
雑誌『S Cawaii』。
わたしが求めたのは、言葉の表現が悪いが、体の仕組みが女性でありたかったのである。
これはよく「それは、ただそういうのを装って、女の体をもて遊びたいだけの、欲の塊」と誤解をされるが、そうではない。
確かに「性行為などによる女性としての感覚を得たい」と話せば、そのように捉えられてもやむをえなしである。しかし、それは理由の1つでしかない。
わたしは、明らかに男性よりも女性の方が、見た目の体が(仕組みに関わらず、ファッション等も)綺麗で美しいと思っている。
わたしは、最もそこに憧れている。
そう強く思う切っ掛けとなったのは、テレビの洋画でのシーン。
ボンテージに身を包んだ女スナイパーが、不摂生のかたまりのような太ったオヤジを、町の裏の袋小路に追込み、オヤジか失禁しながら簡単に射殺される…、そんなのだった。最近ので言えば『ハンドラ』(古いか?)、『レッドソニア』(マイナーか?)、『キャットウーマン』のような映画である。
射殺される際、カメラワークは、女スナイパーのやや開いた足元からオヤジを捉えていたのだが、その場面が、オンナの強さを象徴しているように見えたのだ。ちなみに、この撮影の手法は色んな映画やプロモビデオ、洋楽CDジャケットなどで使われている。
話を戻すが、女性のこういう強さにも憧れている。
わたしは先立つものさえあればいつでも、少しでも“女性”に近づきたいと思っている。
それでもし、ふつうの恋愛が出来なくなっても構わないとさえ。だって体を女性にしても、恋愛感覚が男性ならば、いわゆる一般的な恋愛や交際というのは、難しいというふうに理解しているからである。
好きになった相手に強要もしたくない。また、このまま男性として過ごしていくことにしても、同様である。
ここで一つ整理というか、言っておきたいのは、わたしのような精神状態の人間を「トランスヴェスタイト」と呼ぶ。
この「トランスヴェスタイト」は、男女に関わらず、異性の容姿に成り得ることで、気持ちを満たすことをいう。
よく“女装家”あるいは“女装趣味”というのもあるが、個人的にはそれとは線を引きたい。また、男性が女性の服を着ることで、肌の露出が高くなることから“露出狂”と表現されることもある。
つづく。