“生きる”ための“受動性” 

2006年08月23日(水) 23時55分

どういうわけか、私には、夏は悲惨な事件が起こりやすいというイメージがある。
気温と湿度が高く、最近あまり聞くことは無くなった“不快指数”が高いためだろう。
もちろん、これは個人的な印象に過ぎない。
実際には、季節に関係なくいろいろな事件が発生しているのだから。

最近起こった事件で、私の心に突き刺さっているのは、
6月20日に起きた奈良の16歳少年による家族3人放火殺人事件である。

いわゆる「良い家庭、立派な家庭」で、親から与えられた価値観に向かって努力していたが、それが子どもにとって束縛となり、さまざまな歪から発生した事件のようである。
この事件にいては、ネット上でも記事がUPされている。

犯罪事件を起こしたことは決して良いことではない。
だが、少年の心の痛みにシンクロしてしまうのは私だけだろうか…?


先日(8/21)、生きるための“能動性”について書いたが、
私があのように過剰に反応してしまう根源には、
彼の心境に通ずるものがあるからだ…

“生きる”ためのもうひとつのファクター“能動性” 

2006年08月21日(月) 23時21分

四国の旅行から帰ってきた。
行ったところは、四国の香川。香川といえば、讃岐うどんのメッカである。
私も御多分に漏れず、本場の美味しい讃岐うどんを頂こうと何件かのお店を廻ることとなった。

私の職場にも、うどんマニアがいて、まずはその方から有名店の情報を収集。彼はうどんを食べるためだけに羽田から飛行機に乗りレンタカーを借りて食い歩きをしたなかなかのつわものである。
私はそこまでのマニアではないものの、遠路はるばる訪れるせっかくの機会、おいしいお店で食したくなるのが身上。こういう状況ではやはり、メディアや先人達の情報を頼りにしたくなる。

着いてみると、旅行にいく前には、私はてっきり香川では至る所にうどんやが立ち並び、「石をなげればうどん屋にあたる」ぐらいの状況かと思っていたのだが、全然そんなことはない。当然といえば当然か…
確かに、車を走らせているうちに目に入ってくるうどん専門店の数は、他県よりも多いものの、意外なことに既に営業を行っていないうどん屋もかなり目に付く…

収集した情報を元にナビゲーションをセットしうどんや目指して車を走らせと、着いてみるとそこだけは異様な人だかり。ものすごい盛況ぶりだ。店の前から100mぐらいの列ができているところも少なくなく、その人気ぶりに圧倒されてしまった。

一方、メディアで紹介されていないお店ではどうかというと、お客はさっぱり。人の集まり方は雲泥の差であった。これでは閉店に追いやられるのも無理はない…

しかし、本当に人気のなかったお店と人気店とでは、そんなに差があるものなのだろうか?それを確認する機会はなかったものの、実際はどうなのだろう…?


有名店とそうでないお店との差の凄まじい実情を目の当たりにして、これは私にとっては少々気にかかる出来事となった。

マスキングによるバランスの維持 

2006年08月13日(日) 0時07分

今日から、夏季の休暇を利用してちょっとした旅行に出る。
今年の夏は、まだ1度しか行ったことの無い四国に行き、心を洗濯することにした。

旅行は非日常的な出来事で、
日々の日常的な煩わしさから解放され、
いつもとは全く違う刺激を得られる。

これも『生きていくための“流れ”』のバランスを取る一つの方法である。

流れ来る刺激が過多になり、吐き出すことが出来ていない状態を改善すべく
バランスをとる方法には、
吐き出す量を増やす他に、入ってくる刺激を少なくする方法がある。

人間は、より強い刺激や、より変化のある刺激に
意識をひきつけられる特性がある。
強く引き付けられる刺激があると、
相対的に他の情報への注意資源配分が減る。
雑多なものは意識が向けられないマスキングされた状態となる。
これにより入力される刺激の数が減るのである。

旅行には、こういった効果があるのと同時に、
日々条件反射的に刺激に反応するだけの活動から
能動的・主体的に刺激に対して思い、感じる時間が与えられ、
人としての『生きていくための“流れ”』が形成される。
旅行から帰ってきた後、誰にでもよいから、
旅行でどんなことがあったとか、どういう思いが生じたか、
人に話すことで、この“流れ”は、より形づくられることになり
人は生きていく息を吹き返すことができる。

こういった意味で、旅行は刺激の“流れ”のバランスを取る良い方法である。


だが、旅行は非日常であるがゆえに
日々の刺激をマスキングする方法として有効なのかもしれない。

日常的に、入ってくる刺激をマスキングしようとすると
少々恐ろしいことになる。

掃き溜めとしてのインターネット 

2006年08月11日(金) 23時12分
先日の“ストレス社会”対応チョコレート、
その後、ネットで検索してみると、
TVで、かなりCMとして流れていたことがわかった。
私はTVを殆ど見ないため、お恥ずかしながら情報に乗り遅れていたようだ。
また、ネット上でのニュースリリースによると、
新しくココアとしても発売されるとのこと。
(私は某メーカーの回し者ではありません、念のため)

ネットで、このように情報を集めることは、今では、極々当たり前になった。
本当に便利になったものである。
自分の欲しい情報を自らの意思で積極的に集めにいくことができるのだから。
一昔前は、メーカーのCMにたまたま巡り合わなければ、
この種の情報を目にすることは殆ど無かったのだ。

このことを可能にしているのは、
インターネットが、プッシュ型のメディアというよりも
プル型情報メディアとしての性格が色濃いことによる。
プル型とは、
ネットワークでユーザーがアクセスして引き出す情報のタイプであり、
プッシュ型とは、
逆にサーバーがユーザーに対して一方的に送り出す情報のタイプである。

情報が欲しいときに、自らの意思で情報を集めにいくことができる。
インターネットはまさに文明の利器だ。


そのインターネットの利便性を初めて実感し感動を覚えたのは、
約10年前、以前のホームページをアップしていたころだった。

心が生きるための“流れ” 

2006年08月09日(水) 23時40分
7月のタバコ値上げを機に禁煙を始めてから
口元が寂しくなったせいか、タバコの代わりにお菓子を取ることが多くなった。
そんな折、コンビニでお菓子を物色していたら、たまたまこんなものを見つけた。

『ストレス社会で闘うあなたに。メンタルバランスチョコレート…』

チョコレートの肩書きである。
そこで目を引いたのは、『ストレス社会…』という謳い文句。
「現代はストレス社会」と言われてから久しいが、
それをターゲットに掲げた機能性食品まで出ているとは誠に恐れ入った。

確かに、現代は、ストレス社会と呼ばれている。

ストレスとは、一般的には悪いものと捉えられている。
しかし、正確に定義しようとすると全て悪かというとそうでもない。
良いストレスと悪いストレスがあり、
良く感じるか悪く感じるかは、人の受け方によるらしい。
また、「ストレスがないと死んでしまう」という説まである。
そこまで包括してストレスの意味を捉えると
「ストレス=刺激」ということしか言っていないように感じてしまう。
良く感じる刺激でも、多すぎれば「過ぎたるは及ばざるがごとし」、悪となる。

詳しい解説は専門のサイトをお読みいただくとして、
ひとことで言うと、現代の刺激の多すぎる社会は、すなわちストレス社会とのことなのだろう。

刺激だけは、やたらと多い。
外から受ける刺激は、いくらでもある。ありすぎる。
何故、こんなにも多いのか…

日々のプライベートな生活のために必要なことは当然として、
仕事上で受ける刺激、職場での刺激でも純粋に仕事を遂行するための刺激だけでなく、
雑多な雑用や、周りの人との付き合い、職場でのイベントなど…
そしてまた、TVや新聞などマスメディアを通して伝わる情報…
家にいるだけでも勧誘の電話がかかり、メーラーを開けばジャンクメール…
否応無く刺激が降りかかってくる。

これら全てを完璧にこなし処理をしている人なんているのだろうか?
そして…それができている人は本当に「生きている」のだろうか?
という疑問まで生じてくる。
もちろん、いるのだろう。殆どの人たちはそうなのだと思う。
しかし、それができていない今の私には、そういう人たちは生きているとは名ばかりで、実は死んでいるのではないか?
とさえ思えてしまうのである。

身体が生きるための“流れ” 

2006年08月07日(月) 23時38分
8/5のブログで『人は物理的にせよ心理的にせよ、なんらかの“流れ”の中に生きている。』と、
“流れ”という表現を使ったが、
この“流れ”を端的に説明しようとすると、なかなか上手い表現が見つからない。
人に上手く説明できないのは、自分でも頭の中で整理できていない証拠なので、
頭の中を整理する手段として書き綴っていくことにする。


比較的分かりやすいのは、身体的・物理的に成り立っている“流れ”である。
そのことを考えていて、思い浮かんできたのは、
かつて勤め先の社内研修で比叡山延暦寺「居士林研修」を経験した時のことであった。

「居士林研修」とは、僅か1泊2日の短いものではあるが、修行僧の生活を疑似体験するもので、「座禅体験」と言ったほうがイメージしやすいかもしれない。
そこでは、食事の時間も修行として捉えられていた。
日々、口にする食べ物も、我々の目の前に食事として並び“いただく”までに、実に多くの人の手を通り、物流に乗り、料理の手がかかっている。今日食事をすることが出来るのも、多くの人々のおかげである。
感謝の意を込め、そのことに噛み締めながら、会話をすることなく食事をする。

これは人の命が“流れ”の中で保たれていることをわかりやすく捉えられる一例である。
人の身体は、このように、多くの人々の手のかかる“流れ”によって成り立つ食事をいただかずに命を維持することはできない。
たとえ人の手を通らない自給自足での食事であったとしても、
その食材は日の光を受けて育った植物であったり、
自然の連鎖の中で育った動物であったりする。
個としての存在から離れたところでの“流れ”の中で育まれたものを受け入れていることに変わりはない。

そして、このように受けた食事は、身体の中で処理をされ、外に出て行く。
出て行ったものは、個としての存在(身体)から離れていく。
入ってくる道筋だけでなく、出て行く“流れ”があって、初めて“流れ”が動く。
もし、食事を取るだけで、身体から排出することがなければ
人間は生命を維持していくことはできない。


人の身体は、このように
外から入り、中で処理をされ、外に出て行くという
大きな“流れ”の中で命を維持しているのである。


“流れ”の中に命があり、命あるところには“流れ”がある。

10年ぶりのUpdate 

2006年08月05日(土) 13時47分
数年ぶりにインターネット上に文章をUPする。
かれこれ約10年ぶりぐらいだろうか…
当時はまだインターネットが一般的になっておらず、ようやく浸透しつつある黎明期だった。
今でこそ、このように手軽にブログとしてUPできるが、当時はHTMLのタグを貼り
付け、私の知識ではどうにかこうにかUPしていた状態だった。
それを思うと隔世の感がある。

手軽さやネット上での流行りものは変わったが、私がネットに文をアップする動
機は昔とそれほど変わっていない。
閉塞感のある現状を打破するために、どこかに向かって吐き出したい…
ただそれだけである。

人は物理的にせよ心理的にせよ、なんらかの“流れ”の中に生きている。
心の中にとどめたままにした状態では、つまり“流れ”がない状態では、
生きていけない。
“流れ”が止まったとき、それは死を意味する。

生きていくために、心の中にあるものを吐き出し、“流れ”をつくりたい。
そして、その吐き出す先は、自己の閉じた系の中に留まっていては
吐き出したことにはならず、自分の外に向かわなければ
それは達成されない。

それがネット上にUPする意味である。

さて、どこまで吐き出すことで“流れ”を生み出し、また息を吹き返すことができるか…
P R
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