発端 

November 14 [Mon], 2005, 19:47
その日は、雲ひとつない秋晴れの日だった。
頬をなでる風は乾いて冷たいが、陽射しがあるので、さほど寒さを感じない。シャツに薄手のカーディガンを羽織って、私は縁側に腰掛けていた。
猫の額ほどしかない庭を、私は気に入っていた。物干しのそばに、頼りない木が一本。名も知らぬ木だが、もう少しすると紅葉して、この庭にかすかな彩りを添えてくれるだろう。そんな味気ない庭は、大人の背丈ほどもあるブロック塀にぐるりと囲まれている。しかし、灰色のそれは私と世界を切り離すものではない。ブロック塀の向こうからは、登下校時の子どもの声だとか、通りを歩く若い恋人たちの声だとか、主婦の井戸端会議だとかがよく聞こえてくるのだ。
つまり、狭い庭は私と世界との入り口だったのである。
私は日がな一日、ここにいるといっても過言ではなかった。掃除や洗濯、食事など、最小限の家事に充てる時間を除いて、私は縁側で過ごした。

キキィ、と車が私のうちの前に停まる音がした。
向かいか隣への来客だろうかと思った。
私は、日の高いうちに訪ねてくる知人を持っていなかった。
だから、庭に源一郎さんが現れたときは、ひどく驚いたのだ。
あまりに驚いてしまって、(だって源一郎さんはこの二年の間、一度も太陽の出ているうちに、私に会いに来たりしなかったのだから!)いつもならきれいに整えられた髪の毛が少しほつれていたことや、顔が蒼褪めてしまっていることや、肩が震えていたことなんかに、おかしいとも思わなかった。
「どうしたのです?」
こんな時間に。
問いは発せられなかった。彼が、私を掻き抱いたからだった。
「……千博」
低い声が呻くように囁いた。
「千博、俺と」
彼は言いよどんだ。まさか泣いているのだろうかと、ふとそんなことを考えて顔を上げようとしたが、思いもかけない強さで、逆に彼の胸に顔を押し付けられる。
「俺と死んでくれないか」
私は、一瞬なんと答えていいかわからずに沈黙した。
「千博」
ちひろ。
切なげな声に、私は頷いてしまっていた。
「すまない、千博」
万力のような力強さで抱きしめられながら、私は、今年の紅葉は見られないのだろうな、などとどうでもいいことを考えた。

出会い 

January 08 [Sun], 2006, 12:46
俺の義父は偉大な人間だった。
一代で会社を興した成功者ではあったが、金に汚く、情のない人間として世間では有名だった。一人娘である俺の妻でさえ、実の父親を好ましく思っていなかったらしく、涙のひとつも見せず、ケロリとしている。経営者としての腕を惜しむ人はいても、その死を悲しむ人はいない。俺は彼を少なからず尊敬していたので、わずかにその現実を哀れんだ。同時に、義父に才覚を見出されて後継者となった自分の行き着く先を見てしまったようで、極めて儀礼的に進む葬儀を、少々薄ら寒い気分で見ていた。
学生服姿の少年に気づいたのは、出棺のときだった。
驚くべきことに、彼は涙で頬をぬらしていたのである。祖母らしい女性に肩を抱かれ、少年はじっとこちらを見つめて静かに泣いていたのである。
その日は雲ひとつない秋晴れの日だった。空は高く澄み渡っていて、そんな青空の下で涙をこぼす彼はまるで滑稽だった。
「誰かな、あの子は」
俺は呆けたような声で、隣にいる妻に問うた。
妻は大儀そうに少年を一瞥して、
「さぁ……お父様の隠し子じゃなくて?」
おそらく、彼女は気の利いた冗談のつもりで言ったのだろう。俺が「まさか」と言うと、彼女はウフフと華やかに笑った。
その美しい笑顔を見て、この女は俺が先立っても涙をこぼさないだろう、と予感する。
わずかに胸が痛んで、俺はもう一度少年に視線をくれた。
――彼なら俺の葬式のときにも泣いてくれるかもしれない。
そんな都合のいいことを考えて、俺は自分を慰めた。

これが、俺と千博との出会いであった。

死に際HERO 

January 08 [Sun], 2006, 20:25
小さなころの夢は、ヒーローになることだった。
テレビのヒーロー番組を夢中で見ていた時代、自分もいつか世界を救う、唯一無二の存在になれるのだと信じていた。
それが今はどうだ?
青年は己が身を省みて嗤う。
体力もなし、挫折しても立ち上がる強い精神力や正義感なんて持ち合わせていない。
青年はもう何ヶ月も外には出ていなかったが、それで困る人間は誰もいなかった。
メールも電話も、遠方の家族からたまに来る程度。友人や恋人などはもとより存在していない。
当然のことながら、引きこもりの青年一人いなくても、世界は滞りなく進んでいく。
世界を救うどころか、誰にとっても何の価値もない自分に絶望した。
青年はそんな自分を終わりにしようと考えた。
しかし、実行するには、ずいぶん時間がかかった。
青年は非常に臆病な人間だったからである。
いざ死のうとすると、青年の体はガタガタと震え、涙が零れ落ちてきた。
一時間もそうやっていると不思議なもので、死ぬ気になったなら駄目もとで生きてみよう、もう一度動き出してみて、どうしても限界だと思ったらそのときに死のうと、死から逃げ出そうとする。
しかし、一度止まった足が動きだすわけはなく、一度喪われた場所に戻れるわけもない。
青年は相変わらず一人で、部屋の中に閉じこもるほかになかった。
日を追う毎に焦燥感と罪悪感が募っていった。生きていたらいけないのに、どうしてまだ生きているのだろう、と自問した。
もはや、青年は世界のすべてを恐れていた。ドアのチャイム、携帯の着信音にさえ青年は怯えた。
助けてくれ。誰か、助けて。
青年は願った。声に出して叫んだ。しかし、誰も来なかった。
いっそ全部記憶も意識もなくなったら、と青年は考えた。が、心はひどく不安定だったにも関わらず、彼が発狂することはなかった。人間の精神の頑丈さに、青年は涙した。
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