回想録4 ひとりぼっちクリスマス

2009年11月23日(月) 22時00分
本日メルボルン晴れ。最高気温26度前後。

「今年のクリスマスも1人だわぁ。」
…と、寂しそうに呟く友人が居ると、必ず話すストーリーがある。

マヤ子史上、最も思い出深く寂しいクリスマスのお話。

それは数年前のクリスマスイブ。
マヤ子はひとり、空港で飛行機を待っていた。


その時期、なんだか精神的にひどく疲れていたのでクリスマスを誰かと楽しく祝う気にもなれず、イブにアデレードへ一人旅に出ることにしたのだった。

空港はクリスマスを実家で過ごす為に里帰りする家族連れで賑わっていた。海外での「クリスマス」は日本以上に重要なイベントらしく、一人で過ごすなんて、とんでもないコトのようだった。

小さなカバンの中には三脚と一眼レフカメラが入っていた。

この「クリスマス一人旅」の様子を写真で記録して作品を作ろうと思っていたから。凹んだってタダでは起き上がらない、そんなある種の「強さ」を身につけたい思っていた。

そしてあちこち三脚を立てては、カメラをセットして自分撮りをした。



 サンタ風に。

人間、凹んだときは案外こわいものなんて無い。


最初は指をさされたりして少し躊躇したけれど。

なんだかだんだん楽しくなってきた。


知り合いの居ない知らない街で一人ぼっちのクリスマス。

風変わりな日本人が赤い帽子に三脚背負って一人ぶらぶら珍道中。


その一部始終を記録した写真作品集「ロンリークリスマス」は、写真科の授業でその年のMVPを受賞した。

「君がサンタの格好でクリスマスの夜に鍋からインスタントラーメンをすすってるあの写真、涙が出そうだった…」と、担当教諭に言われた。

受賞理由は同情…? ( 。-_-。)

ともあれ。

どなた様も、一人で寂しいクリスマスだなんて言わないで。

外国の知らない街をサンタの格好でウロウロしてクリスマスを一人で過ごした人間がここに居ることを思い出すと、きっと勇気が沸いてくる。

回想録3 盗難事件

2009年11月08日(日) 18時24分
本日メルボルン晴れ。最高気温31度。

ポワ〜ンと緊張感のなかった昔の私。。。)

それはほんの一瞬の出来事だった。

気がついたら、カバンの中から財布とクレジットカードと定期券、デジタルカメラだけが忽然と無くなっていた。3年ほど前、学校の図書館での出来事だった。もう真っ白になった。

。。。。。。。▄█▀█●



「トコロ変われば、こんなにも違うのねぇ…。」

去年久しぶりに日本へ帰国した時に立ち寄ったアメリカの某有名コーヒーチェーン店。

カバンで席取りをしてからカウンターへ注文をしに行っているお客さん達をたくさん見た。日本ってなんて平和な国なんだろうとしみじみ思った。これで盗まれないんだとしたら本当に素晴らしいコトだと思う。

メルボルンの中心地にある同じコーヒーチェーン店では、この習慣を払拭仕切れていない渡豪まもない日本人観光客を狙ったスリや置き引き被害が1年を通して頻発しているというのに。



盗難に気づいた時、私はまず真っ先にクレジットカードを止めようとした。そしてこの時わたしは日本の会社の優秀さを身をもって感じた。

電話をかけた時すでに私のカードは会社の判断で停止されていた。
ミラクルだった。

というのも、犯人はたった1時間足らずの間に3軒ものカメラ屋で私のカードを使おうと試みた形跡があったというのだ。普段あまりカードを使わない私。突然、短時間で数度も使われようとしたカードにすぐさま異変を察知し、優秀なクレジットカード会社がサービスを停止してくれていたのだ。お陰でカード悪用の被害総額は5千円足らずで済んだ。

(この事件があっての事なのか、その後私がカードを使おうとすると度々セキュリティーブロックがかかり、カード使用が停止された。優秀すぎるぜぃ日本の会社。 その度に国際電話をかけて「本人です、はい、盗まれてないですヨ。」という会話をする。)

盗難品の多くは、足がつかないようすぐに現金に替えられ、リサイクルショップなどに流れて行くそうだ。そこで犯人逮捕の決め手になるのは、「シリアルナンバー」だと、そのとき警察に教えてもらった。

高級な所持品、たとえばカメラやブランド物等の製造番号(固体識別番号)を普段から手帳などにメモっておくと良いそうだ。パスポートやクレジットカードもコピーをとって保管しておくと、盗まれた後の再発行手続きがスムーズになるそう。なのでこれから外国に行く予定のある方は是非それらを準備しておいた方がいいデス。

保険に加入していたので、被害額の一部は戻ってきたけれど、この時からいつ何時もカバンは膝の上か、自分と壁の間に置くことにした。「犯罪は他人に起こるもの」と漠然と考えていた私に隙があったことは間違いない。

今は「キュ!」とシッカリ、私の緊張感。)


この数年間、いろいろな「危ない場面」に居合わせてきた。

レストランで実際に置き引きの現場を目撃して犯人が逃走しようと大暴れする光景を目の当たりにしたこともあるし、逆に自分が変な人に追われた事もある。日本人の友人の中で、1人は3度も車上荒らしに遭い、4人が空き巣に入られ、1人は夜道でナイフで脅されてカバンをとられた。

犯罪が多いのはAUSに限ったことではないけれど、特に外国ではより一層の注意が必要だと身に沁みて思った出来事だった。

・゚・(ノД`;)・゚・

回想録2 飛行機がナイトクラブに変貌

2009年11月05日(木) 16時57分
本日メルボルン晴れ。最高気温20度前後。

阪神大震災の時、救援物資を受け取るために人々が行列している様子が世界に報道された。

それを見た多くの外国の人たちが驚いたという話を聞いたことがある。というのも非常時、救援物資の支給場所といのは我先にと前へ出て行く人々でごった返して上へ下への大騒ぎ。物資は争奪戦となってしまう…というのが、世界の「イメージ」だったから。

誰もが生きてゆく為に必死な状況下で、文句ひとつ言わず何時間も寒空の下でキチンと行列する日本人の姿は、ある種の驚きと感銘をもって受け止められたという。



4ヶ月前。

メルボルン発、ロンドン行きの飛行機の中で私はその話をしみじみと思い出していた。

時刻は深夜1時。搭乗して早1時間が経過していたが、飛行機は機械トラブルを来たして未だ空港に留まっていた。乗客達のイラだちも次第に増してきてあちこちで乗務員を呼びつける電子音が響いていた。

待ち時間が長くなってきたので、通常は離陸してから開始されるドリンクサービスが地上で始まった。そして更に1時間が経過したが、飛行機は一向に飛び立つ気配がない。

狭い機内で何時間も行き場のない乗客たち。苦情の対応に忙しく走り回る乗務員達。その頃から機内の雰囲気がおかしくなってきた。

私の席は通路側。ちょうど乗務員達が給仕の準備をするカーテンで仕切られた空間の真横だった。呼びつけてもなかなか来ない乗務員に痺れを切らした乗客たちが次から次へとやってくる。

「ビールを!」「水を!」

そのうち、給仕室の中に勝手に乗客たちが出入りし始めた!!

(`□´/)/ ナニィィイイイ!!

そして勝手に戸棚を探り、お目当ての飲み物を自ら手に入れ始めた。さらにさらに。酔っ払った女性客たちが給仕室でお酒を立ち飲みし始めた。そして飲み物を求めてやってきた客に「ビールはそこの棚よ!氷はそこよ!」と勝手にサービスし始め、さらに自分達のポケットの中にまでビール缶を詰めだした。


気がつけば給仕室は酔っ払いたちの「集団立ち飲み場」と化していた。乗務員がたまに戻って来るも、苦笑いするだけで何も言わず。む、無法地帯!?

「あの男の子可愛くない?」
酔っ払いたち、お酒片手に今度は良い男探し。

どうでもいいけどすっごいうるさいよぉー。
時刻は深夜3時。機内の照明も落とされた。私は寝ていたい…。わざと毛布を頭からかぶって見せて「寝かせて!」アピール。すると「あらイケナイ、この人寝てるわよ!」と酔っ払い。そうそう、私寝てるの。さっさと解散して。

すると酔っ払い達、給仕室のカーテンをシャー!と引いて、「これで文句あるまい」とばかりに中で大騒ぎしだした。

そ、そうじゃないだろー…。。。。
( ̄皿 ̄;;

もうそれは他でもない「ナイトクラブ」状態。

仮にこれが日本だったとして、離陸が3時間遅れて乗客が機内に閉じ込められるような状況になったとしても、決して同じことは起こらないと思うのだけど、お国柄の違いとは言え見たことのない光景に開いた口が塞がらない。

3時間後、機長アナウンスが流れた。
「今日はもう飛べません。明日また来てください。」

もう、何が起こっても驚かない心持ちだった。
3時間機内で待機させられた乗客たちはポイ!っと飛行機を下ろされ、家路についた。

「飛べなかったけどぉー、お酒タダでいっぱい飲めたからいっかぁ!」

酔っ払いのお客、ポケットに詰め込んだビールをまたプシュ!とあけながらアッケラカンとそう言って笑っていたのが忘れられない。

ヤレヤレ ┐(´ー`)┌ マイッタネ

しかしながらその一方で寡黙に礼儀正しく待っていた大多数の人たちが居たことを最後に付け加えさせて頂きたい。決して、皆が皆そうだったわけではないんだと。


飛行機は結局13時間ほど遅れて、翌日の昼に無事飛び立ったのだった。

回想録1 留学3日目でホームレス

2009年10月04日(日) 17時50分
本日メルボルン晴れ。最高気温18度。

ビクトリア州は今日から夏時間に。
皆で時計の針を1時間進めて、夏を迎える準備が整った。


たぶんこれが、オーストラリアで過ごす最後の夏になるんだろうなぁ。
そう思うと少しだけ切ない。

2005年にスタートした海外日記も、たぶんもうすぐ終わり。(ノд・。)
5年間の海外生活、ホントにいろいろあった。

今日からこのブログの終わりに向けて、私のオーストラリア生活を振り返ってみるお話をちょこちょこと書いてみようかと思う。思えばAUS生活はトラブルの連続。。。

なかでも日本を出てわずか3日目に、オーストラリアという未知の国でホームレスになった経験は忘れられない。

ホームステイ先の環境に問題があって、一刻も早く新しい住まいを見つけなければいけなかった。けれど手配会社に任せてしまうと新しい住居の紹介に1週間はかかる。

極度のストレスで一晩中震えが止まらない状態に陥った。どうしようもなく追い詰められて3日目の早朝5時に真っ暗な道をひとり、20キロのスーツケースを引っ張って始発のトラムで家出。寒さが厳しくなってきた5月の出来事だった。

右も左も分からない、言葉も満足に通じない、誰一人知り合いが居ない異国の地でホームレス。それはもう一言で言ったら「絶望」。数日前まで日本という平和な環境でぬくぬくと温かい家族に囲まれていたことを思うと涙が出そうだった。夜が明けるまでマクドナルドの店内に身を寄せて、明日からどう生きていこうか悶々と考えた。

けれど幸いなことに、このホームレス生活は15時間で終わった。

スーツケーツと共に学校に登校してきた青ざめたちっちゃい日本人の存在はその日のうちに職員の間に広がって、緊急事態と見た手配会社がたった数時間という異例のスピードで新しいステイ先を見つけてくれたのだ。

私を受け入れてくれたのはラジオ局で冠番組を持つブロードキャスターの家だった。その夜、安全な屋根のある場所で温かい手料理を目前にして、張り詰めていた緊張が一気にほどけ、目の前に座る優しい顔をしたママが女神みたいに見えた。


「困ってる子が居るって聞いたから、急だったけどYesて言ったのよ。でも来てくれた子があなたで良かったわ。」

2ヵ月後ホームステイを卒業する時にママが言ったコトバ。

絶望を与えるのも人間であれば、希望を与えるのもまた人間。もうちょっと頑張ってみようと思った。感謝してもしきれない気持ちをお別れのとき絵にして贈った。

オーストラリアの生活に慣れた今でも、時々ラジオから聞こえてくるパパの陽気な声を聞くたびにあの5年前のホームレスの日を思い出す。あの日、彼らに拾われていなければ私はこうして今もオーストラリアに居ることは無かったかもしれない。この幸運な出会いは私をこの国に繋ぎとめる原点となった。

これが私のAUS生活最初の出来事。
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