グレーなことばかりなのだけど、

June 12 [Sun], 2016, 0:12
「思い切って飛び出してみた」と言えば
なんだかカッコイイのだけどね。

どうも小心者で石橋を叩きすぎる性分
つまずかないように、ころばないようにと
足元を見つめすぎてなかなか飛び出せないことばかり。

そんなローペースな歩み方で、もうすぐで2年が経ちそうです。

この気持ち悪いほど長かった2年で気づかされたことといえば、
おそらく「どうでもいいだろ!」と一蹴されてしまうようなグレーなことばかりだと思う。

ここに挙げられるようなことだとなんだろな、、
入社当時は調子もよくなかったからか上司の隣の席でお水をどのタイミングで飲めばいいのかとか恐怖感と緊張感で胃も頭も体も痛かった。
トイレに長い時間いた後なんともいえない気まづさがある中どういう雰囲気でオフィスに戻ればいいのかとか、頭から背中にかけての激痛で起き上がれない時どうやって欠勤連絡を入れたらいいのかとか、趣味が同じだからといってどこまでフランクに接したらいいのかとか、日曜日の過ごし方とか、そもそも平日に過ごし方だってどうしたらいいのか日々答えの出ないグレーに悩まされている。

高校生の時から直接献身を願って、大学はTCUに行って、教会でも働かせていただいたから、どっぷりとクリスチャン界に染まってた自分がまさか教会から物理的に離れて家で礼拝をしているだなんてね。

これだけ見ると人生は奇妙であるとさえ思う。
誰もが思い描くことができない独創的な芸術作品みたいに色が重ねられている。
これはなんの絵を描きたいのか?と神様に尋ねてやりたい。

今だって、わたしは教会に没頭していると思う。
気持ちが離れていかないから困ることばかり。
与えられている思いが大きすぎて、気持ち悪いなと思うこともある。

でも、許されないことばかりで「いったいどういうことなんだ」と意味を尋ねるけど、
だいたいは意味は分からないし「ただこの現実が今、ここにあるんだな」と受け止めていくしかない。

その現実っていうのは、たまに身体をえぐってくるようなこともあるし、
たいていの人はその感覚を理解するのは難しいようで、もうどうすることもできない。

そういう時は、無理して向き合わなくて良くて、ちょっとほっておけばいいというのも、教えられたこと。
つまり「割り切る」みたいな技を習得してからは、
与えられている別の場所で精一杯生きられるようになってきたと思う。

今まで教会では精一杯生きるけれど、
どちらかというと別の場所や環境では気持ちが入らないことが多かった。
距離が遠かったし、より近くになろうとはあまり思わなかった。

逃げてきたつもりはないけど、
無意識に避けてきただろう環境で、今、自分なりにだけど精一杯生きている。


会社でのお昼休みのとき、わたしは手を組んで祈らない。

じゃぁ、お葬式のときはどうやって立ちふるまえばいいんだろう。

伊勢神宮に行ったとき、隣でみんなが手をあわせるときはどういう反応をしたらいいんだろう。

「え、アーメンとかやるの?」って聞かれたとき、どこまでどう語るのか、もしくはどう切り返して相手の話を聞けばいいんだろう。

新商品に「GOD」という言葉が描かれているだけで「なんで宗教っぽくするんだろうね」という批判的なコメントがあって、この社会でタブー化されている事柄についてどういうスタンスで取り組めばいいんだろうと思った。
そういう意図しない言葉に傷ついたりもするんだよね。

みんなは多分もっと若い時にぶつかってきたグレーなことだと思うから、ぜひ教えていただきたいです。

迷ったらとりあえず人に聞くのはいいことだと思うけれど、
経験してきた人の答えとか論理的に考え出した答えが正解じゃないんだなともわかるようになった。

定型文のような対応では人のこころは動かない。
むしろ不快感や不信感を与えるだけ。

神様がわたしをわたしとして造られたはずなのに、
いつの間にか誰かのように生きようとしてしまう。

受け売りが悪いと批判したいわけじゃない。
でも最初から答えを見て、考えることを放棄してしまわないように。

いろんな答えがあること、答えはひとつじゃないことが多いこと。

心が動く 涙が出る 嫌だなと思う 嬉しいと思う

そういった自分の正直な思いに耳を傾けながら
神様の声が聞こえるように、立ち止まってひとりになること。

グレーなことはずっとグレーかもしれなくて、
その曖昧さの中で神様の深い愛に出会うことがよくある。

だから、今日も分からないことだらけで足踏みしながら生きている。それでいい。
そんな「どうでもいいだろ!」ということでモヤモヤしている私のそばに主がおられる。


大恋愛

August 10 [Mon], 2015, 19:34
「一生に一度の大失恋のような状態」だとか言われると、妙に納得させられてしまう。

大失恋というわけだから、大恋愛をしていたわけなのだけど、そういった自覚はほとんどなかったと思う。

ただわたしの心はそのことばかりを考えていたから、必然的にそのことばかりを祈っていた。

そこに帰れば、わたしは愛されていることを知って、前進するための勇気をもらった。

どこかが痛めば、涙が出るほど胸が痛んだ。

どこかが笑えば、キラキラとした笑顔が天井からふってきて満たされるような感覚があった。

わたしの命はそこにあって、無意識に命がけだったんだろうと思う。

大恋愛なんかしたことないわたしが語るのはおこがましい話なのだけど、大恋愛の末の大失恋はあまりにも辛くて、絶望に近い状態になるのだ。

無気力になったカラカラの心を見て、心の潤いはいつだってそこからきていたと気づくし、無力感になったスカスカの心を見て、心の活力はいつだってそこからきていたとはじめてわかる。

こうなったのもわたしのせいであるのだけど、加害者であっても傷は受けてしまうものらしくて、その傷のせいで、どうしても歪んだ形でしか認識できなくなってしまっている。

なんでそうなったのか?とか理由や原因を追い求めることも果てしなくしてみたけれど、答えっていうのは計算問題のように明確には出てこなくて、ただ「失った」という事実だけがわたしの世界を無色にしていく。

それでは「失ってしまった」という事実には、いったいどんな意味が隠されているのだろうか?とも考えるのだけど、これもまた同じようにハッキリはしてくれない。

ただただ自分の思い通りではない現実と向き合い、悔しさや怒りや悲しみや嘆きが混ざり合ったドロっとした感情の沼に沈んでいる。

沼は深くて重くてきたないから、誰も近くには寄ろうとはしないのだ。

だけど、そこから這い上がるには、たった一人の頑張りでは決して無理で、それは何十回も試したからよく分かる。

その闇のように暗いところへ思い切って出てきてくれて、泥だらけになることを恐れずに手を差し伸べてくれたその手をつかんだから、今こうして、とても生きているのだ。

「ひとりでは生きてゆけない」という当たり前とされている事実は、「その手を掴まなければ死んでしまう」という状況を通してはじめて知ることができたように思う。

こうして、沼のような闇を抜け出すことができたけど、その時にどうも傷ついてしまったようなのだ。

無意識のうちに、骨を折ってしまってたり、聞こえが悪くなっていたりしているし、全体的になんだか違和感があるのだ。

そういった「何か違うぞ」という声が、今はよく聞こえるようになってきて、それをひとつずつ「癒してください」と差し出していく作業をしている。

あまりにも愛しすぎていたから、それで傷を受けるはずがないと思っていた。

あまりにも愛されすぎていたから、それで痛みを感じるはずがないと思っていた。

違和感に目を向けることは、ほんとうは悪いことでも恥ずかしいことでも弱いことでもなかった。

実は、その弱さや傷を神様の前に正直に差し出し、癒していただくことが何よりもわたしがすべきことだったのだ。



できるようになること

喜ばれるようになること

愛するようになること

それは、本当にたいせつなこと


だけど、それ以上にたいせつなことがあった


わたしは主の民として

できないことを知り、喜ぶことができない弱さを認め、自分には愛がないと悔い改めること。

そして、その罪ゆえの苦しみだとか葛藤がイエス様の十字架によって、無条件に赦され、癒され、愛されることを信じること。


これこそが、福音であって、わたしはこの福音を心に刻んで生きてゆきたい。

わたしは、イエスキリストに大恋愛をしていきたい。

そうすれば、失恋することは決してないのだから。


求道者のひとこと

June 22 [Mon], 2015, 0:02
今日のメッセージで一番励まされたところは、あの求道者の方の一言だった。

「わたしは両親を敬うことができません。だからクリスチャンになれません。」
(ちょっと言い回しが違うかもしれないけれど)

この一言を聞いて、
あぁ、この人はとても神様に近いところにいるんだなと思った。

「父と母を敬え」という教えを聞いて、
なんのためらないもなく両親を愛せると錯覚していた。

わたしは幸せな家庭に生まれたと思っていたし、
何の不自由もなく、愛されて、守られて、許されて育ってきた。

尊敬するに価する父と母と兄弟たち。その家族たち。
この家族に、わたしは今日も1センチでも多く愛を表現しよう!と努力していたと思う。

「ああ、聞きたくない」と思う時も、どんだけお世話になってきてんだと自分を打ちたたいて、一生懸命耳を傾けようとしたし、「ああ、やりたくないな」と思う時も、そんなふうに思うわけないと正直な気持ちを押し殺しては、善行を積んできたと思う。

本当の自分は傷ついていたし、本当の自分は病んでいたし、本当の自分は罪で溢れて、それを見ないようにするために、それと向き合わないようにするために、「良い行い」という蓋を何重にも重ねていた。

そんなふうに蓋が分厚くなっていけばいくほど、自分の正直な気持ちなんてわからなくなって、どんな時だってわたしは両親を愛していると思い込んでいたし、そう行動にうつそうと頑張っていたと思う。
だけど、そんな優等生タイプでもないから、いつもうまく良い行いができない自分を責めて責めて、いつも「足りない」と思っていた。


ある先生に、
「この世界のすべての人は病んでいると思いますか?」と聞かれた。
すぐにわたしは「いや、健康な人もいると思いますが・・・」と答えると、
「わたしはすべての人は病んでいると思うんだよ。すべての人がどこかしら病んでいる。でも、それに気づかずに生きている人が本当にたくさんいる。」
「すべての人が・・・」
「すべての人は罪人でしょ?」
「は!そうか!」

頭では論理的に分かっていたこと。
"すべての人が罪人"という事実。
だけど、わたしは分かってなかった・・・とこの瞬間に思い、なんとも恥ずかしくなった。

すべての人が罪人であり、あのキラキラと輝くあの人やあの幸せそうなあの人も、そしてわたしも罪人で、病んでいるという紛れもない真実がある。

絵に描いたような愛にあふれた家庭で育ったとしても、無傷で生きてきた人はいない。

今日1日1度も罪を犯さない人がこの世界に一人もいなかったように、
家族の中で罪を犯さないで、傷や痛みを抱えないで育った人は誰もいないのだろう。


あることがキッカケで両親に対して自分が「憎しみ」という感情をもっていることを知ったとき、耐えきれないほどのショックだった。知らないほうが良かったと思った。今だって知りたくないと思うけれど、そこにあるという事実は分かってしまっている。

何枚もの「善行」という名の蓋を一枚ずつベリベリと剥がして、その本当の感情が見えてきたとき「こわい」と思った。
「違う違う違う」と思った。


無自覚というのが一番こわい。
無自覚というのが一番ゆるしから遠い。

ダビデがバテシェバとの姦淫、それにともない殺人を犯したその大きな罪にずっと気付かなかったこと。
いや、心の底では気がついていたし、その罪に押しつぶされそうになっていたのかもしれない。
だけど、王として奮い立っているために、無意識的にその罪に目を向けず蓋をしていたのかもしれない。

ナタンに「あなたがその男だ」と言われた時、「はっ!!!」として愕然としたと思う。
真っ青になるとか真っ白になるとかいうのを経験したかもしれない。

このどうすることもできない自分の罪深さに対する自覚があって、はじめて「真の悔い改め」が起こるのだ。



そんなダビデのダメダメストーリーを昨晩読んだのか、だから、この求道者の方の一言に励まされた。

「わたしは両親を敬うことができません。だからクリスチャンになれません。」
という一見、神様から遠くにいるように見えるこの方は、実は神様に近いと思った。

だって、あとはその自分の罪を神様に見せるだけだから。

自分が「神さまの前で罪を犯しているという自覚」これは授かりものだと思う。

自覚が与えられたら、神さまの前にそれを差し出し、身をかがめ、ひざまづき、すがる。
そうすれば、ゆるしは与えられ、そこから献身がはじまるのだ。

すべて与えられるものという点で、本当にクリスチャンというのは恵みの宗教だと思う。

「良い行いは与えられるもの」だから、待っていればいい。
こちらはそれを受け取る準備をしていることが大切。

神さまがわたしの心に働いて、
自然と両親を敬い、祈り、忍び、愛することができるようにしてくださるのを待つだけでいい。

恵みとはそういうことなのだ。

救いとはそういうことで、献身とはそういうことなのだ。

ただ、神様の前にひざまづき、神様にすがり、神様からいただくのを待つ歩み。

あぁ、本当にすごい!神様の愛は天より高いってのは本当なんだ!


いつもあったものが、なくなったとき。

March 12 [Thu], 2015, 11:02
いつもあったものが、なくなったとき。

そのわずかな変化に、思わず立ちすくんでしまう。

いつもあったものは、もうそこにはない。

そこにないと知るのは、ふとした瞬間に出会うささやかな違いの積み重なり。

「いつもある」という確かでない当たり前が、失ったという悲しみも、奪われたという怒りも、守れなかったという憎しみも、これからへの不安も湧き上がらせる。

私たちが抱いていい「確かな当たり前」は、ただひとつなのだ。

それは、絶対に奪い去られることはなく、いつも私たちのそばにあるのだ。

希望はないのではなく、見えていないだけなのだ。

大丈夫、希望はわたしのそばに本当はあるのだ。



詩篇33篇

October 07 [Tue], 2014, 11:02
詩篇33:8
全地よ。主を恐れよ。
世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。


「主を恐れる」とは、いったいどういうことなんだろう。

「恐れる」という言葉を聞くと、
なんだか、びくびく、おどおど、生きているようなイメージ。

8節以前には、「神のことば」の偉大さが語られる。
その偉大さとは、天地万物を創造するほど。
それゆえに、「主を恐れよ」と。

"あなたは造られたものにすぎない"というメッセージでもあるし、
「びくびく、おどおど」というイメージでも間違いではないと思う。


33:10
主は国々のはかりごとを無効にし、
国々の民の計画をむなしくされる。

33:16、17
王は軍勢が多いことによっては救われない。
勇者は力が強いことによっては救い出されない。
軍馬も勝利の頼みにはならない。
その大きな力も救いにならない。



与えられている仲間や家族、教師の多さ。
与えられてきた知識や力、経験。
自分を取り巻くあらゆるもの。
そういうものを頼りに、救いに、助けに、
どれだけ一生懸命、計画を立ててきただろうか。

それを、あっという間に「むなしく」される。


18節で「見よ。」とあるのだけど、

主を恐れない生き方とは、
主を「見ない」生き方なんだと思う。

私を造られた「神」の存在ではなくて、
「人」の目を何よりも恐れて、
「人」からの賞賛や笑顔を何よりも求めて、
「人」を心から大切にして、賛美して、
「人」の言葉に信頼する、期待する。

これが、主を恐れない生き方で、
私は、このことを心から主に悔い改めなければいけない。


33:18
見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
その恵みを待ち望む者に。


そうか、主を恐れる生き方とは、
主の恵みを待ち望む生き方、なのか・・・。

しかも、ただの「こうなったらいいな」という願いではなくて、
11節「主のはかりごとがとこしえに立」つことを忍耐をもって待つこと。

物事が人間の目にあって好転することではなくて、
目先の安心や安堵を求めるのではなくて、

主の御心がこの世界で行われること、
主の御心がこの私の人生で行われること、
これを、ただひたすらに忍耐をもって、待ち、希望を捨てないこと。


33:20,21
私たちのたましいは主を待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。
まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している。


主を恐れる生き方とは、
万軍の主、偉大な神にびくびくするに留まらず、
希望を持って、主の御心を待つ生き方のことだった・・・。

しかも、その時、
私たちの心は喜びで満たされているという!




わたしの人生は、みじめだと感じていた時がある。

でも、「みじめだ」と思えてすごく良かったと思う。

大切に大切に扱ってきたものたちが、
するすると手の中から落ちていく。

自分のすべてをかけて積み重ねてきたものが、
あっという間に無効にされて、むなしくされていく。


これ、わざとやったんやな。笑

「もう、怖くなんかない」なんて歌えないし、
二度と繰り返したくない日々やったけれど、
今までで一番神様に愛されたと感じた1年だった。

そして、神様はわたしをこれからもこういうふうに愛されると思う。笑

神様だけを見上げるように。

神様だけを待ち望むように。

神様の夢がわたしの夢となるように。





季節を感じること

August 17 [Sun], 2014, 23:40
「あ、春がやってきてるな。」

「あ、夏がやってきたな。」

今まで季節は「いつの間にか」訪れていたけれど、今年は、どうやら季節とともに生きているようだ。

今まで季節を感じることなんて「どうでもいい」ことだったけれど、今年は、この季節の移り変わりに随分助けられているし、随分楽しませてもらっている。

この町には、こんなにも豊かな緑とこんなにも芸術的な空と色とりどりの花と静かに流れる川があって、それらの小さな呼吸がよく聞こえてくる。



「こんなすてきな場所があったんだ。」

「こんなに上品に咲くんだ。」

心の中でちいさく感動の音が聞こえて、その美しさとか繊細さに泣きそうになったりする。

この感動を誰かに伝えてしまいたくないのは、

伝えてしまうと一気にただの河原になって、ただの花になるからだと思う。



今まで見えなかったものが見えること。

今まで感じられなかったものが感じられること。

今年は、どうも、神様から多くの恵みをいただきすぎているように思う。


この小さくて明日には忘れてしまうだろう感動を、
「すごいね、すごいね」と子どもみたく分かち合えたら、
きっと、もっと、わたしの心は平和で満ちあふれるんだと思う。


わたしと生きること。


神と共に生きること。


誰かと共に生きること。


どれもこれも、わたしを豊かに平和にしてくれること。



エネルギーを溜めておく器

July 29 [Tue], 2014, 9:35
この病気の特徴を例えてみるなら「エネルギーを溜めておく器に穴が空いている状態」だと思う。

食べるエネルギー、寝るエネルギー、話すエネルギー、聞くエネルギー、学ぶエネルギー、働くエネルギー、思いやるエネルギー、消化するエネルギーなど、何かをするには少なからず「エネルギー」が必要。

本来、自分に備わっている「エネルギーを溜めておく器」が破れてしまい、その破れがあるため、全然エネルギーが溜められない。
エネルギーを溜められないのだから、何かをすることが非常に難しい。

「こうしたい」という欲求や、「こうしよう」「こうしなければ」という決意ややる気、いわゆる「意欲」みたいな、何かをするためのエネルギーの素が溜まっていかず、無気力な状態になる。

大抵は、“その器が破れているという事実を認められなくて”、「なんで今までみたいに思えないんだ、考えられないんだ、行動できないんだ」と強い自責感を持ち、落ち込み、罪責感や焦燥感、自己否定感が高まり、憂鬱な気分が続く。

そういう心境によって体にも影響があり、睡眠障害、食欲不振、頭痛、腹痛、肩くび凝り、めまい、動悸、物忘れ、体のしびれ、ふるえ、集中力や決断力の低下などを引き起こしてしまう。


こういう経験は、たぶん、一生懸命に生きている人にとっては「よくある」ことだと思う。

多くの人たちが、この「破れ」というのを抱えながら、それでも働く必要があると思い、絆創膏をはったり、包帯をまいたりしながら、なんとか生きているんだと思う。

「それでも働く必要がある」こういう言い方があっているのか、「それでも働きたい」だろうか、まぁ、何にしろそう思って誰かのために働ける人は、その「破れ」に気づき、「破れ」の存在を認め、絆創膏をはったり、包帯をまくなどの「対処」をしている。

わたしはこの「破れ」の存在を認めなかったから、あっという間に崩れてしまったのだと思う。
「自分はまだできる」と踏ん張るという道しか選んではいけないと思っていたから、「破れ」に気づき、その存在を認め、その傷を治療してあげることをしなかった。


「自分の弱さ」に気づき、その存在を認める。

たったそれだけのことなのに、非常に難しい。


「こうしなければいけない」と言うのは誰なんだろう。
「こう生きなきゃいけない」と言うのは誰なんだろう。

誰かが言っていた言葉が心に残っていても、結局それを「そうだ」と思い込んで選択しているのは自分で、他人の言葉がイエスの言葉より勝ってしまっているのだと思う。



すこしずつ、すこしずつ、前を向いて、「何かをしたい」という意欲が出てきたのは、その「破れ」が癒えてきた証拠だと思う。

前の記事のように、ある出来事で一気にその「破れ」が大きくなってしまうこともあるけれど、今は「あ、今、破れが広がってきた」と分かる。

分かるし、それを、責めることに意味はないことも分かる。
だから、その「破れが広がった状態」を認める。

認めなければ、休めない。
認めなければ、ゆるせない。
認めなければ、癒していただけない。


こんなことをしなくたって、さらりと生きられる人もいるんだけど、今のわたしは、簡単にはさらりと生きられない。


そういう自分も、すこしずつ、ゆるそう。

そういう自分で、今日も、生きよう。


「もう、大丈夫です。」と、とりあえずは医者に言ってもらえるように。




だから、負けない。

June 29 [Sun], 2014, 23:24
あとちょっとで、緊張しきった糸がパチンとはち切れる所だった。

いつものように、1時間のウォーキングでは発散しきれないし、ちゃんと歩けないし、ちゃんと前が見えない。
お風呂に入るだけじゃ洗い流せないような、じとじとした感情がずっと心にへばりついていて、それが何なのか上手く言葉にできない。

「辛いことは、その日の内に洗い流す。」
「モヤモヤは、玄関のドアを閉める時に家にいれない。」

それが上手くいく時だってあるけれど、そうもいかない日があって当然だと知っている。


あえて考えないようにしている場所へ、たった数分で一気に引き戻されたような感じで、ただただ自分本意な申し訳ないという感情に打ちのめされそうになる。

誰も、そんなふうに思ってないよ、
まだまだ若いんだから、大丈夫、

わかってる。
自分の首を閉めているのは自分だってわかってる。

だけど、どうにもこうにも、この悔しさは消えていかない。
せっかく順調であっても、あっという間に以前の自分に戻ってしまうのが、怖いところなんだ。

あぁ、これか。
本で読んだヤツ、なのかな。

だから、振り回されないで、
この魔物のような感情に負けないで、注目しないで。


まぁ、でも、こういう日は今までにいくらかあって、
その度に、神さまは決して私を見捨てなかったじゃないか。

溢れてくる感情を留めることができなくたって、
誰かにそういう自分を正直に見せられなくたって、
自分でさえも自分のことが分からなくたって、
神さまが、決して、私を見捨てることはないと、私は知っている。



こういう日は、今までに、いくらかあった。

きっと、神さま、私のことをよく知っている。

何を恐れ、何を求め、何を信じ、何を感じているのか。

誰もが分からなくたって、解せなくたって、神さまは知っている。



だから、負けない。




「キッチン」という本を読んだ。

May 01 [Thu], 2014, 23:16
「キッチン」という本を読んだ。

わたしは、変じゃなかったんだと思った。
わたしは、意外と普通なのかもしれないと思った。

「キッチン」という本は、思っていたような本ではなかったけれど、わたしに深い慰めを与えてくれた。

図書館で借りたけれど、いずれ購入して「たいせつな本」になっていくのだと思う。

読書は世界観を広げてくれて、自分の世界がいかにちっぽけで偏っているか教えてくれる。

仕事に行けなくなって、読書ができるようになったことは、失業してからの一番の収穫かもしれないとさえ思う。



「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思うー」という一文ではじまった彼女の文章。

圧倒的に繊細な表現力にぐいぐい引き込まれたというか、飲み込まれてしまったような気分だ。

すごく悲しくて、すごくやるせないんだけれど、すごく慰めになった。



彼女の後書きにこう綴られていた。

感受性の強さからくる苦悩と孤独にはほとんど耐えがたいくらいにきつい側面がある。

それでも生きてさえいれば人生はよどみなくすすんでいき、きっとそれはさほど悪いことではないに違いない。

もしも感じやすくても、それをうまく生かしておもしろおかしく生きていくのは不可能ではない。

そのためには甘えをなくし、傲慢さを自覚して、冷静さを身につけた方がいい。

多少の工夫で人は自分の思うように生きることができるに違いない」という信念を、日々苦しく切ない思いをしていることでいつしか感想してしまって、外部からうるおいを求めている、そんな心を持つ人に届けたい。




1988年1月に書かれた小説。
その1年後に私が生まれ、現在25歳の私は失業中。

26年の時を経て、今、手元にやってきたこの本に、私は深く感謝をしている。

自分のことなのに自分ではコントロールできない感受性を恐ろしく、みっともなく、みじめで恥ずかしいものだと思っていた。

でも、この小説には、普段みんなが見せない「裏側」のハナシが描かれている。
日本人は「見せない美学」みたいなのがあって、胸がえぐられるように辛くても、苦しくても、それを見せないように生きている。
でも、誰だって可笑しくなってしまうほど、沈んでしまうことがある。

読了後、「そういう時はね、ちゃんと悲しくて、落ち込んで、おかしくなるほど泣いて、いいんですよ。」と言われたような気がした。

つまり、とても慰められてしまったのだ。


驚いたのは、著者の吉本ばななさんがこの小説を書いた時、23歳という若さだったということだ。

彼女は、強烈な感受性という賜物を神様から授かって、人のために使ったのだ。



自分の気質や性分をずっとずっと憎んできた。
だけど、今日から少しずつ、多分1ミリずつぐらい、自分の大嫌いだった感受性を大好きになろう。だなんて思った。



幼子のようなたましい。

March 09 [Sun], 2014, 11:53
昨日、家に帰ってきた3才のおいっ子の行動がとても印象に残っています。

両親から離れて、新しい場所で新しい人と新しいことをしてきた彼は、その場では「平気そうで、頑張っていた」そうでした。
そう言われるということは、彼には「頑張る力」や「馴染む力」が育っていたのだと思います。


家に帰ってくるとクタクタになっていましたが、それでもまだ何かをしたいという欲求もあって、遊んでいました。

食事の時間になると、弟がママにベッタリ甘えます。
そんな姿を見ても、いつもなら、一人でご飯を食べられるのに、昨日は違いました。

花粉症かメンボの影響で、鼻水と涙が止まらなくなって、目も赤くはれてかゆい。
一日極度の緊張の中で生活し、身体も心もヘトヘト。

そんな状況をガマンしようと思えばガマンできるけれど、弟の姿を見たせいか、1日頑張ってきたせいか、ポロポロ涙を流して、ママの片方の膝の上にのり、ぎゅっとママに抱かれにいきました。

もう3才だけれど、まだ3才。
疲れや不安や緊張を上手く対処ができず、ママの腕の中でやっと疲れが癒され、不安や緊張がほぐれていきました。

食事をする時間。
弟がママと一緒にいる時間。
なんてことはすっ飛ばして、どうすることもできない自分の身体や心を、そのままあずけていく姿。




眠りにつく前に、その光景をもう一度思い出し、私は主に対してそのような姿であるだろうかと問われました。

自分ではどうすることもできない身体と心を、主の前にそのままあずけていたのでしょうか。

「幼子のような信仰を」とよく心がけていたけれど、私のたましいはそうであったのでしょうか。





主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。
及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。

まことに私は、乳離れした子が母親の前にいるように、
私のたましいは乳離れした子のように 私の前におります。

イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

詩篇131:1-3



私の心は、傲慢さで満ちています。
いつも、自分が成熟したかのような錯覚に陥って、その幻想にしたがって生きてしまいます。

ですが本当は、私の目も、私の耳も、私のたましいも、おどろくほど鈍くて弱いのです。
主の民であるのに、主の声が聞こえないのです。
でも、私は主の民であり、主の声を聞きたいし、その膝で安心したいのです。

乳離れした子は、頭もかしこくなり、自制心も出てきて、自分でおおよそのことは何でもできるようになっていきます。ですが、できなかったり、苦しくなると、真っ先に、母親の腕の中へ飛び込んでいきます。
それは、母親の腕の中が一番の安心であり、心も身体も癒してくれる場所と自覚しているからです。




私はこの乳離れした子のように、唯一安心できる所を知っています。

ですが、頭の中がうるさくてうるさくて主の声が聞こえなくなることがよくあります。


そういう時は、静かにあの乳飲み子の姿を思い出そうと思いました。


主の召しを静かに、
ただ静かに待ち望み、
ゆるされている以上のことを願わず、追い求めない。

身の丈をわきまえて、
ただ主と共にいることを求める、そのような主の民でありたい。







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  • ニックネーム:Maccopi
  • 性別:女性
  • 誕生日:1989年1月9日
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ご訪問ありがとうございます。

目がはなせない。
神さまのアート。

写真を撮っている時がいちばん神様に近いような気がする。

写真と一緒に、日々思わされていることを適当に綴っていきます。ここでのアウトプットが私の人生の軌道修正になっているなぁと、振りかえって感じます。

今を、生きて生きて生きる。
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