コンサートを読む
February 25 [Sat], 2012, 0:24
リサイタルの後はお決まりの燃え尽き症候群&プチ体調不良(苦笑)
今年はプチで終わってるのが幸いです。どっかーんと風邪引いてしまうこともありますからねえ。まだまだインフルエンザも流行っていますから、用心しないといけませんね。
さて、21日の毎日新聞の夕刊にこんな記事を載せていただきました!
コンサートを読む:今井信子と廣澤敦子の二つの「冬の旅」=梅津時比古

◇言葉が音に変わる空間
音は言葉を濾過(ろか)し、変容させる。
このほど聴いたシューベルトの歌曲集「冬の旅」の二つの公演は、翻訳の役割を明確にして、歌曲における言葉の構造に、新しい視点をもたらしていた。
ひとつは、歌の代わりにビオラとピアノと日本語の朗読で迫ろうというものである(11日、大阪ザ・フェニックスホール)。ビオラ奏者の今井信子が温めてきた企画で、俳優の栗塚旭が「冬の旅」のミュラーの詩の日本語訳を1曲、あるいは数曲まとめて朗読、それに続けて今井のビオラと伊藤恵のピアノのアンサンブルによって各曲が演奏される。
ここではまず朗読者の解釈が言葉の抑揚などによって提示される。たとえば第8曲「振り返り」で、失恋した主人公が少女の瞳と清らかなせせらぎを思い起こす詩句では、栗塚は自分自身に怒りをぶつけるかのように激しく語り、それ自体がひとつの劇になる。その後に入ってくる演奏によって、その部分のシューベルトの音楽は一瞬、夢見るように書かれていることが分かる。今井自身による編曲はいずれも基本的にはオリジナルの歌曲通りだが、たとえば旋律に1オクターブ低い音を加えたときには、そこに元にはない陰りが生じる。それもひとつの解釈として加わる。さらには栗塚のマント姿も重なって、“そこにないドイツ語の歌”からビオラや日本語への翻訳の過程が、二重三重に複層化し、広大に流れ始める。
メゾソプラノの廣澤敦子とチャールズ・スペンサーのピアノによる「冬の旅」では、日本語訳が字幕によって舞台上に投影された(12日、兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール)。「冬の旅」の主人公は男性なので、女性によって歌われることはあまりない。だが廣澤の声は女性か男性かの問題を全く感じさせなかった。詩句の中の、陰りを帯びたはずれ者としての主人公の感性に、彼女の表現が敏感によりそっていたからであろう。人間存在の底からの声のようなものが聞こえてきた。
たとえば第6曲「あふれ流れる水」で「あつくたぎる僕の涙」の詩句をシューベルトがいかに悲しい音で描いているか、廣澤の声が気づかせてくれる。そこに合わせて日本語訳が字幕に浮かび上がると、その言葉がまさに音に吸い寄せられてゆく。
スペンサーのピアノも詩に即した表現に満ちあふれ、たとえば第12曲「孤独」では空虚の果てから音がせりあがってきて響き、第15曲「カラス」では、強調された左手の不気味な旋律に乗って、カラスが私たちをあの世へ連れて行こうとする。
曲間がまた、演奏そのもののようなスペンサーの間(ま)の取り方で、切れながらもつながり、つながりながらも切れ、曲集全体がシューベルトの深奥の一点に向かってゆく。ドイツ語の歌というよりも、シューベルトの精神が聴こえてくる。
言葉の意味の側面をよりよく伝えようとするこのふたつの公演は、ひとつは作品を異化し、ひとつは作品に同化した。ひとつは作品空間の幅を広げ、ひとつは絞り込んで深めた。
それは、語りつくそうとすればするほど言葉が音に変わって消えてゆく歌曲の本質を、思わぬ形で表出していた。
こんな風に聴いていただけていたとは、本当にうれしいです。
そして、このことを仲間や、そのほか私を支えて下さる方々が本当に喜んでくれて。それがうれしいんですよね。
毎日新聞を購読している知人の女性が
「私はこの”コンサートを読む”の梅津さんの文章が好きで、毎月楽しみにしていたの。そしていつかあなたのコンサートが書かれたらいいなあ、なんて思っていたんだけど、それが現実になるなんて!」
と、おっしゃってくれました。
小難しいドイツ語の歌を歌って、よくわからない、と言われて凹む事もよくありますけど、でも好きなんだもん。そしてこんな風に聴いて下さる方があるんですから、やっぱりくじけずに妥協せずに勉強して、歌って行きたいと思います。
今年はプチで終わってるのが幸いです。どっかーんと風邪引いてしまうこともありますからねえ。まだまだインフルエンザも流行っていますから、用心しないといけませんね。
さて、21日の毎日新聞の夕刊にこんな記事を載せていただきました!
コンサートを読む:今井信子と廣澤敦子の二つの「冬の旅」=梅津時比古

◇言葉が音に変わる空間
音は言葉を濾過(ろか)し、変容させる。
このほど聴いたシューベルトの歌曲集「冬の旅」の二つの公演は、翻訳の役割を明確にして、歌曲における言葉の構造に、新しい視点をもたらしていた。
ひとつは、歌の代わりにビオラとピアノと日本語の朗読で迫ろうというものである(11日、大阪ザ・フェニックスホール)。ビオラ奏者の今井信子が温めてきた企画で、俳優の栗塚旭が「冬の旅」のミュラーの詩の日本語訳を1曲、あるいは数曲まとめて朗読、それに続けて今井のビオラと伊藤恵のピアノのアンサンブルによって各曲が演奏される。
ここではまず朗読者の解釈が言葉の抑揚などによって提示される。たとえば第8曲「振り返り」で、失恋した主人公が少女の瞳と清らかなせせらぎを思い起こす詩句では、栗塚は自分自身に怒りをぶつけるかのように激しく語り、それ自体がひとつの劇になる。その後に入ってくる演奏によって、その部分のシューベルトの音楽は一瞬、夢見るように書かれていることが分かる。今井自身による編曲はいずれも基本的にはオリジナルの歌曲通りだが、たとえば旋律に1オクターブ低い音を加えたときには、そこに元にはない陰りが生じる。それもひとつの解釈として加わる。さらには栗塚のマント姿も重なって、“そこにないドイツ語の歌”からビオラや日本語への翻訳の過程が、二重三重に複層化し、広大に流れ始める。
メゾソプラノの廣澤敦子とチャールズ・スペンサーのピアノによる「冬の旅」では、日本語訳が字幕によって舞台上に投影された(12日、兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール)。「冬の旅」の主人公は男性なので、女性によって歌われることはあまりない。だが廣澤の声は女性か男性かの問題を全く感じさせなかった。詩句の中の、陰りを帯びたはずれ者としての主人公の感性に、彼女の表現が敏感によりそっていたからであろう。人間存在の底からの声のようなものが聞こえてきた。
たとえば第6曲「あふれ流れる水」で「あつくたぎる僕の涙」の詩句をシューベルトがいかに悲しい音で描いているか、廣澤の声が気づかせてくれる。そこに合わせて日本語訳が字幕に浮かび上がると、その言葉がまさに音に吸い寄せられてゆく。
スペンサーのピアノも詩に即した表現に満ちあふれ、たとえば第12曲「孤独」では空虚の果てから音がせりあがってきて響き、第15曲「カラス」では、強調された左手の不気味な旋律に乗って、カラスが私たちをあの世へ連れて行こうとする。
曲間がまた、演奏そのもののようなスペンサーの間(ま)の取り方で、切れながらもつながり、つながりながらも切れ、曲集全体がシューベルトの深奥の一点に向かってゆく。ドイツ語の歌というよりも、シューベルトの精神が聴こえてくる。
言葉の意味の側面をよりよく伝えようとするこのふたつの公演は、ひとつは作品を異化し、ひとつは作品に同化した。ひとつは作品空間の幅を広げ、ひとつは絞り込んで深めた。
それは、語りつくそうとすればするほど言葉が音に変わって消えてゆく歌曲の本質を、思わぬ形で表出していた。
こんな風に聴いていただけていたとは、本当にうれしいです。
そして、このことを仲間や、そのほか私を支えて下さる方々が本当に喜んでくれて。それがうれしいんですよね。
毎日新聞を購読している知人の女性が
「私はこの”コンサートを読む”の梅津さんの文章が好きで、毎月楽しみにしていたの。そしていつかあなたのコンサートが書かれたらいいなあ、なんて思っていたんだけど、それが現実になるなんて!」
と、おっしゃってくれました。
小難しいドイツ語の歌を歌って、よくわからない、と言われて凹む事もよくありますけど、でも好きなんだもん。そしてこんな風に聴いて下さる方があるんですから、やっぱりくじけずに妥協せずに勉強して、歌って行きたいと思います。
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