内定拘束の旅 

2007年08月31日(金) 21時04分
バブル華やかな頃、企業は、他社の面接にいけないように内定者を軟禁することがあった。いわゆる『内定拘束』だ。もちろん、同意なしに行動を制限するわけにはいかないので、旅行といったエサをぶらさげていた。学生にとっては、ただで旅行ができるのだから、オイシイ話である。もう二度とあんなことはないだろうと思われたが、ここに来て内定拘束が復活しているのはご存じの方も多いだろう。それだけ若手の人材が不足しているということだ。
ところで転職にも時として「拘束旅行」がある。といっても、就職の時のようなオイシイ話ではないが。

アパレルA社勤務のYさん(25歳)は、一か月の転職活動で中堅総合商社への転職を決めた。待遇こそ大差はなかったが、上場企業、希望していた海外営業。相談に来たときのYさんが「海外関係の仕事にあこがれている」と言っていたことを考えれば、十分満足できる結果だったろう。
Yさんは内定をもらうとすぐに入社を承諾し、なるべく早く転職できるよう、退職交渉を頑張りたいと言った。Yさんは、この時すでに、厳しい慰留があるのを予期していたのだ。

彼はまず、型どおり直属の上司のところへ行き、「ちょっと二人だけでお話が…」と切り出した。
会議室で退職の意向を表すと、上司は「お前がそこまで思い詰めているとは知らなかった。すまなかったな」と神妙な顔をした。
「想いを叶えるのはいいが…しかし、転職にはリスクがつきものだからなあ…。今からでも人事と相談すれば、うちで希望の部署に移ることも出来ると思うぞ」
しかし、Yさんは揺るがない。
「いえ、もう決めたことですから」
上司はYさんの表情をじっと見て、少し考えてから言った。
「そう焦るな。いろいろ考えた上でのことだとは思うが、三日待とう。そのあいだにお前はお前なりに考えろ。俺も少し動いてみて、A社としてどういう条件をだすことが可能か、調整してみる」
「いえ、ですから、もう決めたことなんです」
「チャンスをくれよ。俺としても出来る限りのことはしたと思える状態でお前を送り出したいんだ。たった三日じゃないか」

Yさんも、2年間上司部下の関係だった人にそこまで言われると反論できず、「わかりました」と時間を置くことに同意せざるを得なかった。上司は「このことは、当分内密にな」と、ニッコリ笑っていた。

相談をしてから三日目、Yさんに緊急の出張が入った。本来はYさんの仕事ではないのだが、他部署ではどうしても手が足りないというのだ。上司とふたり新幹線に乗ったYさんは、そこで慰留の説得を受けることになった。

「三日待ったんですから、条件を示してください」Yさんはフクれたが、上司は「昨日からこの出張のことで手一杯だったんだ。もうしばらく待ってくれ。それにしても、やはり考え直してくれんか。役員にもお前には期待しているという声があるんだよ」
Yさんは上司の説得に耳を貸さなかったが、これで慰留は終わりではなかった。

上司との出張が終わると、次の業務指示があった。支社でトラブルがあり、手が足りないので対応を任せるというのだ。Yさんは出張先から直接、別の出張に出向くことになった。ところがついてみると、そこにはYさんの大学時代の先輩が待っていた。
「同行するように買って出たんだ。お前、会社辞めるって本当か?」
もちろん、ここでも説得…。
そして、この仕事が終わると会社からは別の出張が命じられた…。

Yさんは出張先から我々のところに電話をくれた。

「今、北海道に来ています。これから静岡にまた出張なんです。会社の策略だってわかってはいるんですが、昔担当したお客様が本当に困っているらしいので、いかざるを得ないんです。あ、もうバスが出る。飛行機に間に合わなくなるので、行きます。でも、でも、僕の気持ちは変わってませんからっ!」

内定拘束の旅を続けるYさん。我々は切れた電話を見つめながら、彼の無事を祈るしかないのであった。

退職するのも難しいですね・・・
P R