人であっても、あとどれくらい生きられるのかと悩んでばかりいてはだめだよ。どんなことだっていいんだ、小さな希望をみつけて毎日を感謝しながら生き続けることが大切なんだよ。」
 そう言いきってから、岡田はゆっくりと立ち上がり、正樹に言った。
「私はこれで失礼して寝させてもらいますよ。あとは若い者だけで・・・・・・。」
 少し飲み過ぎたようだったが、岡田の足どりはまだしっかりしていた。理沙が付き添って、寝室へ岡田を連れっていった。正樹は不思議なことに、その夜はいくら飲んでも酔うことがなかった。彩花と正樹が二人っきりになった。彼女が言った。
「正樹さんは失恋したことがおありですか?」
 「失恋」という言葉を聞き、正樹が動揺しないはずはなかった。早苗との秘密の合言葉だったからだ。早苗だ!目の前にいる彩花は早苗に間違いないと正樹はおもった。いっこうに返事をしない正樹に向って、彩花が再び言った。
「ごめんなさいね。失礼なことを聞いちゃったみたいね。」
「いえ、いいんですよ。僕は二度、失恋しましたよ。二度とも死別しました。」
「あたしってバカね、何でそんなことを突然に聞いちゃったのかしら、どうかしているわ。本当にごめんなさいね。許して下さい。」
「いいんですよ。早苗さん。」
「え?・・・・・・・。」
「失礼。・・・・・・僕はちっとも気にしていませんから。彩花さんはどうですか。失恋したことはおありですか?」
「はい、あたしも正樹さんと同じように二回も失恋しましたのよ。でも、どちらも片想い、恋と呼ぶには恥ずかしいものでしたけれど。」
「失恋の失という字ですがね、よく見ると人ノ土と書きますよね。人は命を失って、最後には土に戻る。それから失恋という字の恋の字ですがね、無理をして亦(また)と読めば、また心を失って孤独になるとも解釈できますよね。さっき、岡田さんが言っていましたけれど、人は結局はみんな孤独なんですよ。家族がいればまだ救われますが、家族もいないで、しかも近所の人たちからも社会からも厄介がられて生きていくのはとても寂しいものですよ。自分の存在を忘れられるだけではなくて、みんなから嫌がられて暮らすわけですからね。」
「もし、正樹さんがそんな町の厄介者として扱われるようになったら、どうしますか?小学生や中学生のいじめのような目にあったらどうしますか?」
「そうだな、僕だったら、朝早く起きて町中のゴミを拾って歩くでしょうね。誰も見ていなくてもいいんだ。それは小さなことだけれど、自分も何かみんなの為に役に立っているとおもうだけで心は救われますからね。でも、みんなから無視されて生きる続けることは本当に孤独でしょうね。例えば、足腰が動かなくなって、社会のために何もしてあげることが出来なくなった時の苦しみは計り知れないでしょうね。」
「では、まったくの寝たきりの状態に正樹さんがなったらどうしますか?」
「それはきびしい質問だね。岡田さんも言っていたけれど、小さな希望を見つけるようにするね。どんなことだっていいんだ。窓の外の植物を見て、その花が咲くのを待つことだっていいしね。」
「理沙がボラカイ島で日比混血児にたくさん会ったと言っていましたが、島には孤児院か何かあるのですか?」
「いや、孤児院ではありませんよ。彼らは自分の意志で共同生活をしているだけですからね。彼らは以前はマニラの大都会の裏道で孤独な暮らしをしていた連中です。無責任な日本人の父親にも・・・、それだけじゃあない、完全に母親や社会からも無視されてきた子供たちです。だから誰よりも人は孤独だということを知っている子どもたちです。」

 理沙がテーブルに戻って来た。
「おじいちゃん、何だか苦しそう。ベッドに横になる時もすごくゆっくりだったわ。それに陰から見ていたんだけれど、何だか辛そうだった。どこか痛いのかしら?」
 彩花が大きな目を見開いて正樹に言った。
「おじいちゃん、さっき正樹さんに何か言っていませんでした?お医者様の正樹さんに、どこか体が痛いとか・・・・・・何か?体の不調を相談していませんでしたか?」
 正樹は岡田がもう少しだけ待って下さいと言った言葉をおもいだいしていた。
「いえ、何も言っていませんでしたよ。」
「そうですか。」

 夜とはいっても、ここは南国で30度近くはある。理沙は日本酒に氷を入れて、正樹にそれを勧めた。
「正樹さん、どうぞ。・・・・・・あの、少しここにいてくれませんか?あたし、おじいちゃんのことが心配だわ。」
 彩花は即座に言った。
「まあ、理沙ったら、勝手なこと言って、無理よ、正樹さんは忙しい人なんだから。」
 何も予定のない正樹であった。
「いえ、僕なら大丈夫です。しばらくこの島で勉強しようとおもってやって来たんですから、お邪魔でなければ、しばらくこちらにおいてくれませんか。」
 その言葉を聞いて、彩花の表情が明るくなった。
「邪魔だなんて、どうぞ、お好きなだけここにいて下さい。お願いします。」
「ありがとう。」
 まんまるの月が三人を照らしていた。都会では決して味わえない満点の星、そのきらめきを仰ぎながら三人は夜遅くまで話し合った。まっさきに睡魔に襲われたのは理沙だった。二人を残してさっさと寝室へ入ってしまった。また二人っきりになってしまった。正樹は前に早苗が嬉しそうに、それも自慢げに語ってくれたことを思い出した。それを彩花にぶつけてみた。
「さっき京都のお庭がお好きだと言っていましたが、竜安寺の石庭についてはどんな感想をお持ちですか?」
「竜安寺の石庭、・・・・・・ぽつんぽつんと石が置いてあるだけのお庭ですね。」
「そうです。十五個の石が置いてあるだけのお庭です。」
 彩花は突然突きつけられた正樹の質問に迷いはなかった。それは本当に不思議な感覚だった。どこかで聞いた訳でもないのに自然と口から禅の教えが出てきたのだった。
「その十五個の石ですけれど、あのお庭の縁側からはどこからみても十五個全部の石が見えないように設計されているんですよ。つまり全部が見えなくてもよろしい、欲張るなということですね。あまりうまく説明はできませんけれど、自分がこれまでに得たこと、何でもよろしいのですけれど、小さなこと一つにでも満足して感謝することが大切だと教えているような気がします。こうして自分は四十歳まで生きることが出来きました感謝します。今日もおいしい食事がいただけました、本当にありがとう。今日も家族みんなが健康であることに感謝しますとか、自分が受けた恩恵に感謝して満足することを知りなさいと竜安寺のお庭は語ってくれているとおもいます。」
「禅でいう知足の境地ですね。先のことを悲観して悩むことなく生きる最高の方法ですね。もっと、あれも欲しいこれもしたいと欲張って生きることよりも、ここまでこうして生きることができたと感謝することが大事なんですね。・・・・・・それ、誰からお聞きになりましたか?・・・・・・何かの本でお読みになったとか?」
「いえ、何も。・・・・・・今、ふと思いついただけです。ごめんなさいね。偉そうなことを言っちゃって。」
「そうですか。・・・・・・では、彩花さんはボンボンという人物はご存じですか?」
「いえ、知りません。・・・・・・どうしてですか?」
「実はね、早苗が以前、今、彩花さんが言ったと同じことを話してくれたことがあります。彼女がね、ボンボンと茂木さんと三人で京都を旅した時の話を何度もしてくれましてね、
ただ石ころを置いただけの、あの殺風景なお庭を初めて見て、ボンボンがね、十五個全部が見えなくてもいいんだと言い出したと、私に何度も嬉しそうに話して聞かせてくれたんです。」
「そうですか。それで、そのボンボンというお方は今どこにいらっしますの?」
「ボラカイ島の丘の上です。早苗の隣の墓で茂木さんと一緒にボンボンも眠っていますよ。」
「そうでしたか。」
 そこでその夜は眠ることになった。テーブルの上を二人で片づけて流し場へ運んだ。彩花は洗い物を続けたが、正樹は来客用の寝室に入った。ベッドの上に横になってもいろいろな感情が渦巻いていた。彩花と出会えたことは奇跡と言っても過言ではなかった。すべての偶然が確かに彩花とつながっていた。その夜はいつまでたっても眠りにつくことが出来なかった。

 正樹のネグロス島での生活はまるで夢のようだった。何の事件も起こらずに平和な日々がたんたんと続いた。ここはあの幻の竜宮城なのだろうか、すべてを忘れ、気がついてみると一か月の時が流れていた。夕食の後、岡田の爺さんと話すことがすこぶる面白くて、正樹をこの島に引き留めていた。いや、一番の理由はやはり彩花の存在だったのかもしれない。



 

October 26 [Sun], 2008, 13:23




 樫村と理沙の歓迎会は深夜にまでおよんだ。病で天国へ行ってしまった早苗にそっくりな理沙の姉がテレビの画面に映し出されてからは、話題は早苗とその理沙の姉の彩花のことばかりになった。早苗の親友だったナミが言った。

「世の中には自分とよく似た人が何人かいると言われているけれど、本当だったんだ。理沙ちゃんのお姉さん、こんな言い方をしてごめんなさいね、気味が悪いくらい早苗とよく似ているわ。ねえ、正樹さん、正樹さんもそうおもうでしょう。」

正樹は揺れ動く心とは裏腹に平静を装った。

「ああ、よく似ている。でも、早苗は早苗で、理沙ちゃんのお姉さんは理沙ちゃんのお姉さんだよ。まったくの別人さ。」

「正樹さんは彩花さんに会ってみたくない? あたしは、会ってみたいな。双子だってあんなには似ていないわよ。ドラマじゃないけれど、もしかしたら早苗と理沙ちゃんのお姉さんの彩花さんは双子だったりして、そうでないとしても遠い昔に、先祖が一緒ということもあるわよ。早苗は長野の戸隠の生まれ。理沙ちゃんたちのお生まれは?」

 少し飲みすぎてしまった理沙が、ハッと我に返り、ナミの質問に答えた。

「東京です。東京生まれの東京育ちです。長野には親戚は一人もおりませんし、戸隠へは一度も行ったことはありません。」

「それじゃあ、違うか。早苗とは縁がなさそうね。でも、ボラカイ島の魔法が正樹さんと理沙ちゃんを引き合わせた。そして、彩花さんも・・・・・・。」

 正樹が話を逸らせた。ネグロス島にいる理沙と彩花のおじいちゃんについてまた話し出した。

「理沙ちゃんのおじいさんは退職してから、単身、ネグロス島に渡られて農業指導をされている。その話を聞いて、僕は理沙ちゃんのおじいさんにとても会ってみたくなりました。理沙ちゃんにしても、お姉さんの彩花さんにしても、そのおじいさんのそばにいたいと望んでいらっしゃるのだから、きっと、すばらしいおじいちゃんに違いない。ネグロス島へ行ってみたくなりました。」

「ほら、やっぱり。正樹さんは理沙ちゃんのおじいさんじゃなくて、彩花さんに会ってみたいんだ。まあ、いいか。・・・ネグロス島って、砂糖の島でしょう。だけど最近では飢餓ですっかり有名になってしまった島でしょう。」

 ナミがそう言ってから、樫村に新しいビールを渡した。正樹が話を続けた。

「そうだよ。理沙ちゃんのおじいさんは戦争をあの島で体験されている。ネグロス島の人々が砂糖の価格が暴落して危機に陥ったと知ると、退職金を理沙ちゃんのおばあちゃんに半分残して一人でネグロス島で農園を開いたそうですよ。つらい体験をした人にしか、他の人の悲しみや苦しみは理解できないものです。苦しい体験はまちがいなく人を成長させてくれますからね。理沙ちゃんのおじいさんは、きっとすばらしい人にちがいないと僕はおもいますよ。会ってお話をたくさん聞きたいですね。」

 さっきから黙って飲み続けていた樫村が口を開いた。

「確かに、こんなにかわいらしいお嬢さんたちが、何も不自由しない東京を離れてさ、何もないネグロス島で暮らしているんだから、理沙ちゃんたちのおじいさんはよっぽどの人だな。魅力的な人に違いないな。それに年寄りを大切にしないのが現代の若者たちの流行なんだろう。だけど、理沙ちゃんたちは偉いな。本当に偉い!」

 正樹が思い出したように言った。

「最近行われた世界的なアンケート調査なんだけれど、お年寄りを大切にする国のランキングなんだ。フィリピンが堂々のトップで二番目が韓国でしたよ。日本は残念ながら十位以内には入っていなかったようです。この調査結果がなくても、僕は前々からフィリピンの人たちは自分の親やお年寄りを大切にするやさしい国民だということは感じていました。日本人がどんなに偉そうなことを言ったって、この国民性には敵いませんよ。それに最近では、老人大国になってしまった日本ではお年寄りの介護をする若者が足りなくて、隣国に助けを求めているのが現実ですものね。」

 飲み過ぎて真っ赤な顔をしたナミの夫の佐藤も口をはさんだ。

「老人の経験と智慧を大切にしない国はいつか衰退しますよ。若者は時として老人の体験と智慧を学ぶべきだ。子供もお年寄りも一緒に暮らすのが東洋のすぐれた伝統だったはずなんだが、日本はどうなってしまったんだろうか。悲しいかぎりだ。」

 正樹が佐藤の意見に同感した。

「確かにその通り。戦争を体験した者にしか、その悲惨さを語り継ぐことは出来ませんものね。元来、戦いが好きな人間を、誰かがさ、戦争をさせないようにしなくてはならないからね。ストッパー役が必要なんだ。その役目ができるのは老人しかいないよ。」



 その時、静まりかえった岬の豪邸の庭に一台のトライシクルが入ってきた。中古のオートバイのエンジン音は正樹たちが話をしているリビングの中にまで響いた。次の瞬間、リビングの扉が開き、白衣を着た医師のヨシオが飛び込んで来た。

「正樹先生、急病人だ。僕では無理だ。ヘリを頼んで下さい。」

 正樹がまず立ち上がって、ヨシオと一言二言、話をして、それからゆっくり振り返って、佐藤の方を向いて言った。

「佐藤さん、すみませんが署長に無線でヘリを飛ばしてくれるように頼んでくれませんか。ケソン市の病院へ患者さんを運びたいので、お願いします。」

 佐藤が迅速に動いた。

「承知、ヘリはすぐに手配しましょう。他に何か?」

「いえ、それだけで結構です。」

ヨシオと正樹は庭に待たせてあったトライシクルに飛び乗り、闇夜の中に消えて行ってしまった。



樫村直人が言った。

「何だ、あいつ、医者かよ。ただのコンビニのおやじだとばかりおもっていたのに、俺の一番嫌いな医者だったとはな。」

 ナミが答えた。

「正樹さんはここの子供たちの健康管理や島の人たちの診療を無料で引き受けている立派なお医者様ですよ。」

 樫村が吐き捨てるように言い返した。

「俺のお袋はな、手術で殺されたんだ。だから医者はみんな信用できんよ。」

 その言葉を聞いて、みんな黙ってしまった。重くて暗い空気がしばらく続いた。それを吹き飛ばしたのは、介護の勉強をしてきた理沙だった。

「樫村さんのお気持ちはよく分かりますわ。あたしも、もし樫村さんと同じように自分の母を手術で失えば、医学に対して不信感を持ちますもの。きっと、あたしもすごくお医者様を憎むことでしょうね。でもね、ネグロス島のおじいちゃんのところにいて、少しずつ分かってきたことがあるのです。日本では考えられなかったことでしたけれど、たくさんの人々があたしたちの目の前で死んでいくんです。それでね、おじいちゃんと村の人たちの話を聞いていて多くのことを感じました。人は愛する人の死に直面して、やっと愛の深さを知るんだなってね。おじいちゃんはよく聖書の言葉を引用して村人と話をしていますわ。私たちの身体は病にもかかるし、とても壊れやすい土の器のようなものだって。日本では人が死ぬと火葬場へ運んで行って、すぐに火葬にしてしまいますでしょう。こちらではコンクリートの箱の中へそのまま入れてしまいますのよ。地方によっても違いますけれど、火葬はしませんね。日本だって、以前は土葬の習慣はあったそうです。現代では先祖代々のお墓に遺骨は入れずに山や海に散骨したり、遺骨を固めて置物にしたり、ペンダントにして肌身離さず持っている人もいますよね。ビルの中に回転式の共同のマンション墓地もあったりして、時代とともに葬儀の形式も墓地も多種多様化してきていますけれど、でもやはり、人はみんな土に還るんじゃないかしら。地球に還ると言った方がいいのかな。おじいちゃんは、人にはみんな定められた定命があるんだって言っていたわ。死のうとおもっても、定められた命が尽きるまでは人は死ねないものだって、結局、私たちは毎日を一生懸命に生きていくしかないそうです。明日、いや事故で何時間後に死ぬことだってあるんですからね。だから、今現在をしっかりと生きるしかないんだって。大切なことは壊れやすい土の器ではなくて、そのもろい土の器の中に入れるものなんだって。きれいな澄んだ水なら、器が壊れても、地面にしみ込んで、その水によって新しい芽が生えてくるでしょう。受け継がれていくものは容器ではなくて、その中のものだけなんです。」

 樫村が理沙に質問した。

「理沙ちゃんは天国とか極楽があるとおもうかね? 死んだ後の世界さ、そんなものがあるとおもいますか?」

「死後の世界があるのかないのかは、死んだ人にしか分からないものでしょう。生きている私たちには分からないことだわ。それだったら、あるとおもった方が素敵じゃない。」

 ナミが言った。

「確かに、医療の進歩は倫理的に多くの問題を引き起こしているわね。今までは、当り前の死だったものが、そうでなくなってしまっているもの。医療は厳粛であるはずの死を時として無駄にしてしまうこともありますものね。最新鋭の機器を備えた病院は余計なことをやりすぎてしまうこともありますものね。」



 岬の豪邸の外は熱帯特有のスコールが襲っているようで、ものすごい雨音がしていた。その場にいるものは皆、さっき出て言ったヨシオと正樹たちのことが気にかかった。医者をあんなに嫌っている樫村直人でさえも正樹たちのことが心配になっていた。もう、誰もアルコールを口にする者はいなかった。重たい空気が広いリビングを支配していた。



 一時間、いやもう少し経った頃だった。豪邸の中庭に再びトライシクルの音が響きだした。正樹が患者さんと付き添いの母親を連れて戻って来た。正樹とトライシクルのドライバーによって豪邸の中に運び込まれてきたのは中年の男性だった。激しい痛みが続いているらしく、その表情は苦しみに満ちていた。連れ添って来た母親はもう腰が曲がってしまっていて、80歳をとっくの昔に超えているように誰の目にも映った。ヘリはすでにマニラを飛び立ったという連絡が入っていた。母親は涙声で正樹に話しかけていた。

「こんなにやさしい子がどうしてこんな目にあうんでしょうね。」

 正樹が言った。

「おかあさん、まもなくヘリが到着しますからね。」

しかし、事態はかなり深刻だった。ソファーの上に寝かされた患者の心臓が停止したことに正樹はすぐに気がついた。

「樫村、ちょっと手伝ってくれんか。」

「ああ、いいよ。」

「足を持ってくれんか、二人で患者さんを床におろすから。」

「わかった。」

「俺が人工呼吸をするから、その合間に心臓を両手で強く押してくれないか。

ナミさん、医務室から電気ショックのあの装置をお願いします。」

「分かったわ、今、とってきます。」

 正樹の言葉があまりにも真剣で気迫がこもっていたので、医者嫌いの樫村はそれを拒否することは出来なかった。二人は汗びっしょりになりながら、心臓マッサージと人口呼吸を交互に何度もおこなった。電気ショックを与えても、再び、心臓は動くことはなかった。その場にいたすべての人々の願いも空しく、その患者さんは永遠の眠りについてしまった。泣き崩れる母親が何度も同じことを繰り返していた。

「何で、こんなにやさしい息子が、こんなに苦しんで死ななければならないのかしら。先生、どうしてなんですか。」

 誰もこの母親をなぐさめる言葉など持ちあわせてはいなかった。正樹は彼女の息子を抱き上げてソファーの上に寝かせた。たった一つだけ救われたことがあった。それはさっきまであんなに苦しんでいた表情が安らかな笑みにかわっていたことだった。母親はその顔を何度もさすりながら涙を流していた。

「この子は、わたしたち家族のために何度も出稼ぎに行ってくれたんですよ。熱い熱い砂漠の国へね。仕事がない時だって、いつだって、みんなのために尽くしてくれたやさしい子なんだ。そんな優しい子がどうしてこんなに苦しいおもいをしなくてはいけないのですか。何で、あたしより先に行くんだね。あたしが代わってやりたかったよ。・・・・・・。」

 どんな言葉もきっとこの母親の慰めにはならないだろう。正樹は年老いた母親の肩をしっかりと抱きしめて言った。

「あなたの息子さんはみんなの苦しみをぜんぶ背負って召されたんですよ。それは選ばれた本当にやさしい人にしかできないことなんです。選ばれし者にしか許されていないことなんですよ。立派な息子さんでしたね。見てごらんなさい、息子さんの顔を、安らかに眠っていますよ。もう苦しんでなんかいませんよ。・・・本当にお悔やみ申し上げます。」

 その正樹の言葉を聞いて、母親はもう返事をしてくれない息子にむかって話しかけていた。

「あんたはさ、あのジーザス・クライストと同じだよ。お礼を言うよ。ありがとう。みんあ、どれだけ助かったことか、あんたがいたから、みんな生きてこれたんだ。みんなの苦しみを、あんたはひとりで・・・・・・。ありがとうよ。・・・どうか、ゆっくり休んでおくれ。あんたは、あたしの自慢の息子さ、・・・・・・。」



 ナミも理沙も涙が溢れていた。樫村の目も赤かったが、小さな声で理沙に聞いた。

「ジーザス・クライストって誰だ?」

 理沙が小さな声で答えた。

「キリストさんですよ。」

「十字架のキリストさんかね。」

「ええ、そうよ。」



 ヘリコプターが岬の豪邸のヘリポートに到着した。正樹はすぐに外に飛び出して、パイロットに事情を説明した。ヘリはエンジンを切らずに、そのまま飛び去って行った。それを聞いていたトライシクルのドライバーが帰ろうとしたので、正樹はそれを止めた。

「悪いがもう少しそこにいてくれ。親子を家まで送ってやってくれないか。あっ、その前に警察へ行ってくれるかね。ちょっと待っていてくれ。」

リビングに戻った正樹はすぐに最上階の佐藤の書斎へ行き、今度は無線で患者の到着を待っているケソン市の病院へ連絡を入れた。簡単だったが丁寧に礼を述べて無線を切った。次に豪邸の庭の手入れをお願いしているスタッフに外で待機しているトライシクルで島の警察に行って巡査を連れてくるように指示を出した。



 大切な息子を失ってしまった母親は自分の膝の上にその息子の頭をのせながら、まだ温かい息子の顔をさすっていた。もう、さっきのように泣き叫んではいなかった。樫村直人はじっと目をつぶって溢れ出す感情を抑えている様子だった。正樹が日本語でそっと言った。

「死因は解剖してみないと分かりませんが、たぶん、樫村さんのお母様と同じ大動脈解離でしょう。心臓に血液が流れこんでショック死したと考えられます。ケソン市の病院でも、この時間に、この大手術ができる医者がいたかどうか疑問ですね。どんなに医学が進歩しても死を征服することは出来ませんよ。肉体は老化し、時には病気にもなります。いずれは朽ち果てる運命にあります。それが人の定めなのですからね。命にはかぎりがあるわけで、そのかぎられた命をどう生きるかが、人に与えられた勤めなのかもしれませんね。重要なことは身体よりも健やかな心を保ち続けることですよ。医者の力には限界があります。」

 理沙が言った。

「正樹さんは、うちのおじいちゃんと同じだわ。同じことをおじいちゃんも言っていたわ。」

「僕はただ、当り前のことを言っただけですよ。」



 樫村直人は考えていた。さっき心臓マッサージをしていた自分はある意味、自分の母親を殺した医者と同じではないのかと、・・・。俺は確かに命を救おうとしていた。俺は医者ではないが、あの医者と同じことをしていたのかもしれない。・・・そんなことを無意識のうちに感じていた。ボラカイ島の魔法が樫村直人に効き始めていた。



 まだ暗いが、夜明けは確実に近づいていた。正樹が理沙を誘った。

「理沙ちゃん、ちょっと海へ出てみませんか?」

「こんな時間にですか?」

「出ると言っても、舟で沖へ出るわけではありませんよ。少し浜辺を散歩してみませんか。」

「ええ、喜んで。」

 二人は岬の豪邸のテラスから階段を降りて浜辺へ向かった。

「けっこう月の光だけでも歩けるでしょう。」

「ええ。」

 理沙が振り返って階段の上を見上げて言った。

「でも大きなお屋敷ですね。プライベート・ビーチまであるんだ。びっくりですね。」

「そうでしょう。日本で生まれ育った人には、まったく想像もできない別世界ですよ。」

二人は椰子の木の下にある流木で作られたベンチに腰をおろした。理沙が言った。

「上のお屋敷にいる子どもたちはみんな日比混血児なんですか?」

「ああ、そうですよ。マニラの裏道に捨てられていた子供たちです。以前は常時500人くらいはいましたけれど、今はだいぶ少なくなりました。現在では50人から70人の間で数はいったりきたりしていますね。成人するとみんなこの家を巣立って行きますからね。だから、ここの家で育った子供たちはね、すでに世界中に散らばっていますよ。そして、その中で成功している者たちはこの家を裏から支えてくれています。経済的にね。」

「すごいですね。」

「大きな葬儀がある時には本当に驚きますよ。訃報を聞きつけて世界中からこの家の出身者がこの岬の家に集結するんです。家の中に入りきらずにね、中庭に大きなテントが幾つも張られるんですよ。ええと数だけれど、何万人いるんだろうか?今度、名簿で調べてみます。」

「ええ、そんなにマニラの裏道に日本人と血のつながった子供が捨てられていたんですか?」

「ほんの一部にすぎませんよ。実際にはもっともっといるんじゃないのかな。」



 正樹は流木のベンチから立ち上って言った。

「ちょっと、ホワイトサンド・ビーチへ行ってみましょうか。来る時にヘリから見えた、あの白くて長い砂浜です。」

「ええ、長さはどのくらいあるのですか?」

「4キロメートルあります。真っ白な砂浜が4キロメートルも続いているんですよ。」

「素敵ですね。」

 とびっきりの笑顔を理沙は見せた。二人はゆっくりと砂浜を歩いた。

「理沙ちゃんと同じように、理沙ちゃんのおじいさんもいつもニコニコしていませんか?」

「ええ、そうよ。その通りですよ。うちのおじいちゃんはいつも笑顔だわ。」

「それは素晴らしいことですよ。なごやかな顔を他人に施す。誰に対しても笑顔で接すること。すばらしい笑顔を交わせば、そこには争い事は起こりませんからね。それからもう一つ、人を惹きつける一番の方法はどんな時でも笑顔でいきいきしていることです。年をとっても、理沙ちゃんのおじいさんのように生きている人はボケたりはしませんよ。」

「あたしたちね、おじいちゃんのそばにいると、何と言ったらいいのかしら、生きているという実感がありますのよ。」

「そうでしょう。分かるな。僕はますます理沙ちゃんたちのおじいさんに会ってみたくなりました。」

 理沙は正樹の本心をすでに見抜いていた。

「うちのお姉さん、そんなに早苗さんに似ていますの?」

「ああ、似ている。正直に言うと、テレビで君のお姉さんを見てから、僕の心臓は速くなってしまいましたよ。でも、その反面、彩花さんは早苗とは違う人だと、別人なんだと自分に言い聞かせています。早苗と僕はね、お互いの引きずってきた悲しい過去を、二人で半分にしてきたんです。それから喜びは、二人で二倍にしてきました。」

 正樹は少し瞼を閉じて、また話しだした。

「早苗は死ぬ前にありがとうと言ってくれました。その一言は僕にとっては救いでしたよ。生まれてきて良かった。あなたに会えて本当に良かった。感謝しますと言って去って行きました。ありがとうの一言は残された者にとってどんなに助かることか、悲しみを引きずらなくてすみますからね。あとは時の癒しを待てばいいのです。忘れるという特技を人は兼ね備えていますからね。」

 理沙が言った。

「なんか、正樹さんって、うちのおじいちゃんみたい。さっきから、おじいちゃんとおんなじことばかり言ってるんだもの。きっと真剣に命と向かい合っている人たちには共通することが多いんですね。それに感性の豊かな人は、過去に何度も涙を流していて、苦しみを知っている人じゃないかしら。さっき、正樹さん、早苗さんと悲しみを分け合ったと言っていたでしょう。」

「偉そうな事を言ってごめんなさいね。確かに、苦難逆境は人生を豊かにしてくれます。より生き甲斐を感じさせてくれるものです。人の幸せって、つらいことに出合うことが少ないとか、ないとかではなくて、むしろ難題や苦難に立ち向かってそれに打ち勝つことじゃないのかな。」



 空は明るくなりかけていた。浜辺を掃除している島の人間はみんな正樹の知り合いだ。すれ違う度に「先生、おはようございます。」の声がかかった。正樹も軽く会釈をしてそれに答えていた。理沙は履いていた靴を脱いで、それを両手にぶら下げて歩きだした。

「裸足の方が歩きやすいわね。それにこっちのほうが気持ちがいいです。」

「僕も島にいるときはビーチ・サンダルか裸足ですよ。滅多に靴など履きません。」

「そうだ、さっき、樫村さん、複雑な表情をされていましたね。お医者様が嫌いな人でしょう。正樹さんがお医者様だと分かると、急に黙りこんだりして、表情が暗くなりましたのよ。でも、正樹さんと一緒に心臓マッサージをされているときの樫村さんの顔はとてもいきいきしていて真剣でした。」

「彼、何か感じてくれればいいんですがね。このボラカイ島に来て、彼の気持ちが少しでも癒されればよいのですが。」

「そうね、お母様を手術されたお医者様を憎んでいても仕方がないわよね。・・・・・・でも、もし、あたしが樫村さんと同じ立場だったら、どうかな?・・・やはりお医者様を嫌いになるかもしれませんね。」

「確かに、外科医は成功率の低い手術と分かっていても、また自分のもっている以上の技術を要求されたとしても、やはりメスをとってみたいとおもうものです。患者さんの犠牲があって、次第に外科医はその腕を上げていくものです。それは否定できません。だから、尚更、医者は病んだ臓器ではなくて人間に深い情けがなければいけない。絶対に医者が忘れてはならないことは手術台にいるのは病んだ患部、臓器ではなくて、人だということです。生きた人間だということを忘れてはいけない。驕ってはいけない。どんなに医学が進歩しても医者は死を征服することなどできないのですからね。」

 二人は市場の近くまで来ていた。正樹が市場の近くにある自分の診療所に理沙を誘った。

「ちょっと、うちの診療所に寄っていきますか?」

「ええ、ぜひ。」

 二人は浜辺から上がりビーチ・ロードへ出て、朝の市場を抜けた。すでに市場は人がいっぱいだった。ブロックだけで簡単につくられた診療所につくと医師のヨシオが待合室の長椅子で眠っていた。奥の正樹の部屋にもタカオ医師が床に敷物を敷いて眠っていた。そこには理沙と正樹の居場所がなく、二人は診療所をすぐに離れた。

「ごめんなさい。二人ともよく眠っているから、起こすのはかわいそうだ。」

「いいんですよ。昨夜のあの患者さんで、きっと疲れているんだわ。」

「あの二人、岬の家の出身なんですよ。ストリート・チルドレンだったんです。」

「そうなんですか。」

「他にも、うちの診療所には六人の医師がいます。みんな岬の家からきた者たちばかりです。看護婦も五人います。この子たちもみな日比混血児です。」

「まあ。そんなに。」

「僕が日本に出稼ぎに行くのはね、みんなの生活費を稼ぐためですよ。」

「えー、でも、診療所でしょう。診察代とか、保険料とか、ないんですか?」

「うちの診療所はね、自己申告制でね、患者さんがお金がある時にね、診療所の入口に設置してある診療箱に入れてもらっています。」

「でも、それじゃあ、・・・・・・。その診療箱にはお金が入っているんですか?」

「入っていませんね。みんな入れたくても入れられないのが現実ですよ。」



 正樹と理沙は軽く朝食をとってから、教会と警察へ寄って、早苗と樫村の母親の遺骨を共同墓地に納骨する準備をしてから、トライシクルで岬の家へ戻った。



 丘の上の共同墓地で納骨式が始まったのは正午過ぎだった。警官と神父様が立ち会って、樫村の母親は茂木さんとボンボンが眠っている墓へ、早苗はディーンの眠っている墓へそれぞれ入れられた。海から吹き上がってくる風がやさしかった。丘の上の共同墓地はとても清々しい場所で、見晴らしも良く、そこは正樹の一番好きな場所だった。



納骨を終え、樫村が正樹に言った。

「ここはいいな。きっと俺のお袋は喜んでいるぜ。俺も死んだらここに入りたいな。」

「まあ、お互いに定命が尽きるまでしっかり生きて、ボラカイ島とまだ縁があったら、入ればいいさ。」

「あんたは医者だったんだな、・・・・・・。すまん。ちゃんとした礼も言わずに、お袋をここに連れて来てもらって感謝している。」

「いいんだ。お礼なんて、それより、あと一日しか、おまえはこの島にいられないんだ。日本に帰る前に少し島を案内してやるよ。これから山に登ってみるか。」

「この島に山があるのか?」

「まあ、小さい山だがな、この共同墓地よりもっと見晴らしは良いよ。とても気持ちの良い場所だよ。理沙ちゃんも一緒にどう?」

「ええ、ご一緒しますわ。」

 納骨のために集まってくれた人々を見送ってから、三人はトライシクルでルホ山に向かった。何度も樫村と正樹はトライシクルから降りてバイクの後ろを押した。中古のエンジンは急な坂道を四人を乗せたまま登りきることはできなかったからだ。



 見晴らし台からはボラカイ島の裏側、ホワイトサンド・ビーチの反対側の海岸線を望める。遠くを行く船の白い線がとてもきれいだった。開放的な青い空、緑色と青色の入り混じった大海原、これ以上何を望めというのか。そこは簡素なつくりの見晴らし台だったが世界一の展望台と言っても過言ではなかった。理沙が樫村に言った。

「樫村さん、嬉しそうね。」

「ええ、気持ちがスッキリしました。不思議なんだ。胸のつかえがスーっと取れたようでね。」

「お母様もお墓でゆっくり眠ることができますね。」

「そうだね。それもあるよ。もっと不思議なのはさ、今までの俺がさ、ちっぽけに見えてな。この雄大な景色を見ていると、いったい今まで俺は何をやっていたんだと反省しているところなんだ。ずいぶん無駄に生きていたような気がしてな。」

 正樹はニコニコしていて、何も言わなかった。さっきから理沙が樫村の相手をしている。

「ボラカイ島は不思議な島ですね。訪れた人をみんな幸せにしてくれますものね。」

「確かにそうかもしれないな。俺の場合は恨みとか憎しみが消えちまったよ。」

 正樹は笑顔のまま黙って二人の話を聞いていた。

「樫村さんは明日東京に戻られるのでしたね。」

「ええ、そうです。なかなか休みがとれなくてね。明日、俺は日本に帰ります。でも、また来ますよ。お袋に会いにこの島に来ることを考えると、何と言うのか、希望みたいなものが生れてきてね。・・・・・・明るい気持ちになるんだ。」

「それって大事なことよ。おじいちゃんはネグロス島の人たちにいつも言っているわ。どんなに小さなことでもいいから希望を持ちなさいって。希望を見つけることができれば幸せになれるんだって。ねえ、そうおもうでしょう。正樹さん?」

 正樹は見晴らし台の欄干に手を添えて、空に向って話しだした。

「皆、幸せになることを望んでいます。だけど、自分が幸せであることを実感することは難しくて、逆に不幸であると思うことはたやすいんじゃないかな。幸せのかたちはみなそれぞれ違うけれど、ただ、共通していることは心が持続して安らかな状態にあることだよ。人間は強いものでね、どんなに不幸な境遇でも耐え忍ぶことができます。どんな困難の中でも小さな希望が一つあれば幸せを実感することだってできるんですよ。希望は心をあたたかくしてくれます。それから希望は決して高望みはしないんだ。どんなに小さな希望でも人の心を十分にあたたかくしてくれます。希望は願望や欲望とは別もので、満足することを知っています。どんどんふくらんでしまう願望や欲望を持って生きるのではなくて、小さな希望をもって生きることが大切だと僕もおもうよ。人間、足ることを知らないとだめだよ。」

 理沙が言った。

「正樹さんはうちのおじいちゃんと同じことばかり何度も言うからびっくりだわ、・・・・・・。あたし、知っているわよ。おじいちゃんなら、きっと次はこう言うわよ。生きているという実感は自分を他人のために役立てた時に感じるものだってね。」

「正解!忘己利他だね、大乗仏教では我を忘れて他人の利益を優先しなさいと教えています。わがまま勝手、自分のためだけに生きると周りの者は離れていきます。裕福ですべてを与えられて満ち足りると非常に空しくなります。何をしても嬉しさを感じなくなりますからね。それほど人の願望ははてしないものです。身体や境遇に欠陥や欠点があっても心は健やかでいること、小さな希望を胸に毎日を生きることが大切なんです。」



 翌日、樫村は東京へと帰って行った。もう、彼の医者へ対する恨みや憎しみは完全に消えていた。また一つ、ボラカイ島は魔法を使ったようだった。





彩花 

June 18 [Wed], 2008, 12:31
彩花





 マニラ東警察の署長も歳を重ねてしまった。正樹と初めて出会った頃のあの血気盛んな勢いはもうなくなり、渋くて落ち着いた表情を見せるようになっていた。正樹が彼の部屋に入って来るのを見ると、いつものように大きな机から立ち上がり、両手を差し出しながら正樹に近づき握手を求めた。

「おー、これは、これは、正樹くん、元気にしていましたか?」

「ええ、お蔭様で、署長もお元気そうでなによりです。飛行機が飛ばなくて、参りました。」

 正樹の後ろで樫村と理沙が驚いた顔をしながら二人の会話を聞いていた。署長室には他に二人の訪問者が来ていたが、署長はその者たちを後回しにしてしまった。正樹は自分の視線をその二人の先客に当てながら、署長に小声で言った。

「どうぞ、僕たちは後ろでお待ちしますから。」

 署長はうなずきながら握手だけ済ますと、席に戻り二人の先客と仕事を続けた。理沙が正樹に言った。

「正樹さんは署長様とお知り合いだったのですね。」

「僕が学生の頃からの、・・・何と言うのか、・・・署長は僕にとってはこの国の父親のような存在ですよ。ある意味ではそれ以上かもしれません。恩人とでも言うのかな、何度も命を救われたこともありますしね。僕は困ったことがあるといつもここに来るんですよ。」

 樫村が大きな声で言った。

「俺はあまり警察は好かんな。それに、何でここに来るとボラカイ島へ行けるんだよ?」

「あんまり大声で喋るなよ!まあ、お前の話は日本語だから、署長に聞こえても心配はないけれど、兎に角、ちょっと静かに待ってろ、今に分かるから!」



 十分ほどで話はまとまったようで、二人連れは署長に丁寧に礼を言いながら部屋から出て行った。署長は机の上の書類を整理しながら正樹に目で合図を送った。続いて机の前の椅子に座るように手招きしたので、正樹は理沙と樫村を椅子に座らせて、自分自身は理沙の後ろに立った。署長が言った。

「今、もう一つ椅子を持って来させましょう。」

 正樹が言った。

「いえ、結構です。僕はこのままで、ありがとうございます。」

「早苗さんはお元気かな?」

「つい先日、生まれ故郷の病院で、早苗は、・・・・・・、病気で死んでしまいました。僕のそのバックの中には彼女の骨が入っているんですよ。ボラカイ島の私たちのお墓に入れようとおもってね、・・・・・・。」

 正樹は言葉が途中で出なくなってしまった。署長はしばらく目を閉じてから、ゆっくりと言った。

「何ということだ!無常ですな。早苗さんのご冥福をお祈りいたしますよ。」

「ありがとうございます。でも、どうしてなんですかね?この世の中、悲しいことが多過ぎますよ。」

「まったくだな。警察で仕事をしていると感覚が麻痺してしまうが、本当につらい事が多すぎるな。わしは時々、教会へ行ってね、神様に向かっておもいっきり説教をすることがあるんだ。どうしてなんですか?何で我々に、こんなつらい試練ばかりお与えになるんだとね。」

「確かにそうですね。僕もよく落ち込んでしまった患者さんを慰める時に、神様は越えられないハードルは用意しないんだからと言い聞かせますけれど、大地震などで罪もない人々がたくさん死ぬと、神様の存在を疑いたくなりますね。」

「まったくだな。わしはしばらくボラカイ島へは行っていないが、ヘリコプターのパイロットたちの話では、ボラカイ島は随分とにぎやかになってしまったらしいな。」

「ええ、この国の代表的な観光地になってしまいましたよ。豪華なホテルが幾つも出来ましたし、新しい桟橋が完成して、浜のボートステーションで腰までずぶ濡れになって下船する情緒がなくなってしまいましたね。」

「まあ、それも良し悪しだな。ところで飛行機が飛ばなくなってしまったと言っていたね、定期便は午前中に飛んでしまったけれど、すぐにヘリを準備させるから心配するな。」

「いつもすいません。我がままばかり言いまして、署長には感謝しております。」

「心配するな。子供たちの面倒をお願いしているのだから、それくらいのことはあたりまえだよ。」

 ここでやっと、署長の注目が樫村と理沙に向かった。正樹が紹介を始めた。少し難しい英単語を選んで、樫村が分からないように説明した。

「こちらは樫村と言います。少し前にお母様を亡くされまして、やはり、僕たちの共同墓地に一緒に入れてあげることにしたんです。彼は手術をした医者がお母様を殺したと思い込んでいるのですよ。まだ怨みと憎しみの世界にいるものですからね、僕はボラカイ島のあの大自然が彼の気持ちを変えてくれるとおもったものですからね、一緒に連れて来ました。」

「そうか、それはいいかもしれないな。前に君が言っていたけれど、ボラカイ島は心の病院だからね。自分のことを捨てた親を、あれだけ憎んでいた子供たちが立派に成長しているんだ。彼の心もきっと癒されるだろうよ。」

「そして、こちらは理沙ちゃん、彼女のおじいさんがネグロス島で農業の指導をしていらっしゃいます。空港で偶然に知り合いましてね、ネグロス島へ行く前にボラカイ島へ寄ること勧めた次第です。」

「ネグロスですか、砂糖の島だ。あと、南部のセブ島に近いところにシリマン大学があるな。学園都市のドゥマゲッティは治安が比較的良い。確か、あの大学はプロテスタント系の大学のはずだが、カトリックのこのフィリピンでは珍しい存在だよ。」

 正樹が理沙に質問した。

「理沙ちゃんのおじいさんはネグロスのどこにいるの?」

「ドゥマゲッティからそんなに遠くないわ。姉がね、シリマン大学にICUの交換留学生として、そこに在籍していますのよ。」

 正樹は理沙のその言葉を聞いて、また不思議な力を感じた。これもまたボラカイ島の魔力なのだろうか?今、署長が話をしていたシリマン大学に理沙の姉がいると言うのだ。偶然にしては出来過ぎている。正樹は理沙に確認するように聞いた。

「お姉さんがシリマン大学にいるのですね。もし良かったら、お姉さんのお名前を聞かせてくれませんか?」

「ええ、いいですよ。姉は彩花といいます。韓国や日本のミッション系の大学からはけっこう行っているのよ。例えば、フェリス女子学院大学やICU、それから四国学院大学なども交換留学を行なっているわ。」

「へー、そうなんだ。すると、彩花さんは学生ビザでネグロスにいるわけなんだ。理沙ちゃんの滞在ビザは観光ビザですか?」

 理沙はこくりとうなずいてから言った。

「あたしもね、もっと長くおじいちゃんのところにいたいから、ビザの変更を考えているの。もしかするとシリマン大学へ入るかもしれないわ。あの学校は海のすぐ側にあってね、とても静かな学校よ。キャンパスは緑に囲まれていて、とてもきれいな大学なの。ドゥマゲッティの町の大きな部分を大学が占めているわ。」

「ネグロスか、ドゥマゲッティね、彩花さん、それにシリマン大学、ますます理沙ちゃんのおじいさんに会ってみたくなってきたよ。」

 樫村がじれるようにして正樹に言った。

「おい、ボラカイ島はどうしたんだよ。早く何とかしろよ!」

「心配するな!もう30分もしないうちに島に行けるから。」

「本当かよ?」



 その正樹の言葉通り、三人を乗せた警察のヘリコプターはボラカイ島の岬にある豪邸の中庭に到着した。

 樫村と理沙はヘリが地上に着陸する前に完全に言葉を失っていた。真っ青な空、エメラルドグリーンの海、そしてどこまでも延びている真っ白な砂浜を二人は360度の空間全体で感じて放心状態になっていた。正樹は案内してきた訪問客がボラカイ島の空気に触れて驚く様子を見るのがとても好きだった。樫村と理沙の二人も間違いなく感動していた。



 ヘリの到着した岬の豪邸にはマニラで親からも社会からも捨てられた日比混血児たちが

保護された後、彼らの自分の意思でもって、この家で仲間と共同生活をしていた。その数は以前ほどではなくなったが、まだ多くの子供たちが岬の家で暮らしていた。市場の近くにある正樹の診療所はここの子供たちの健康管理を任されていた。正樹が日本へ行って留守の間は、すっかり貫禄が出た主任のヨシオと他の青年医師たちとで手分けして診察にあたっていた。正樹の診療所で働く医師たちはヨシオも含めてすべて岬の家の出身者たちだ。かつてはマニラの裏道で残飯をあさっていた子供たちだった。



 三人が降りると、ヘリはよく晴れ上がった青空の中に消えて行った。豪邸の中庭に造られたヘリポートにはこの家で勉強を続けている子供たちが、さっき、午前中に飛び立った定期便が再び戻って来たことに驚き、大勢集まって来ていた。しかし訪問者が正樹だと分かると安心して、それぞれが担当している場所に戻って行った。この岬の家を運営している渡辺コーポレーションの担当重役の佐藤と、その妻のナミだけがヘリポートに残った。ナミは亡くなってしまった早苗の親友だ。ナミは既に診療所の主任医師ヨシオから早苗のことは知らされていた。真っ赤な目をしてナミが正樹に言った。

「正樹さん、このたびは・・・・・・、」

 ナミは溢れ出る涙で、すぐに言葉が途切れてしまった。正樹はもう大丈夫だった。手で持っているバックを見せながら言った。

「ほら早苗さんを一緒に連れて来たよ。この島の、あの丘の上の共同墓地で眠りたいと本人が言っていたからね。約束どおり連れて来た。長野の親戚の人々はあまりいい顔をしなかったけれど、早苗さんの遺言だからね、特別に分骨してもらった。だから、早苗さん、半分は長野の先祖代々のお墓に残してきました。」

 佐藤とナミは悲しい表情のままだ。正樹が話を続けた。

「紹介が遅れましたが、こちらは理沙ちゃん、リムジンバスでたまたま一緒になってね、おじいさんとお姉さんがネグロス島にいます。寄り道ですね、ボラカイ島にちょっと寄ってもらいました。それから、こっちは樫村、東京での仕事仲間です。やはり、お母様を最近、亡くされてね、・・・・・・、まあ、いつまでも部屋に置いておくのも何ですからね、特に彼の場合は色々と訳ありでね、様々なことを考えてしまうものだから、部屋にお母様を置いておくよりもお墓の方がいいとおもったものですから、それでね、彼のお母様を僕たちのお墓に入れることを提案した次第です。」

 佐藤が二人に丁寧に挨拶をしてから、三人を豪邸の中へ招き入れた。吹き抜けの豪華なリビングに理沙も樫村も圧倒されていた。正樹が小さな声でナミに一言耳打ちをした。ナミは軽くうなずき言った。

「この家にはゲストルームがたくさんありますから、どうぞ遠慮なさらないで使ってくださいね。ちょっと町まで遠いけれど、その分、静かだから、ゆっくり出来るとおもうわ。」

 理沙と樫村は驚いた表情のまま、正樹の方を見た。

「後で、僕の診療所へ案内しますけれど、あそこは狭いので、ここがいいでしょう。」

理沙が聞いた。

「正樹さんは?」

「小さいですけれど、僕は自分の浜辺の家がありますから、そっちの方で寝ます。・・・・・・、そうか、二人が島にいる間は僕もここで世話になろうかな、そっちの方が楽かな?」

 ナミが言った。

「正樹さんもどうぞ。たくさん話が聞きたいし、それに、独りで浜辺の家にいるなんて寂し過ぎるわ。」

「そうだね、それもそうだ。」



 その夜、正樹は独りで海が見下ろせる大きなテラスに立っていた。早苗が初めてこの岬の豪邸にやって来た夜のことを思い出していた。ボラカイの海が月の光に照らされてキラキラとあの日と同じ様に光っていた。波の音しか聞こえない、本当に静かだった。正樹は自分に言い聞かせていた。ディーンを失い、今度は早苗が先に旅立ってしまった。こんなに寂しい想いをするのなら、もう恋などしたくない。・・・・・・正樹はそこで苦笑いをした。何だよ、これじゃあ、まるで歌の歌詞のようじゃないかと独りで呟いてみた。そしてまたぼんやりと眼下に広がるボラカイの海を見下ろしていた。

 テラスのベンチに腰を下ろすと、夜の空が正樹のことを被った。雲が幾つも闇夜の中を通り過ぎて行った。雲も月の光を受けて鈍く輝いていた。

 ナミがグラスを片手に現われた。その足どりはたどたどしかった。

「やはり、ここだったわね。今日は独りなんだ。」

「ええ、ここに来ると、・・・思い出が一気に溢れ出してしまって、・・・動けなくなってしまいました。」

「そうね、あたしが初めてこの島に来た、・・・あの夜もさ、早苗と正樹さんはこのテラスにいたものね。」

「ええ、そうでしたね。」

 ナミが正樹の目の前の欄干のところまで行き、ゆっくり振り返って正樹のことを見た。均整のとれたそのナミの身体はすべての男たちの憧れだ。あの時のままだった。ナミのプロポーションは完璧でちっとも崩れていなかった。ナミは外交省のバリバリの外交官だった。ところがボラカイ島の魔法にでもかかってしまったように、この岬の家の現在の管理責任者の佐藤とあっけなく結婚してしまった。

「ねえ、正樹さん、あたしね、この島で暮らすようになって変わったわ。」

「それはそうでしょう。世界中を相手にしていた外交省だったからね。いつ呼び出されるかわからない24時間勤務の外交官が、生活も時間もゆっくりと流れるボラカイ島に嫁に来たのだからね、変わって当然でしょう。」

「忙しいという字は心を亡くすと書くでしょう。本当にその通りよ。この島に来てそのことがよく分かったわ。」

「確かに、忙しいという字はこころ偏に亡くすと書くね。漢字を考案した人はすごいね。よく考えて漢字をこしらえている。僕は仕事もなくてさ、ただブラブラしているよりは忙しい方が良いと思うけれど、忙し過ぎると何もかも忘れてしまうものだ。とっても大切なものまで知らず知らずのうちに忘れてしまうこともある。」

「そうよね、忙し過ぎると心に余裕がなくなってしまって、相手の悩みに気がつかない事だってあるものね。」



 佐藤がナミと正樹が話をしているテラスに飛び出して来た。

「あー、やっぱりここにいたのか、正樹さん、ちょっとリビングへ来てくれませんか。」

 ナミが言った。

「どうしたの?」

「いいから、早く! テレビの画面を見て下さい!」

 三人は急いで豪邸の中に入った。吹き抜けのリビングに置かれた大きなテレビには白いドレスを着た女性たちが映し出されていた。佐藤が言った。

「これ、どうやら、シリマン大学の学園祭のようです。美人コンテストのようなんですけれど、この一番左の子なんですけれど、・・・・・・ほら、この子です。」

 そう言って佐藤は白いドレスに赤いタスキを肩から下げた女性を指差した。ナミが真っ先に叫んだ。

「やだ、早苗じゃない。」

 正樹は黙ってその子のことを見つめていた。佐藤が言った。

「ねえ、早苗さんにそっくりでしょう。」

 樫村と理沙も何が起こったのかと驚きながらテレビの近くに寄って来た。そして理沙がポツリと言った。

「あら、いやだ。お姉さんだわ。彩花ねえさんがテレビに出ているわ。」

 佐藤とナミ、そして正樹の三人は今度は理沙の方を見た。佐藤が理沙に向かって言った。

「赤いタスキの人は君のお姉さん?」

「ええ、彩花ねえさんですよ。」







オフィシャル・ホームページのご案内 

June 05 [Thu], 2008, 8:22

ホーム・ページで4kmも続く白い砂浜、ボラカイ島の写真を公開中。
―――長編小説「ボラカイ島」奇跡の島 南 右近――――
で検索して下さい。無料!
http://www7a.biglobe.ne.jp/~minamiukonboracay/


理沙 

April 30 [Wed], 2008, 8:36
理沙



 樫村直人と正樹がボラカイ島に向かったのは、東京の桜が葉桜になった頃だった。早朝の池袋、メトロポリタンホテルの一階ロビーで二人は待ち合わせた。午前6時発のリムジンバスで成田空港へ行くことにしたのだった。先にロビーに到着したのは正樹だった。朝のホテルはがらんとしていて静かだった。幾つか置かれたソファーにも誰も座っていなかった。正樹は玄関脇のベルボーイのデスクでリムジンバスの予約の確認と支払いを済ませてから、樫村が自分を見つけやすいように、ロビーの中央の長椅子にどっかりと腰を下ろした。まだ、バスの出発時間まで30分あった。ホテルのフロントに一人とさっきの玄関脇のベルボーイと正樹の三人だけが豪華なシャンデリアの下の空間を占領していた。続いてこの贅沢な空間に入って来たのは樫村ではなかった。タクシーから降りた二十歳前後の少女が大きなスーツケースを押しながら正面玄関より現われた。どうやら、正樹たちと同じリムジンバスの利用客のようだった。彼女も正樹と同じ様にベルボーイにバス代を支払い、正樹の近くのソファーに座った。正樹はその少女の顔に見覚えがあった。しかし、確かではなかった。正樹が勤めていたコンビニの前の通りを、毎朝、風を切るようにして横切って行く女子高校生の横顔に似ていた。早足で歩くその姿を正樹はとても凛々しいとおもっていた。話しかけてきたのはその少女の方からだった。

「すみません。この6時のバスは、渋滞はありませんか? あたし、9時過ぎのフィリピン航空に乗りたいのですが、間に合うかしら?」

 彼女も同じ飛行機だった。正樹はすぐに答えた。

「私は何度か、このバスを利用していますがね、フライトに遅れたことは一度もありませんよ。渋滞はあまり心配しなくて大丈夫ですよ。」

「そうですか。ありがとうございます。いつもは成田エクスプレスか車を使っているものですから、心配で、・・・・・・。」

「あなたもフィリピン航空ですか。それじゃあ、僕と同じだ。・・・・・・、失礼ですが、僕の顔に見覚えはありませんか?  ほら、駐車場の大きなコンビニの、・・・・・。」

「はい、はい、そうです。そうです。制服を着ていらっしゃらないから、気がつきませんでした。あー、あそこのコンビニの店員さん、・・・・・・。」

「えー、そうです。私はすぐにあなたのことが分かりましたよ。毎朝、あなたが学校へ行く姿を見ていましたからね。えー、驚きだな、フィリピンですか。あなたのようなかわいい女性が・・・・・・、フィリピンですか。」

「ネグロス島へ行きますのよ。」

「ネグロス、それはまた驚きだな。もちろん、誰かと一緒に行くのでしょうね?」

「いえ、あたし一人でまいります。」

「それは、それは、またまた驚きだな。一人ですか。・・・・・・あ、そうだ、私は正樹と申します。」

「あたしは理沙です。どうぞ、よろしく。」

「いやいや、こちらこそ、よろしくお願いします。」

「正樹さんもお一人ですか?」

「いや、もうすぐ連れが来るはずなんですがね、バスが出るというのに、遅いですね。」

「正樹さんはマニラですか?」

「いいえ、私たちはボラカイ島へ行きます。」

「わあ、ボラカイ島ですか。いいな。きれいな島だと聞きます。あたしも行ってみたいな。」

「ボラカイ島は有名になり過ぎましたね。世界中から観光客が大勢押し寄せて来ていますからね。聞くところによると、韓国では新婚旅行の定番になってしまったようですよ。行きたい新婚旅行のベスト3に入っているそうです。フィリピン政府もボラカイ島を観光の目玉として特別に力を入れていますからね。治安も完璧だし、あの国の芸能人たちがボラカイ島の砂浜を歩く姿を毎日のように放送していますからね、フィリピン国民のあこがれの島になってしまいましたね。今では島に渡るのに入島税というか、観光開発税までとっていますからね。どんどん発展しますよ。ホテルも豪華なやつがたくさんできています。」

「いいな、あたしも行ってみたいな。」

「でもね、ボラカイ島に何も無かった頃を知る人々は悲しんでいるでしょうね。発展することで素朴さが失われてしまったから、秘境だった頃のボラカイ島は現在の百倍もきれいだったと僕もおもいますよ。でもね、島の人々は豊かになったのだし、あの国が豊かになることは良いことだから、私は島の開発には反対しませんよ。まだまだ、あの島の大自然は人間の力を上回っていますからね。あの雄大な白い砂浜は人間のちっぽけな営みを笑っていますよ。」

「長い砂浜があるんでしょう?」

「ええ、4kmも続く白い砂浜があります。世界が認めた最高の砂浜ですよ。何万年もかかってできた砂は真っ白です。海も遠浅で波も静かです。北欧やイギリスでは、度々、世界最高のビーチとして紹介されています。年々、ボラカイ島は発展していますね。」



 理沙と正樹がすっかり打ち解けて話をしていると、樫村直人が母親の遺骨を抱えながら現われた。むき出しの遺灰を見て正樹が言った。

「バックの中にお母さんを入れた方がいいな。成田に着いたら、何か入れるものをさがそう。」

「そうか、やっぱり変か?」

「変じゃないけれど、周りの人間が気を使うからな。まあ、座れや、まだ、少し時間があるから。お前のバス代は払っておいたから。」

 ここで樫村と理沙の目が合った。正樹が言った。

「こちら理沙ちゃん。ネグロス島へ行くそうだよ。」

「ネグロス、え、あの貧困、飢餓の島へ、こんなかわいいお嬢さんが・・・・・・。失礼、俺は樫村です。樫村直人といいます。」

「理沙です。よろしく。」

 正樹もさっきから聞きたかったことを樫村はすぐに理沙にぶつけた。

「何でネグロス島へ行くんですか?」

 理沙はその樫村のぶっきらぼうな質問に淡々と答えた。

「おじいちゃんがネグロス島にいますの。退職金をおばあちゃんと半分子して、一人で島へ移住してしまったものですから。」

「そうなんだ、それは奥が深い話だな。」

樫村は遠慮を知らない男だ。続けざまに理沙に質問を浴びせた。

「おじいちゃん、ネグロス島で何をやっているんだい?」

「実はね、戦争の時、うちのおじいちゃんはネグロス島にいたんです。その当時の話はあたしたちには一切してくれませんけれど、会社を辞める前から決めていたんでしょうね。ご存知かどうか知りませんが、ネグロス島は砂糖の産地でしょう。ネグロス島が砂糖の国際価格の暴落で危機に落ち込んだと知ると、おじいちゃんは迷わずに島に行ってしまったんです。それもたった一人で農業指導を始めるとか言ってね。」



 三人はリムジンバスに乗り込んで、まだ眠っている東京を離れた。高速道路に乗ると、樫村はすぐ眠ってしまった。理沙と正樹はさっきの話の続きをした。

「理沙ちゃんのおじいさんはネグロス島の人たちに農業を教えているんだ。」

「ええ、そうよ。山を一つ借りて、棚田をこしらえたのよ。すごいでしょう。おじいちゃん、いったい、いつ、どこで農業を覚えたのかしらね。」

「きっと、勤めをしながら勉強したんだよ。」

「そうかな。それに、あそこの言葉も話せるのよ。」

 正樹はネグロス島へ行ったことはなかったが、テレビや新聞でネグロス島の惨状を聞いたり見たりしたことはあった。

「私はあまり詳しくは知らないけれど、ネグロスの人々は農園労働者がほとんどでしょう。土地を持たない、言ってみれば雇われ労働者だ。農園主が砂糖の価格の変動で砂糖の栽培を辞めたら、即、食えなくなってしまう。そこが単一栽培の恐いところだよ。砂糖の他には何も栽培していないから、賃金をもらって、そのお金で他の島から食料を買って生活していた人々は一瞬で飢餓状態になってしまう。」

「そうなの。ネグロス島はフィリピンで最大の砂糖の産地だわ。オクシデンタル州だけでも国内の半分の生産だそうよ。製糖精製工場の中には世界最大級のものもあるそうよ。農地のほとんどがプランテーションだから、労働者たちの食料は他の島から買っているの。だから地主が砂糖栽培を放棄したら、すぐ、労働たちは飢餓状態になってしまうの。ユニセフとか幾つかの日本のNGOが飢餓救済を始めたけれど、ネグロス島の人々は苦しんでいるわ。誰かが助けてあげないと、・・・・・・。おじいちゃん、たった一人で頑張っているのよ。百人以上の人たちと自給自足の生活を始めたの。戦争中、アメリカ軍に追われて山に逃げ込んだ時の経験が、今、役に立っているみたい。」

「そうなんだ。理沙ちゃんのおじいちゃん、すごいね。そういう日本人ばかりだといいんだがね。しかし、現実はあの国ではおそまつな日本人ばかりが目立つ。恥ずかしいかぎりだよ。」

 樫村が大きな鼾をかいて眠っている。それを見ながら理沙が言った。

「樫村さん、よく眠ってらっしゃること。」

「ああ、さっきまで、配送の仕事をしていたからね、仕方がないよ。何とか無理をお願いして、三日間だけ休みをもらったんだ。彼のお母様の遺灰をね、ボラカイ島の丘にある、私たちの共同墓地に入れようとおもってね、それが今回の旅行の目的なんですよ。」

「さっき大事そうに抱えていたのがお母様なのね。」

「ええ、そうです。彼は医者がお母さんを殺したと思い込んでいるんです。誰かを恨むことで悲しみに耐えているみたいだ。ボラカイ島の大自然が彼の憎しみをきっと解き放してくれると僕はおもってね、彼をこの旅行に誘ったんです。」

「ボラカイ島か、いいな、あたしも行きたいな。」

「理沙ちゃんの航空券、ちょっと見せてくれる。」

「いいわよ。・・・・・・はい、これよ。」

「この航空券は変更がきくよ。少し予定を変えてさ、ボラカイ島へ来ないか。案内するよ。二三日、島で遊んでから、おじいちゃんのところへ行ったら?・・・でも、駄目か、おじいちゃんが心配するか。」

「いえ、それはないわ。だって、おじいちゃん、あたしが今日行くことを知らないもの。」

「じゃあ、ボラカイ島に来なよ。ネグロス島へは僕が送って行くから。」

「いや、それは大丈夫よ。あたし一人で行けるから。」

「違うんだ、僕ね、君のおじいちゃんに会ってみたくなったんだ。だから、ネグロス島まで送って行くよ。」

「樫村さんは?」

「彼をマニラから日本へ送り返したら、一緒にネグロス島へ行こう。それでいいよ。」

「正樹さんは日本へ帰らなくていいの?」

「実はね、僕の家はボラカイ島にあるんだ。日本へは出稼ぎに行っているだけなんだ。」

「へー、そうなんだ。さっき、私たちの共同墓地とか言っていたから、何かなとおもっていたんだけれど、それで分かったわ。それなら尚更、あたし、ボラカイ島へ行きたくなりました。」

「じゃあ、決まりだ。ちょっとボラカイ島で遊んでいきなさい。」

「はい、よろしくお願いします。」



 成田空港は混んでいた。特にフィリピン航空のチェックインをする列は長かった。国にいる家族へのお土産なのか、皆、大きなダンボールの箱を幾つも持って帰る為に余計に時間がかかった。出国手続きの列も長蛇の列で、よく、これでみんな飛行機に乗り遅れないものだと感心したくらいだった。樫村と理沙ちゃん、そして正樹の三人は最終搭乗案内のランプが点滅している下をくぐり抜けて、機内へ滑り込んだ。樫村はどうせすぐに寝てしまうから窓際に、理沙ちゃんを挟んで正樹は通路側に席をとった。機内を見回すとほぼ満席状態だった。

 マニラまでの飛行時間は約4時間、食事をしたり、入国カードを書いたりしていると、そんなに長いと感じる時間ではない。今回は特に可愛いお嬢さんが一緒だから、正樹は時間が経つのを忘れていた。

「理沙ちゃんは、もう、何度もネグロス島へ行っているの?」

「今回が3回目よ。お姉さんと交代でおじいちゃんに色々なものを届けているわけ。」

「兄弟は二人?」

「ええ、そうです。姉は、以前はよくボランティアで東南アジアを回っていましたけれど、おじいちゃんがネグロス島に移住してからは、ネグロスにいることが多くなりましたね。」

「ネグロスか、僕の知り合いでネグロス出身者はスコットだけだな。ボラカイ島の隣の島で獣医をしているんですがね、そう、彼は確かネグロス島の人間ですよ。でも、お父さんはオーストラリアの人だから、ハーフということですか。」



 フィリピン航空だけはマニラ国際空港内の敷地に新しく出来たフィリピン航空の専用ターミナルへ横付けする。国際線と国内線を同じターミナルにしたことで、旅行者の便宜をはかり利用客を増やしている。樫村と正樹はこのターミナルで国内線に乗り継いでカリボ空港へ向かうことになっていた。幸い、その飛行機には空席があり、理沙も同じ便に乗ることになった。乗り継ぎの搭乗手続きを終えて、三人はカリボ行きの飛行機が出る登場口の前のソファーに腰を下ろした。樫村が言った。

「きれいな空港ですね。大きくて、それにとても清潔だ。」

正樹が答えた。

「確かに、立派な空港になったよ。昔のマニラ国際空港を知っている者にとっては驚きですよ。あの頃は随分重たい荷物を持って炎天下の中を歩かされたからね。飛行機のタラップを降りてから、ターミナルまで雨の中を何度も歩かされたこともある。出口から出ると、大勢の客引きが近寄って来てさ、もみくしゃ状態、恐いくらいだった。まあ、あの頃はあれで楽しかったけれどね。」

「すると、俺たちは大都会マニラには降りずに、このターミナルからすぐにボラカイ島へ行くのかい?」

「ああ、そうだよ。ボラカイ島には空港がないから、隣の島のカリボという町で降りることになる。フィリピン航空は飛行機が大きいから、大きな滑走路のあるカリボの空港で降りる。ボラカイ島の近くにあるカティクランの飛行場は小型機しか使えないからな、少し離れているが仕方がないよ。」

「そのカリボまでどのくらいかかる?」

「時間か?」

「ああ、そうだ。」

「カリボまでは一時間もかからないな。乗ったらすぐに到着してしまう感覚だよ。正確な時間は分からないけれど、40分くらいなもんだな。だけどカリボからボラカイ島へ渡る船着場のあるカティクランまでが遠い。車やバスで100キロ近くのスピードで飛ばして、一時間くらいかかる。」

 理沙が楽しそうに言った。

「暗くなる前にボラカイ島へ着けるのかしら?」

「何事も起こらなければ、太陽が沈む頃、ちょうどボートに乗ってボラカイ島の夕日が拝めるのだけれど、今日はどうやら無理みたいだね。ほら、あの搭乗口の掲示ボードを見てごらん。僕らが乗る飛行機の到着が遅れているみたいだよ。」

「あら、本当だわ、いつの間にか出発時間が変更になっているわ。」

「僕、ちょっと行って聞いてくる。」

 正樹は搭乗口のデスクへ小走りに向かった。樫村と理沙はソファーに座ったまま、正樹が航空会社の職員と話をしているのを黙って見守った。

 5分ほどして正樹は二人のところに戻って来た。

「エンジントラブルだそうだよ。今、代わりの飛行機をさがしているみたい。」

  理沙は楽しそうな表情のままだったが、樫村が急に機嫌が悪くなった。

「なんだよ、待たされるのかよ。」

 正樹が笑顔で言った。

「だいぶ前のことだったよ、国際線の飛行機だったけれど、日本から来た友人が帰ろうとしたら、マルコス大統領とイメルダ夫人が外遊するとかで、飛行機を全部持っていってしまってね、その友人は三日間もホテルに待機させられたことがあった。もちろん、そのホテル代と食事は全部、飛行機会社が負担したけれどね。」

「国内線もそんなことってあるのかしらね?」

「分からないな、何が起こっても不思議ではないのが、この国だからね。」

 一時間が経過した。搭乗口のボードに欠航の文字が点滅し始めた。

「あら、いやだ、欠航みたいよ。」

 真っ先に理沙が欠航のサインに気がついた。樫村がまたぼやいた。

「何だよ、いいかげんにしてくれよ。飛ばないのかよ。俺は休みがやっと取れたんだぞ、むちゃくちゃだな。」

 正樹はちっとも慌てていない。搭乗口の係りに欠航を確かめてから、二人のところに戻り言った。

「今日はフィリピン航空も他の航空会社も無理みたいですね。でも、まだ、チャンスはありますよ。今日は土曜日ですよね、ちょっと、警察へ行ってみましょうか。」

「警察?なんじゃ、それ?警察へ行くと何でボラカイ島へ行けるんだ?」

 樫村は正樹がおかしなことを言うので、そう言いながら正樹のことを睨みつけた。そんな樫村の質問に正樹は答えなかった。

「もしかすると、今日中にボラカイ島へ着けるかもしれない。兎に角、警察へ行ってみましょう。」



 三人は空港ターミナルで待機しているタクシーには乗らずに、飛行場を出て少し歩き、大通りを流しているタクシーをひろった。理沙が正樹に聞いた。

「正樹さん、さっき何でターミナルの横でタクシーに乗らなかったのですか?」

「最近はだいぶ良くなってきましたがね、昔はひどかったんだ。どうも空港に待機しているタクシーは性質が悪くてね、そのことが頭にあるものだから、通りを流しているタクシーにしました。もっともこれはマニラだけじゃないよ。日本だった同じだけどね。僕は空港で待機しているタクシーがどうも好きになれないんだ。」

「そうなんだ。あたしはあまりタクシー乗らないから分からないけれど、最近は空港には料金前払いの公営タクシーがあるとガイドブックで読んだことがあります。」

「ああ、そうらしいね。それは安全だけれど、それなりに高いはずだよ。」

「やはり、そうなんだ。」



 マニラの街はいつものように熱気に包まれていた。気温だけではない、車も人も商店も活気に満ちていた。贅沢にすっかり慣れきった日本人にはこの街は不向きだ。正樹は注意深く樫村と理沙の表情をうかがった。以外にも四畳半で暮らしている樫村が悲鳴をあげた。

「すげえー所だな、ここは。おまけに暑すぎるぜ!」

 理沙はネグロスを知っているから、別に驚いた様子もない。信号待ちで近寄って来る裸足の子供たちに小銭を渡していた。正樹はそんな理沙の自然な振舞いを見ていて、彼女のおじいさんにますます会いたくなってきた。







母の急死 

March 30 [Sun], 2008, 22:47
すみませんでした。しばらく筆が止まってしまいました。たった一人の定期の読者だった母が急死して、書き続ける気力がありませんでした。でも、また、今週から書いてみようとおもっています。

大動脈解離 

March 08 [Sat], 2008, 16:53
大動脈解離


「なあ、正樹さん、あんた、うちのオフクロさんの命を奪った病気について詳しいようだが、もっと、俺にその大動脈何とかやらを教えてくれないか?」
「大動脈解離ですか。手術の前に病院の先生から説明があったとおもいますが、・・・・・・。」
「あったけれど、あの医者、難しい言葉ばかり使いやがって、俺にはさっぱり分からなかったよ。」
「わかりました。それでは出来るだけ分かりやすく説明してみましょう。」
「ああ、頼むよ。」
「大動脈は心臓から体全体へ血液を送るメインパイプのようなものですよ。胴体の中心を通って両腕や両足まで伸びている太い血管でしてね、ちょっとやそっとでは破れないように三重になっています。だから一番外側の血管の壁は丈夫にできていますよ。真ん中はスポンジのようになっていてクッションの役目をしています。そして一番内側の壁は血液が流れていますからね、直接血液に触れているわけですから、まあ、それなりの特殊な組織でできているわけです。原因はまだよく分かっていませんが、この内側の血管の壁が破れて大動脈のパイプの真ん中のスポンジ部分に血液が染み込んでしまうのが大動脈解離です。血管は大きく膨らんでいきます。もしこの大動脈の外側の壁が破れたら、命はありません。でも、さっきも言いましたが外側の壁は丈夫にできていますからね、徹底的に血圧を管理した内科的治療で乗りきることも出来ます。ただ、恐いのはね、心臓に近い部分にまで解離が進むと、もう手術しかありません。それも救命を最優先する手術でして、時間の余裕などはありません。膨らんだ血管が破れて心臓に血液が流れ込んだら、即、ショック死してしまいますからね。だから、そうならないように心臓に近い部分の大動脈を人工のパイプに取り替えるわけです。同時に脳へ続く血管と心臓の弁も取り替えます。大手術ですよ。大動脈全部を人工のものと交換することは負担が大き過ぎて無理ですから、心臓に近い部分を交換するだけです。ボロボロになった大動脈と人工のパイプをつなぎ合わせるのですからね、この手術はとても難しいですよ。いかに素早く出血を止めるかが勝負となってきます。手術中は脳へは血液を送り続けますがね、心臓も含めて脳以外の身体全体は低温の状態に保ち、しばらくの間、血が流れなくなります。循環停止状態ということです。だから、手術後に完全な元の状態に戻るという保証はありません。あくまでも救命を優先した手術ですからね。」
「心臓はさ、手術中は止まっているのかね?」
「心臓の停止している時間は他の手術と比べると長いですね。それだけ心臓には負担がかかります。心筋梗塞や不整脈が起こる場合もあります。脳も含めて身体中のすべての臓器への血流が悪くなるわけですから、脳梗塞をはじめ、様々な障害が予想されます。でも、心臓の近くまで大動脈解離が進んでしまうと、手術をしなければ、ほぼ確実に死亡してしまいます。手術死亡率は10〜20%で緊急手術としての成績は必ずしもよいとは言えません。手術後の死亡率も高くて、外科医にとっても、この大動脈解離という病気はとても怖い病ですよ。」
「じゃあ、あんたは、お袋が死んだのはあいつらのせいじゃねえと言いたいのか?」
「医者も人間ですよ。現代医学とて完璧ではありませんし、生と死はわれわれの力を超えた神聖なものだとおもいます。大動脈解離が心臓付近まで進んでしまった状況では、他に道はなかった。お母様を担当されたお医者様は見て見ぬふりをしなかったわけで、知りうる限りの救命処置を施した。しかし、人間の限界を超えていた。そう解釈された方があなたのお母様も喜びますよ。そのお医者様を憎んだところで何になるのですか。」
「あんたには分からんよ。おれの気持ちなんか、・・・・・・あまり偉そうなことばかり言うなよ。」
「あまりこんな数字を言うのは好みませんがね、急性の大動脈解離に関してだけ言うと、発症後2週間以内の死亡率は50%〜90%だと言われています。非常に高い数字になっています。お医者様があなたのお母様を殺したのではなくて、大動脈解離という病気があなたのお母様の命を奪ったと考えるべきですよ!」
「何を言いやがる、おまえ、俺に喧嘩をうっているのか?」

「樫村さん、大動脈を人工のものに交換する手術が出来る病院は限られていますからね、その大手術を受けられただけでも幸せだと考える方が正しい。」

 樫村直人は我慢の限界だった。次の瞬間、直人は正樹の横腹に蹴りを入れてしまった。鍛え抜かれた直人の右足は、その一撃でもって正樹を床に沈めてしまった。

「私のことを殴って、それで、あなたの気がすむなら、さあ、どうぞ、もっと殴ればいい!」
そう大声で言ってから、正樹は床から立ち上がった。そして言った。
「あなたが言うように、あなたのお母様を担当された医者が、もし、やる気のない医者だとしたら、手術は短時間で終わったはずですよ。・・・・・・でも、違うでしょう。おそらく10時間以上かかったはずだ。ボロボロになった大動脈の壁と人工の血管の縫い合わせた、その部分、その針穴からの出血すら止まらない状態だったはずです。凝固因子が消費されてしまっていて、出血が止まらない状態になっていますからね。血を止めるだけでも6時間以上かかることもある。この手術は誰にでも出来るという簡単なものではありませんよ。心臓と脳を体から外しての大手術ですからね。」

 樫村直人は頭を抱えて、また、台車の上にだらしなく座り込んでしまった。
「お袋の手術は・・・・・・12時間かかったよ。確かに、・・・・・・。すまん、お前が医者みたいな口のきき方をするから、つい、蹴ってしまった。だがな、・・・何と言われてもな、俺はあの医者が許せないんだ。」

 正樹は自分が医者であることを樫村直人に告げる必要は今はないな、とおもった。

少し間をおいてから、正樹が言った。
「もし、お母様を入れるお墓がないのならば、私たちの共同墓地に入れてはどうですか?とてもきれいな南の島の、それも丘の上にある、それは気持ちの良い、明るいお墓地ですよ。いつ行っても、やわらかい風が吹いていてね、私の一番ほっとする場所ですよ。」
 
しばらく考えてから、樫村直人が言った。
「南の島か、俺の四畳半の汚い部屋よりも、・・・・・・いいかもしれないな。」
「私は来月、島に戻るつもりです。良かったら、一緒に行きませんか?」
「来月か、・・・・・・。」
「ゆっくり考えて下さい。お母様を連れて行く、行かないは別にして、少し、ボラカイ島で休んだらよろしい。きっと気持ちが落ち着きますよ。」
「さっきは、蹴ってしまって、すまなかったな。大丈夫か?」

「大切な人、突然、亡くされたんだ。お気持ちはよくわかりますよ。」
「すまなかったな。その島へ行くのには、いくらくらい、掛かる?」
「むこうで泊まるところと食事は心配いりませんよ。だから、飛行機代だけですね。ディスカウントを使えば、そんなには高くはありませんよ。」
「そうか、それなら、あなたの飛行機代も俺が出すから、俺をその、何とか言う、島へ連れて行ってくれないか?」
「ボラカイ島です。ええ、いいですよ。喜んでお連れしますよ。」




手では掴めないもの 

February 25 [Mon], 2008, 22:36
手では掴めないもの





 シャッター扉を何枚も開けないと辿り着けない病院の地下の奥に霊安室はあった。その霊安室の祭壇に線香がたった一本だけ立っていた。樫村直人はがっくりと頭をうな垂れて、小さくなった母親の遺体の前で大きな体をまるめていた。現代医学の最高峰の技術をもってしても助けることが出来なかった彼の母親がさっき霊安室に運ばれて来たばかりだった。直人はじっと葬儀屋の到着を待っていた。葬式など一切なしで火葬場に直行することになっていた。親類など誰一人としていなかったからだ。

廊下には机が置かれてあり、霊安室の担当職員が電話をかけていた。

「今日は忙しくてな、まだ、帰れそうもないな。」

「・・・・・・。」

「この寒さで入院患者だけでなく、救急で運ばれてくる仏さんも多くてな。」

「・・・・・・。」

「すまんが、また人が来た。また、後で電話するよ。もうちょっと待っていてくれ。」

 

無表情な葬儀屋がいつの間にか廊下にやって来ていた。霊安室の担当職員がその黒いスーツの男に声をかけた。

「ご苦労様です。どちらの?」

「高円寺の吉野祭典です。」

「どうぞ、こちらです。」



 職員は霊安室に葬儀屋を案内すると、すぐ廊下の自分の机に戻り、救急救命センターの職員控え室に電話を入れた。

「樫村ゆきえ様、御出棺です。」

「・・・・・・。」



数分後、霊安室の前の廊下には、樫村ゆきえの手術を担当した病院のスタッフ全員が勢ぞろいした。メスを握った外科部長の松村肇を筆頭に、ふかぶかと頭を下げて、樫村ゆきえが霊安室から出されるのを静かに待っていた。最初に霊安室から出てきたのは樫村直人だった。無言のまま、頭を下げている外科部長の松村に近寄り、胸倉を掴み上げると、すぐに殴りつけた。そばにいた他の医者たちは頭を下げたままでまったく動かなかった。それはほんの一瞬の出来事だった。殴られた松村も何事もなかったかのように、さっきと同じように頭を下げた。



 大柄の樫村直人は振り返り、母親が乗せられた葬儀屋の車の助手席に乗り込み、病院の地下駐車場から雪が降りしきる東京の街に消えていった。東京は本当に冷えていた。





 樫村直人は母のゆきえと二人暮らしだった。と言っても、つい最近、二人で暮らし始めたばかりだった。直人は中学に入り、あいのこ、あいのこといじめられ、半年もしないうちに学校も家も捨ててしまった。何度、世間が直人のことを見放しても、母のゆきえだけは直人のことをかばい続けた。いつどんな時でも直人のことを見守り続けた。直人には兄弟はいなかった。父親は米国軍人で朝鮮戦争で死んでしまった。ゆきえも親の顔を知らない。施設を出てからは独りで生き抜いてきた。だから、直人の家族は母のゆきえ一人だった。



 火葬場から外に出ると、冷たい北風が直人のことを包んでいた。しかし、まだ焼きあがったばかりの母の遺骨が直人のことをしっかりと温めていた。死んでも、まだ出来の悪い自分の息子のことを守り続けていたのだった。





 樫村直人は東京に来て、母と暮らすようになってからはトラックの運転手をやっていた。深夜、コンビニを何店か回って、昼間に注文を受けた品物を配送センターから各店舗へ届ける仕事だ。決して楽な仕事ではない。雨の日は大切な商品にはしっかりとカバーをかけるが、自分自身はずぶ濡れになってしまう。自分勝手なコンビニのオーナーには好き勝手なことを言われたり、お客からもからまれることもある。毎日何万点も扱う商品を間違って一つでも他の店に届けてしまうと、店や本部、そして上司からもさんざんしぼられてしまう。検収印やサインをうっかりもらい忘れても叱られてしまう。コンビニは重たい酒や飲料も扱っているから、体力と気力の両方がなければ続けられない仕事だ。任せられたエリアのすべての店をドライバー全員に覚えさせる為に半年毎にコースの変更がある。だから同じ店を一年以上も担当することは極まれなことであった。樫村直人も東京の北部のコンビニ10店舗を受け持つことになった。初めてのコースだった。運命的な出会いが直人のことを待っていた。



 早苗の四十九日が済んで、正樹は長野の戸隠から東京に戻って来ていた。ボラカイ島には戻らずに、コンビニの夜勤を続けていた。店に新しいドライバーがやって来た。これも天の導きなのか、初対面の時から何か不思議な、運命的なものを正樹は感じた。荷物を運び込んできたのは混血のドライバーだった。ドライバーの胸に付けられた名札には「樫村直人」と記されてあった。しかし、その体格や彫りの深い顔はどう見ても混血、ハーフであることは明らかだった。正樹は初めのうちはこの樫村直人が日本語を話せないのかとおもっていた。来る日も来る日も挨拶だけで、黙って仕事を続けていたからだ。時間が余ると、コピーを数十枚、何度もとって帰って行った。そんなことが数週間も続いた。いったい何をコピーしているのか正樹はとても興味があった。

ある朝、お客様がコピー機の中に忘れ物があると言って、正樹のところに一枚の紙きれを持ってきた。誰かがコピーをして原本を取り忘れたらしかった。その夜はお客は少なく、最後にコピーをとったのは樫村直人だと、すぐに正樹は判った。何度も樫村直人がコピーしていた文面はこうであった。

「この病院は平気で人を殺します。特に外科部長の松村肇は鬼だ! 私は母親を虫けらのように殺されました。」



 翌日、正樹はドライバーの樫村直人にそのコピーの忘れ物を返した。

「これ、君の忘れ物だろう。」

 そう言って、直人の書いた脅迫めいたコピーの原本を手渡した。樫村直人はそれを受け取ると、吐き捨てるように正樹に言った。

「あいつら、俺のお袋を殺しやがったんだ。たった一人の、俺にとってはたった一人の家族のお袋をな・・・・・・。」

「君のお母さんは病気だったのですか?」

「いや、トイレでいきんだら、急に背中が痛み出して、それで、急いで救急車を呼んで病院へ運んだんだ。そうしたら、医者の奴ら、緊急の手術が必要だとか言ってな、お袋を切り刻みやがった。手術をして、二日後、急に血圧が下がってお袋は死んでしまったよ。手術室から出てきた時の、あの医者の自慢げな顔を思い出すと今でも吐き気がする。」

「それは気の毒なことをしたな。」



 その夜はそれだけ話して、二人とも言葉が続かなかった。



 自分の胸の苦しみを明かしたせいなのだろうか、樫村直人は正樹に対して親近感を抱いたようだった。日を重ねていくうちに、次第に言葉を交わすことが多くなってきた。正樹は慎重に言葉を選んで直人に聞いてみた。

「お母様の死亡診断書には何と書かれてありましたか?病院が発行したものです。もし、お嫌でなければ聞かせてもらえませんか?」

 樫村直人は黙ったまま、店から出て行った。外に止めてあるトラックの中から、一枚の紙切れを持って、再び店の中に戻ってきた。

「これがお袋の死亡診断書ですよ。わしには読んでもさっぱりわからん医学用語だ。」



 正樹はそれを直人から受け取り、いったんその死亡診断書をカウンターに置いた。レジの前に来ていたお客の精算を済ませてから、ゆっくりと樫村ゆきえの死亡診断書を拝見した。

「大動脈解離でしたか。お母様は大動脈解離という難病にかかってしまったのですね。」

「あんたはその大動脈何とかというやつを知っているのか?」

 正樹は自分が医者であることを告げるのを止めた。まず医者としてではなくて、樫村の気持ちの側に立って話をすることにした。

「それは大変でしたね。この大動脈解離という病気は身を引き裂かれるような痛みだと聞きます。お母様のことを考えると・・・・・・、君の心中がよく分かりますよ。」

「あいつら、失敗しやがったんだ。」

 いかにも悔しそうな表情をしている直人に、どう説明したらいいのか、正樹はまよった。

「100万人に5,6人の難病ですね。東洋人よりも欧米人に多く、しかも女よりも男の方に

多いという統計がありますよ。お母様は大変な病気になってしまったのですね。本当にお母様のご冥福をお祈りいたします。」

「何だか変だと、おもったんだ。手術前に俺にはよく分からない説明を長々としやがってな、それを看護師がすぐ側で一字一句、全部メモってやがった。おそらく録音もしていただろうな。それが終わると、何枚も書類に署名捺印させやがった。すべての責任は、この俺にありと言わんばかりにな。」

「それはつらい経験をしましたね。きっと、それがその病院の決まりなんでしょう。」

「医者はこのまま放っておけば、明日までもたない、命にかかわると言いやがった。10パーセントから20パーセントのリスクはありますが、ここは命を救うことを考えてもらって、手術をお勧めしますと言いやがった。そんな言い方をされれば、誰だってノーとは言えないだろうが、違いますか?」

「確かに、その通りですね。選択の余地がない決断でしたね。お気持ち、察しますよ。大動脈解離も心臓に近くない場合は徹底的に血圧を管理した内科的な治療で様子をみますがね、お母様の場合はおそらく心臓の近くまで、解離した血液が流れ込んでしまったのでしょう。それで緊急手術になってしまったとおもわれますね。」

 樫村直人は運び込んだ台車から荷物を下ろして、その台車の上に座り込んでしまった。店内にはまったく客がおらず、直人は胡坐をかいて、正樹のことを見上げるようにして話を続けた。

「それから、心臓の弁も取り替えると言いやがった。薬を飲み続ければ死ぬまで使える人工の弁と薬を飲む必要はないが15年位しかもたない豚の弁のどちらにするかを決めろと言われた。それって、人間が決めていいことなのか?人間の命の長さを人が勝手に決めていいのか?」

「そうですね。おっしゃる通りだ。ある意味、現代医学はすでに神様の領域に踏み込んでしまっているのかもしれませんね。倫理的に議論が絶えない問題ですよ。」

「俺の部屋に置かれたお袋の骨を見る度に、駄目なんだよ、悔しくてな、・・・・・・分かるい?この気持ちが?」

「分かりますよ。・・・・・・そうですか、直人さんもお母様のご遺骨はまだ納骨せずに部屋に置かれてあるのですね。僕の部屋にも骨つぼがありますよ。」

「誰か、亡くされたのか?」

「ええ、大切な人を失いました。島に戻って、共同墓地に入れようとおもっています。それが彼女の遺言でしたからね。」

「島?」

「ボラカイ島と言います。小さな島です。実は、自分はそこに住んでいる者ですがね、こうして日本に出稼ぎに来ているというわけです。私もあなたと同じで、大切な人を失いました。島で一緒に暮らしていたパートナーを劇症肝炎で亡くしました。生前、彼女がその島にある共同墓地に入れてくれるように希望しましたので、約束通り、もう少しお金が貯まったら一緒に帰るつもりです。こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、どうです、直人さん、一緒にボラカイ島に行きませんか?うまく言えませんが、何か、手では掴めないものが見えてくるかも知れませんよ。」









chapter51を書き始めました。 

February 16 [Sat], 2008, 16:51

ホーム・ページで4kmも続く白い砂浜、ボラカイ島の写真を公開中。
―――長編小説「ボラカイ島」奇跡の島 南 右近――――
で検索して下さい。無料!
http://www7a.biglobe.ne.jp/~minamiukonboracay/



プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:minamiukon2006
読者になる
2008年12月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
最新コメント
アイコン画像ダッチ伊藤
» 彩花 (2008年10月12日)
アイコン画像猫男爵
» 彩花 (2008年10月10日)
アイコン画像チャーリー
» 彩花 (2008年09月30日)
アイコン画像ikumi
» 彩花 (2008年09月26日)
アイコン画像ハム太郎
» 彩花 (2008年09月20日)
アイコン画像えびふりゃー
» 彩花 (2008年09月14日)
アイコン画像ぽこたん
» 大動脈解離 (2008年03月11日)
アイコン画像閣下
» chapter51を書き始めました。 (2008年02月19日)
アイコン画像京平
» 魚の餌 (2008年02月19日)
アイコン画像名無し
» 魚の餌 (2008年02月11日)
Yapme!一覧
読者になる