第3部 

2010年02月07日(日) 16時19分
北海道にいつ頃までいたのかはわかりませんが

20代後半には地元に戻ってると思います

その頃だったと思いますが(たぶんその所為で戻ったのではないかと・・)

2人の弟のうち下の弟が病気を患い治療の甲斐もなく亡くなってしまいました

多分今なら治っていたかもしれない病気

でも終戦直後の物資の乏しい時期だったので

若くして命を落とすことになったようでした



地元に戻った母は仕事を見つけ働きにでてました

姉弟2人になり家族は3人になってましたが

母は母親と折り合いが合わず家にいることが苦痛だったようでした



たぶんその頃の話しだったかと思いますが


母は自殺を試みたことがあります

薬を大量に飲んだと・・・言ってました

今でこそ河原は開けた所になってますが当時はうっそうとした藪地

誰にも見つからずそのまま死んでいたかもしれないと・・・

母はその時のことを時々話してくれました

三途の川を渡ろうとして戦死した兄に戻るよう諭されたと・・・



母は一命を取り戻しました

目を覚ました場所はそのまま薬を飲んだ場所

本当に誰にも知られず死んでいたかもしれなかったのです



でも母は死ねなかったことに打ちのめされ

トボトボと家に戻ったと話してました

第2部 

2010年02月06日(土) 1時52分
田舎に戻った母は

今度は小樽の親戚の家に行かされました

そこは映画館をやっていたらしく

そこの手伝いをしながら暮らしてたみたいです

終戦を迎え

母の仕事は食料の調達にかわり闇物資を求めて東奔西走する日々だったらしいです

幸い映画館にはステージに使われたカーテンや緞帳など

交換出来る生地が多くあったので

それを抱えて北海道をあっちこっち訪ねて回ったようです

当然、当局の取り締まりにもあい列車から飛び降りた事もあったそうです

母の青春時代は重い荷物を背負い走り回ってた記憶しか無いみたいでした

それでも

北海道は母の思い出の地

歳を経てからもよく思い出しては懐かしんでいました

実際2度程小樽を訪ねてもいますから・・・



北海道にいた頃

牧場とかにも手伝いに行ってたみたいで

ただ

その時の話しは殆ど聞いてないですね



もしかしてこの頃の事じゃなかったのかもしれませんが

母は1人の男性と知り合い恋愛をした様です

でも

その人は日本人じゃなかったようでした

私も1度しか話しを聞いてないので殆どうろ覚えなのですが


その人に付いていくことを決め一緒に旅立ったようですが

行った先は言葉の通じない場所でした

努力したようです

なんとかそこに馴染もうとしたようですが

でも言葉の通じない場所で耐えきれなくなり

1人で北海道に戻ってきたと言ってました


しかし

その時に母は身ごもりそして札幌の病院で出産したと聞きました

今で言うシングルマザー

当時では女1人で子供を育てられるわけでもなく

その病院に託してきたようです


生まれたのは女の子

2月3日に生まれたので「ふみこ」と名付けたと聞きましたが

父親の違う姉

私にとっては歳の離れた姉ですが

結局病院で栄養失調等ですぐに亡くなったと聞きました






忘れたくなくて 

2010年02月05日(金) 3時01分
一昨年亡くなった母

最後まで幸せとは言い難い人生でした

娘の私もただただ親不孝者でしたし


それでも私達は

かなり仲のよい関係だった思ってます



でも

やはり・・・・

母に対してもっと出来ることがあった筈と今でも悔いてます



一昨年

あんな風に母を失う事になるなんて思ってもいませんでした

そしてその原因を追及する事も出来ず

ひたすら胸の奥にしまい込んでしまったのは

私自身が持つ負い目の所為でした

そしてそれは今でも胸の奥で燻ったまま

だからこそこうやって母の事を書く気になったのかもしれません















母は昭和2年に秋田の北部の片田舎に

貧しい桶職人の娘に生まれました

6人兄弟の2女、兄、姉、弟2人と妹がいました

姉と妹は幼い時に亡くなりそしてその後父親が亡くなった様で

家は本当に貧しかったと聞いてます

父親は腕は確かだったにもかかわらず大酒飲みで

30代で亡くなったらしくその後は母親(祖母)が女手一つで子供達を育てました


どういう経緯で桶職人と結婚したのかはわかりませんが

母親は士族(武士)の出でしかも長女と言うことで

結構プライドの高い人だったらしく生活保護など受けるような事はしたくないと

がむしゃらに働いたみたいです

と言ってもまだ昭和初期

仕事といっても針仕事くらいで後は畑で自分達の食べる分を作る位でした




でも

兄弟妹がまだ幼かった頃は

貧しいなりにも幸せだったみたいで

母からその時の様子をよく聞いたものです

残った4人兄弟妹は本当に仲がよかったみたいで

その時の話しをする母の顔は本当に幸せそうでした




ただ

姉と妹は早くに亡くなってしまってたので唯一残ってた娘に対し

母親(祖母)の気持ちはあまり好ましいものでなかったらしく

しかも髪の色が少々赤みを帯びてた所から「鬼っ娘」などと言われ疎まれてたみたいでした



兄が尋常小学校高等科を終えその後海軍に入隊

(第二次大戦を挟んでその頃の話しは時折しか聞かされておらず順番も違うかもしれないですが)

その頃の母は親戚の所をたらい回しされてたみたいで

戦時中は大坂の親戚の所にいたようで

そこでお好み焼き屋の手伝いをしてたという事です


それでも大坂にいると海軍に入隊した兄と会うことが出来たみたいで

その時の事を何度か話してくれました






戦争も末期頃

海軍にいる兄は的確に戦況をよんでました

このまま大坂にいるのは危険だと言うことで田舎から母親を呼び

一緒に帰るようにと手筈を整えてくれたのでした


そして

それが最後の別れでもあったのです

駆逐艦に乗ってた兄は南方で戦死


母親には名誉の戦死と恩給が残されたのです
2010年02月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28
月別アーカイブ