山田詠美と蒼の時間
2005年01月21日(金) 12時23分
中学生の頃、一時期、山田詠美を読んでいた。何かの雑誌で景山民生が『放課後の音符』を絶賛していたからである。ブレスレットに憧れた。わたしは中学生。
山田詠美といえばブラックと性描写と思いつつ、その一方で山田のもうひとつの十八番が女学生ものである。前述の『放課後〜』(これは当時、実は「オリーブ」に連載されていた)、『蝶々の纏足』、『風葬の教室』、『晩年の子供』、『色彩の息子』、そしてセンター入試にも使われた、『ぼくは勉強ができない』。
『ぼくは〜』は確かに面白いが、ややメッセージ性が露骨というか、登場する母親が著者を想像させてしまい、それが個人的には惜しい。かといってこの作品の評価が落ちるわけではない。センター試験に採用とは本当に驚いた。
『蝶々の纏足』は名著。『櫻の園』(※吉田秋生・著。同タイトルで映画アリ)やこの作品は、<少女>の脆さと強さ、残酷さと美しさを、女性だから、という言い方は失礼だとも思いつつ、やはり女性だからこそシャッターに収めることの出来た、ある時期の少女性をうまく捉えた作品だと思う。
『晩年の子供』もまま面白いが、『色彩の息子』が好きだ。この作品に限らず、山田の学生モノには複数の「いじめ」の描写が見られる。
「いじめ」がひとつの――微妙で、そして切実な――コミュニケーションであるということ。それは安逸に排除すれば終るというものではないということ。傍観者も加害者であるとはしばしば言われるわけだけれども、気付かないものが存在するとことの救済について、等々。これらを描写する山田の作品は、やはり秀でたものがあるとわたしは思う。
わたしは薄汚れた、汚いガキだった。22歳かそこらで一人暮らしをはじめてした時、ユニットバスが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。それまでわたしの家にはずっと、風呂もシャワーもなかったのである。そしてわたしが幼き頃、わたしよりもさらに貧しく、より汚れた子どもたちがいた。その子の住む家、その子のご両親とご兄弟、どうやったってどうにもならない、見えないことにされているほどの貧しさ。
金持ちも貧乏人もいる。そんな当たり前のこと。コトバでも観念でも概念でもたとえ話でもない、目の前に普通にあったその光景。総中流化社会なんて大嘘だ。
山田詠美の『色彩の息子』。今、この本をなぜか読みたい。
山田詠美といえばブラックと性描写と思いつつ、その一方で山田のもうひとつの十八番が女学生ものである。前述の『放課後〜』(これは当時、実は「オリーブ」に連載されていた)、『蝶々の纏足』、『風葬の教室』、『晩年の子供』、『色彩の息子』、そしてセンター入試にも使われた、『ぼくは勉強ができない』。
『ぼくは〜』は確かに面白いが、ややメッセージ性が露骨というか、登場する母親が著者を想像させてしまい、それが個人的には惜しい。かといってこの作品の評価が落ちるわけではない。センター試験に採用とは本当に驚いた。
『蝶々の纏足』は名著。『櫻の園』(※吉田秋生・著。同タイトルで映画アリ)やこの作品は、<少女>の脆さと強さ、残酷さと美しさを、女性だから、という言い方は失礼だとも思いつつ、やはり女性だからこそシャッターに収めることの出来た、ある時期の少女性をうまく捉えた作品だと思う。
『晩年の子供』もまま面白いが、『色彩の息子』が好きだ。この作品に限らず、山田の学生モノには複数の「いじめ」の描写が見られる。
「いじめ」がひとつの――微妙で、そして切実な――コミュニケーションであるということ。それは安逸に排除すれば終るというものではないということ。傍観者も加害者であるとはしばしば言われるわけだけれども、気付かないものが存在するとことの救済について、等々。これらを描写する山田の作品は、やはり秀でたものがあるとわたしは思う。
わたしは薄汚れた、汚いガキだった。22歳かそこらで一人暮らしをはじめてした時、ユニットバスが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。それまでわたしの家にはずっと、風呂もシャワーもなかったのである。そしてわたしが幼き頃、わたしよりもさらに貧しく、より汚れた子どもたちがいた。その子の住む家、その子のご両親とご兄弟、どうやったってどうにもならない、見えないことにされているほどの貧しさ。
金持ちも貧乏人もいる。そんな当たり前のこと。コトバでも観念でも概念でもたとえ話でもない、目の前に普通にあったその光景。総中流化社会なんて大嘘だ。
山田詠美の『色彩の息子』。今、この本をなぜか読みたい。
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