それは違うのです。

May 10 [Thu], 2012, 17:18
私のブログにはよくjwという文字が出ます。
姑息かなとは思いますが、これも理由があります。

知りたい人は探せばいい。
知りたくなければそのままでいい。

何故なら私は別に某宗教を糾弾したい訳では無いからです。

信仰というのは自由だと思うのです。

信じられる人は信じればいい。

だけど、それはその対象物を心から求め、探究し、そして信じられるならば、です。

私には恨むつもりは全くないなんて嘘はつけませんが、少なくともその宗教の裏話をとか、こんなのだから悪いとか、そういう意味で書いている訳じゃ無いのです。

そんなの意味が無いし、こうして書いている私は某宗教からすれば既に背教者になってしまっているでしょうし・・・だけど、結局人間に完璧な人などいない訳ですし、それは親は勿論の事ですが・・・。

それでも、こうして書くのはただ吐き出したい、等身大の私を表現するだけの場所でいいと思っています。

ですので、宗教糾弾でも弾圧でも・・・決してそういう意味で書いているのでは無い事だけは知って下さい。

事実は事実のまま。
過ちは過ちのまま。
嘘偽りなく書きたいだけです。

時にそれは某宗教に対する恨み言に聞こえるかもしれません。
それは仕方が無い事だと思います。
マインドコントロール。これは事実ですから。

但し、前にも書きましたが人によっては親から教えられても信じる人がいます。
それはマインドコントロールによるものでは無いと思うのです。

私の場合は親が教育を誤ったパターンです。
そして親自身も病んでいたと思われます。

だからといって仕方無いよね。と言える程に簡単なものでも無く、取り返しのつかない、二度と帰ることは出来ない所まで突き落とされたのは事実です。

上手く纏まらなくなるのでここで切りますが、私は某宗教の悪口を言う為にブログを設立した訳では無いという事を前提に書いています。

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戸籍

May 10 [Thu], 2012, 14:27
私は自分の名前が嫌いだった。

だって、名前を呼ばれる時にはどうせ余計な事を言われるだけだし。

親が考えて付けてくれた名前。
それを変えるなんて親不孝だと思われるかもしれない。
それでもいい。
私は戸籍上の名を変更した。

巷で戸籍改名のススメとかなんとか、そんな本が出回っているけれど、あんな糞みたいな本で変えられる程、戸籍変更は簡単なことでは無い。
そう。私も騙された。
何がサポートだ。
何度電話しても英語の流れる留守電しかない癖に。
正直騙しだと思っている。
消費者センターに出向こうかとも思ったが、面倒くさい。
今後、名前を変えようと思う方はあんな本には絶対に手を出さないように。
巻末のオマケも糞だ。
だってPCでダウンロード出来るんだもの。

少し話が逸れたが、結局は自分で頑張るしかないのだ。
頑張るといっても、響きが嫌だとか、画数がダメだとかそんな理由で裁判所は戸籍を変更してくれるほど甘くは無い。
本に載っていた小芝居を打ったところで何も変わらないだろう。

私の場合。ハンネで使っていた名前であった事、事情が事情である事が加味されて即日変更になった。
胃がキリキリと痛む程に緊張もしたが、それよりもなんとか過去の私を少しでも捨てたくて、その勢いだけで押し通した。障害者手帳も良かったのかもしれない。良いなどという言葉を使うのはおかしいのだが。

それで何かが変わったのか。

大きく変化した、と思う。

主人に名前を呼ばれる度に気持ちが暗くなった。
自分の名前を何かに書き込む度に胸が痛くなった。

新しい名前はちょっとだけ私に希望をくれた。
裁判所から出たあの日。
空は抜けるように青く、桜が優しく揺れていた。

親は勿論認める訳も無く、相変わらず前の名前で呼ぶけれど、それはそれでいい。
それ程気にしない。

だって、もうその名前の人物は存在しないんだもの。
新しい私は戸籍という大切な書類上からも変わってしまっているのだから。

結婚し、姓も名も変われば、過去の知り合いはもう私を探す事は出来ないだろう。
そもそも、私なんて存在を誰も気にする訳も無いのだが。

新しい名前はほんの少し変わっている。
だけど、そういう人間になりたいという私の願いを込めて選んだ名前だ。

何一つ後悔などない。

親に申し訳ないと・・・多少は思った。

でも。正直本当に「多少」だ。

今は堂々と新しい名前で生活出来る。ハンネじゃ無い。
本当に私の名前。

そこまでするか?と疑問に思うだろうか。
私にとってはそこまでしなくてはならない程に過去の名前に重りが付いていた。

その名前に少しでも優しい思い出があればいい。

なんにも無い。

今では眉を顰めたくなる程に忌まわしい名前となっている。



子供でいたかった

April 30 [Mon], 2012, 14:52
5歳・8歳・13歳。

私が犯された年齢だ。

5歳でそんな事があるのか、疑問に思う方もいるでしょう。
ではあの日、下腹部から流れた大量の血は幻覚とでもいうのでしょうか。

普通ならばちょっとした事件にでもなりそうな話ですが。
実はそのちょっと前に、おつかいを頼まれた私は、今で考えると高校生くらいの男子にお墓に引きずり込まれそうになり、(叫び声を上げたら蹴飛ばされて相手は逃げた)恐ろしくて・・・膝から血を流しながら、泣きながら、帰ったのですが母はまるで他人を見るような目で「あんたがだらしがないからでしょう」と一言っただけで殆ど無視されるも同然だった。付け加えて「そんな歳で恥ずかしい」とも言った。

そのほんのちょっと後での出来事だった。

やはりおつかいの帰り道。

何故私があそこまでついて行ったのか、その時の事はまるで思い出せないけれど。
多分、何か頼まれ事をされたのだと思う。
だから、その時は引きずり込まれた、という感じでは無く、気がつけばもう逃げ出す事が出来ない状況に陥ったとしか。中年の男性だった。私を無理やり膝に抱くとそのすぐ後に気が遠くなるような痛みが走った。
5歳児の腕ではそこから逃げ出すには余りにも無力だ。

事を終えると男性は当たり前だが逃げた。

私は痛みよりも、血が出ている事よりもまず最初に「母親」を考えた。
「どうしよう。また嫌な事を言われる。だって、私が悪いからだもん。」

歩くのにもしんどい状況だったが、私なりに何事も無かったかのように振る舞い、黙ってシャワーを浴びた。
「勝手にお湯を使うんじゃない!」と激怒されたが、だらしないとか、恥ずかしいとか言われるよりましだと思っていた。

8歳。
小学生の私に帰る友達などいなかった。
今考えればあれが通学路など、まるで犯罪を誘発しているようなものだが、時代なのか。
橋の下にさしかかった時後ろから来た自転車に轢かれた。
倒れた私の両腕を引っ張って、橋の下にある廃墟に連れ込んだ。
学生服を着ていた。恐らく高校生だろう。
8歳にして私はこれから何が起きるのか、想像がついた。
逃げる努力も空しくまるで大人の性行為だった。
痛かった。色々な所が。そしてまた思うのは母だった。
「服破れちゃった。どうしよう。怒られる。」
既に私の思考回路は壊れていた。

13歳
中学生の私には初恋の人がいた。
その頃は苛めも無く、どちらかと言えば周りから女の子扱いされて、居心地がとても良かった。
告白もされた。ラブレターも貰った。
好きな人も出来た。
でも、それがなんだというのだろう。
jwの私には常に「世の交わり」「滅ぼされる」「サタン」という言葉がついてまわり、甘い気持ちのままでいる事など許されなかった。
それでも「好き」という気持ちに嘘はつけなかった。
運悪く、私に好意を寄せてくれた人に学校の中でも不良中の不良、手の付けられない男の子がいた。
裕福な家の子の癖に、悪ぶって、私の為にと万引きしたCDを持ってきた。
私は「ごめん。そんなの受け取れないよ。」
それっきり会話をする事も避けるようになっていた。
この受け取れないには二つの意味がある。
貴方を好きにはなれない事。それが「万引き」したものである事。

私がとても好きだった男の子は双子の弟の方だった。
何故か未だに彼を夢でみる。
優しくて、スポーツ万能で。
私からすれば高嶺の花だった。

ある日。他のクラスの男子に「○○さぁ、×××が用があるから陸上部の部室に来てほしいってさー。なんか急ぎみたいだぜ」
私は動揺を隠せなかった。
それは私が好きな人からの呼び出しだったから。
そんな時でも「行ってしまったら世との交わりになってしまう」という強い罪悪感が付きまとった。
それでも少女の私は恋を選んだ。

部活を禁じられていた私には部室なんて未知の世界だった。
そっとドアをあけてみる。
とても静かだ。
「あれ?私遅すぎたのかな?」
そう思った瞬間、後ろでドアが荒々しく閉められた。
皆が無言のまま私を押さえつけスカートは簡単に捲りあげられてしまった。

「汗くさい・・・」
もう私は暴れる事すら諦めた。
相手は誰か分からない。
3人はいたと思う。

真っ暗な部室に私は投げ捨てられた人形のようだった。
白い夏服のセーラー服は汚れ、生々しい匂いだけが残った。
私は笑ってしまった。
「馬鹿だなぁ。私があの人に呼び出される訳ないじゃない。こんな底辺の不細工にさ。」
別に卑下する訳では無い。
文字面を見れば卑下の言葉だが、これが私の自己評価だ。

後で、それがCDを受け取らなかった事の復讐と聞かされても「ふうん」としか思わなかった。

どうせ汚れた人間だし。
悪魔の子だし。
滅ぼされちゃうだけだし。

妊娠しなかったのは本当に良かったと思うが、そういう問題じゃない事は今の私になら分かる。

その後の私はまともな恋愛などする事は無かった。

高校受験の為についた家庭教師は10歳年上の「素敵なお兄さん」だった。勿論jwである。今は、大病院の娘と結婚し屋久島で長老をやっているっていうけど信じられない。
馬鹿な私を進学校に入れてくれた事だけは感謝している。
私が大人しいのをいい事にセクハラし放題だったよね?
肩を抱いたり、部屋に泊まって添い寝させたり、指を絡めたり。
高校に入ったら家庭教師なんて要らないのに「○○さんと離れたくないのです。続けさせて下さい」
結局、高2の頃結婚の話になってやめると言いだし、慌てたのは母親だった。
「僕の家庭とお宅の家庭が釣り合うとでも思っているんですか?」
下らない男だなぁと私は他人事のように見ていた。
母は本気で高校卒業後、その男と結婚させるつもりだった事が分かった。
「責任取って下さいよ!」
馬鹿みたい。馬鹿みたい。馬鹿みたい。
その人の事?好きじゃ無いっていったら嘘かもしれないけれど、軽薄で信用出来ない男だっていうのは見抜いてた。
だから結婚なんて夢はみてなかった。
必死なのは母親だけだった。


高校は女子高だし。
実は高校に入ってから私の初恋の人から「付き合おう」と言われていたが、休日にも外出出来ない私にはどう考えても無理な話で。
毎日泣く程辛かったけど、ピアノに打ち込んだ。
進学する充ての無い私がどんなに良い成績を取ろうとも、意味が無いのだが。
ピアノと聖書。それしか私には無かった。
同志社大学から推薦の話が来たが、親に言うだけ無駄な事は重々承知だった。
私は音楽の勉強をもっともっとしたかった。
言えなかったけれど。
卒業間際、その高校を卒業しただけでは某音楽教室の講師になる資格が得られない事を知った母は焦っていた。
しかし、時既に遅し。全ての大学の入試が終わり、専門学校という道しか残されていなかった。
高校で高度な授業を受けていた私に専門学校はまるで幼稚園だった。
学校からは、色々な事を期待されたけれど、まともに学校に通う意欲など即失せてしまった。
挙句。
専門学校では、優しさだけを求めて教師と不倫をした。
直ぐにばれた。その教師は退職に追いやられた。
私はいっその事排斥にして欲しかった。

真理委員会というものにかけられた。
私がまるで聖書に対して無知な事がそこで明らかになった。
私が泣いたのは不倫相手と会えなくなる事に対してだったのに。
その涙を「反省」と勘違いされ、私はほんの少しの罰と、暫くの謹慎処分というなんとも中途半端な状態で終わってしまった。
「この恥っ晒し!お母さんあんたの馬鹿さで恥をかいたじゃない!なんなの!」めちゃくちゃに殴りながら怒られた。

そうだよね。私っていっつも恥ずかしい事しかしてないよね。

異常なのはこの後だ。休学中、私の生理は大幅に遅れた。胸も痛い。それに気づいた母は何故か「嬉しそう」なのだ。進んで妊娠検査薬まで買ってきた。冗談じゃない。「妊娠するとねぇ・・・」と楽しげに話す母をどんな目で見ていたらいいのか分からなかった。結果は精神的ダメージによる単なる遅れだったのだが。当然母はいつもの不機嫌な人に戻った。

暫くして復学するとその教師も二度と私と個人的に会わないという約束で退職は免れていたが、そもそも相手は私を好きなのでは無く、風俗の代わりにしていたのだから。関係は直ぐに戻った。

しかしそれも束の間。

卒業式間際。
相手は「別れて欲しい」

納得出来なかったけれど。
結局退職になったらしい。
だからあんなに「嫌っていた」奥様と新たに音楽教室を開くのだと。
「奥様」がどんなに大切な存在か分かったと。

19歳の私に理解しろという事だ。
私も就職が決まり、数日泣いて、それどころではなくなったのだが。

母は私からみて「お母さん」と呼べる優しい存在じゃ無かった。
女対女。
私は女としてしか見てもらっていなかった。

お母さん。私は子供のままでいたかったよ。
どうしていつも「家庭に女は二人要らない」って言ってたのかな。
5歳でも、8歳でも、13歳でも私は貴女から見ると「女」だったのですね。

ホント、私なんか橋の下から拾わなければ良かったね。

最近は私に「お前はもう若くない」を連呼するのが楽しいみたいだけど。
そういうの正直飽きたし慣れたよ。

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通院するに至った訳

April 28 [Sat], 2012, 16:18
32歳の初夏。
とても蒸し暑い日だった。
私の体調はとうに限界を超えていた。体調というより精神面というほうが正しいのだろう。

いつもの日曜日。集会のある朝。

「彼」は遠方より親元を離れ一人暮らしをしながら立派に自活し、誰にでも愛される好青年だった。
集会所で「彼」は駐車場係をしていた。
その「彼」は主人の歳の離れた親友でもあった為、我が家にも良く訪れ、私は漠然と「何故彼はこんなにも明るく眩しく思えるのだろうか」と。本当に漠然と思っていた。
齢25。
私の中ではちゃらい今時の2世かと思うところもあった。

その「彼」がその日曜日急死した。

元々心臓の弱い「彼」ではあったが続く暑さ中での仕事と、前日より訪れた友人と朝方まで語り合っていたらしく、そのままサーフィン。そして夕方は都内まで出かけフットサルをし「休憩してくる」それが「彼」の最後の言葉だったらしい。「彼」は静かに息を引き取った。恐らく苦しむことは無かっただろうというのが医師の見解。

私は耳を疑った。
その日、私は「彼」と言葉を交わした。

「暑いから仕事キツイね?心臓大丈夫?」
「キツイっすねー。でも大丈夫です」
いつもの人懐こい笑顔とともに。
その日は席も近かった。
だから「彼」が息苦しそうにしている事にも気が付いていた。

無理をしたのだろう。

第一報は私の知らない主人のサーフィン仲間からだった。
「心臓が止まった」「救急車の中」「病院へ搬送」「亡くなった」

「彼」の元へと友人一同で車で向かっていたが、流石に「亡くなった」と聞き、その日は皆一旦自宅へ戻る事にした。

次の日、「彼」の自宅へ伺った。
「彼」は一人っ子だった。

その時は私も想像以上の衝撃を受け、本当に悲しいと涙が枯れる事を知った。
彼の家の周りでは部屋から溢れた友人達が皆、道端に並び、肩を落とし、なかには号泣しながら拳を道路に叩きつけ血だらけになりながら悲しむ姿も見てとれた。
ご両親は驚く程に落ち着いていた。「好きな事をしたまんま死ねたんだからアイツは幸せ者だなぁ」

「彼」の姿を見るのは忍びなかったが、お別れはしなくてはならない。
今にも「みんなどうしたの?」とでも言いながら起き上りそうにも見えた。

告別式には何百人という人が集まった。
「彼」がいかに皆に愛されていたかよく分かるものだった。

私達夫婦は「彼」の部屋の片づけを申し出た。
時期も時期だった為、早く処分しなくてはならない物もある。

何度か訪れていたアパートではあったが、プライバシーを侵害しているようで私はあまり気乗りがしなかった。
冷蔵庫の上には沢山の量の薬、健康食品が置いてあった。
まずは冷蔵庫の中を。
一つ一つ手に取り、ごみ袋へ入れていく。
その度に涙がやっと流れてきた。

「彼」が生きた証。

勿論、ご両親に見てもらわなくてはならない場所には手は付けなかった。
箪笥や、クローゼットの中等は「彼」のプライベートだ。

ただ。

私は見つけてしまった。

テレビの前の小さなテーブル。その上には聖書とそれに纏わる出版物。
手に取ってみる。
赤い線。聖書からの引用文の書き込み。
「彼」は本気で「信仰」の道を選んでいた事が分かった。

その時、私は気が付いてしまったのだ。
私には彼程の「信仰」があるのだろうか?
ちゃらいなんて言葉で片づけてしまっていた「彼」のほうが実は私よりも先に「自ら」道を見つけていたのだ。

私は悲しみに浸りながらもその日から狂ったように「個人研究」という、所謂聖書の勉強を始めた。
何も分かっていない。
だから子供向けの本から始めた。
何時間。何日。
何故か私の心に響かない。
何も入ってこない。
何故?何故?

そうしているうちに私は集会所で座っている事が出来なくなった。
汗がロングスカートをぐっしょりと濡らし、滴り落ちる。
最初は一番後ろの席へ。
最後は第二会場という、区切られた席へ。
それでも、私の体からは大量の汗が流れ落ち、心臓は激しく脈打ち、何かを叫び出したいそんな衝動に駆られた。

私は理由が分からず、内科、循環器科、婦人科、と渡り歩いた。
何も異常は出なかった。

では何故?

婦人科の先生には多汗症の症状からして甲状腺の病気を疑われた。
正直、そうであって欲しかった。
結果は勿論「異常なし」だった。

私は認めたく無かった。
それでも日ましに症状は悪化し、最終的に訪れる病院は「精神科」しか無くなってしまった。
もう、嫌だなんて言っていられない。
日常にも差し支える程に症状が出るようになっていたからだ。
大好きな洋服一枚、買う事が出来ない。
人目が怖い。
怖くて堪らない。

私が住む区域の精神科は数える程しか無い。
朝一の受付をしても夕方5時まで名前を呼ばれないなんて事も普通だった。
ところが、これにもまた私は追い詰められた。
待っている間、様々な患者さんを目にする。
壁に向かってずっと罵声を浴びせている人。
急に暴れ出し、両親に押さえつけられる女性。
目の前を何度も行ったり来たりする男性。
指をかみ続け血を出す少女。

これでは私が先生に話をする前に倒れてしまいそうだった。

本当に偶然なのだが、義母がある精神科医を知っていて、紹介してくれるという話になった。
自宅からは1時間以上かかる場所だったが贅沢は言えない。
しかも評判の良い院長先生だという。
本来ならもう新患は受け付けないところ、義母の紹介ならば、と受け付けて頂けた。

最初は外来扱いで数分のカウンセリングだった。
だが、数回の通院の後、私は「予約患者」扱いとなった。

私はただ、この症状を治す事が出来ればと単純に考えていた。
ところが、先生と話すうちに切り口が変わってきた。
育った環境、親兄弟との関係、何が関係あるのかまるで理解出来ていなかった。

過去は葬っていたはず。否。考えてもいなかった、が正解であるが。
問題はそこにあったのだ。

何も考えずに生きてきた私の心は「精神的虐待」という事実さえ認識せず、最初は認めようとも思わなかった。

「本当に治りたいのならどんなに時間がかかっても、そしてどんな辛い話でも全て僕に話さなくてはいけない。それには其れ相当の覚悟がいるけれど、大丈夫かな?」

実際はその先生の言葉を理解は出来ていなかった。
治るのなら、と「勿論です」と答えていた。

それが新たな「苦しみ」の始まりである事も知らずに。

後々書いていこうとは思うが、この苦しみを後悔はしていない。
その最中にある時は酷いものだったが。

32歳にして、私は初めて「考える」事を知った。
自分で物事を考えて行動するなんて言う事はある意味動物だってしている事かもしれない。

私は4歳から32歳まで痛みを感じても「考え」なかった。
考えたって仕方がないと早い時期で決めてしまったから。
心は麻痺し、どんな痛みも全て呑み込み、仕舞い込んでいた。
狭いレールの上を母という飼い主から見えない首輪で引っ張られていただけの人生。

私は亡くなった「彼」に心から感謝している。
多分、自爆するのにそう時間はかからない所まできていた筈だけれど。
「考えない人=人形」からやっと人間らしい感情を取り戻すのに機会を与えてくれたのは紛れもなく「彼」なのだから。

それでも、「彼」は悲しむだろう。
そんな切っ掛けを与えてくれたけれど、私は「彼」の信じる道からは逸れたのだから。
ごめんね。
それでも、上っ面の信仰なんてもうしたくは無いし、何より、信仰心のある人に失礼であろう。

通院しながらも私は自分に何度も問いかけた。「本当にjwの生活を手放していいのか?」
手放すも何も、最初から私は何も持っていなかったのかもしれないけれど。

恐らく私という人格を感じ生きる事が出来るのは今この時だけだ。

もしも聖書にある通りに、永遠の命があるとしても、正直私は要らないと心から思っている。
それが6年かけて通院して出せた答え。

刹那的だとjwの人ならば言うのだろうか。
私は刹那的な人生でいい。
明日死ぬかも分からない毎日。
それならその一瞬一瞬を自分の為に使い切って行こうと思う。

とても自己中心的な考えであろう事は百も承知だ。
ある意味母の言う通りなのだろう。

しかし、もしも「普通」(普通という定義が実は一番あやふやなのだが)に育てて貰えたのなら、私は何も自分を癒す為にと、こんな考えには至らなかっただろうとも思う。

取り戻せない物を自分の手で埋める。作り上げる。

開き直れば何故今までの苦しみを癒す作業を止めなくてはならないのか。

足らない頭で考え、毎日波にのまれながら私は私を確立する為に生きているのだ。
そう。今はそれでいい。そう思う。
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優しくて残酷な思い出

April 27 [Fri], 2012, 13:56
我が家は父が仕事に関して有能だった為、恐らく生まれてからあの人たちが来るまで、普通よりも裕福だったのだと思う。

母はまだ25歳だったが新築の家を建てて真っ白で小さな家は幸せの象徴だったように思う。

事実、3歳までの私は兎に角甘やかされ、大切にされていた。
思い出すのは夕方、夕食の準備を終えた母は必ず私に添い寝をしながら絵本を読んでくれた。
テレビは子供番組がついていたと思う。母はくせ毛の私の髪を結ってくれたり、優しく撫でてくれたり、一番好きだったのは母の豊かな胸にぎゅうっと抱っこしてもらう事だった。そんな日が毎日続いていた。

私の中で一番の子供時代の「優しい」思い出は3歳の誕生日だ。
苺の沢山乗ったホールケーキ。
私を抱いて歌を歌ってくれた父。
私の体より大きな熊のぬいぐるみのプレゼント。
父の会社の人からのおもちゃのプレゼント。
母が腕をふるった沢山のご馳走達。

それは一枚の絵のように思い出として残った。
そう。文字通りの「絵」でしかない。

あの人達が聖書など持ち込まなければ・・・我が家はあのまま幸せの絵を描き続けた筈。
勿論そんなの、筈、であって分かりはしない。

あの人達が来るようになって私の生活は一変した。
正に地獄の始まりだった。

母は文字通り「鬼」と化した。
数年後父も同じ信仰を持ち、サラリーマンを捨て、職を転々とした。
極貧の始まりだった。

親子3人いつも二階の部屋で正に川の字で寝ていたのに、私は一階の押入れで眠らされた。
テレビはただの箱になった。
私に与えられた娯楽。それは将来の私へと父が買った世界の名作集という本・粘土・チラシの裏紙。本当にこれだけだった。

外出は許されない。
もっとも、幼稚園すらいっていない私に「お友達」などいないのだが。

子供は遊んで色々な事を学ぶ。
私には遊ぶ相手などいないし、相手をつくる事すら出来なかった。

綺麗だった家は目もあてられない程に荒み、汚れていった。
宗教と掃除をしない母はイコールにはならないけれど、恥ずかしいと思うほど汚かった。

母の私への愛情は憎しみに変わった。
真夏の庭で私は水ぶくれが出来るまで立たされた。
火傷した肌の痛みに耐え切れずに泣くと、容赦ない母の罵声。
水ぶくれが無くなればまた同じ事の繰り返し。
泣けば、罵声で心の痛みが増えるだけ。
いつしか私は舌先を噛んで涙を止める癖がついた。

幼くして私の肌はシミとそばかすだらけになった。

父はというと、おおよそ私と変わらない扱いだったと思う。

兎に角強い母だった。
人を辱めるのに最適な言葉を選んでぶつける。
父はそんな母に言い返す事もせず、ふて寝という作戦を取っていた。

子供らしい心を失ったまま私は小学校へと入学した。

私の中にあったのは「恥ずかしい私」「バカな私」「私はサタンの子」「滅ぼされる」
恥と恐怖。

容赦ない残酷な子供の苛め。

私には余裕なんて砂粒ほども残っていなかった。

そうとはしらずサバイバルな毎日を送っていた。

これで、勉強が出来る子供になると思うだろうか?
常に私は何かに怯え頭の中には靄がかかったまんま。
何をしに学校へ行くのかすら分からなかった。

成績は常に酷いものだった。
宗教上、本を読む習慣だけはあったので国語だけは出来た。
でもそれだけ。

通信簿。

「こんなに頭の悪い子、家の家系にはいない筈なんだけど?やっぱり橋の下なんかで拾うんじゃなかった」

家に帰れば良くわかりもしない宗教関係の本を読まなくてはならない。
勉強に充てられる時間なんて無かった。

既に低学年にして勉強自体「何が分からないのかが分からない」という最悪な状況に陥っていた。

今の私にその頃の私について代弁させてもらうなら「集会」も「奉仕」も「大会」も大っ嫌いだった。
分かりもしない事を「注解」させられる恐怖。
宗教を捨てた私に母は言う「愛の神」についてもう一度勉強してみたら?
宗教を捨てた私に母は言う「クリスチャンを辞めると自己中心的になるわよね」

愛の神?愛の神を信仰する親が「蚯蚓腫れ」を起こす為に針金入りの鞭を作ったりするのだろうか?子供は叫び声を上げて泣く程痛めつけなければ悪い事を理解しない。そんな教えがあった。(今は体罰についての見解が大分変っている)
地域大会という幾つかの県で信仰している人を集めて話を聞くイベントがあった。
お手洗いは用を足す場所では無くどの扉からも子供たちの絶叫が聞こえていた。
只、お手洗いに来ただけなのに私は罪悪感をいつも覚えた。
それは別に大会だけに限った事では無い。
子供が2時間も分かりもしない話を微動だにせず聞き続ける事が出来るだろうか?
集会でもその習慣は変わりはしない。
玄関を開けた目の前に鞭はぶら下がっていた。
ほんのちょっと、そう、ほんのちょっと飽きた様子を見せるだけで、子供たちは外へ引きずられ針金入りの鞭で容赦なく叩かれた。
そんな習慣に恐怖を覚え自家中毒を起こし、集会に来るたびに嘔吐する子供すらいた。
幸い、私は家での母を見ていた為2時間じっとしている事など平気だった。
頭の中はからっぽでも。
そしてここと決めた場所で手を挙げて「注解」する。
そうすれば私の役目は終わる。

こんなの「信仰」とは言わない。
2世の苦しみはここだ。
気がつけばその宗教のルートに乗せられその狭い狭い道幅からはみ出す事を許されない。
「信仰」なんて無いのに。だ。
誤解してもらっては困るのが勿論2世全員がそうだとは言わない。
だけど、私と同世代の2世は知っている限りが殆ど自然に離れたり、一番多いのは「排斥」だ。
残っている2世は稀だろう。

特開者・・・「あの人」達の事を指す。
宗教に人生を捧げた人の事だ。

大人になり、病院へ通い、少しだけ世の中の常識を知った今、私は何を思うのか。
これだけ酷い毎日を送っていたのにもかかわらず信仰を捨てた「罪悪感」が消えないという事実。

それでも、あの優しい思い出を、それからの私という「個人」を闇に葬ったあの人達を許せる程私は優しくは無い。
あの人達は生きているのだろうか?どうでもいい。
生きていようが死んでいようがもう私の壊れた人生に何の影響も及ぼさないからだ。

ここまで読んで下さった方には分かるだろう。
私の母も恐らく信仰を持ったが故に何らかの精神疾患を患っていたに違いない。
信仰とは関係無い、私への憎しみは異常だった。

それも・・・だからといって許す許せないの問題では無いのだが、過去のあの人に何を期待すればいいというのだろう。
結局は自分なのだ。
どんなに傷付けられても。
自分を癒せるのは自分だけ。

残念な事に優しい筈の思い出も今では只、私を苦しめる材料にしかならないのはとても悲しいと思う。

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色々あったね

April 26 [Thu], 2012, 14:12
私は好きでここまで何も知らずにおばさんになったワケじゃ無い。

4歳から始まった異様な生活。

私は身体が弱くって泣き虫で、そういうのが母親には癪に障ったみたい。

外出は禁止。世に染まっちゃいけないからだって。
テレビも禁止。理由は同上。
幼稚園にも行かせて貰えなかった。これも同上。

私がする小さな「発言」全てに母親は「悪魔」「サタン」「滅びる」と言った。

自我が芽生えるなんてあったのかな。
もう幼児にして全てを諦めてた。
考える事を止めた。

小さいから「死にたい」とかは思っていなかったけれど「消えたい」とは思った。

小学校の入学式。
みんなは素敵なスーツを着ていた。
私は毛玉の付いた茶色いお古のワンピース。

小学校の6年間、友達は一人も出来なかった。
教師にさえ鼻つまみ者だった。
頭も悪く、字も汚い。癖毛の私の髪はいつも母親に適当に切られてちびまるこちゃんの方がまだましなくらい酷い汚さだった。
信じられないでしょうけれど、教師に手のひらに鉛筆を刺された事がある。
絵心だけはあったので、図工だけは得意だった。
県で賞を頂いた事もある。
けれど、それは教師にとって余計な事だった。
全ての賞は頭のいいあの子にあげなくちゃいけなかったのだ。
それを阻止する為だと思う。
利き手の手のひらに尖った鉛筆を力を込めて刺された。
芯は今でも残っている。
寒い日には透けて見える。

苛めもエスカレートした。
誰も止めてなんかくれない。
同じjwの同級生だって無視だ。
いつでも時代遅れの恰好。
酷い時には真冬に真夏のスカートしか無いなんて事も。まぁそんなのザラか。
ネームを止めるピンすら買ってもらえなくって指で一日付けている振りを何日か続けた。

6年生の冬。家に帰ってペンケースを見たら「死ね」と書いて丸めた紙が沢山出てきた。
それを見て泣く私に母親がいった一言「そんなの気にする方がバカだ」

中学に入ってからは他校の生徒が入ったお蔭で苛めも無くなり、寧ろ私は自分を守る為に不良達にお金を渡し、jw仲間からは「○○○ちゃんと付き合うと悪魔になる」と言われた。
どうでもよかった。
母親は益々私を縛り付けた。毎日自室は荒らされていた。
鞄のチェックは毎日の出来事だった。
その頃の母親の口癖は「あんたなんか家に居なくても何にも困らないからいなくなってもいいよ」「家に女は二人いらない」

全て通院が始まるまで私のこの生活は「普通」だと思っていた。
否。思うなんて事も無かった。
何も考えない。諦める。全ての悪い事は私の所為。
それでよかった。

普通この年齢になれば80年代、90年代の歌手が懐かしいとか言うのかもしれないが、私は知らない。
寧ろ、今の人たちの方が詳しいし、今となっては懐かしいなどという言葉に胸が詰まる。
青春なんてなかった。

治療が始まり、あの宗教を抜けて好きな事が出来る今が私の始まり。
だから、年齢の事を考えて悔しくなって泣く事が多かった。
したいと思う事が、全て年齢にそぐわなくなっていたからだ。

今は、少し開き直ってる自分がいる。
出来なかった、したかった事。
それをしなくちゃ空洞の私は埋まらない。

誰に何を思われてもいい。
今はただ、「私」でありたいと思う。

役20年近く、私は「精神的虐待」を受けていた。
母親が家庭の舵を取る所謂「機能不全家族」で育った。

アダルトチルドレン・自傷・パニック・・・自分に起こることは無いと思った事が・・・私の持っていた容量を超えた時、一気に傾れ込んできた。

結婚している。
勿論相手もjwだ。
それは相手に非常に申し訳なく思うが、家庭から逃げる為の自己防衛手段だった。
好きとかそんな甘ったるい感傷は無かった。
ただ優しさに逃げたかった。

現実は悪夢だ。
一度本気で死のうと思った。
馬鹿な私はブログでそれを書いてしまった。
寸での所で警察が家に来て、止められてしまった。
まさか私のブログを読んで通報する人がいるなんて思いもしなかった。

今は自死は考えていない。
未だ消えたい願望はあるものの。

これはほんの触りです。

本当の私。

April 23 [Mon], 2012, 19:51
私は今年38歳。
立派な中年女性だ。

見知らぬ人間は私を見てアラフォーとは思わないらしい。

理由は知らない。

勿論、年相応というものが分かっていない所為もあるだろう。

それにしてもいつになったらセールスマンは私に「お家の人いますか?」と聞かなくなるのだろう。

勘違いでも所謂美魔女というやつでも無い。

随分と自分の年齢と向き合うのには時間がかかったが、今の私の精神年齢はやっと18、19歳というところだろうか。それは見た目年齢では無い。

やっとそこまで追いついた、という解釈だ。

他ブログでは嘘に塗れた酷い醜態を晒している。
正直疲れた。

jwとは知るひとぞ知るである。
離れた理由は排斥では無い。
鬱故に外出出来なくなり、今は意思を持って行かない、という選択をした。

くだらない嘘を吐くのでは無く、此処では等身大の私を綴ろうと思う。

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