人と獣と機械と 

2014年12月02日(火) 22時45分
「人間らしさ」というものを語るのに、どうやら理性というものが重要らしい。
例えば、理性を無視して欲求、本能、感情の赴くままに行動する人間は「まるで獣のよう」だと形容され、人間らしくないと考えられる。
一方で、理性に偏り感情の起伏に乏しい人間は、「まるで機械のよう」と言われ、これもまた人間らしくないと考えられる。
つまり、一定量の感情を持ちつつも、それをある程度理性によってコントロールできることが人間らしさに重要なようだ。感情と論理のバランスである。

この言説の中では感情と論理、あるいは獣と機械という二つのものが相反するもの、一元的な軸の一方と他方というように位置づけられている。
しかし、獣と機械という二者は、ある観点から見れば、相反するものというよりはむしろかなり同類に近いものである。それは、一定に入力に対する出力の多様性の小ささである。
どの電卓に2×3と入力しても一様に6と表示される。そのように論理的にプログラムされているからである。表示されないとしたら、それは電卓として壊れていると言って差し支えない。
同様に、どのマウスに掴みかかろうとしても、マウスは必ず逃げようとする。これは、恐らくマウスに恐怖という感情に支配されるからである。手を近づけても逃げようとしないマウスは死んでいるか、病気である。

このように見てみると、感情や本能というものは、生物が長い進化の過程によって得てきた、生存に有利なプログラムのことであると解釈できる。
生物がある種の状態に陥ったり、ある種の刺激が入力されたときに、特別な思考を必要とせず、自動的に特定の応答を示すの感情や本能である。 その点で本能というのは非常に論理的であり、機械によく似ている。エネルギーが不足してくると空腹感を感じるだとか、日中活動して夜になったら眠くなるというのはそれの最たる例だ。
我々は、我々の情報をコードするDNAによって、そのような本能をプログラムされている。

この考え方を冒頭の言説に当てはめて考えてみると、当然ながら「人間らしさ」を理性と感情の二元論から見出すのは難しくなる。
ではどのように考えれば、人間を獣と機械から分離して考えることができるのだろうか。
それは、先ほど獣と機械の共通点として挙げた「一定の入力に対する出力の多様性」という軸である。
つまり、人間に2×3という問題を与えれば、たいていは6という回答を返すだろうが、人間の論理的思考力は機械に比べてかなり脆いため、4だとか8だとか答える個体がでてくる。
同様に、人間に掴みかかろうとすれば、たいていの個体は逃げようとするだろうが、全く抵抗しない個体や、反撃するような個体もでてくるだろう。
人生の中で我々になされる入力は、ここで挙げた2×3や掴みかかる手に比べて恐ろしく複雑になってくる。そうなるほど、応答の多様性は増していく。
同じ入力を与えても、10人いれば10通りの出力が有り得るのが人間なのだ。機械や下等生物にはその多様性がない。
論理を使いつつも、論理のみに依存しないからこのような芸当ができるのだ。

同じことをやらせても、違うように反応するのが人間らしさにおいて重要だとするならば、その「ゆらぎ」はどこから生まれるのだろう。
現時点では機械には達成できない難題である。この問いに対する答えの鍵は、人間の論理の不完全さ、我々にコードされるプログラムのある種の脆弱性にあるのだろう。
コンピュータと違って、でたらめな論理でも行動できるのが人間である。論理が不完全で間違っていても、人間は動く。むしろ、完全な論理のみで行動する人間はいないのだ。

余談にはなるが、この「ゆらぎ」の根本については、いずれもっと専門的な人と具体的に議論してみたいなと思っている(実現しそうにないが)。「ゆらぎ」は、一見存在しているように見えるが、実はニュートン力学やコンピュータのように、全ての因果がはっきりとしていて、複雑な系によってゆらぎを疑似的に再現しているだけなのかもしれない。あるいは、電子が存在する位置の確立分布がそのまま「ゆらぎ」になっているのかもしれない。

「ゆらぎ」をもった計算機が生まれたとき、人間と地球に何が起こるのかは非常に楽しみなところだ。

研究にお金を使うということ 

2014年10月26日(日) 22時03分
同じ大学院に通っている友人と会って飲みにでもいくと、決まって「大学院はクソ」という話で盛り上がります。
いわゆる職場愚痴であって、大学院に限らずどこに所属する人も同じように自分の所属する組織を批判するのでしょうが、どうしてそんなに大学院はクソなんでしょうか。
大学院生が「大学院はクソ」というとき、それは様々な意味で発せられているわけですが、今回は研究と予算という話に絞って書いてみたいと思います。

研究にはお金がかかります。 1億円以上する最新の分析機器とかをイメージすれば分かりやすいですが、多くの研究者/研究者志望者にとって切実な問題となるのは、人件費です。
ストレートで博士課程を終了するのは27歳ですが、ここまでまだ学生。
ここからポスドクや助教などの「研究者下っ端」職に就きようやく収入を得ますが、この雇用は不安定。雇用は常に任期付きなので、その間に十分な成果を残せないと次の職は保障されません。
大学院で日本で最高の教育を受け、研究という日本/世界の将来を担うべき職業につく人たちはこんなにも恵まれない待遇なのです。
先日ノーベル賞を獲った人も日本の研究者の待遇は悪すぎると文句を言って話題になっていましたね。
実際、「将来が不安」「待遇に不満」といった理由で研究以外の道を選ぶ院生は多いと思います(自分も含めて)。

さすがに27歳で無収入はひどいということで、優秀な大学院生には通称「学振」と呼ばれる制度によってお金が出ます(月20万)。これに通るかどうかが大学院生にとって死活問題になります。当然相対評価なので彼は通って自分は落ちる、なんてことが起こります。東大だから通る、なんてことはありません。
こうなってくると、「学振に強い研究室」が人気になったりします。学振は当然明確な実績があると通りやすいため、申請までの期間で一旦研究成果をまとめて論文にし、小さな雑誌に投稿しておく。研究分野が重複していると通りにくくなるため、異なる分野のテーマを学生に与える、など。
研究の現場では、そういったある意味無駄なことに労力を割いて学生を集めるという非効率的なことが起こったりしています。

こういう妙な競争が起こってしまうのも現在の制度のどこかに欠陥があるからなのですが、例えばアメリカと比べたとき、最も顕著な差は研究に割かれる予算の差にあると考えられます。
アメリカでは研究者の待遇が日本に比べてかなり良いし、研究費も潤沢で、成果も非常に多く上がっています。
ではなぜアメリカは日本に比べて研究にたくさんお金を使えるのか?という大きな疑問が浮上します。
これについて友人と話していました。

そこで得られた一つの仮説について話したいと思います。
研究というのは、投資です。今お金を投じると、いつかリターンが返ってくる。
そのリターンというのは経済に影響を与えたり、人々の健康や幸福に寄与するものかもしれませんが、ほとんど役に立たないものかもしれません。「それが分かったところでどうなるのか?」というテーマを研究している人は多いと思います。時間的にも、リターンが帰ってくるのは5年後かもしれないし、50年後かもしれない。そんな不確かなリターンに対して、お金を使っているのです。
かといって、「役に立つ」研究にばかり予算を割いていると、基礎的な研究が疎かになり、研究は先細っていきます。ある程度、「役に立たない」研究にもお金を割くことが、将来のためにつながっていくのです。

ですが、日本は福祉国家です。今、そこに困っている人がいる。その人を助けるためにお金が必要。国民皆保険制度をはじめ、生活保護等々。
少子高齢化も進んでおり、弱者をどうサポートしていくか、ということにある程度エネルギーを割いて議論している国だと思います。
で、ここで究極の質問が出てくるわけです。「今困っている人を取るか、日本の未来を取るか」と。
この問いに対して、あいまいにどちらも両立しようとしているのが今の日本だと思います。しかし、アジア諸国の台頭によって日本の国際社会における立場はどんどん弱くなっていっており、今一度「日本が勝てるものは何なのか?」という問いを真面目に考えなければならない時期です。
はたらき手はどんどん少なくなっていき、資源も乏しい国が国際競争で勝てるのは何なのか。「技術」という答えを導くのはそんなに難しくないはず。そのためには「教育」であり「研究」です。

日本に対しアメリカは、チャレンジと自己責任の文化であり、研究に多くのお金を投じることができます。 病気になった人やホームレスは、自己責任で自分でなんとかしてくれ、というスタンスです。
何か大きなことに挑戦する。失敗するかもしれないけど、それは自己責任。そういう開拓者たちの精神が国全体に根付いているように感じます。実際それで失敗して露頭に迷っている人は死ぬほどいるんでしょうが、それでも国全体として見れば、依然世界最大の経済大国です。
しかも面白いのは、国民皆保険制度をやるなんて言ったら国民が大反対したりするところですね。 アメリカ人は根本的に結果の平等ではなく機会の平等を求めていて、あるものを享受する力のない人間はとことん何物も享受できないということが当たり前なようです。

日本人は、自分が常にリスクを負っていることに関して感覚が鈍いように感じます。「理不尽」という言葉があります。若くして病気になったり、事故にあったり。そういったとき、「自分は何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな仕打ちに遭うのか。不公平だ。結果の平等を実現するべき。国が助けろ」そういう風潮があるのではないでしょうか。
自分は生まれたときからリスクを負っていること(たとえば、ある種の遺伝子を持っているひとは特定の病気にかかりやすいなど)を認識し、自分のお金で保険に入ることによってリスクヘッジする、というのが理想だと思います。
医療や生活の保障などをどんな形で提供していくのか、考え直してほしいですね。

与えられたもの(環境と遺伝子)をどう運用するかに関して、責任を持つということ。

RAIN 

2014年10月07日(火) 22時57分
珍しく二日連続の更新。
昨日のレインマンとレインつながりで、ビートルズのRainという曲を紹介したいと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=qwuPJjLR5_o

東洋的な雰囲気とリンゴのドラミング(普段は地味なのに、どうした?というくらい目立ってる)が印象的な曲ですが、僕は歌詞が好きです。
でもそれだけでなく、ジョンのヴォーカルとポールのベース、ジョージのギターのそれぞれがバランス良く個性を放っており、数あるビートルズの中でも屈指の演奏ではないでしょうか。
以下、適当に意訳。


雨が降れば死にものぐるいで
屋根の下にかくれているね
雨が降ると

陽が出ればゆるりと
日陰にかくれているね
陽が出ると

雨なんて気にしない
陽が出てもなんてことない
同じことだってわかるかい

雨が降っても何も変わらない
変わるのは君の気持だけ
僕は変わったかい

もとの詩は追記へ
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レインマン 

2014年10月06日(月) 20時39分
就活終わったあたりから、映画を見ることにハマっています。PS3で録画したり、ツタヤのネットレンタルで借りたり。

今日は『レインマン』というアメリカの1988年の映画を見ました。主演はダスティン・ホフマンとトム・クルーズ。
あらすじはこうです。一応ネタバレ注意。

 トム・クルーズがビジネスがうまくいかず倒産の危機に追い込まれているところに、父の訃報が届く。 父とは絶縁状態にあったが、大富豪の遺産目当てに地元に帰る。だがその期待も空しく遺書に記された自分への遺産は「車と薔薇の木」だけだった。残りの現金300万ドルは、ある人物の信託財産として相続されることを知る。
 金が必要なトムクルーズはその人物を訪ねていき、そして兄であるダスティン・ホフマンと出会う。彼は自閉症で、トムが2歳のときに施設に預けられていたのだった。トムは半ば誘拐のようにダスティンを連れ出す。

 はじめは金のことしか考えていなかったトムも、幼い頃の微かな記憶の中に兄の存在を見出していく。普通の人のようにはコミュニケーションが取れないダスティンに対する苛立ちも徐々になくなっていき、精神的な繋がりを感じるまでに至る。
 が、ダスティンは施設に戻らねばならない。そして訪れる別れ。

 という感じです。まず第一の感想として、ダスティンホフマンの演技がすごいということ。 その神経質そうな表情、体の動きと目線の全てが自閉症を見事に演じていました。 登場時にびっくりした。 以前日本の連ドラでも草薙剛が自閉症の演技をしていましたが、きっと草薙氏も参考にしたんじゃないかな。

 まぁそこらへんはいいんですが、ストーリーに関して感じたことがあります。この映画は「ふつう」な人であるトム・クルーズと、「異常」でコミュニケ―ションに難があるダスティンの二人のコミュニケーションというものを丁寧に描いています。ダスティンは語彙に乏しく、何を聞いてもyeaとかI don't knowとかばかり。同じ台詞ばかりを繰り返し暗唱。話を聞いているのか聞いていないのか分からないトムは当然イライラし、時にキレたりします。(トム・クルーズのキレる演技、めっちゃ恐くてすごいなといつも思います)
 そんな中でも相手の習慣や譲れないこだわりを知って相手に合わせたり、相手を思いやり不安を解消してあげたり、相手の望みをかなえてあげることによって、少しずつコミュニケーションが達成されていきます。そうしてようやく、心が通じた、と思ったところで、不可抗力による別れが訪れます。
 今作は、人とのコミュニケーションの難しさや人間関係のコントロールの難しさというテーマを「自閉症」という疾患で描いたのかなと思います。
 たとえ相手が自閉症でなくても、私たちは日々「自分の言ったことは相手に伝わっているのだろうか」と頭を悩ませ、相手と円滑にコミュニケーションをするために相手に気配りをしたりします。うまくコミュニケーションができなければイライラもする。それでも、努力してコミュニケーションして、相手と通じ合ったと感じた瞬間、大きな充実感を覚えます。
 なのに、人間関係というのはしばしば当人の力の及ばない要因によってあっけなく破綻します。

 そんな刹那的な人と人の関係。

情報リテラシー 

2014年09月10日(水) 21時35分
インターネットが便利になった情報化社会では、欲しい情報の多くがスマホ+インターネットだけで簡単に手に入ります。
好きなアイドルの画像や動画、2ちゃんねるのまとめから、最新のニュースや科学記事まで。
違法なもの、合法のもの、アヤしいもの、ある程度しっかりしたものが全部ごちゃ混ぜになっています。

そんな「情報の海」の中には、アクセス数を稼ぐために話を誇張したり、あるいは捏造して掲載しているものが多く混じっています(悪意なく間違った情報も加えればもっと)。
この海の中で情報の信憑性について判断する能力のことを情報リテラシーといいますね。非常に重要な能力だと思います。
私はかなり疑り深い性格なので、常に「本当にそうか?」「それはどういう意味だろう?」と考えています。その結果、信じるに足る情報というのは激減します。
ネット上の情報に踊らされても別にそんなに不幸になることはないでしょうが、自分で考えて判断できるようになりたいと思う方のために、具体的な怪しい記事の例を挙げてそれにツッコんでいくというかたちで解説を書いてみました。

ADHDをもたらす原因の1つ「フッ素」の危険性 小さい子どもは特に注意
http://news.livedoor.com/article/detail/9239106/

まず、何の先入観も持たずにさらっと読んでみてください。3分もかからず読めるでしょう。
非常に分かりやすい文章で、読者に「あぁ、フッ素は危ないんだ、気をつけよう」と思わせる文章になっています。
でも、私は非常に胡散臭い文章だと感じました。
以下解説しますので、読みたい方は続きをクリック。

ウイスキー;分類 

2014年08月29日(金) 22時00分
先日北海道余市のニッカウヰスキー工場を見学に行ってきて、ウイスキーの歴史、分類等々を勉強してきたので、忘れないうちにまとめておきます。
日本の主なウイスキーメーカーと言えばサントリーとニッカ。サントリーは角、トリス、山崎、白州、響などの商品、ニッカはブラックニッカ、竹鶴、余市などの商品を出しています。でも、それぞれの商品はどう違うのか? なんとなく味が違うとか、高級感が違うとかは分かっても、それ以上はよく知らないという人は多いのではないでしょうか。これを機会にウイスキーの種類を覚えてみてはいかがでしょう。

以下、スコッチウイスキーにおける分類をもとに国産の各商品を分けてみます。

1.モルトウイスキー:『竹鶴』など
大麦麦芽(モルト)のみを原料とするウイスキー。非常に分かりやすいですね。ウイスキーというのは、蒸留所で蒸留し、樽で貯蔵によって熟成させた原酒をブレンドすることによってつくられます。このとき、とにかく大麦が原料の原酒をブレンドしているものがモルトウイスキーです。
代表的な商品としては、ニッカの『竹鶴』。ウイスキーファンの間ではコスパが高い商品として知られているようです。実家からよく送られてくるので一番飲むウイスキーです。

1A.シングルモルトウイスキー:『山崎』、『白州』、『余市』、『宮城峡』など。
こちらも大麦のみを原料とするウイスキーですが、「一つ(シングル)の蒸留所でつくられた原酒のみをブレンドした」ことが条件に加わります。分類としては、一応モルトウイスキーの部分集合になります。
ウイスキーの味は、その蒸留所及び貯蔵地の場所(気候、用いる水など)によって大きく変わります。従って、蒸留所をどこにつくるか、というのがメーカーにとって非常に重要な選択になってきます。
メーカーが、いくつも存在する候補地の中から選び抜いた土地に建てられた蒸留所、その単一の蒸留所でつくられた原酒のみをブレンドしてつくったのがシングルモルトです。
サントリーの山崎と白州、ニッカの余市と宮城峡がこれにあたります。山崎も白州も余市も宮城峡も、実はそれぞれの蒸留所がある地名を示しています。
日本のウイスキーの父と呼ばれる竹鶴政孝は、寿屋(現サントリー)時代に蒸留所を建設する際、ウイスキーの本場であるスコットランドに似た土地である北海道余市を推薦したが、社長の鳥井氏に却下されて山崎になったとか。寿屋を退社し、自分の会社(現在のニッカ)を立ち上げてから念願の余市に蒸留所を構えることができたそうです。
大麦と水から作るというのは同じでも、蒸留所とブレンドの仕方によって大きく個性が変わるシングルモルトはウイスキーファンの大好物です。

ちなみに、シングルモルトでないがモルトウイスキーであるニッカの「竹鶴」は、余市でつくられた原酒と宮城峡でつくられた原酒をブレンドしてつくっています。

2.ブレンデッドウイスキー:『響』、『角』、『トリス』、『ブラックニッカ』など
こちらは、大麦だけでなくその他の穀物(トウモロコシ、小麦など)を原料とする原酒(グレーンウイスキー)と、大麦を原料とする原酒(モルトウイスキー)をブレンドしたものです。
モルトウイスキーは非常に個性が強いため、ここに風味の軽いグレーンウイスキーを加えて個性を抑えたようなかたちになっています。
『トリス』、『角』、『ブラックニッカ』のような安価な商品から、サントリーの『響』、ニッカの『鶴』のようなハイブランドまで存在します。
モルトウイスキーが好きな人からはやや下に見られることもあるブレンデッドウイスキーですが、世界にウイスキーが広まったのはこのブレンデッドウイスキーが非常に飲みやすく、多くの人に受け入れられたからだと言われています。
美味しいウイスキーが飲んでみたいけど、どれを飲んだらいいかよく分からない、という人にはまず「響」をオススメしています。ニッカも「鶴」を出していますが、響よりはマイナーなのか、お店で見ることも少ないです。

以上、国産ウイスキーの分類について書いてみました。
秋からは上述の竹鶴政孝とその妻リタを主人公とした朝ドラが始まるのもあり、新千歳空港でも関連の展示にスペースが割かれているなど盛り上がりを感じました。
竹鶴らの奮闘により到来したウイスキーブームが下火になったあと、ハイボールという新しい飲み方によってまた盛り上がったウイスキー。朝ドラ効果でまたブームがくるかもしれません。

思い込み 

2014年08月06日(水) 22時24分
STAP細胞がニュースになってから、様々な事件が起きて世間を騒がせた。
最近は笹井氏の自殺報道もあり、思うところもあったので徒然なるままに。

最初にSTAP細胞をニュースで知ったとき、これはすごい研究だなぁと思った。「これは事実だとしたら、本当にすごいことだ」と思ったと同時に「本当かなぁ」という信じられないような気持ち。
ただし、信じられないとは思いつつも、小保方氏が意図的な捏造をしているという発想は全くなかった。なぜなら、こんな論文を投稿して、世界中の研究者たちに注目されたら、追試実験が行われるのは必然。しかも、その追試には特別な装置や試薬は必要ではなく、iPS細胞よりも「簡単に」できることがウリなのだ。
それを踏まえると、嘘をでっちあげて論文にしたとしても、いずれ(しかも非常に早く)嘘はバレ、自分の研究者としての立場が危うくなることは自明。
だから、小保方氏が意図的な捏造をしているとはどうしても思えなかった。

しかし、結果的にはSTAP現象の再現は困難を極め、論文は撤回に追い込まれた。どうしてこうなってしまったのか。それは、小保方氏は「無意識に」「無自覚に」嘘をついていたから、なのかもしれない。悪意のある嘘よりも、無自覚な嘘は遥かに根深い問題で、それを察知することは難しい。だから、今回の事件では自殺に至った笹井氏を含め多くの人が小保方氏に振り回されることになってしまった。
ここで、「無自覚に嘘をつく」なんていうことが、あるのだろうか?と思う人も多いだろう。でも、これは誰しもよく行っていることなのだ。ポイントは、「本人がそうだと信じきっている」ことだ。

一つの分かりやすい例は、「傘を持っていないときに限って雨が降る」というやつだ。似たような例もまとめてマーフィーの法則と呼ばれている(ジョークの一種)。「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」も有名だ。
「あなたが傘を持ち歩くかどうか」が、「そのとき雨が降るかどうか」に影響を与えることは、普通に考えて、ない。物理的にありえないのは当たり前だ。神が見ていてあなたに意地悪をしようとしていると考えても、あなたは近隣に住む数万人のうちの一人でしかないのだ。あなた一人の状態が天候に影響を与えることは有り得ない。あなたが神にとって特別な人間だと主張するなら話は別だが。
ある程度冷静に考えることができれば、そのことは認められるはずなのだが、どういうわけか世の中にはそういった迷信、都市伝説を信じる人が一定数いるのだ。

日本には「縁起」という言葉があるが、これも近いものだと思う。「正月には○○を食べると、一年間〜〜に過ごせる」とか、「結婚式の祝儀に奇数万円包んではいけない」等、生活に密着しているものだけ挙げてもきりはない。
実際、正月に豆を食べてもまめまめしく生きられるわけはないのだ。しかし、多くの親は子供に「一年間豆に生きられるように、お正月に豆を食べる」と教えるのだ。
そういった教えは、科学的な観点からは全て嘘だということになる。ただ、そう言う本人に嘘をついている自覚はほとんどない。

今回小保方氏は図を張り間違えたり、細胞を取り違えたりしたのかもしれない。それが意図的だったか本当に間違ったのかは誰にも分からない(普通に考えればそんなこと間違えないのだが、世の中には「抜けている」人がいるものだ)。
で、もし小保方氏に悪意がまったくなかったとして。たまたま試薬や細胞の取り違えた結果、本当にSTAP現象が起こったとする。
それでもやはりこの研究は捏造なのだ。そこに悪意がなくても。再現されない結果に価値はない。
一度何らかの偶然で良い実験結果を得たが、なかなかそれが再現されず、欲しい図がとれない。だから、画像を切り貼りして、「こういう現象が起こった」と主張したくなる。本人は嘘をついたという自覚がない。
彼女の周囲の人たちは皆彼女に騙されていたということになるし、彼女自身も自らを騙していたのだ。STAP現象はあると思い込んでいた。その思い込みの結果が大惨事となった。

ならば、彼女のように思い込みの激しい人は科学者になってはいけないのだろうか?

思い込みが激しい人は、自分の仮説に強い自信を持てるため研究に対するモチベーションが上がりやすい。それは科学者にとって重要なひとつの素養だと思う。逆に、何もかもフラットな目線で見ていては、当たり前なことしか考えられず画期的な仮説を立てることは不可能だし、面白い研究をすることは難しい。自分なんかは割と後者のタイプだと思う。
絶対に正しい(と思っていること)ならいくらでも発言できるのだが、こうかもしれないし、実は違うかもしれない、という内容になってくると自信を失ってしまう。

重要なのは、思い込みをするかしないかではなく、たまに「思い込みをしている自分に気付く」ことなのだと思う。
偉そうにいろいろ書いている自分も、自分が正しいと思って疑わなかったことが単なる思い込みだったことがある。
自分で気づけることもあれば、人に気付かされることもある。
自分の思い込みに気付く、という経験をたくさんさせられる教育ができれいれば、今回のような痛ましい事件に発展することはなかったと思うのだが。
近年は初等教育の現場でどんどん生徒が優位に立っているようで、そんな状態では自分の思い込みを挫いてくれるような教育は望めないのではないかと残念に思うばかりだ。

Steely Dan 

2014年08月04日(月) 23時07分
中学のときに母親の"Can't Buy a Thrill"のLPだかCD(両方とも家にあるのだが、どちらを先に聴いたかは忘れた)を聴いて以来Steely Danの音楽にハマっている。
自分にとっては、ビートルズ以上に聴いた可能性があるただ一つのアーティストであり、非常に特別な存在だ。
日本ではあまり知名度がないので軽く紹介をしてみようと思う。

Steely Danは、1972年に上記アルバム"Can"t Buy A Thrill"でデビューしたアメリカのアーティスト。
このデビューアルバムではまだバンド形式を取っているものの、活動を進めていくにつれてメンバーが脱退していき、最終的にコアメンバーのDonald FagenとWalter Beckerの二人が残ったためデュオとなった。
アメリカでどれくらい知名度があるのかは知らないが、アルバムは最高でも3位(Aja)であり、超メジャーとは言えないのだろう。日本での知名度はさらに低い。
一方で、グラミー賞は"Aja"(殿堂入り)と"Two Against Nature"(4部門)の2作品で受賞しており、音楽関係者からの評価は高いのかもしれない。特に、どちらも最優秀録音賞を受賞しているだけあって、音質には相当の気合を入れている。
アルバムは2014年8月時点で全9作と、40年以上の歴史を持つアーティストとしては少な目か。(それとは別にソロ作品もあるが)

上でも説明したとおり、初期はバンドスタイルを取っており、比較的アメリカの「ふつうの」バンドサウンドという印象を受ける。
しかし、バンドメンバーが減っていくにつれて、その音楽にコアメンバー二人の「クセ」が色濃く出てくる。
レコーディングの完成度が醸し出す緊張感と安心感、そして独特なハーモニー・コード進行が紡ぐ心地よさ。そしてそこはかとない哀愁。
言葉で語るのは難しいので、「Steely Danらしい」と思う曲をいくつか紹介しておこうと思う。

先に断っておくと、YouTubeでは音質の良さは伝わらないので、興味をもったら是非購入して聴いてみて欲しい。
まず、1977"Aja"からDeacon Blues
http://www.youtube.com/watch?v=7qZ7S2ktkI4

1980"Gaucho"からBabylon Sisters
http://www.youtube.com/watch?v=pAuPMJlK92s

2002"Two Against Nature"からLunch with Gina
http://www.youtube.com/watch?v=bs0CaocFAfs

ここからは余談だが、友人にスティーリー・ダンって知ってる?と聞くと必ず「ジョジョに出てきた」と言われる。
また、Steely Danというバンド名は"Naked Lunch"(邦題は『裸のランチ』)に出てくるディルドの名前を由来とする。
あと、Steely Danを紹介する記事は以前にも書いた気がしてくるが内容が重複していても許してほしい。そんな昔の記事のことを覚えている人もいないだろうが。とにかく彼らを紹介したい気分になってしまったのだから。

研究者教育について 

2014年04月28日(月) 0時10分
先日東京大学で開催された生命科学シンポジウムの中で行われた短いパネルディスカッションにて、感じるところが少しあったので書き留めておきます。
お題は、「学生を優秀な研究者に育成するためには(意訳)」。
質問者やパネリストの発言の意図を正しく汲み取れたかは謎ですが、私がどう受け取ったかを元に書きますのでよろしく。

【問題提起】
現在の研究者教育では、「研究のし方」に関する教育が研究室に依存しすぎている。
その結果、考え方や研究手法について指導教官から受ける影響が大きすぎる。
現状学生は、異なるいくつかの考え方に触れ、それらを比較検討し、より良いもの・合うものを選ぶことはできない。

【解決へのアプローチ】
とある学生からの提案。簡略化して書くと:
学生が複数の研究室に所属できる仕組みを作ってはどうか。
これにより、複数の指導教官から指導を受けることができるようになり、考え方の幅が広がる。
また、研究室間にコネクションが生まれることにより研究環境に良い影響が生まれる。

【とあるパネリスト(医学系研究科教授)のそれに対する返答】
現在の制度でも、行こうと思えば他の研究室に行くことはできる。
むしろ、やる気があるならば積極的にそうするべきだ。
私もそうしていた。
なぜ現在の仕組みではできないと考えているのか?できるのではないか?
仕組みを変える必要があるとは思えない。
まずは個々人の学生が自らそういった努力をしなければ話にならない。

といった非常に残念なやり取りが行われていました。
パネリストの方は学生を馬鹿にしたような態度で、それがますます残念。

確かに、現行の制度でも、ある研究室に所属していながらほかの研究室に通って指導を受けることは物理的には可能です。
しかし、実情としてはアカデミアは教官と学生を「師弟」と見る風潮が強いです。この関係は非常に強く、自立した研究者でも、○○の弟子、という色眼鏡で見られることは多いと思います。
そのような状況の中で、学生が「物理的には可能」だから、「他の教官の指導も受けてみたい」という理由で自分の研究室を出て他の研究室を訪ねて行ったらどういうことが起こるでしょうか。もともとの指導教官は、学生の行動を自分に対する裏切りと捉えるでしょう。
また、受け入れ先の研究室も学生を奪ったと思われて相手の教授と無駄ないざこざを起こすのは面倒なので、受け入れには消極的になるかもしれません。
そういったことが容易に予想されるので、学生は簡単に他の研究室にいくことはできません。

このように「可能」であっても、「事実上は困難」であるというのが多くの学生の見方だと思います。
せっかくのパネルディスカッションで、学生が良かれと思って制度に関する提案をしたのに、それを学生の努力不足という問題にすり替えて議論をした大学教授。

どれだけの聴衆が失望したことでしょう。

就活あれこれ3 

2014年04月14日(月) 23時22分
報告が遅れましたが、就活終わりました。
無事志望する企業から内々定をもらえて良かったです。早く働きたい。

就活終えて、友人たちと飲みに行ったりしながら就活の感想を話し合っていたんですが、少なくとも日系の企業に就職しようと思う場合、「雰囲気」が非常に大事なんじゃないか(というか、一番大事)という意見がありました。

就活は能力的な意味での「優秀さ」を競うものではありません。
もし論理的思考力、語学力、等々の測定可能な要素のみを重視しているなら、就活は大学入試とほとんど同じようになってしまうでしょう。企業は個別に採用活動する必要もなく、一括でセンター試験のようなものを用いて学生を評価すれば安上がりで済みます。
現実の就活では試験の類はある程度の「足切り」には使われるものの、決め手となりうる評価基準ではありません。
では、採用/不採用を決める最終的な選抜方法は何かというと、「面接」ですね。
高々数十分間という短い時間、面接官とコミュニケーションする。

面接官が何を見ているか、学生はどう振る舞うべきか。
そこらへんの議論はいろいろあります。
どういう質問にはどう答えたら良いかとか、そういうのは就活本に腐るほど書いてあります。まぁ参考にするかは別として、就活するなら一度くらい読んでみたら良いと思います。
ただ、自分が何度かグループ面接を受けてて感じたのは、「全く同じ内容を述べている学生でも、違う人が言えば違うように聞こえる」ということです。
つまり、言語化される発言の内容はさることながら、どんな経歴・顔の人が、どんな口調で、どんな間の取り方で、どんな風に体を動かしながら言ったか、ということも重要になってくるということです。これらの条件が総合的に醸し出すおのが「雰囲気」なのかなぁと考えています。
「私は協調性があります」というような、就活で推奨される文言であっても、上記の条件が異なれば、聞き手に与える印象は異なります。
「確かにこの学生は協調性がありそうだ」となるか、「ほんとにこいつは協調性があるのかなぁ?」となるかはまさに学生の雰囲気次第です。

残念なことに、自分が出している雰囲気というものを意図的に変えるのは難しいかと思います。
人の雰囲気というものには、これまでに歩んできた人生の全てが関わっていると言っても過言ではないからです。
実際、雰囲気が合わない企業は早々に一次選考で落とされたりもしました。
ですが幸いなことに、企業が求める人の雰囲気は、企業によって異なります。こっちの企業では評価されなかったあなたの雰囲気も、あっちの企業では評価されるかもしれません。
一方では明るく話しやすい人を求めているかもしれないし、一方では知的でどっしりした人を求めているかもしれません。

そういった意味では、就活は努力ではどうにもならない範囲というものが存在すると思います。恋愛と似てますね。
自分の雰囲気を評価してくれる企業に出会えた人は幸福だと思います。

どうしたら自分の雰囲気を評価してくれる企業に出会えるか、というとまずはたくさん企業を受けることと、ちゃんと書類選考を通過することだと思います。この2点は3月までにしっかりとやっておくべきだと思いました。
業界を絞っている場合は、OB訪問をすること。やはり会社というのはどこか同質的な人を採用していくため、会社のカラーというものが間違いなく存在します。社員さんの雰囲気と自分が合うと感じれば、人事の面接官もあなたは合うと判断してくれる可能性が高まります。

まだこれからの15卒、あるいは少し先になる16卒の人の参考になれば。
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