祖父について 

April 14 [Tue], 2009, 19:58
漫画とは全く関係ないけれど。

先日、祖父が他界した。肺気胸で入院していて、退院の日に珍しく実家から電話が入ったから何事かと思ったら、姉から「今朝方亡くなった」という報告。祖父は年の割には非常に頑丈な人だった。ボケが始まっていて色々なことを忘れてしまうようだったが、まだまだ生きてくれると勝手に思っていて、実家を出た自分は疎遠になっていた。一緒に暮らしていてまず間違いなく妻になるであろう人を、いずれ会わせようと思ってたが適わなかった。仕事帰りの電車で後悔先に立たずという言葉が身にしみて感じられて、泣きそうになった。

通夜や葬式はほぼ身内だけで行われて、子供や孫、ひ孫はほとんど皆集まることができた。稚内に住んでいる兄も一日一便の飛行機に乗って通夜に参加することが出来た。自分自身本当にたまたま通夜と葬式の日が休みで、また月曜が友引ということもあり、全て土日で一気に済ませてしまえるようになり、叔母が言っていた「皆うまくいくようにじいさんがうまく死んでくれた」というのはちょっとわからないが、皆で送り出すことが出来ためぐり合わせには誰の仕業かわからないが感謝をしたいと思った。

祖父が死んだこと自体は不思議と信じられないというような感覚はなく、坊さんの読経も白々しく聞こえていたが、通夜の間となりに座った従妹がずっとすすり泣いていたり、もうずいぶん老け込んでほとんど表情も動かさない祖母が涙をぬぐったりしている姿を見ていると、残された人間の悲しみのほうが自分にとってはやりきれない感じがして、そんな最中にちょっとした思い出がよみがえったりすると自然と涙が出てきた。目頭が熱くなるというのではなく、感情の起伏の無いまま目の奥から涙が滲み出してくる感覚はいままで味わったことが無く、本当に悲しいというのはこういうことなのかな、とも思った。

偏屈なところはあるけれども孫は可愛がる人で、買ってきてくれたお土産をいたずらして割ってしまったときにも「お前は悪くないよ」なんていってしまうようなところがあり、自分も例に漏れず充分可愛がってもらったとは思うのだが、同じように悲しんでいるほかの孫たちを見ると、自分は祖父の孫総勢12人の中の12分の1であるという疎外感に似た感覚を覚えた。過剰に悲嘆にくれるのもなにか違うような感じがして、なるべく気持ちを表に出さないようにした。

92歳は大往生といえるかもしれないが、衰弱していったわけでもなく元気なまま突然死んだので、もっと永く生きれたかもしれないと思うと非常に残念な気持ちになる。親戚間の個人的な好き嫌いや距離感については聞いたり肌で感じたりしているが、集まった全員がそういったことを一切出さずにただ祖父の死を悲しんでいたことは、祖父にとってなによりの喜びではないのかと思った。

もう直接お礼を言ったりできないから、せめてここに感じた気持ちやありがとうの言葉を残しておきたいと思ってここにどうでも良いことを書き綴っています。

ゲンセンカン主人 

April 17 [Thu], 2008, 20:52
つげ義春という漫画家が、最後の作品を書いてからもう長い年月が経つ。

つげ義春は30代あたまの僕の世代では決して無いが、「ねじ式」はまるで漫画界の常識的なバイブルであるかのようにそこかしこで顔を出していた。社会人になってからしばらくして、初めてねじ式を読んだ時にはラベルの無いお酒を飲んで、確かに酔っ払った、でもこれは本当にアルコールかな?という疑問を抱くようなわけのわからない不安感に襲われた。はっきり言ってこの作品は批評のしようが無いと思う。言ってみれば存在のみで成り立つ作品である。これが漫画文化の根付いていない何十年も前に発表されていたというのははっきり言って脅威以外の何者でもない。

その後、僕は「日の戯れ」や無能の人シリーズの方でつげ義春にのめりこみ、貸本時代など入手困難なものを除けばほとんどの作品を買い集め、読むことが出来た。その中で、ねじ式以上に不安感を覚えたのが「ゲンセンカン主人」だ。何が不安かというと、結末を示すべき最後のひとこまが欠落した構成なのだ。後でつげ義春に関する書籍を読んで分かったのだが、どうやら作者は意図的に最後を書かなかったらしい。後を想像できて不安な漫画は今までおそらく読んだことがあるが、結末を想像もできないのに明らかに結末が抜けていて、それでいて不安感が残るという恐ろしい漫画である。心を動かされる、という意味では大いに感動したといえる作品である。

神戸在住 

January 24 [Thu], 2008, 9:25
ずいぶんと待ったけど、やっと神戸在住の最終巻が出た。

連載中にアフタヌーンでこの作品を読んでいた人は、是非この最終巻を手にとって貰いたい。神戸在住は終始主人公の視点で語られるストーリーなのだが、この最終巻には書き下ろしとして、作中で亡くなったこの漫画の最重要人物といっても良いであろう日向洋次の視点で描かれた話が載っているのだ。この話を読んで、僕は2つの意味でほっとした。まず一つは、死の前日の桂とのやり取りの真相が日向の心を描くことではっきりと示されたことで、桂と日向、お互いの魂が救われたように思えたこと。神戸在住という作品は、ぬくもり深いようで人の心根や状況、関係を「現実」と同じように冷たく描いている。最終巻に至っても桂の喪失感はついぞ癒され切ることは無い。それでも、日向が桂を含む外界を謝絶したまま夭折したのでは無いことが明らかになっただけでも、その関わりに残されたものが「失われた」という結果のみではなかったといえるのではないかと思えた。もう一つほっとしたことは、初めて「桂」以外の視点で書いた「神戸在住」を読めたということ。これは、木村紺がまだまだ良質な作品を作っていける可能性を持っている証拠として、意義が大きいのではないかと感じた。

神戸在住には、悪人が出てこない。それでも、この作品は人との関わりの中で至極自然に人を傷つけたり、距離感が生じたり、相手によからぬ感情を持ったりするというマイナス要素を生み出しながら人間が生きているということを、決して強い口調ではなく、むしろ醒めた物言いで常に見せつける。それを押し付けがましくせずに作品に投影できているという部分で、本当に稀有な作品であると思う。

大阪ハムレット 

September 13 [Thu], 2007, 9:37
森下裕美の「大阪ハムレット」、なかなか小さい本屋さんでは置いてなくて、中野の本屋でやっと2巻そろって発見した。


この人はアシベで台頭したのでかわいいイメージが世間的にはあると思うのだが、私は「ひまわり武芸帳」あたりのライトな毒が結構好きでよく読んでいたものだった。


アシベなどの作品が光の中に垣間見える毒なら、大阪ハムレットは時折沈めた宝石が浮かび上がる毒の沼といったところだろうか。救いがあるような、無いような気がする物語が、かえって現実感を際立たせる良作だと感じた。


ストーリーの骨格とは別にこの作品に埋め込まれている、大阪の人々のお互いの「距離感」が、この作品に限りないやさしさを与えていると思う。特に関東人の自分には人と人との距離の近さがうっとおしくも心底ほっとさせられる。

神とご都合主義 

August 23 [Thu], 2007, 9:41
漫画家は神である。少なくとも、その作品内においては。しかし、神たる漫画家の顔が作品中にうかんでしまうときほど落胆することはない。それはいわゆる、ご都合主義というものである。


漫画家は自分の意図するように物語をつむいでいのだから、全てご都合主義といっておかしくはないのだが、そう思わせてしまう漫画、思わせない漫画の差は、ひとえに力量だろう。


僕がそういった落胆を一番感じたのが「遊戯王」である。というのも、遊戯王のテイストは荒木比呂彦のかの名作「魔少年ビーティー」を彷彿とさせるものがあり、JOJOファンの僕としては連載当時かなりの期待を持って読んでいたのだ。そこにきて、カードバトルでの伏線も驚きもない突然の強力なカードの登場ばかり繰り返される展開・・・。正直辟易した。


魔少年ビーティーも、あるいはJOJOで言うと第3部の対ダービー戦あたりも、トリックのタネははっきりいってそれほど常識を覆すようなものではない。しかし、そこに至るまでのプロセス、心理描写がそのタネを読者の想定外まで遠ざけているのだろうと考える。「遊戯王」における大逆転強力カードの登場はまったくその逆で、読者が一番容易に想像できて、かつ想像が容易すぎてなるべく除外してもっと予想を裏切る展開を望むようなポジションのものなのだ。そういったものが何のためらいもなくポンと作品に登場すれば、絵本を好む乳幼児以外は興ざめしてしまうのも当然である。


神は気が付かずに大勢を動かす存在でなければならない。

ワイズマンについて 

August 20 [Mon], 2007, 11:08
外薗昌也といえば、「犬神」・「エマージング」などが有名かもしれない。

しかし、個人的に後にも先にも衝撃を受けた作品は、アフタヌーン誌上で連載されていた「ワイズマン」ひとつである。

当時高校生だった自分は、定期テストで校内トップだったりなかったりという成績だったのだが、少し背伸びして入った進学校でせこせこテスト勉強に励んだ結果をさも「才能」であるかのように言われる環境に辟易し、周りと距離を置き、自分の生き方が一番の価値であるかのような錯覚に陥っていた。

そういった状況で読んだ「ワイズマン」の作中で起こる、主人公的場がかたくななまでに信望していた「物質文明」が精霊により揺るがされ、その後には精霊との結びつき、そしてそれにより得た力を享受し楽しみさえするという出来事は、自分自身を見つめ直す大きな転機になったのだ。

というのも、精霊たちと触れ合う前の的場の考え方、物の見方が、自分に非常に似ていたからだ。自分は精霊に触れ合えたわけでもないが、自分が否定してきたものを享受し、新しい世界を切り開くことの楽しみ、大切さというものが「ワイズマン」を読んで芽生えたことは、自分の人生の中で一番のターニングポイントであったことを今でも鮮烈に覚えている。

連載当時は盛り上がってきたところで終わってしまったような印象があり、非常に残念な思いをしたのだが、今読み返すとすっきりまとまっていると言えなくもない。

短編の傑作スマグラー 

August 17 [Fri], 2007, 11:02
現在ビッグコミックスピリッツ上で「闇金ウシジマくん」を連載している真鍋昌平が世に名を知らしめたのが、アフタヌーンで短期集中連載をした「スマグラー」という作品である。当時リアルタイムで作品を読んだ僕は、たいそう感動した記憶がある。


アフタヌーンの漫画は、すこし難解な表現を好むきらいがある、と僕は感じている。行間(という言い方が漫画において正しいかは微妙だが)から意図を汲み出す作業は一種楽しくもあり、ともすれば疲れを誘う。その中でスマグラーは行間の意味を探りつつも、何も考えず肌で感じることの出来る漫画であった。極道の世界という設定が前提にあるとはいえ、スマグラーの世界の人物は「容赦」が無い。慈悲無く危険にさらされる不安を、スマグラーは存分に味わうことが出来る。「闇金ウシジマくん」にもそのテイストは発揮されているが、絵のタッチが柔らかくなったせいか、登場人物たちの「覚悟」が弱いせいなのか、背筋を凍らせる程ではないのが残念だ。


この漫画のクライマックス、「背骨」が砧に残した「ありがとう」の言葉は、とてつもなく心に響く。一生に一度はこんな気持ちのこもった言葉を言われてみたいと思う。

冷たさと暖かさが単行本1冊のストーリーに詰め込まれた良作。まだ読んだことのない人は、ぜひとも読んでもらいたい。

最強伝説黒沢 

August 16 [Thu], 2007, 17:29
連載が終了した今になって、やっと福本伸行の「最強伝説黒沢」を読んだ。連載当時の書評などからネガティブ全開なイメージを持ってしまって居たのだが、実際読むとそこは福本作品だけあって胸の奥から「どきどき」や「わくわく」が噴出してくる良作だ。

前半の黒沢の策におぼれ、感情におぼれるだめ親父っぷりと後半の福本らしい理詰めのサクセスストーリーは意図的か否かは分からないが、個人的には両方楽しめた。特に前半、自分を卑下しながらも高熱の中罵倒されながら同僚の代わりに立派に働きぬく姿は無様とも言えようがぐっと来るものがある。

物語の中で明らかになる黒沢の「腕力」は、黒沢が働き続けた中で身に着けた立派な「成果」として、成功(?)の一番の原動力になる。福本は本当はサクセスストーリーや中年男の悲哀ではなく、この部分を一番描きたかったのかもしれない。今流行りのニートくんたちは是非この本を読んで欲しいと思う。




雑感 

August 16 [Thu], 2007, 14:16
最近は長く続く漫画が増えたように思う。

もちろん、「こち亀」のように長く続くことそれ自体がステイタスである漫画もあるし、長く続くということは決して悪いことではない。しかし、最近「間延び」した漫画をしばしば見るような気がする。

盛り上がりきって終結を見たと思ったら、まだ続いていく。クライマックスへの期待感は構成の破綻でどこかへ霧散してしまう。難しく書くと偉そうになってしまうけど、だらだら続く漫画は果汁の少ないジュースのように薄い印象になってしまうのだ。

「寄生獣」は10巻で完結した。あとがきを見て分かるとおり、作者は全てを決めて書き終えたわけでもないし、打ち切りになったわけでもない。それでも、その短いともいえる話数の中で「寄生獣」は十分で完璧なストーリーを紡ぎあげている。かの名作「デビルマン」にいたっては、本編は全5巻である。

商業主義も大事だが、作者の意思も含め、もっと短くまとめられた「大作」が読みたい。
P R
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