
中学生だったある日、
カンボジア難民キャンプの子ども達の映像を、TVで見た。
手足は枯れ枝のように細いのに、おなかだけがぽこんと膨らんだ体。
衝撃的だった。
先生が、母が、言う。
「ほら、よその国には、十分に食べ物を与えてもらえなくて、
かわいそうな子ども達がいっぱいいる。
私たちはこうして食べられるだけでも幸せなこと。
えり好みしないで残さず何でも食べなさい。」
そうか、と思って、例え我が家の食卓に並ぶ皿の数が少なくても、
自分は幸せなのか、私って幸せなんだね、と、思おうとした。でも、
「満足に食べることができない海のむこうの友達の姿を見て、
どうにか腹を満たせる自分の幸を思う」
のは、何か違うと感じた。よくわからないが、違和感。
子ども達の瞳は澄んでいた。
自分の価値観だけで「かわいそう」…と哀れむのは、何か違うのでは。
それに、「かわいそう」だと思う人達を見て、
自分の幸せ度を推し量るのは、もっと違うのでは。
そんなことを思った。思う自分ってヘンなのかな、とも思った。
友達ひとりにだけ打ち明け、聞いてもらって終わった。
あれから変わらず、今もやっぱり思う。
誰かと比べてみて、というのはなく、
自分における「足る」を知り、
自分の存在や、周りの人や物に感謝できたらいい…。
感謝は、’相対評価’ではなく、’絶対評価’でできたらいい…。
自分の中で、ただただ在り難い、と思えたらいい…。
他人様の姿、他人様の色を見せていただいて、
自分の姿、色を実感することはあるだろう。
だからと言って、他人様のカラーをどうこう思うことなく、
揺るがずに在りたい。
評価などしたりしないで。
勿論、裁いたりもしないで。
…めざすところ。
そうは言っても、つい「落ちて」いたり、流されたり、
めざすところから、遠ざかる時もある。
あーあ、しっかりしろよ、と思う。
ま、いいか、しゃーない、と思う。
次、いってみよう、と思う。甘い?
頑ななようでいて、脆い私で。どちらも私で。
あちゃーと反省し、人間臭くていいか、とお気楽な私。どれも私で。
どの私もかわいがろう、と思う。認めて、愛そうと思う。
自分の在りたい姿から外れてもいいんだろう。
また、そこに向かおうとすればいいんだろう。
やっぱり甘いんだろか、私。
自分に甘く、どの自分も受け容れて、そうかそうかと聞いてあげると、
他人様にも温かい目を配り、
在るがままを受け容れていけるような気が。
それでいいのかな。…今はそれでいいんだろう。
そうやって前に進んでみよう。
進む方向を間違えたことに気づいたら、
その時々で軌道修正。
…いっか!それで。いいよ!それで。
自分のめざすところをもう少し進んでみる。
*画像
庭は少しずつ冬枯れだけど、元気な子もいるので、
ちょこっと摘んで、ちょこっと飾る。
春先に自分で植えた花なのに、
名前がわかるのは唯一ピンクの
ヒメツルソバだけ。