昔のこと

June 13 [Thu], 2013, 15:19
(もう10年余り前に書いていた文章が、たまたま見つかりました。そういえばこうやって何かを書くの好きだったかもしれない。まだ残ってたのかー)





Tさんの話し





「・・・そう。ありがと。じゃ、・・・え?あ、うん。わかってる。・・・うん、うん。
・・・はいはい。それじゃ、・・・うん・・・うん。じゃぁね。」

ぴっ。
耳元で熱くなった子機のボタンを押す。
電話越しの声は悲しいというかむしろ忙しいというような空気が織り込まれていた気がした。
受話器を持った私の手は微かに震えていたけれど、悲しみに突っ伏すという訳でもなかった。
Tさんが死んだという事実だけが、掌に残っていた。








直接の原因は知らされていない。
急性白血病だったということは知っているが。
ただ、それだけで死んだというわけでは無かったので死因とも言い難い。。
最初の入院のきっかけは脳に血が溜まっていたからどうのこうのという理由だったように思う。
それから段々と弱り、色々な病気が重複していたそうだ。
私も数度見舞に行ったが3回目の見舞の時、変わり果てたTさんを見て
もう駄目かもしれないと直感的に思ったのを覚えている。






病院まで行く間、私はTさんについての記憶を掘り出していた。
私が成長期にさしかかった頃からは、あまりTさんと関与していなかった気がする。

Tさんはいつもお気に入りの黒い革の財布を持っていて
それをチェーンでズボンの後のポケットに繋ぎ入れていた。
中には何故か常に万札が5枚以上入っていて出所は私にとって不明だった。
(きっと奥さんの貯金からでもくすねて来ていたのだろう。)
兎に角その財布を愛用し日常をスロットや酒につぎ込んでいた。

過去二回Tさんは交通事故にあっていた。
一回目の記憶は混沌としていて定かではないけれど確か真昼間にひかれていた筈だ。
横断歩道を渡ろうと信号待ちしていたところに車が突っ込んできて
数メートル宙を飛んだらしい。新聞にも、載っていた。
二回目はもう少し鮮明に覚えている。
雨の夜だった。
Tさんは黒い服(いつも暗い色の服ばかり着ていた)に黒い傘をさし
人気の無い路を歩いていた。
こんな雨の夜などに黒尽くめで歩いていてはひいて下さいと言わんばかりだが
案の定Tさんはタクシーにひかれ、病院へ運ばれた。
タクシー会社から謝罪が来ていたけれど、非はこちらにもあるとぼんやりと私は思っていた。

姉が生まれる前、Tさんは手術を受けていた。
胃だっただろうか。
結構大きな手術だったらしい。
その頃が、Tさんの三味線の全盛期だった。
Tさんは三味線の名手だった。
昭和の五十何年かだかに先生の免許を会得していた。
紋付袴を着てその免許会得の賞状を持って誇らしげに写っているTさんの写真が
いまでも奥さんの家に置いてある。
まるでカツラをかぶったかのように、髪がふさふさだった。
先生の免許をとっても、Tさんは弟子をとろうとしなかった。
性に合わなかったのだろう。
気の知れた三味線仲間と仲良く腕を磨いていた。
夜になると私の家(とても近い)にもTさんの唄声と三味線の音色が
夜のベールを潜りぬけやんわりと運び込まれてきてたものだ。
私は三味線の善し悪しなどてんで判りはしないが、ただ落ちついた気分になったのを覚えている。
Tさんが自ら作曲した曲を自身の弾き語りで聞いたTさんの友人は
その内容に涙したそうだ。おそるべし、Tさんの三味線能力だ。
余談だが三味線というものはとても高いらしく
(何やら使われている木がとても高価なものらしい)
安くても万単位な代物だそうだ。
そしてTさんの三味線はとても立派だそうで、十何万するらしいということを
以前父から聞いた覚えがある。
そんなことは露知らず、奥さんは別段免許会得の時も感激ということはなかったそうだ。
興味が無かったのだから、致し方ない。


アルコールに溺れ始めてからTさんは、三味線を軽く友人に安価で売ることもしばしばだったそうだ。
酔払っているためまともな判断ができなかったらしい。
もっとも酔いが冷めると何故あんな高価なものを売ったと奥さんを罵倒していたらしいが。




Tさん夫婦は再婚者同士だった。
戦争で軍医として死んで行ってしまったという奥さんの夫。
離婚して子供を連れて何処かへ行ってしまったTさんの嫁。

奥さんと軍医さんの子供の家系とは知り合いがあるが
Tさんの方は全然関わりが無い。
今はその子孫がどうなったかも分かる術はない(訳ではないが・・・)

Tさんは再婚してから、何もしなかった。
長男が生まれても、奥さんに全てを任せ自分は働きもせず三味線をしていた。
奥さんは外国人相手にバーを開き(何しろ沖縄だ)それが成功して
御金に困らないほど入るようになった。
長男は物理に関しては勉強しなくとも満点をとれる頭をいかし
当時の超有名校に進学した。
ただ寮生活は肌に合わないといい、勝手に抜けだしまた沖縄へと戻ってきた。
苦労して入れた学校なのに勝手にやめてきた息子を見て
不良だと泣き崩れた奥さんに、Tさんは何か温かい言葉をかけてやったのだろうか・・・。
そんなことは、知らないが。


その後奥さんの財力により(奥さんはとても商売上手だ)当時高値の外人住宅を購入。
敷地がとても広かった。
それでもTさんはのらりくらりと生活を送っていた。

やがて長男は嫁を貰い、次男も無事嫁を貰う。


そして現在・・・






病院の入り口をくぐるとつんと独特の匂いがした。
薄暗く人がいないロビーは居心地が悪く私はそそくさとエレベーターに乗り込んだ。
4階。



「あら、着いたの。」
Tさんの病室には近い親戚5、6人が椅子に座っていた。
母に声をかけられる。
「うん。」
白い天井と床と電灯がやけに眩しくてパイプベッドはとても冷ややかに感じた。
「随分早かったわね。」
「まあね。」
私は生返事をしながら視線をTさんにやる。

驚いた。


ベジタリアンだった為痩せっぽっちだった身体は更に線が細くなっていて
肩などは病院の服に隠れて殆ど存在していないかのように見えた。
頬がこけていて頭蓋骨の輪郭が手に取るようにわかった。
腕はすでに枯れ木のようで掻き毟った後が赤くのこっていた。
手に触るとまだ温かく、チアノーゼを起こしていて爪が紫色だった。






「駄目だったさぁ。」


奥さんの小さな声が聞こえた気がした。







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葬儀も済み告別式も済み何もかも済んでから。
やっとふつふつと実感が沸いてきたように思える。
なんとなく、今は祖母一人となってしまった家のことを
「おじいちゃんの家」と呼んでしまった時など、ふつりと寂しく感じるときがある。
生前はそんなに接触していなかったくせに、おこがましいと自分でも思う。

けれど、彼は私の祖父であり
私は彼の孫には変わりない。

仲良く炬燵に入って話したこともあった
旅行に行ったとき御土産を買ったこともあった
一緒に御飯食べに行こうといってファミレスに行ったこともあった。


おじいちゃん、おじいちゃんと
懐いていた時期も、あったのだ。
未だに、死はなかなか信じられない。
祖父のマブイに何時かまた会える日を信じている。



じいちゃん、私さぁじいちゃんの得意だった三味線をさぁ
習おうと思っているってば。
いつか弾ける日が来たら、じいちゃんの為に弾くさぁ。


---2002.8.13
P R
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