高麗人の乙女(T) 

2005年03月30日(水) 9時00分
朝、片言の韓国語で、「あの〜私は、ウズベキスタンの...」と電話がかかって来た。
イントネーションが友達のエレーナにそっくり!
私は、去年、ウズベキスタンに帰った友人だと思い、
思わず「エレーナ?」と尋ねた。
相手は、「いえ、私は、エレーナの故郷の友人なのですが、実はエレーナから預かり物が...」との事。
エレーナが、韓国に留学する友人に私へのプレゼントを預けたらしい。

2年半前、金エレーナという女の子に出会った。
初め、「ウズベキスタンから来ました」と聞いた時、ウズベキスタンが一体どこにあるのかも知らなかった。
その時は、「ああ、そうですかぁ」と答えたものの、家に帰ってから世界地図を広げた。
ロシア語を話すんだから、ロシアの方にあるんだろう。
「ああっ!あったあった、そんなに大きくないな」 これが、第一印象。

それから、金という韓国姓を持つ人が、なぜウズベク共和国からやって来たのか?
なぜ、彼らはウズベク共和国に住むようになったのか?を段々知ることになる。

ウズベキスタン、タジキスタン、キリキスタン、カザフスタンのスタンが「土地」という意味であると言う事も彼女を通して、初めて知った。
ウズベクの人の土地、タジクの人の土地...という意味だと言う。

さて、高麗人と呼ばれる韓国の血をルーツに持つ彼らが、何故ロシアや中央アジアに住むことになったのだろうか?

Uに続く…

高麗人の乙女(U) 

2005年03月30日(水) 9時10分
高麗人のルーツは、大きく第一期移住者と第二期移住者の二つに分れるそうだ。
第一期移住者は、もともと北朝鮮の方に住んでいた人たちが、「もっと広い土地を...」と土地を求めて北上しているうちに、いつの間にかアムール川を越えてしまい、永住してしまったケース。

第二期移住者は、韓国が日本の植民地下に置かれていた時代、シベリアで強制労働に従事させられていた人たちが、日本の敗戦後、置き去りにされ、韓国に帰ってこられなくなったケースだ。
当時のロシアは、再三、この韓国人達をどうするべきか日本に打診してきたが、植民地時代には、「日本人として日本の発展に貢献すべき」と労働に従事させられていた彼らに、戦後の日本は「韓国人のことは韓国政府に聞いてくれ」と対応した。
しかし、植民地支配から開放されて間もない韓国は、旧ソ連に散らばった同胞を「今すぐに、どうすることもできない」という状況のまま60年以上の時が流れた。

彼らは、こうしてコリアンカ(高麗人)となった。

Vに続く…

高麗人の乙女(V) 

2005年03月30日(水) 9時20分
エレーナが語学研修をしていた時も、韓国での大学編入試験を準備していた時も、そして彼女が不法滞在者になってしまった時も、私達は、親しく付き合ってきた。
彼女は、ウズベキスタンでブハラ国立大学に通う大学生だった。
韓国語を勉強し始めたのは、最近、中央アジアに進出する韓国企業が多いので、就職に有利だと思ったからだという。

私がそれまで会ったロシアや中央アジアから来る留学生達は、とてもヘビーなメイクアップとセクシーさを強調したピタピタの服を着た華やかなお嬢さん方が殆どだった。
でも、エレーナは喋らなかったら絶対に外国から来たと思われないだろう雰囲気に、素朴なファッションとすっぴん顔。
韓国でも最近お目にかかれない、田舎から上京したかんじの女の子だ。

そんなエレーナが、韓国生活も半ばを過ぎた頃、韓国の大学に編入したいと言い出した。
私は、及ばずながらも何か力になりたいと思い、スンちゃんと一緒にエレーナが自己紹介文や学業計画書を書くのを手伝った。
そんな時、「字が間違っていないか、ちょっと見て欲しい」と願書を持ってきたのだが、一瞬「あれっ?」と思った。
国籍の欄が空欄だったのだ。
「ウズベキスタンって書かなくっちゃ」と言うと、
エレーナは「実は、国籍がない」と言う。
「えっ、何それ?どう言う事?」と驚いて問うと、
自分が国籍を失った経緯について語りだした。

Wに続く…

高麗人の乙女(W) 

2005年03月30日(水) 9時30分
旧ソ連が崩壊し、それまでソ連の一部に甘んじていた中央アジアの国々は独立を果たした。
各国家は、自国に在住している高麗人の人々に、「ロシアに行かず、今まで居住してきた所に留まることを希望する高麗人は、新しい国籍を取得しなけばならない。」と通知した。
各、地域に住んでいた高麗人たちは、新しい独立国家の国民となるべく国籍を申請した。

ここで、問題が生じた。この頃、エレーナのお母さんは、カザフスタンに働きに出ていて、ウズベキスタンの家には幼いエレーナと高齢のおばあちゃんだけが残されていた。
都会だったら兎も角、田舎の小さな村のこと。おばあちゃんは、この通知を受けることができなかった。もし、受けていたとしても高齢のおばあちゃんには、何のことやら難しかったことだろう。
エレーナのお母さんが家に帰ってきた時、国籍の申請期間から既に40日が過ぎていた。
お母さんは、すぐに公共機関に駆けつけたが、手にできたのは「いつか国民になれる」という確約の無い書類一枚だった。
こうして、エレーナは国籍を失った。

Xに続く…

高麗人の乙女(X) 

2005年03月30日(水) 9時40分
最初、何かの間違いだろうと思ったが、彼女のパスポートには英語ではっきりと、「Non citizen!」と書かれていた。

それでは何故国籍のない人にウズベキスタンの政府は、臨時パスポートを発給して海外に出ることを許可するのだろうか?
それには、こんな事情があった。
正直、中央アジアの各国家にとって、民族も違い、民族の言葉を解さず、旧ソ連の公用語であったロシア語だけを話す高麗人は扱いにくい存在であるらしい。
「海外で不法滞在してしまうことが予想されても、かえって出て行ってくれてしまったほうが有難い」と言う理由が無きにしも非ずだ。
不法滞在がバレて、送還されてきた住民(無国籍者を含む)に対しては、「5年以上の出国を禁ず」など一応の処置はとっているものの、出国の際に発給される臨時パスポート自体は、上のような事情により、手にするのがそれ程困難ではないのが現状だ。

かと言って、高麗人が耐え難い差別を受けているとか、そういう訳でもないらしい。
ウズベキスタンの人々は、比較的温和な国民性で、フレンドリーだという。ウズベキスタンの男性と結婚する高麗人の女性も多いとの事。
それでも高麗人の人々が地域社会からあぶれてしまうのは、旧ソ連崩壊後、各民族の愛国心を思い存分謳歌できるようになり、ナショナリズムが高まったためだろう。
高麗人の政府高官、公務員は、ソ連崩壊後、職場を追われた。
同僚が、高麗人追い出しに乗り出したわけではなかった。
ただ、一夜にして公文書が各民族の言葉に代わったのだ。
町の看板、公文書、人々がためらい無く高らかと交わすことのできる言葉は、これ以上ロシア語ではなく民族の言葉であった。
こうして、地域社会から高麗人は締め出された。
高麗人にとって、ロシア語は民族の言葉ではない。しかし、韓国語を流暢に喋れる世代はめっきり減り、既に韓国語を失って久しい高麗人にとって、ロシア語は今唯一の言葉だ。

Yに続く…

高麗人の乙女(Y) 

2005年03月30日(水) 9時50分
エレーナは、色々と世話を焼く私に「日本人は皆、真由美みたいに良い人なの?」と聞いたことがある。
胸を締め付けられるような思いだった。
高麗人から民族の言葉を奪ったのは日本人だ。
それを知らない高麗人はいない。
しかし、それを知らない日本人は多い。

日本軍によって、シベリアに拉致された夫を待ち続けて死んだおばあちゃんの話を聞いたことがある。

北朝鮮による拉致問題。いち日本人としてハラハラしながら、見守った。
でも、私の親友で在日韓国人の鄭君の言葉が忘れられない。
「僕も、拉致被害者の孫なんですよね」

今後、高麗人の人たちは、どうなっていくのだろう。
韓国人としてのアイデンティティを失って久しい彼らにとって、既に韓国は祖国ではない。
色々な民族をロシア語という言葉で、ひとつに縛っていたソ連も崩壊して久しい。
崩壊後、中央アジアの人々は、民族の言葉を取り戻した。
でも、高麗人は永遠に民族の言葉を失った。

エレーナの言葉が耳に残る。

「私は、根無し草」「私には、国が無い」

ノグちゃんのルーツ(T) 

2005年05月20日(金) 9時00分
うちの母方の祖父は、慶州南道晋州生まれの韓国人です。

私の母方の曽祖父(祖父の父)は、韓国がまだ日本の植民地だった時代に日本へ留学生としてやってきました。

曽祖父の日本滞在が長引いたので、韓国で痺れを切らせた曾祖母は、子供たちを連れて日本にやってきました。
こうして、慶州南道晋州コンミョン里の鄭家の人々は、日本で暮らし始めました。

しかし、日本で暮らすこと数年後、鄭家の人々は人生において重要な選択を迫られることになりました。

1945年、韓国が日本から開放されたのです。そして、父の死…

鄭家の人々は、韓国に帰ることを決断しました。曾祖母は、娘と幼い息子二人を連れて先に日本を後にしました。幼い息子は、われ先にと韓国を目指す人々でごった返す船の中で、父の遺骨と遺影を両腕でしっかり抱きしめていました。

法的な手続きや商売をたたんで帰国の準備をするために、日本には長兄であるうちの祖父をはじめとする三人の息子達が残ることになりました。

別れの際、兄達は、泣いてすがりつく幼い弟達をなだめ、「すぐ行くから、すぐ会えるから」と固い約束を交わし、別れたと言います。

しかし、この別れは半生の別れ、永遠の別れになりました。
うちの祖父は、再婚しましたが、新しい妻は日本での暮らしを望みました。
祖父のすぐ下の弟は、祖父との確執のため、祖父から遠ざかって行きました。
三番目の弟は、成人することなく亡くなりました。

韓国に帰った母と姉と二人の弟は、手紙を日本に送り続けました。
しかし、その手紙は祖父の手に届くことはありませんでした。
夫が韓国との関係を絶ってくれることを望んだ妻が、夫に届いた手紙をすべて隠していたからです。末の弟が、痛切な思いでしたためた‘母危篤’の知らせにも返事が来ることはありませんでした。

曾祖母は、長兄であるうちの祖父を格別可愛がっていました。亡くなる時の最期の言葉は、「スヨン(祖父の名)か?スヨンが来たのか?」だったと言います。

手紙を受け取れなかったのは、言い訳になりません、何故、祖父は韓国にいる家族に手紙すら書いてやらなかったのか?
妻の願いを聞き入れ韓国にいる家族との関係を絶ち、日本に帰化して祖父は本当に日本人になれたのでしょうか?

Uに続く…

ノグちゃんのルーツ(U) 

2005年05月20日(金) 9時10分
食べ物の好みも全く変わらず、庭で唐辛子を栽培してはコチュジャンにつけて食べたり、妻に内緒でキムチを食べて来た祖父は、幸せだったのでしょうか?

祖父にとって故郷とは、何だったのでしょうか?
親の死にさせ無関心になれ、兄弟に手紙一通送ってやることが出来なくても、キムチを食べて郷愁に浸れれば満足できるのが祖父にとっての故郷なのでしょうか?

私には、わかりません。
祖父のその冷淡さ故に理解することも出来ないし、私が祖父と同じ時代を日本で韓国人として暮らした経験もないので、きっと理解することはできないと思います。

スンちゃんは、「配偶者によって、人の人生はどうにでも変わる」と言っていました。
「僕らがお互いの国を尊重することができるのは、僕らが現代に生きる人間だからだよ。お祖父さんがなさったことが正しいことだったとは思わないけれど、お祖父さんにしかわからない孤独があったと思う」とも。

しかし、祖父は10年前からその孤独から少しずつ開放されているようです。
韓国にいる兄弟との往来が始まったのです。

生き別れて50年、末の弟が妻を伴って日本を訪れました。手紙を送り続けること50年、受け取った返事は兄の妻が送りつけてくる「もう、手紙は書かないでくれ」のつれない返事だけ。
送り先の住所もない。
もうこうなったら、昔住んでた家を訪ねてゆくしかない。
そこにはもう兄は住んでいないかもしれない。しかし、何かの手がかりを掴めるかも知れない。
藁にもすがるような気持ちで、昔日本で住んでいた家を訪れたのです。
どんな気持ちだったでしょうか?
しかし、明るく屈託のない末っ子お祖父ちゃんは、その時の気持ちをこう語りました。
「庭で唐辛子とサンチュが栽培されてるのを見て、‘兄貴の家に間違いない!’と思ったよ

Vに続く…

ノグちゃんのルーツ(V) 

2005年05月20日(金) 9時20分
この十年来、祖父は兄弟達と行き来し、孤独から開放されたようです。

しかし、韓国にいる弟たちが、気になって仕方のないもうひとりの人がいました。
二番目の兄です。

うちの祖父の頑固さとキツイ性格ゆえに、何十年も遠ざかっていた人です。

うちの祖父があまりにも嫌うため、韓国にいる弟達は、二番目の兄の消息が気になりながらも、今まで追及することが出来ずにいました。

その話をひょんなことから私が耳にし、唯一うちの母だけがその叔父さん(祖父の二番目の弟)の連絡先を知っていることを思い出しました。

母にそのことを話すと、「会わせてあげたいわよねぇ」と乗り気の様子。
実は、うちの母にとって、この叔父さんは命の恩人でした。
継母にいじめられ、何度も死のうかと思いつめる度に、暖かい言葉と愛情で、思いとどまらせてくれた人でした。
父親があまりにも毛嫌いし、遠ざけていたため、会うことを憚って来たけれど、昔の恩を考えたら、叔父さんと韓国にいる兄弟が60年ぶりの再会を果たすための橋渡しをしてあげたいと母は決心したのでした。

Wに続く…

ノグちゃんのルーツ(W) 

2005年05月20日(金) 9時30分
5月13日。それは、母にとっても非常に意味のある再会の日でした。
30年ぶりに叔父と新宿駅で再会を果たし、その叔父を連れて兄弟達が待つ韓国へと旅立ったのですから。
成田へ向かうバスの中、韓国へ向かう飛行機の中、この30年間互いがどう生きてきたのか叔父と姪は熱く語りつくし、午後2時30分、金海空港に到着したのでした。

金海空港で二人を待つお祖父ちゃん達(弟達)とお祖母ちゃん(お姉さん)、そして私の心臓は破裂せんばかりに高鳴っていました。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、60年ぶりの再会に胸が高鳴り。
私は、おっちょこちょいの母が本当にちゃんと飛行機に乗って金海空港に来れるのか胸が高鳴り。
一行は固唾を呑んで二人を待ち受けました。

あった瞬間、「ヒョンニ〜ム(兄貴)」「トンセ〜ン(弟よ)」と人目を憚らず、絶叫し泣き崩れる兄弟達を見ながら、私も涙が溢れました。

弟お祖父ちゃんの一人は失明してしまい、兄の姿を見ることが出来ませんでした。しかし、「心の目で見えるんだ」と涙を流していました。

この弟お祖父ちゃんが、韓国に引き上げるときに、父の遺影と遺骨を命がけで両手に抱えて持って帰った人でした。

今回の出会いに、うちの祖父はいませんでした。
しかし、韓国にいる兄弟達と60年ぶりの再会を果たした弟お祖父ちゃんは、「日本に帰って、兄貴に会わなくては」と固く決心したのでした。

母と弟お祖父ちゃんが帰って間もなく、弟お祖父ちゃんが、うちの祖父を訪ねたと母から聞きました。

「兄さん、30年間ご無沙汰しておりました」と頭を下げる弟を見て、祖父はただただ泣き続けたそうです。

祖父の孤独は、生き別れのもたらした結果ではなく、祖父の頑なな心と人生における祖父自身の選択がもたらしたものだったろうと思います。
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