「ハート・ロッカー」カタルシスなき戦争映画

March 16 [Tue], 2010, 2:59
人は戦争映画を観に映画館へ行く時、何に期待しているのだろう。
私が過去に観てきた戦争映画群、「レマゲン鉄橋」「西部戦線異常無し」「ビルマの竪琴」「ソフィーの選択」「戦場のメリークリスマス」「地獄の黙示録」「プラトーン」「シンレッドライン」「ジャーヘッド」「硫黄島からの手紙」etc.etc........
どの作品も戦争という圧倒的非日常空間の中での不条理に引き裂かれる人間の葛藤を描いたものだ。
私達は、戦場ではない安全な日常から映画の中での戦争という仮想空間を覗き見する。
暗がりから覗き見しながら(あぁ、ヒドイ話だ。あの主人公の立場でなくてよかった。やっぱり戦争は悲惨だからよくないよな)などと考えながらシートに寄りかかっている。
そのうちに才能に溢れた監督や脚本や映画制作の魔術師達が用意してくれる「それなりに丁度良い結末」を観て、安心したり嘆いたり憂いたりしてほどよく戦争反対の意識を持ちつつ家路につく。
それがいわゆる戦争映画だ。

この「ハート・ロッカー」は、エンターティメントとして公開される戦争映画の領域からもう一歩深い場所へ踏み込んだ作品である。
「もう一歩深い場所」とは人間の心の中にある暗部に向かって踏み出しているという事だ。
そこへ向かって踏み出すという事はエンターティメントから一歩遠のくという事でもある。
しかしこの女性監督率いる撮影チームの力量によってサスペンスフルに描かれている為、緊張感でアッという間に観せ切ってしまう。
終映後、砂を噛んだ様なニガくて乾いた後味が残った。
これほどカタルシスがない戦争映画は初めてである。
劇映画であるのにカタルシスなし。
ということは戦場における人間の実態に、より近づいた描写に成功したのではないだろうか。
実際の戦場にカタルシスなどあるはずがない。

この作品は映画という形をとった戦争告発映像だ。
多くの人が観る事を願った。





「負けざる者たち」は今何処

February 11 [Thu], 2010, 15:24
クリント・イーストウッドの監督する映画は必ず観にいくことにしている。



南アフリカ共和国初の黒人大統領となったネルソン・マンデラをモーガン・フリーマンが演じている。

この映画はマンデラが27年間の投獄生活から解放され、大統領に就任するシーンから始まる。
前政権が施行していたアパルトヘイト政策(人種隔離政策)を撤廃させ、民主化を実現させようとしたマンデラは、この国で長年続いた人種間の憎悪をいかにして治めるかを模索する。
敵対していた前政権で働いていた政府職員をそのまま雇用し、敵対よりも赦しを」「復讐は何も生まない」をスローガンに行動する。
酷い黒人差別をしていた白人達は、復讐されるであろうと予想していた黒人大統領の采配に戸惑いながらも、彼の理念に次第に傾倒しはじめる。
そんな中で前政権時に国民的スポーツであったラグビーの白人スター選手(マット・デイモン)と出会う。
マンデラはスポーツを通して、破綻していた人種間の団結をはかろうとする。
1995年、南アフリカ代表チームがラグビーワールドカップ初出場で初優勝という快挙を成し遂げた前後の時代が描かれている。

1999年、マンデラは1任期であっさりと大統領を辞めた。
後を受け継いだ政権は国民の貧富の差に目を向けなくなり、今現在の南アフリカはマンデラが目指した国家理念を継承出来てはいない。


私はこの映画が始まってすぐにマンデラの発言の一言一言に共感して胸が一杯になった。
政治家としての言葉というより、一人の人間としての言葉が私の胸に響いた。
驚いたことにその「胸が一杯」の感情は2時間ほどの上映中ずっと続いたのである。

マンデラが去ってから10年が経った現在の世界情勢に向かって「負けざる者たち」を送り出した制作者達に拍手を送る。
2010年の今年は奇しくもサッカーワールドカップが南アフリカで開催される。
ネルソン・マンデラはどの様な気持ちでこの大会を観るのだろうかと思った。

戦場でワルツを

November 29 [Sun], 2009, 21:50
2009年の米アカデミー賞外国語映画賞を「おくりびと」が取ったのは日本映画界にとって快挙だった。

そのウカレタ受賞報道の陰になってなんとなく見え隠れしていた対抗馬の映画がイスラエル映画でアニメーションだという話を聞いて気になっていた。
その映画が公開されたので銀座のシネスイッチに足を運んだ。


「戦場でワルツを」を創った監督自身が19歳の時にイスラエル軍の兵士として従軍したレバノン侵攻にまつわるドキュメントをあえてアニメーションという手法によって描いた映画だ。
連続して起る戦争の悪夢を独自の美的表現で描き、政治、宗教、人間の原罪を告発する極めて重要な作品だった。

「おくりびと」は私も観たし、もちろん良い映画だと思った。
そして「戦場でワルツを」がアメリカのアカデミー外国語映画賞にノミネートされた事自体も凄い事ではある。
しかし最終的には「戦場でワルツを」に受賞させることが出来ない理由があるのであろう米アカデミー協会にアカデミー賞自体の限界を感じた。

やはり映画は権威の中で評価されるものではなく、大衆に向かって放たれる一本の矢だ。
それ以上でもそれ以下でもない。

「戦場でワルツを」のフライヤーに「おくりびと」主演の本木雅弘さんのコメントがあった。
正直今でも、アカデミー本命はこの作品だと思っている。人間の良心を深く揺さぶる、独創的且つ普遍的な、大人が観るべき力作」
と書かれていた。

マイケルジャクソンの断片「This is it」

November 06 [Fri], 2009, 22:42
私がマイケルジャクソンの音楽と歌詞に興味をもったのは80年代の「ビリージーン」「マン イン ザ ミラー」と90年代の「ブラック オア ホワイト」を聞いた時ぐらいしかなかった。
彼のスキャンダルが世界中に流れた時も「まぁ人間なんだからソレくらいの事はあるのかもな」などと曖昧な感想しか持たなかった。

しばらくの時間が経ち、彼の訃報を聞いた。

ツレアイに誘われたので、何となく「This is it」を観に行った。
マイケルの最後のツアーのリハーサルを録画したものを編集して映画にしたものだ。


私はマイケルジャクソンという人間の美しさを、長い間見落としていた事がわかった。

そりゃあ、ショウビジネスの最前線をくぐり抜けてきた人物のインサイドを切り取った映像はソレだけでも凄みがある。
しかしその事よりも、彼が自分のバンドのミュージシャンに、自身がやりたい音楽的アプローチを言葉で説明する時の「思っていたより不器用な姿」や、コンサートを率いていくキーマンとして「尋常ではないほどスタッフへ心配りする姿」、「自分の心を他者へ配り過ぎて、自分の心が痩せて折れてしまいそうな人物の姿」が胸に迫る。
それは神秘のベールに包まれた超カリスマの姿ではない。
才能に自惚れる事なく、おのれの荒ぶる支配欲を律し、世界と共に生きていこうとしているひとりの人間の姿だった。

マイケルジャクソンが逝った事については、鉄壁のショウを観たかったファンや彼の精神を愛した永年のファンの方々には残念無念至極であろうが、この映画で伝えられているメッセージの巨大さを考えると、これでも良かったのではないかとも思ってしまう。
彼の熱狂的ファンが集まるはずだったであろう五十数本のコンサートと、私の様なおおよそファンとは言えない不特定多数が観る事になる映画というメディア。
どちらの方が良い悪いなどとは言えない事ではある。
しかし、マイケルジャクソンが生きていたら彼はきっとこの様な形では舞台裏を公開する事はしなかっただろう。
彼が逝き、彼のメッセージが映画という媒体になったので私はマイケルジャクソンの美しさと出会う事が出来た。

彼は別次元へ旅立つ時に、全人類の潜在意識の中に、人種や環境の分け隔て無く、均等に「忍耐と理解と調和、そして愛と平和へ向かって進もう」というメッセージを分けたのではないかと思う。
受け取る側の受信機が作動している、していないに関わらず。
いや、マイケルに限らず、どんな人間も逝く時には何かしらのメッセージを世界に発信しているのだと気づいた。

すくなくとも私はこの「This is it」という映像に、これから自分がやろうとしている事を励まされた。

路上のソリスト

October 27 [Tue], 2009, 12:54
東京目黒の権之助坂に古くからある名画座、目黒シネマに行った。

猫パンチで一世を風靡した俳優ミッキーロークが主演した「レスラー」を劇場で観る為だ。
劇場に着くと「路上のソリスト」という映画と二本立てとなっていた。
「・・二本立てか。今入館すると(路上のナントカ)はもう始まってるなぁ・・」
映画を途中から観る事が嫌いな私は迷った。
しかしこの日は季節はずれの台風が大雨を降らせていて、珍しく「まぁいいか」と暗闇シートに滑り込み「レスラー」ではない方の映画を観始めた。


この「路上のソリスト」という映画、全く予備知識なく途中から観たが凄い映画だった。
米国の名門ジュリアード音楽院に入学しながらも今はホームレス生活を送る男と、ロサンゼルスタイムスの記者が関わっていく姿を現在の米国が抱える貧困差別社会を背景にしながら描く。
実話がベースの映画だ。


「レスラー」も、ロークの(ダテに不良こいた訳じゃねえぜ感)と(人生のツケを払う事を覚悟しているアウトローの哀愁)がストーリーの説得力を後押ししていてよかった。
そして「路上のソリスト」には完全にやられた。
もう劇場では観られないだろうが、DVDになったら是非観て頂きたい。

「レスラー」を観終わり、「路上のソリスト」の冒頭の部分だけ観て行こうと思っていたら、結局引き込まれて全部観てしまった。

都合五時間くらい映画館にいた私はふらふらと風雨夜の目黒を歩いた。

自主的行為 映画「ノラ」

October 09 [Fri], 2009, 15:37
九月に「ノラ」という自主映画に俳優として参加した。

映画を創る事や、何かを創造する事は基本的に自主的な行為である。
みずからが主体となり、ある到達点まで旅をする。
その旅が終わったのかどうかを確認するのも、みずからの判断に委ねられる。

この「ノラ」という作品は昨今の市場経済原理主義の中で創られて行くエンターティメント作品とは一線を画す制作過程を経て撮られた。
ある人物がひとつのストーリーを発案し、脚本を練り、その思想に賛同する同志を募り、必要な資金を集め、ありとあらゆる細々とした不安要素を呑み込み、顔に平静を貼付けて希望の現場に立つ。
それだけでも大変な労力を伴う作業であるにも関わらず、予想もしない事が次々と起こり、想定外作業をモグラたたき状に潰しながら映画は撮られる。

この「ノラ」を脚本・監督・プロデュースしたのは大庭功睦(オオバノリチカ)という人である。
大庭さんとは3年ほど前、「バックダンサーズ!」という映画でご一緒させて頂いた。
その映画の打ち上げ会で、適度に酒に酔った私は大庭さんの人柄に感銘し、「よっしゃあ!大庭さん!アンタがなんか撮るときゃ、オレも呼んでくれよ。たのんだぜぇ!」などと江戸時代の町人の様に叫んだ気がする。
それから3年、黙々と経験を積み上げた彼は、有志達と共についに自主的行動に出たのである。

ロケ地は千葉の鋸南保田と君津。
初日に紹介して頂いた撮影隊は皆、プロの現場で働く大庭さんの仲間だった。
何人かは映画学校時代からの古いつき合いという事で、それにも奮興した。
その彼らが、一般映画的に言えば「不利な条件」を乗り越え蹴散らしながら撮ったのが「ノラ」である。
まだ大庭監督は編集作業中だろうし、「ノラ」の内容についてはまた後日触れていきたいと思う。

怒濤の撮影が終わり、なごりを惜しみながらひとり帰京する途中、超がつくほど疲労した肉体とは裏腹に、なにかの力が私の心に満ちあふれた。
「これでまた生きていけるじゃん」と思った。
なんだか泣きそうだったので声を出して笑った。

ノラ」の皆さん。ありがとうございました。逢えてよかった。

クリント・イーストウッドの遺書 グラン・トリノ

May 01 [Fri], 2009, 21:41
人類が解決出来ずに抱え込んでいる危機的事項は一体いくつあるのだろう。
環境、経済、宗教、人種、医療、あらゆる分野に紛争の種が蒔かれ、時限と共に悪の芽が発芽する。時が進んでいくに従って解決されたかに見える問題もあるが、暫くするとそれを遥かに上回る問題が出現する。
この「悪」とは何処からやって来るのだろう。


「グラン・トリノ」はクリント・イーストウッド自身が出演した映画としては2004年の「ミリオンダラーベイビー」以来の作品である。
この間、3作品を監督し、俳優としての出演は控えていたイーストウッドは、なぜこの作品の主人公「ウォルト・コワルスキー」を演じたのかという質問に「脚本がとても気に入り、私が演じる事が出来ると思ったから」と簡潔に答えている。

「ウォルト・コワルスキー」は78歳の老人である。
朝鮮戦争の勇士で除隊後はデトロイトのフォード社工場で車を組み立てる仕事をし、二人の子供を育て上げ、孫達が育っている現代社会の人心の荒廃を苦々しく思っている。
無骨で皮肉ばかり言う年寄りとして近隣にも疎まれているという設定である。
そのウォルトが永年連れ添った妻に先立たれた所から物語は始まる。

この映画は、イーストウッド監督の人間に対する深い洞察力が、出演者達の存在感を実在する人物のように際立たせ、観客の魂を物語自体に溶け込ませる。

しかし私は何故かイーストウッド自身が演じる役だけが、かつて私が子供の頃から観て来た「ローハイド」や「荒野の用心棒」や「ダーティハリー」や「許されざる者」や「ミリオンダラー〜」などの主人公達全部を足して割った様な人物に思えた。
つまり、クリント自身が「総括的クリント・イーストウッド」を演じているかのように見えたのである。
いままで彼のどの作品を観てもその様に感じた事はない。
「なぜだろう」と思いながら物語は終盤を迎えた。
主人公ウォルトは究極の選択を迫られる事になり、壮絶な結末が用意されていた。

この「グラン・トリノ」はクリント・イーストウッドから次世代を生きていく者達への遺書である。

人類の最重要課題として「復讐の連鎖を断ち切る方法を発見する事」がある。
この映画は、その方法の発見に少なからずヒントを与えている気がした。

昨今、武士道や侍の精神をナルシシズムや自惚れと混同吹聴する似非文化人もいる様子だが、78歳の白人名匠が創った映画「グラン・トリノ」の根底に流れている清い水は、武士道の根底に流れる水と同質なものと感じた。

「内観された怒り」ショーン・ペン

September 15 [Mon], 2008, 16:43
自分が若かった頃、どこにも持って行き場のない感情を一人で持て余した経験が誰しもあると思う。
怒りの感情を内観して整理してゆくにはまだ若く、無知だった頃の話だ。

「自分と向き合う事の恐怖」に直面した時、
「乗り越えるよりも拒絶、あるいは逃避、あるいは未熟な自己完結」
という選択に走った経験も往々にしてあるだろう。

しかしいつかはヒトの魂に逃げ場は用意されていない事を知り、
その人なりのタイミングで、生まれて来た理由と向き合って行く事になる。

俳優ショーン・ペンの監督作品は1991年の「インディアン・ランナー」から前作2002年の「11'9''01/セプテンバー11」まで全て観ている。
私としては同世代感もあり、彼が表現していこうとしている題材には共感できるものが多い。

今回の「イントゥ・ザ・ワイルド」は実話を綿密に取材して書かれた原作をショーン・ペンが読み、10年後に映画化したものだ。

一般的に言えば「恵まれた環境」に生まれた青年が、「生きる」という事の真実の意味を探す為、金や身分証明書など物質文明的な物を捨てて荒野に旅立つという話だが、同時に青年の家族の物語でもある。

この映画には、よくある息の抜き所が見当たらない。
かといって演出効果として緊張感を連続させているわけではない。
おそらく監督自身がこの青年の行動に自分自身を投影し、キャメラの向こう側で息をひそめてこの青年の人生を追体験しながら撮影を行ったからなのであろう。
観ているコチラの気持ちが勝手に散ったりすると「シーッ!ここも大事なシーンだからね」と、ペンの囁く声が聞こえてきそうな映画だ。

高年齢の客層が集まった劇場での上映終了後、エディ・ヴェダーの唄うエンディング曲を聞いていると、近くの席の中年女性が「ふぅ、これじゃあ引きこもりと一緒ねぇ・・」と言っているのが聞こえた。
子供を持つ親側の感覚からすればそういう見方もあるだろう。
しかし大事な事というのはこの映画の場合、各個人のものの見方などではなく、見解の違う家族が相手の存在を理解しようと葛藤する姿が一本の映画に収まっていて、その映画を世界中の人々が観る、ということじゃないだろうか。
たくさんの人が観ることによって、中にはもう一度、家族との関係について考える機会を得る人もいるかもしれないということなのだ。

物質至上主義から来る社会の歪みも臨界点に達しつつある現在、投げかけて来るものが多い映画だと思う。

帰り道、監督の弟クリス・ペンがオーバードゥーズで近年他界したのを思い出した。

DVD 発売「火星から来た蜘蛛の群れとグラマラスエンジェル」

May 20 [Tue], 2008, 1:42

5月21日発売のDVD「火星から来た蜘蛛の群れとグラマラスエンジェル」の表ジャケだ。
英語で表せば上のように書くことになる。
70年代に流行したスローガンポスターの様だ。
一見、かの時代のパロディー広告とも見てとれる。
しかし、ここに収録された青春ドラマは、軽く笑える内容ではない。
スカシタ恋愛もなく、もちろんハヤリの芸人さんが出てきてキラリと光る存在感を出すというようなドラマでもない。
2時間ドラマを舞台形式で一気に2時間で撮ったガチンコのスタジオドラマだ。
サントラにはピンクフロイドやデビッドボウイの曲が使われていたりする。
どんな話かというと
「こんな青春だって、あったりするだろうが!」
と叫ぶしかない様な内容なのである。

監督=永山耕三 脚本=山崎淳也

あ、私も出ています。
観てくらさい。

「海から見た、ニッポン」坂口憲二 

March 11 [Tue], 2008, 14:30
先日、仕事で坂口憲二さんと御一緒した際にDVDを頂いた。

「海から見た、ニッポン第二章・春夏篇」
サーファーでもある坂口さんが企画参加し、丁寧に創られたサーフトリップの記録である。
沖縄、五島列島、御前崎、伊豆、新島、三宅島、八丈島、北海道と、日本のサーフポイントでの旅の様子が収録されている。
各地域地元で暮らす人々やサーファー達との交流がイキイキと映し出されている。

私はサーファーではない。
しかし、ローカルの熟練海人達の話す言葉に感銘を受ける。
「波に乗る、とかじゃなぁいんだよ。波に乗ぉらせてもらうの」
私の場合は楽器を演奏中、音のうねりに乗っている時そんなふうに感じる事がある。

この作品の終わり近くで、沖縄のロコサーファーが海からあがる時、その辺に流れついているゴミを当然の様に拾って帰る姿が映っていた。
「地球に遊ばせてもらっている」という感謝の気持ちが自然に現れていて感動した。