クリスマスの意味とは 

December 23 [Sat], 2017, 10:16
12月6日に、アメリカのトランプ大統領が、エルサレムが「イスラエルの首都である」と宣言した。ニュースが伝えるところによれば、エルサレムは「ユダヤ教」、「キリスト教」、「イスラム教」の「聖地」であり、またイスラエルとパレスチナ勢力がその所属を争う場所である、とのこと。EUおよび世界の国々の懸念することは、この宣言がイスラム諸国家や世界に散在するイスラム教徒を刺激し、戦争、紛争、あるいはテロの火種となる、ということだ。世界的な視野から見れば、北朝鮮問題よりもゆゆしき、また深刻な問題である、と世界の大半の国々は見ていることであろう。




 今年もクリスマスの季節が到来した。クリスマスといえば、日本では男女が「聖夜」を共に過ごす、と言ったロマンティックな雰囲気を醸し出しているが、アメリカ等では家族が共に幸いな時を過ごす習慣を持っている。しかし、言うまでもなく、世界で一番最初にクリスマスが祝われたのはかの「イスラエル」においてであり、その舞台は「ベツレヘム」ではあったものの、クリスマスは「エルサレム」と密接に関わっている、ということは肝に銘じて迎えるべきであろう。現在のクリスマスの風習は、「欧米的キリスト教」(それには異教の習慣も内包されている)の伝統と世俗主義、商業主義の複合体であり、真のクリスマスとは当然のことながら程遠い有様なのである。

 聖書の中で、クリスマスに関して最も多くの記事を割いているのはルカの福音書である。ここで言う「クリスマスに関して」とは、イエス・キリスト生誕前後の記事であり、預言者としてのイエスの先駆者であるバプテスマのヨハネ誕生の記事も含まれるが、イエス生誕に関わる記事であり、イエスが誕生するにあたってイスラエル人の預言・証言の記述が多く含まれている、ということである。

 ルカの福音書1-2章で、イエス生誕にあたってなされた預言・証言の内容は、大きく分けて@神の王権の確立、Aエルサレムの贖い、B神の約束の成就、Cイスラエルの民および異邦人(イスラエル民族以外の諸民族)の救い、➄十字架、の五つの要素に関することである、と言える。すなわち、現在なおも世界の各地で祝われているクリスマスの意義とは、この五つの事柄に関することについての「祝い」なのである。

 「キリスト教」と言えば、「十字架」とか、「愛」(多分にヒューマニスティックな響きを持つ)というイメージが強いが、その中心的なテーマはむしろ、「神の王国」にある、と言っても過言ではない。そして、その王国は「イスラエル」に関わることである。そして、その首都が「エルサレム」である。

 クリスマスの祝いの中心的なテーマは、「神の国」がこの地上に到来することであり、その首都は「エルサレム」である、ということだ。第二の「エルサレムの贖い」とは、神の臨在が(神の民であるイスラエル民族の神に対する反逆、背きの罪ゆえに)神の国の都として立てられたエルサレムから預言者エゼキエルの時代から去ってしまっていたが、その臨在が再び戻る、ということだ。すなわち、背きの民であるイスラエル民族の罪が許され、贖われる、ということだ。

 現在、使徒パウロによれば、イスラエル民族は「背きの民」であり、神に背を向けているゆえに、彼らの民族的な行動は神のみ前では「正当化」されない(かといって、西欧・アラブ寄りの方々を信奉する日本の報道、すなわち反イスラエル的内容が濃いニュース・記事も、
不適切ではあろう)。エルサレムは、アメリカやイスラエルの「武力・経済力・世俗的国力」によって「神の国の都」とされるのではなく、人間の手を介しないで神ご自身がそれを成し遂げられる。クリスマスとは、「神の国」樹立の宣言であり、また「エルサレム」を神の国の首都である、と宣言することである。このことは、アメリカなどと言った、神の御目からご覧になれば極めて卑小で、息で吹けば吹き飛んでしまうようなものによって「宣言」される必要は全くない。このことで、アメリカが傲慢になれば、アメリカに神の裁きが下るであろう(あらゆる意味で、現在の中国はアメリカよりも国際舞台での海外交渉では賢い行動をしている、そして経済的にも祝福されてきている。神はアメリカを見放されたのかもしれない)。

 第三に、「神の約束の成就」が、クリスマスで祝われるべきことである。このことを、ルカの福音書では、「イスラエルを受け入れる(赦す、贖う)」、「(神の子らを)敵の手から救う」、「(神の民が)神に仕える」という観点から記している。この中で、中心的なテーマは、「(神の子らを)敵の手から救う」ことにあろう。人類の始祖アダムが罪を犯して以来、人間は「悪魔」の軍門に下っている。霊の目を開いてみれば、霊的な世界に置いていかに、人間が罪に縛られ、悪魔にがんじがらめにされているか、を思い知らされるであろう。ゆえに、私たちが戦うべきは、「霊的」な戦いなのである(エペソ6:12)。クリスマスで祝うべきは、Tヨハネ5:20,21に「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」とあるように、悪魔の子どもから、神の子どもにされる、その神の約束が成就した、ということだ。

 イスラエル民族は背きの民ではあるが、その「賜物と召命は変わらない」(ローマ11:29)。
聖書によれば、イスラエル民族は再び、必ず神に立ち返る(悔い改める)時が来る、とある。これは、何千年もの間、神が繰り返しイスラエル民族自身に語りかけてきたことだ。その言葉、約束の保証がクリスマスである。それは、イスラエル民族以外の救いが成ったあとに、神がことを起こされることである(ローマ11:25)。

 そして、神の人間に対する約束の目的とは、人間が「神のしもべ」となることだ。人間の創造目的とは、神の子供、神のしもべとなることであり、人間が世界の主人になることではない。人間が主人である世界は、結局のところ、破局を招く。人間はそこまで善良ではないからだ。ヒューマニズムはあまりにも、人間の内に働く悪の力(悪魔)を過小評価しすぎている。人間が「神のしもべ」になる、とは「悪魔のしもべ」(私たちには「神のしもべ」となるか、「悪魔のしもべ」となるか、の二つの選択肢しかない)の身分からの解放でもある。

 そしてクリスマスのテーマは「十字架」でもある。「十字架」の前には、「立つ者」と「倒れる者」との二種類の人間に分けられる(ルカ2:34,35)。十字架は、ローマ時代の「死刑台」である。現在で言うところの、絞首刑台、電気椅子と同じ類のものである。その十字架につけられた男を、「神の子」として信じるか、この話を「ばかばかしい」と退けるか、によって、神によって人間は二グループに分けられる。これを信じる者には、「十字架」は「神の力」となる(Tコリント1:15)。

 ちなみに、聖書によれば、神の中心的な摂理は「教会」および「終わりの時代」(すなわち、「異邦人の時」後の時代)にはイスラエル民族において進められる。イスラエル民族以外からは、「キリスト」は現れない。これが聖書の主張である。アメリカや、韓国、中国においても「私が受肉したキリストである」と主張する人々がいるが、注意して見分けてほしい。

「わたし(イエス・キリスト)の前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。」(ヨハネ8:10)
※「わたしの前に」の「前に」とは、時間的な意味あいでの「前に」という意味ではない。それならば、「後でならばよい」ということになろう。「前に」の原語であるπρὸは、「〜にとって代わって、差し置いて」という意味を持つ。すなわち、ダビデの末であるイエスだけがキリストなのである。他の民族からキリストが出現する可能性は、聖書によれば0%である。
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