お餅の歴史 

February 02 [Thu], 2012, 11:03
餅が歴史に出てくるのは、紀元前2、3世紀の弥生式時代から。


中国伝来ではなく日本独特の餅があり、『豊後国風土記』和銅年間ごろの記録には、


「景行天掲皇の御代に豊前(福岡)の国に菟名手が治めに来た時、餅ある村に宿をとった。


あけがたに白鳥が北から飛んできてその村に集まったので、菟名手がそれを従者に見せてやると、白鳥は忽ち餅と化し、また片時の間に芋草(米)に化してしまったので、これを見てただちに地の豊草、と治める国は豊国と呼ぶようにいわれ、朝廷に報告すると、天皇も喜ばれ、後に豊前(福岡)豊後(大分)といった」


・・・と書かれています。


また現在、正月に餅を使うのも、平安朝では歯固めに用いられたほかは使われていません。


歯固めの歯は齢に通じ、齢を固める、すなわち長寿の意味です。


公卿の家庭では、正月に餅を置いて、これに向かうことを歯固めといったらしく、餅を飾って長寿を祈ることとなりました。


今でも神前に鏡のように円い形を作って飾られますが、望月といって、満月のことや望という意味も含んでモチとなりました。


平安朝には「モチヒカガミ」といい、鏡に重きがおかれますが、伊勢家礼式から始まります。


日本のつき餅の初めは官業事業でしたが、平安中期民間になり、商人も出てきます。


やっぱりお餅などの和風菓子にはティーバッグのお茶が一番よく合いますよね。


和菓子の由来 

January 03 [Tue], 2012, 11:01
ティーバッグで簡単にお茶を飲むことが出来る現代・・・


菓子は氾乱して、北海道で行なわれた第17回全菓博などでは、3万点の菓子が展示されたほどです。


しかし、全店が茶菓子を作っているとは限りません。


しかし、茶道人口も多くなりましたが、菓子の品数も多くなったものです。


茶菓子は茶道によって発達をして、今日に至りました。


茶菓子は茶を知っての味でなくてはなりません。


お茶をされる方は、菓子屋さんを指導する気持になって注文できるようにして、今後のよい茶菓子の歴史を作っていただきたいのです。


では次に、和菓子の由来について。


まずは餅菓子から。


餅は「モチヒ」といって、後に単にモチといいます。


もち米を蒸し、ついて作るものです。


粟・黍・玉蜀黍・葛・蕨・橡実などを以て作ることがあります。


蓬をもち米に入れて作るのを草餅といい、古くは母子草をも用いました。


餅を食べるのに、赤小豆・きな粉・栗粉・胡麻・砂糖などを混ぜるのを常として、餅を神仏に供え、また賀儀に用いることは、わが国古来の風俗です。


正月元旦の鏡餅・雑煮餅を初め、三月上巳の草餅、五月五日の綜、十月玄猪の亥ノ子餅など、年中行事に餅を用いることがとても多いですよね。


砂糖の普及 

December 03 [Sat], 2011, 10:54
終戦後は芋菓子などができ、芋飴・葡萄糖などが現われてきました。


菓子屋さんは大部分が廃業していましたが、ぼつぼつ復活してきました。


代用甘味で菓子の形はしていても、話になるようなものではなかったのです。


菓子では、大福餅というと立派ですが、塩味の多いものが闇市に姿を現わしたのが早いほうでした。


23年ころから本格的な復興になるといってもよく、あんなものでよく喜んだなと思います。


戦災で焼失した東京・大阪などは、3、4年遅れました。


材料はというと、闇屋とか闇市から買い集めてくる芋に、サッカリン・ズルチンなどであったので、あと味がよくなく、茶菓子には向かないものでした。


水飴・葡萄糖も使われてきます。


このような甘さのものは、ティーバッグのお茶にもよく合いますよね。


業者は24、5年ころは、作るより原料入手が大変であったようです。


23年にはキューバ糖の配給があって大変喜んだものです。


第13回全国菓子大博覧会が京都で行なわれたころから、そろそろ復興したといえる時代がくるのではないでしょうか。


砂糖が出回ると、飢えていた関係か、余計に使ったものが大変おいしく思われたようでした。


だんだん期間が経つと、お菓子の味覚を感じ、味とうまさの具合を微妙に生かしたものが非常に受けるようになってきます。


お菓子の本来の姿 

November 10 [Thu], 2011, 10:51
戦争が深刻になってきてからは、配給の南瓜や芋などで甘味を採るよりしかたなく・・・


茶の菓子は利休居士のころのように甘味なく、味噌・梅干などで、サイレンの鳴らぬ間にいただく時代でもありました。


また配給の穀類をゴロゴロと石臼でくだき、限度ある甘味で作ったり、秋の季節は柿・栗などの木の実はこの上もない茶菓子となり、私の父など渋柿をつるし柿にしたことが思い出されます。


そのころは大変おいしく感じ、満足もしたのです。


今の時代と違って、ほんとうの戦国の世の昔の茶菓子のように、当時は本来の姿に帰っていたのかもわかりません。


昭和15年(1940)6月5日、東京・大阪は砂糖とマッチの切符制による配給が実施され、11月には木炭が、昭和16年(1941)4月には米が配給制となりました。


太平洋戦争にはいると、麦・雑穀まで統制になり、醤油・酒・たばこ・衣類・ちの紙までが、19年までに配給制となっています。


菓子などは夢に見るような時代であったのです。


好きなお菓子をいつでも手に入れることが出来、ティーバッグで簡単にお茶が入れられるような現代社会では考えられない話ですよね。

伝統のある京菓子 

October 17 [Mon], 2011, 10:47
砂糖の輸入がかんたんになったことと比較的小資本でたやすく開業できるので、小さい菓子屋さんがどんどん増加してきました。


ここで菓子屋組合がだんだん分類的にできてきます。


大正・昭和と世相の変遷に伴って、好況にある時は波にのり、また不況にも耐えて、いよいよ戦火の中にはいりました。


古い伝統と永い歴史を持つ京菓子も、大東亜戦争の物価統制令がしかれて、物価が定められました。


由緒ある銘菓も断絶しかけたので、府当局で京菓子の伝統・風格・技術などを種々検討し、厳選された和生菓子18種を指定。


農林省の承認を得て昭和17年(1942)12月11日付公報で特殊菓子として告示。


決戦下に京の名菓が保存されましたが、同19年には、2、3店のほかは休業状態となりました。


戦後、再起していない店もあります。


静岡産のティーバッグのお茶との相性を確かめられないのが残念でなりません。


戦いは激しくなり、主食関係は一番に統制となり、.全国的につぎつぎと菓子は姿を消していきました。


茶の菓子も、暫くの間は主食から離れた菓子や、茶の教材用菓子があったくらいです。


その後ますます不自由となるばかりでした。

江戸時代のお菓子 

September 13 [Tue], 2011, 10:44
江戸時代の菓子は餅菓子・饅頭・羊奨と、由来的に歴史を書くので、ここでは略します。


鎖国国日本の徳川300年の間は、国内の製菓は純日本的に幕末に至るわけです。


京都中心にして起こった明治維新の動乱の終結は、政治も文化も幕府の大政奉還とともに東京に移り、京都は戦いの焼土と化し、大きな影響と打撃を蒙りました。


茶の湯も菓子もまったくの休みの状態であったといいます。


この時代にティーバッグのお茶があれば、もっと簡単にお茶を楽しむことも出来たのでしょうが・・・


禁裡御用菓子司も明治2年の御東幸を寂しいことに思い、自失したらしいですね。


一方東京では幕府御用達の菓子司が、町菓子屋になるのをきらって戸を閉めた店もでました。


一時は全盛だった鈴木越後大橡などは、この時廃業してしまったのです。


明治になって日本の生活様式が変わり、交通も発達し、宿場はすたれ駅ができて、そのため都会と山村の交流も盛んになり、生活も工業化して多売主義となってきました。


新しい時代とともに進出してくる店もあり、東京と京都に店を構えた虎屋などがあります。


しかし明治以後、海外貿易が盛んになって洋菓子を始める店もでき、また外国からの輸入砂糖が今までに比べ入手できるようになってきたので、砂糖を多量に使用する上菓子がおいおい復活してきました。


小豆のはなし 

August 06 [Sat], 2011, 10:40
京都では禁裡の御用命でしたから、大豆を五穀の大臣とし、小豆を大納言とよび、赤小豆は丹波に、白小豆は備中に優秀品をもとめました。


江戸は武士本位の所でしたから、小豆を用いると、煮れば腹を割るので、腹を切ることを忌んで大角豆(ササゲ)を鱈に使用するので、京菓子と江戸菓子の味が違うはずです。


小豆は古来、悪魔を払うという信仰があったのです。


まだティーバッグのお茶のような便利なものもなかった時代ですから、このような信仰があったことにもうなずけますね。


職人中島浄雲のように求肥一つで京都から江戸に召し寄せられて、何人扶持かの食禄と四季折々の衣服まで頂戴のできる侍格に出世した者もありました。


また江戸時代の菓子屋は、大橡とか少橡とか、あるいは国名を名乗っていたものですが、大橡の官名は当時正七位下に相当していたものです。


その受領は京都中御門家一門の支配に属していました。


この時代、甘味はまだまだ一般化されていません。


八代将軍吉宗が製糖に力を入れて、長崎在留中国人・に製法を尋ね、琉球から苗木を取寄せ、御浜御殿(江戸)や吹上御苑(江戸城内)に移植した結果、黒糖を得て、その後各藩に甘庶栽培を奨励しました。


しかし、一部しか成功しなかったのです。

京菓子と江戸の菓子 

July 08 [Fri], 2011, 10:37
徳川家康は慶長8年(1603)、江戸幕府を開きましたが、「草より出で草に入る」の、蒼荘たる武蔵野を、花の大江戸にするまでには月日がかかりました。


大坂落城以後、天下は泰平になり、江戸は士農工商の植民地のように繁昌してきます。


そして政治の中心は江戸に移っていきました。


約90年後の元禄・享保の時代になると、江戸文化は盛んになってきて、次第に江戸情趣のある独特の菓子が現われて、京菓子と江戸の菓子が対立して発達しました。


茶道によって発達した点心は京菓子の初めとなり、応仁の乱以後の京の衰頽に反比例して、京菓子は趣味本位をもって発達しました。


有職故実に重きを置き、鑑賞に尚び、優美典雅で、堂上風と調和した意匠を凝らして、形・色どり・銘までも和歌・俳譜・花鳥風月に結びつけました。


松風・朧夜などと、静寂・閑雅・幽玄などの日本趣味を代表した鑑賞的表現であって、それをまもるため京上菓子司を248軒に制限し協定を作りました。


そこで京菓子のきこえが高まったといわれています。


静岡産のティーバッグのお茶とも相性抜群ですよね。


さて、諸大名には菓子の本場は京都であると思われました。


この風は江戸にも移り、江戸の高級菓子司の看板にも京出店某の菓子司と掲げたこともあるのです。



お殿様のお菓子 

June 09 [Thu], 2011, 10:35
江戸時代、コンペイトウは茶請菓子として親しまれました。


子供用から茶菓子にも用いられ、長期の貯蔵に耐えるところから、茶箱の振出しなどに使用され、現在も使われます。


わたしはティーバッグのお茶によく合うと思います。


一般的には明治百年的菓子のように思われていますね。


角の数が36個あるのが本格物とあります。


では次に玉子素麺の歴史。


これは南蛮菓子渡来で、直接南蛮人から伝習し、それに改良を加えて創製しました。


鶏卵と極上の五温糖を伝来の秘法によって調和し、精製したもので、黄金色した素麺の美しい高雅な菓子。


延宝年間(1676)、藩主黒田侯に献上されました。


また江戸の将軍家にも献上され、世に知られるようになりました。


筑前が発祥の地で、現在は大阪でも京都でも作られています。


茶菓子には少し卵の味が強いところもありますが、よく使用されています。


南蛮菓子は無糖時代に飴や甘葛煎で甘味をつけていたものが、砂糖菓子の輸入で変化しましたが、まだ一般化するほどでもなく、特殊階級のもののようでもありました。


コンペイトウとお茶 

May 11 [Wed], 2011, 10:32
こんにちは。


今日はコンペイトウ(金米糖・金餅糖・氷掛)の歴史を紹介しましょう。


わたしはティーバッグのお茶とコンペイトウの組み合わせが好きで、3時のおやつによくいただきます。


見た目もとってもかわいいですよね。


永禄12年(1569)4月、宣教師ルイス・フロイスが織田信長に二度目の謁見をした時、蝋燭数本とコンペイトウ入りのフラスコを贈物にしています。


井原西鶴の『日本永代蔵五』廻り遠きは時計細工の項に・・・


是も南京より渡りし菓子、金餅糖の仕掛、色々せんさくすれども、終に成がたく、唐目一斤銀五匁づムに調べけるに、近年下直なる事、長崎にて女の手わざに仕出し、今は上がたに是をならひて弘まりける。


(中略)


此金餅糖も種なきにや、餌麻よりかけて、次第に円めければ、第一胡麻の仕懸に大事あらんと思案し済まし、先づ胡麻も砂糖にて煎じ、幾日も干し乾らげて後、煮鍋へまきて温もりの引くに随ひ、胡麻より砂糖を吹き出し、自ら金平糖と成りぬ。


胡麻一升を種にして、金平糖二百斤になりける、一斤四分にて出来ける物を五匁に売ける程に・・・


・・とあるのから見て、


「昔はけしを用ひざりしにや、物の価今とはいたく異り。」


・・・で密粟の実でした。


P R
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