少女愛など
February 16 [Sat], 2008, 11:50
ある種の芸術好きは、少女を好む傾向がある。
そういった少女への愛には、二種類あると思う。
自然の少女への愛と人工の少女への愛だ。
表面的には、似たもののようでありながら、このふたつは正反対のものだ。
自然の少女への愛は、無垢ないのちへの愛であるのに対し、人工の少女への愛は、ネクロフィリア的性格を持つ。
人工の少女への愛は、人形愛と根本的には同じものだ。
人形とは自ら語り出さない存在、意志を持たない存在であり、その本質は客体である。
人形を愛する人は、それに自分自身のイマジネーションを重ね合わせ、愛する。
つまり、人形愛には、厳密な意味での対象物は存在しない。
その情熱の正体はナルシシズムであり、完全に他者を排除したいという願望に根ざしている。
こういった願望が高まると、人は、鏡の部屋、自分の観念の中で窒息死する恐れがある。
内面世界を彷徨っていた時、もう少し先へ進めば、完全に他者を失い狂気に陥るという地点の予感があった。
私は、ぎりぎりの地点まで降りて行き、何があるのか見たかった。
こういった内面の旅には、つねに危険が付きまとう。
理性を脇に置いて心の深い部分へと潜ってゆくが、ある地点まで来たら、理性を用いて戻らなければならない。
この時、理性は他者を求める。
内面を旅する者の命綱は他者である。
アナイス・ニンの「近親相姦の家」を読んだ。
彼女は、初恋はつねに感情的な意味では近親相姦的なものであると言う。
ナルシシズムの状態にある子どもは、自分に似ているものだけを愛する。
他者を愛すると言うよりも、他者の中に見る自分を愛するのだ。
「近親相姦の家」には、ナルシシズムから愛への移行が描かれている。
この本の内容は、最近私が発見したことと共通する部分があり、興味深かった。
子どものナルシシズムについてもっと読んでみたいと思い、ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」を読んだが、坂口安吾の書いたものをいくつか読んだ後だったので、いまいちだと思った。
安吾のぎりぎりの言葉に比べると、コクトーの言葉には甘さを感じる。
アナイス・ニンが「近親相姦の家」は女性の「地獄の季節」だと言うので、ランボーの「地獄の季節」を読んだ。
その結果、彼女の影は薄くなってしまった。
ランボーは、至極魅力的な「子ども」だ。
彼は、確かに天才だと思う。
透明ないのちの炸裂と疾走。
ランボーの言葉は、私の血の中を駆け抜けてゆく。
こんなに驚きと共感に満ちた読書はめったにない。
その他にも、ぱらぱらと様々な本をひっくり返していた。
私は、森茉莉の小説の中にある美のファシズムは嫌いだが、彼女のエッセイにある幼子の悲しみのようなものは好きだ。
子どもの眼に映る世界は、きらきらしていて、とても綺麗だ。
子どもは、大人たちの現実を現実とは思えず、夢の中を漂っているようで、心細く、頼りなげな気持でいる。
最近、私はそういった状態でいることも多かったのだが、やはり私の心はそれだけでは満足できないようだ。
美しさと穏やかさの中で、私は退屈してしまう。
ランボーをもっと読んでみようと思う。
彼は、私の血の中の「子ども」の眼を覚ましてくれる。
そういった少女への愛には、二種類あると思う。
自然の少女への愛と人工の少女への愛だ。
表面的には、似たもののようでありながら、このふたつは正反対のものだ。
自然の少女への愛は、無垢ないのちへの愛であるのに対し、人工の少女への愛は、ネクロフィリア的性格を持つ。
人工の少女への愛は、人形愛と根本的には同じものだ。
人形とは自ら語り出さない存在、意志を持たない存在であり、その本質は客体である。
人形を愛する人は、それに自分自身のイマジネーションを重ね合わせ、愛する。
つまり、人形愛には、厳密な意味での対象物は存在しない。
その情熱の正体はナルシシズムであり、完全に他者を排除したいという願望に根ざしている。
こういった願望が高まると、人は、鏡の部屋、自分の観念の中で窒息死する恐れがある。
内面世界を彷徨っていた時、もう少し先へ進めば、完全に他者を失い狂気に陥るという地点の予感があった。
私は、ぎりぎりの地点まで降りて行き、何があるのか見たかった。
こういった内面の旅には、つねに危険が付きまとう。
理性を脇に置いて心の深い部分へと潜ってゆくが、ある地点まで来たら、理性を用いて戻らなければならない。
この時、理性は他者を求める。
内面を旅する者の命綱は他者である。
アナイス・ニンの「近親相姦の家」を読んだ。
彼女は、初恋はつねに感情的な意味では近親相姦的なものであると言う。
ナルシシズムの状態にある子どもは、自分に似ているものだけを愛する。
他者を愛すると言うよりも、他者の中に見る自分を愛するのだ。
「近親相姦の家」には、ナルシシズムから愛への移行が描かれている。
この本の内容は、最近私が発見したことと共通する部分があり、興味深かった。
子どものナルシシズムについてもっと読んでみたいと思い、ジャン・コクトーの「恐るべき子供たち」を読んだが、坂口安吾の書いたものをいくつか読んだ後だったので、いまいちだと思った。
安吾のぎりぎりの言葉に比べると、コクトーの言葉には甘さを感じる。
アナイス・ニンが「近親相姦の家」は女性の「地獄の季節」だと言うので、ランボーの「地獄の季節」を読んだ。
その結果、彼女の影は薄くなってしまった。
ランボーは、至極魅力的な「子ども」だ。
彼は、確かに天才だと思う。
透明ないのちの炸裂と疾走。
ランボーの言葉は、私の血の中を駆け抜けてゆく。
こんなに驚きと共感に満ちた読書はめったにない。
その他にも、ぱらぱらと様々な本をひっくり返していた。
私は、森茉莉の小説の中にある美のファシズムは嫌いだが、彼女のエッセイにある幼子の悲しみのようなものは好きだ。
子どもの眼に映る世界は、きらきらしていて、とても綺麗だ。
子どもは、大人たちの現実を現実とは思えず、夢の中を漂っているようで、心細く、頼りなげな気持でいる。
最近、私はそういった状態でいることも多かったのだが、やはり私の心はそれだけでは満足できないようだ。
美しさと穏やかさの中で、私は退屈してしまう。
ランボーをもっと読んでみようと思う。
彼は、私の血の中の「子ども」の眼を覚ましてくれる。
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