
人から頂く言葉には、大きく分けて、
「しっかり味わいたい、味わわなければいけない言葉」
「そのままスルーして、流してしまえばよい言葉」
の2とおり、あるのかなと思いました。
って、思ったのは、ご近所のおばさんとの立ち話で。
おばさんは、時々私をつかまえては、
いろいろな他人様の話を私の耳に入れようとしてくれまして。
今日もあったので、つらつら考え始めてしまった、というわけでして。
なんで私なぞに他人様のいろいろを話すんだろう…。
おばさんの言葉は、上っ面はその方をほめているようで、
チクリと軽く刺しているようにも受け取れるのは、
私の心がまっすぐじゃないから、なんだろうか…。
ホントなら、自分に注がれたどんな言葉も全てありがたーく頂戴し、
成長の糧にした方がいいのだろうけど。
でも、なんでもかんでも味わって、咀嚼して、飲み込んじゃったら、
おなか、破裂しちゃいそうで。
あ、牛の胃袋みたいな仕組みだといいのかな。
とりあえず胃に送っておいて、また口に戻して反芻する消化のし方。
言葉を先ずは受け取り、後で味わう。
そうか、牛の胃袋ってすごいんだな。
って感心しても、牛の胃袋様レベルにはなかなか到達できず、
スルーしたいものはスルーしています。
トシを重ねるにつれて少しずつ、
「それ、パス!」みたいに流しちゃうのが上手くなっているような。
一方では、上手くなり過ぎるのもどうかと思って、
「パス!」に歯止めをかける自分もいます。
だから、本音はパスしたい言葉も、
ムリクリ味わってみる努力、時にはします。
でも、結局何の味だかさっぱりわからずに、
やっぱり「パスするか」ってなる…。
特に、今日みたいな、ご近所さんのあれこれ、
私が知っても知らなくてもどちらでもいい話の場合、パス。
それでもちょっとだけ端っこ、味わっちゃって、
そこからくるモヤモヤのやり場にちょっと困って、
ここに書かせてもらっているってわけなんです。
思うのですが…
味わうか味わわないか、飲み込むか飲み込まないか、の分かれ目は、
そこに「愛があるかどうか」って気がします。
自分に向けられた言葉がどれだけ厳しかろうが、
愛があればそれは自分に響き渡るのでは、と。
厳しくても愛を含む言葉には、最初は凹んだり反発したりしても、
それこそ牛の消化のように、どこかに留めておくことができる。
いつかちゃんと反芻して味わうことができるような気がします。
つまりは逆も真なり。
私が発する言葉も、愛に満ちているかどうかを、
いつも自問していよう。
愛をもった言葉を伝えられる人になるには、
自分が愛にあふれた人でなければ。
そのためにも自分のことを愛していくし、
周りの人たちからの愛を素直に受け取っていきたい。
そんなふうで、心を愛で満たしていられたら、と思うのです。
あ、まただ。
いつも私って、ちっちゃい話がおっきくなって終わる。
おばさんとの立ち話から愛の話になっちゃった(笑)
*画像
生姜くず湯であったまりながらPCに向かっています。
実は少し喉が痛くてヤバイ。扁桃腺が闘っている感じ。手も冷たい。
体温が低くなって、抵抗力が落ちてるのでしょう。
体を冷やす食べ物をなるべく口にしないように…
とは思うが、なかなかね。
毛糸のコースターは、編み物にはまった一昨年のもの。
そうそう!!!
いろんなシンクロ、ある、ある!あるよねぇ!!
ちゅんさんは、お父さんの教えを
ちゃんと守ろうとしてた結果なんだものね、
やっぱり素直だなぁ^^
私も、シンクロして考えることが、
相手のためになるものだと、100%思い込んでいて。
でも、必ずしも相手もそれを望まない時もあれば、
それでは自分までが一緒になってゆらゆら揺れちゃって、
客観的に判断できない状況は、
相手のためにも自分のためにもならない時があるって、
わかったのは…30代半ば^^;おそいよねぇ。
相手を受容しつつも、揺るがずに自分を保って、
相手を支えられる強さと愛情をもてるような人間に
なりたいものです…。
まだまだ修行じゃぁ〜〜〜!!(笑)