253,ゴールデン・チャイルドフッド Session 4の1

December 14 [Wed], 2011, 19:49
の講話より今はサニヤシンになっていた占星術師と、会った時のことを話していたんだったね。
私はその時歳くらいだった。
そして私のもうひとりの祖父と一緒だった。
まり私の父の父だ。
私の本当の祖父はもういなかった。
彼は私がたった7の時に死んだ。
その老比丘、もと占星術師は私に尋ねた。
私は職業としては占星術師だが、趣味でいろんなものを読む。
手相とか骨相とか足相とかいろいろだ。
どうして君には、私がサニヤシンになるなんてことが分かったんだね私はそれまで、そんなことは一度も考えたことはなかった。
君が私にその種を蒔いたんだよ。
あれ以来、私はサニヤスのことばかり考えて、他のことは何も考えなかった。
どうしてあんなことが出来たんだね私は肩をすくめた。
今でも誰かが私にどうやったのかと尋ねるなら、私には肩をすくめることしか出来ない。
なぜなら、私はやるわけではないからだ。
私はただあるがままを許すだけだ。
みんなにそのことをやっていると思われる為には、事態を先取りする術を学ばなければならない。
そうでなければ、やるというようなことはない。
特に私がかかわっているような世界では。
私はその老人に言った。
僕はただあんたの目の中を覗き込んだだけさ。
そしてとっても純粋なものを見たんだ。
だから僕は、あんたがまだサニヤシンでないということの方が信じられなかった。
とっくになっているはずだったのに、あれではもう遅すぎたんだよある意味では、サニヤスというのは常に遅すぎる。
またある意味では、それは常に早すぎる。
そしてその両方ともが真実だ。
今度はその老人が肩をすくめる番だった。
彼は言った。
君の言うことは不思議だ。
どうして私の目が手掛かりになったんだろう目が手掛かりにならないようなら、占星術なんてあり得ないよと私は言った。
占星術という言葉は、確かに目には関係ない。
それは星に関係するものだ。
だが盲めくらに星が見えるだろうか星を見るには目が必要だ。
私はその老人に言った。
占星術というのは星の科学じゃなくて、見ることの科学なんだ。
日中、いっぱいの陽の光の中でさえ星を見る科学さときたまそれは起こる。
マスターが弟子の頭を打時だ。
い今朝方もヤシューバルティ、お前が時計を見ていた時のことを覚えているかねそして私がカナダドライのびんでお前の頭を打ったことを今度は思い出したかなあの時はお前は見逃した。
あれこそ占星術が分かるということだ。
彼女は今朝、その味を少し味わった。
もう二度と時計を見るようなことはないと思うが。
だが遠慮しないで何度でも時計を見なさい。
そうすれば何度でも私はお前を打てるから。
あれはほんの始まりだ。
さもなければ、どうやってお前はフリークインするもりだね申し訳ないが、いでもお前を打たせて欲しいものだ。
私はいだってお前たちの許しを乞う用意はあるが、もう二度と打たないなどと言うもりは決してない。
実際、一度目というのは二度目の、もっと深い一打ちの準備に過ぎない。
ここにいるのは妙な一団だ。
私は老いたるユダヤ人だ。
一度ユダヤ人だったらいでもユダヤ人という諺ことわざがある。
そして私は一度ユダヤ人だった。
だからこの諺が本当だということを知っている。
私はいまだにユダヤ人だ。
そしてそこの私の足許には、一部分ユダヤ人のラージバルティが坐っている。
彼の鼻を見たら分かる。
ユダヤ人でなければどこからあんな素敵な鼻を手に入れられるものかねそしてグディア、もし彼女がまだここにいるなら、あれもイギリス人ではない。
グディアも一度ユダヤ人だったことがある。
初めてお前たちに言うが、彼女はマグダレーナその人だった彼女はイエスを愛していた。
が、彼を見逃した。
イエスはあまりにも早く十字架に架けられた。
ところが女には時間が、忍耐が必要だ。
そしてイエスはたったの歳だった。
これではまだフットボールをやっているような年だ。
あるいは歳で少し大人だとしても、フットボールの試合を見に行く程度だ。
イエスは早く死にすぎた。
人々は彼に対して残酷でなさすぎた。
いや、残酷すぎた。
私は彼らに残酷であって欲しくなかった。
だからこういう言葉が出て来たのだが。
グディア、今度はお前は見逃すわけにはいかないよ。
何をしようと、どんなに逃げてみようとしても私は、歳で簡単に十字架に架けられるようなイエスとは違う。
それに私は実に辛抱強くなることも出来る。
女性に対してさえだ。
それは難しいことだが。
私は知っているが、それは難しい。
ときには非常に、非常に難しい。
女性は本当に首の痛み悩みの種になり得る私はこれまでに一度も首の痛みで苦しんだことがない。
ありがたいことだだが、私は背中の痛みは知っている。
背中の痛みがあれほど酷いのだから、首の痛みとなればどれほどのものだろう。
首はまさに背中の頂点だ。
だが私にとっては、お前たちが首の痛みであろうと背中の痛みであろうと、そんなことは問題ではない。
今回はお前たちは見逃すことは出来ない。
もし今回見逃したら、再び私のような人間を見けることは不可能だろう。
イエスのような人間なら、ごく簡単にまた見けられる。
人々は始終光明を得ている。
だが私のような人間を見けるとなると何千という道を旅し、何千回という生涯に渡って、みばちのように無数の花々の香りを集めた人間を見けるとなるとそれは難しい。
もし私を見逃すとなれば、おそらく人は永遠に見逃すことになるだろう。
だが私は、私の人々の誰にもそんなことは起こらせない。
私は彼らのずる賢さ、彼らの頑かたくなさ、彼らの賢さを打破するあらゆる方法を知っている。
それに私は一般世界のことは気にかけない。
私が気にかけるのは私の人々だけ、本当に自分自身を求めている者たちだけだ。
ちょうど今日、私はドイツで出版されている新しい本の翻訳を受け取った。
私はドイツ語を知らないので、誰かが私に関係している部分を翻訳しなければならなかった。
私はどんなジョークにもこれほど笑ったことはなかったよ。
しかもそれはジョークではない。
それは実に真面目な本だ。
著者は、私が明知を得ているだけで、光明は得ていないということを表明する為だけに、ページを捧げている。
すごいまさにすごい明知を得ているだけで光明を得ていないとは。
しかもお前フェイスブックたちは驚くかもしれないが、私はほんの数日前、これと全く同じ部類の白痴、オランダ人の教授から別の本を受け取っている。
オランダ人というのは、ドイツ人とさして違わない。
彼らは同じ範疇にしている。
いでに言っておくが、グルジェフはあるプランに従ってあらゆる人間を分類したものだった。
彼は、白痴にいていくかのカテゴリーを持っていた。
さて、このドイツ人とそのオランダ人だ。
有り難いことにその名前は忘れたが、2人とも1番目の馬鹿の分類にしている。
いや違う、馬鹿ではないその言葉は私の弟子のギートバルティの為に取っておこう白痴だ。
そのオランダ人の白痴は長い論文の中で、私は光明を得ているだけで明知を得ていないということを証明した、あるいは証明しようとした。
さあ、この2人の白痴は、対面して相撲を取るといい。
そしてそれぞれの議論と本で殴り合うといい。
私に関するかぎり、一度きっぱりと世界に向けて宣言させて欲しい。
私は明知を得てもいなければ、光明を得てもいない。
私にはどんな形容詞もないし、どんな学位もない。
ただのきわめて当たり前な、きわめて単純な人間だ。
私は、自分の資格証明書を全て燃やしてしまった。
白痴はいも同じ質問をする。
違いは全くない。
これは奇跡だね。
インド、イギリス、カナダ、アメリカ、ドイツ、それぞれあらゆることが違っているのに、白痴だけは違わない。
白痴は普遍的だ。
いたるところで同じだ。
どこで味わってみてもそれは同じだ。
おそらく仏陀も私に賛成するだろう。
というのも、結局彼はどこからでも覚者ブッダはまさに海に似ている。
どこでそれを味わおうと塩の味がすると言ったからだ。
おそらくブッダが同じ味がするのと全く同じように、ブッドこれはインドでは白痴をさす言葉だがブッドもまた同じ味がする。
インドの言語においてだけだがブッダとブッドが同じ語根から出来ていること、ほとんど同じ言葉だということはいいことだ。
私が光明を得ているとかいないとか、人がどう信じようが、私はそんなことは全く気にしない。
そんなことが何だというのかだがこの男は、その小さな本の中で実に心配していて、私が光明を得ているかいないかというこの質問の為に、ページを捧げている。
それで確かに証明されるのはひとだけ、彼が第一級の白痴だということだね。
私はただ自分自身であるにすぎない。
どうして私が光明を得たり、明知を得たりしなければならないしかも何という大層な学問だ明知というのは光明とは違うのかねおそらく電気がくと光明を得ていて、ろうそくの燈りだけの時は、明知があるだけなのかな私には何が違うのか分からない。
私はそのどちらでもない。
私は光そのものだ。
光明を得てもいなければ明知を得てもいない。
そんな言葉は遥か、遥か後ろに置いて来た。
私にはそれが二度と再び旅することのない、遥かかなたの道の上に、まだ鎮まりきらない埃のように見える。
それは、砂の上の足跡のようなものだ。
こういういわゆる教授とか、哲学者とか、神学者とかいう者たちどうして彼らは、私のような貧しい人間のことをそんなに心配するのかねこちらでは彼らに何の関心も持っていないというのに。
私は私の人生を生きている。
そして自分が望むようにそれを生きるのは、私の自由だ。
どうして彼らが、私などに時間を浪費しなければならないのだそのページの代わりに、それを生きた方がましだったろうに。
夜も昼もどれほどの時間を、このかわいそうな教授は浪費したことだろうそうしている間に、彼は明知を得ることも出来ただろうし、あるいは少なくとも光明を得ることぐらいは出来ただろう。
そしてオランダ人の方は明知は得ないまでも、その間に光明を得ることは出来ただろうに。
2人とも自分が誰であるかを理解しただろう。
その時、そこにあるのは沈黙だけだ。
何も言うことはないそらくは歌のひとひらまたは踊りあるいはただ1杯のお茶を用意しそれを静かにすするのみお茶の香りの方が、全ての哲学よりもはるかに重要だ。
づく
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