落とし物/忘れ物 

2005年03月31日(木) 23時15分
棚の隅にうっすら筒持った埃を視界のすみにとらえながら、
何日も気づかないふりができるようになった。
この仕事ができる人!と聞かれて、
手を挙げることもしなくなった。
自分という生き物に注意を払うこともなくなり、
その生き物と話すこともなくなった。

かつて、やんちゃで向こう見ずだった生き物は、
紐でつながれておとなしく水を飲んでいる。
ときおり、苦しそうにむせながら。

「イツマデ?」と問うな。
「ドコマデ?」と問うな。
この向こうにはもう、どんな境界もない。

「いつまでも」
「どこまでも」

雪蛍 

2005年02月27日(日) 20時12分
帰り道の雪は溶けかかっていた。
大通公園の雪像は跡形もなく壊されて、お城も宮殿も、雪捨て場に捨てられた雪と同じように、泥で汚れていた。
置きっぱなしの自転車に積もった雪も、郵便ポストに乗っかったままの雪も、みんな少しずつ溶けかかっていた。

季節が変わろうとしている。

そのことを皮膚の上っ面で感じながら、千夏は足を引きずっていた。
もともと少しO脚気味なのに、長時間のデスクワークの後では、なおのこと足がまっすぐに伸びない。
土曜も日曜もなく働いているし、給料日もみんなとずれているから、飲み会に誘われても出席率の悪いことこの上ない。
たまに参加しても、ついつい愚痴っぽくなってしまう。

みんなお幸せそうでいいなぁ。
なんで私だけつらいんだろ。
カップルを見ても、酔っぱらいを見ても、なんとなく悔しかった。
だから、帰り道はにぎやかな電車通りをはずれて、誰もいない中通りを歩く。
閉まった喫茶店の前を通り過ぎ、駐車場の錆びたフェンスの前を通り過ぎたときだった。

雪のなかで、何かが青白く光っていた。

夜の井戸から 

2005年02月14日(月) 5時49分
大丈夫 と
子守歌のように言い聞かせていなければ
壊れてしまいそうだ
危うい器

守護の子守歌を探して
眠りにつく
三人称でも
二人称でもない
その場所には
少し風が吹いている

明け方
浅い眠りから上半身を起こし
子守歌を歌う

世界のすべてがあたたかく見える
夜の井戸から見上げた世界は

子守歌を歌えば
夜の井戸が揺れる

かみさま
と呟いてみる

10個の指輪 

2005年02月06日(日) 11時12分
「俺は必ず売れてみせる。むかえにいくから、必ず。
そのときたとえ結婚していても、別れて俺についてきて。
絶対、絶対、そのほうが幸せだって思えるような、そんな暮らしをさせるから」

27歳のもと銀行員は、そう言って、肩まで伸びた自慢の髪の毛をかきあげた。

「俺はおまえの誕生日を絶対忘れない。毎年必ず、きれいな石のついた指輪を贈るよ。
10年後のおまえの誕生日。もし、このビルがまだあったら、このビルの屋上でMOEシャンパンで乾杯しよう」

10個の指輪がそろったときも、男は迎えに来なかった。

「俺は変わってしまった。
いまでもおまえが大好きだけど、変わり果てた俺の姿を見たら、きっとおまえは俺を嫌いになるはずだから」

あのビルはまだあるだろうか?
あの場所を男は覚えているだろうか?

2005年3月3日。
彼岸荒れの猛吹雪の翌日。
かつて若者でにぎわったファッションビルの屋上で、寄り添う二人の影があった。

自慢の長髪が飾っていた男の頭は、穏やかな春の日差しを見事に反射して美しかった。
隣りに座った中年男の首には、10個の指輪が、土佐犬の首飾りのようにぶら下がっていた。
「変わっちゃいないな、俺たち」
しっかりと手を握りあう二人の頭上で、残飯を食べ飽きたカラスが、があーと鳴いた。

危険な粉薬 

2004年09月03日(金) 11時53分
粉薬が苦手だ。
うっかりすると気管に入って死ぬほどむせる。
そうでなくても、上顎に粉がへばりついたり、うまく口のなかに入りきれなくて、口のまわりが粉だらけになったりする。
飲んだ……と思って安心したあとで、口のまわりにくっついていた粉薬をうっかり舐めたりした日にゃあ、もう……。
で、オブラートに包めばいいと思うでしょ?
でも、オブラートごと上顎にくっついて、挙げ句、水をゴックンした後にオブラートが破れたりしたらどうします?

というわけで、昔、体が弱かった私は、食パンに粉薬を包んで飲んでいました。
なに笑ってんだよ?
包めるんだよ。サンドイッチ用に薄くスライスした食パンを、上から手のひらで押し潰して、そこに粉薬をあけて、パンをぎゅっと握って丸めれば。
もちろん、食パン1枚を丸ごと使うわけではない。
食パンのほぼ4分の1を使えば、普通の粉薬は包めるのだ。

しかし、悲劇は思いがけないところからやってくる。

バリウムで、カンパイ! 

2004年09月02日(木) 10時56分
私はどうやら胃腸が弱い。
過去に何度か、胃のバリウム検査で引っかかっている。
バリウム検査でひっかかると、後日胃カメラ検査というのが、日本の医療の一般的な流れである。

問題はこの胃カメラが、はなはだ不愉快だという点にある。
あるとき、胃カメラの検査に行くと、担当の医師は上機嫌で鼻歌なんかを歌っている。
胃の噴門あたりを弛めるのか、あるいは食堂あたりの感覚を鈍くするのか知らないが、肩にプチっと注射を打たれて、ノドチンコの奧あたりの感覚を鈍らせる麻酔みたいなものでうがいもさせられた。
屈辱的なのはここから。
口にカポッと開口器のようなものを突っ込まれ、あーんした状態で横たわる。
「ふんふーん。はい、ちからをぬいてらくにしてくださいねー」
「はーい、胃カメラはいりまーす」
いきなり太い電線の先に金属の塊がくっついた(ここが胃カメラなんですけどね)ブツを手に持って、人の口のなかに突っ込むのである。
「は−い、はいりますよー」
(マクドナルドじゃないんだぞー。なにが胃カメラはいりまーすだ。ふざけんなー)
しかし言葉にはならない。
なぜか?
衛生面ではラップの芯をお勧めするが、試しに掃除機の筒かラップの芯を口にくわえて喋ってみるといい。
…………言葉にならないでしょう?
舌が邪魔でしょう?
このように反論を許されない、非人道的な状況の中で、検査は行われるのだ。
「もっときをらくーに。きらくにね、きらくにー」
容赦なく電線もどきは喉の奥に突っ込まれてくる。
「ぐえ〜」といううなり声と涙しか出ない。
「ぐえ〜、ぐえ〜」
白鳥やカモの渡りじゃないんだから、こんなところでグエグエいってどーすんだ? 
「ふーんばらないでね〜」
(こいつー)
殺意が込み上げる。
そして
「おお〜?」
(なになに? 何かあったの? ガンなの?)

「アイ フォール イン ラヴ トゥ イージリー」 

2004年08月21日(土) 17時43分
胸の真ん中で何かが、ぐるりぐるりとねじれている。
それは少し熱を帯びて。

休みだからどっかいこ
人妻だけどだめですか
ちょっとだけ見て欲しいの
ゼッタイよろこばせてあげる

次々と迷惑メールーを受信して、そのたびに「馬鹿・死ね・カス」と返事を送る。
そのたびにリベンジの迷惑メールがさらに増えて、ほとんど3分に1通の割合で送られてくる。
メールは「ほーほけきょ」というアホウな鳥の鳴き声とともにやってくる。
「ねぇ、私とてもつらい」
「でも誰にもそんなところは見せないの」
「ファックスとファックって一文字違いなの」
「ほんとうは繊細なのかも。でもそんなふうに見られるのは絶対イヤ」
「みんながあたしを変わっているって言うの。ほんとうはそんなことないのに」

いいよ。
どうとでも好きなように自分を創ってみるといい。
そんなのは自由だし。
ほんとはなんだって自由だし。
なんだってどうだっていいんだ。
ごめん。


 

空に墜ちていく 

2004年08月19日(木) 7時03分
空に墜ちていく

カイの耳にはセミが棲んでいた。
カイの耳の奥では、24時間、ほぼノンストップでセミが鳴いていた。
セミは何匹もいて、ミンミン、ジージーと、耳の奥、鼓膜のもっとずっと奥の方で鳴き続けていた。
いつから棲みついたのかわからない。
梅雨の晴れ間、渋谷のセンター街を歩いていたときにも鳴いていたし、ゴールデンウィークにお台場に遊びに行ったときにも鳴いていた。
半分その雑音に慣れかかっていた。
ただ、ときどき頭を叩き割って、なかからセミたちをつかみだして握りつぶしてやりたいような衝動に駆られた。

セミたちはいつでもお構いなしに鳴いている。
後楽園プールや由比ヶ浜の海岸、新宿中央公園の噴水のそば・・・。
不思議なことに水辺に行くと、静かになる。

カイが空に墜っこちたのは、新宿の最高気温が39.5度を記録した午後だった。
交差点で、信号が変わるのを待っていた。
歩行者用信号が点滅し、赤に変わり、車用の信号が黄色になり、赤に変わった。
カイは、進行方向の信号が青になるタイミングを推しはかって、車道に左足を踏み出した。
1歩。
信号はまだ赤い。
ミンミン、ジージー。
2歩。
ジージージー、ミンミン。
信号はまだ赤い。
「なんだよ」
3歩。
ミーンミーン、ジージジジー。
信号は赤いままだ。
「ざけんなよ」
ジージー、パパパパパァーン。
セミの声に、耳慣れないラッパの音が混じった。
4歩。
ミィィィーーーン。

急に静かになった。
(…なんだよ)
鳴き止むんじゃないか。
そう思って辺りを見回したとき。
カイの視界に雲だらけの空が見えた。
(なんだよ…)
頭が空に向かって墜ちていく。
頭より高いところに、だらしなく広げた自分の足が見える。
(…墜ちんのかよ?)
セミはもうすっかり鳴き止んでいた。
スクランブル交差点に、1台の救急車がけたたましいサイレンとともに滑り込んできた。